umityanの日記 DiaryINDEX|will
朝顔の双葉が見事に育っている。猫にあらされず幸いだった。もう少し大きくなってツルが伸びてきたら、去年使った、ツル這い登り機をたてて、僕の部屋から眺められるようにしよう。何故か朝顔って好きだ。その理由は恐らく、子供のころから、母親が朝顔を毎年植えていたことと、昔、読んだ源氏物語の「夕顔の巻き」の夕顔という女性のイメージが脳裏にあり、そのロマンティズムにあこがれているからだろう。他にまだ理由を挙げるとすると、「朝顔につるべとられてもらい水」という俳句も好きだ。しみじみとした生活感があり、粗末にできない。それに朝顔、夕顔という言葉の響きもなんとなく心地よいではないか。まあ、こんな具合で、あげればきりがない。家の者から、「ほかの花には目もくれないのに、朝顔だけには御執心ね」と言われている。自分でもそう思う。朝起きて、窓の外をふっと見やると、可憐に咲いた朝顔が僕に顔を向けて、微笑んでいる。なんとなくいじらしいではないか。夕方になると、名残惜しそうに花びらを閉じる。翌朝にはまた、新しい花が一面に咲く。まるで人生の縮図を見ているみたいに思える。僕はコーヒーを飲みながら、物思いにふける。この時間は誰にも邪魔さえない僕の時間である。太陽が昇ってくると、朝の喧騒が始まる。田んぼを隔てた遠くの家から、カーンカーンと、大工仕事の音。車の行き交う音。学校に通う子供たちの声。こういう時間には僕も既に他人顔。「さあ今日はいかにすっべ」と、計らい事が頭を占める。商売下手の僕ではあるが、食べる為には、仕事に精を出さねばならない。もちろん、必要以上の欲得に心を染めてはならない。これが僕の戒めの一つである。
いやああもう夏至も過ぎていた。六月二十一日が夏至だったのだ。日ごろ、問題意識をもたず、のほほんとして過ごしているから、今日が何の日なのかも忘れてしまっていた。情けない。夏至と言えば、北半球では、昼が最も長く、夜が最も短くなる。そういえば、夜は七時過ぎまで明るい。こんな時節はネオン街をのぞいても、まだ明るすぎて、どうも暖簾をくぐる気になれない。はやく、暗くならないかなあと、恨めしそうに空を仰いでいるのも僕だけではないだろう。「あなただけです。弁解はいりません」。どこからか、神の声が聞こえたみたい。やはり、宵闇が迫り、ちょうちんに明かりが灯るころが一番、心をそそられる。今日もカラオケでしごいてやると、百円玉みたいな目玉をパチクリさせて、ママさんが、暖簾かけなんかしている。「あら、早いわね。待っていたわよ。ずいずいと奥まで」とか言われて、まあるいお目玉で、ウインクなんかされると、まるで、魔法にかかったみたいに、足が扉の中に吸い込まれてしまう。
見事な蒸し暑さである。六月が好きといったこの僕でさえ、こんなに蒸し暑い
叔母が病気である。叔母といっても、父のたった一人の義理の妹である。数十年前に母を無くて以来、一人暮らしで今日まですごして来た。その理由を想像するに、母親と二人きりの生活だったことと、体がそれほど丈夫でなかったことがあげられるだろう。それにしても僕の家は複雑である。語るに忍びないので書かない。生活の糧は、ずっと会社勤めをやっていたので、年金でもあるのだろう。退職後は趣味の書道を人に教えたり、また自分でも習っていた。以前、日記にも書いたことがあるが、叔母の勧めで書道を習ったことがある。不真面目だったことにより、見事に破門された。叔母は知ってか知らずか、そのことを、何にも触れずに僕にせっせと、書道の道具やらテキストを送ってよこした。今、叔母の病状が良くない。もうすでに終末の医療段階にある。意識はあるので、早く会いに行かねばならない。それにしても、病院というところは結構、腹の立つ場所である。金にならない患者は早く出て行ってもらいたいと思っているようだ。民間の病院は多かれ少なかれ、そうかもしれない。ボランティアをやっているわけではないからだ。要は、金さえあれば、ビップとして、いつまでもいてくださいということだろうが、治療をしない、ただ死を待つだけの人間は、金にならないから、違う場所へ移って欲しい気持ちのようだ。そんな病院ならこっちからごめんである。僕は、いろんな人に推奨したい。高い金を払って病院に置いてもらうより、のたれ死にであろうが、自分の一生としては、そのほうが充実しているではないか。娑婆世界を放浪して命尽きたら、「はい、さようならだ」。病院によこたわり、遠慮しながら生きていく必要はないだろう。病院に恨みがあるわけではないが、金の亡者となった悪徳病院は早く駆逐されねばならない。
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