埃まみれのノートブック
Indexpastfuture


2005年01月29日(土) 助けて 助けて 助けて…って

夜になるとやっぱり鬱が襲ってくる。
毎日のことなので、もう頓服も飲まなくなった。

昼間、何とか耐えられていても、夜になるともう駄目で。
朝起きてから駄目な日も多いけれど…。


私は流れ行く流浪の民。
何処に行くのかも判らない。
このまま流されたら、いつか心から笑える場所に行ける?


一週間のうち六日が辛かったとしても
たった一日でも、少しでも楽に呼吸が出来る日があればいいと思う。
そしてそんな日が、二日、三日…と増えていったら…

今は夢でしかないのだけど。

最近気付くと空の人たちに心の中で話しかけてる。

おばあちゃん、どうしてる?叔母さんを助けて…とか

Rさん、綺麗な青空だよ、あなたの声が聴きたい…とか


空の人じゃなくて
まだ地上にちゃんといる人にも話しかけてる。

もう、会えなくなってしまったひと。

彼には話じゃなくて叫んでる。

「助けて 助けて 助けて」って…
届くはずのない苦しい言葉だけが
心の中でこだましてる。


虚しいよ。虚しいよ。

やっぱりこれから何十年も生きてく気力も自信も無いよ。



2005年01月27日(木) 理由

調子を崩して、もうかなり時間が経った気がする。
今回のトンネルは暗くてとても長い。

そんな時思うのは、どうしようもない暗い事ばかり。

私の人生は、思えば人生の半分以上が苦悩の年月だったとか。

生きる理由が見付からない。
ずっとそんなことを考えてた。

大事な人たちがいる。
可愛い動物たちだっている。

なのに。
どうして生きたくなくなるんだろう。

疲れて疲れて
勝手に頭の中でそう呟いてる。

楽になりたい…
もうお終いにしたい…

気付けばこんな言葉が口癖になってた。
聞かされる人はたまったものじゃないのに。

最低だ、私。


長いトンネルを抜けた後に待っているものは何なのだろう。


2005年01月23日(日) 引き上げてくれて、ありがとう

壊れるまで頑張ると決意したのち、私は本当に壊れてしまった。

心も、身体も。
入院寸前まで行った。

大切な少ない友人だけに逝きたいと呟いた。

日記なんて書ける状態じゃなかった。

今もまだ、具合悪さと襲ってくる鬱と闘ってる。

もう壊れるまで頑張るのはやめようと堅く誓った。


ごめんね。
ごめんね。
心配掛けてごめんね。


私は死の世界に片足を入れていた。
もう少しで逝く寸前だった。

その私の手を取り
引き上げてくれてありがとう。
本当にありがとう。


いつか生きてて良かったと思える日がまた来るんだろうか。
今の私にはそんな思いはまったく無いけれど
いつか来てほしい。
いつか。

とりあえずもう逝こうとしないから
逝かないよ
だっておばあちゃんに怒られちゃうもん

そして何よりもあなたを泣かせたくない。


2005年01月13日(木) 突き刺さるよ、その言葉が。

もう限界が限りなく近い。

乖離も起こり
気を緩めると号泣してしまいそうなので、
ずっと張り詰めながら息を殺して生きてる。

おばあちゃんに約束したのに
もう約束を破ってしまいそう。

約束だけが、今の私を支えてる。


でも限界はもうすぐやってくる。

どうしようもできない。

最早どうして良いのか判らない。

助けを求めたくてもどうやって助けを求めていいのかも判らない。

こんな状態にまで陥ってる私なんかを助けてくれるひとがいるのかな。


決めたよ

壊れるまで 頑張る

自分が限界でもやらなきゃならないことがあるんだ


だから…壊れるまで…。


糸はもうすぐ切れそうなくらい細い。

ピーンと張って、そのうち切れるだろう。


切れてしまったとき
私は…?

どうなる?

どうなるかは判ってるけど

もうどうしようもできない



2005年01月11日(火) 大切な人がいないことに

慣れない…。

今日は通院日で、先生の言葉を聞いてはっと思った。

祖母に対する後悔の念をお話したら、
優しい言葉で先生は包んでくださった。

一秒一秒が寂しくて、苦しくて、切ない。
ふとした瞬間に涙が出る。
やりきれない思い。

でも、今は悲しんでいいんだって言われて、
自然のままに、無理をせずやっていこうと思う。

ひとつまた、とても心配で気がかりなことが起こった。
こちらでは書かずにいようと思う。

そして、祖母の容態が悪くなった頃から
頻繁に起こり始めた乖離。
解離性障害か離人症の症状だと言われた。
酷くなるようなら急いで連絡しなさいと。

大丈夫、大丈夫と言い聞かせても、
いつ起こるか分からないから怖い。

怖いよ…もうこれ以上病気になりたくない。


そうそう
理解できなかったんだ
私がおかしいのかな

お通夜から火葬場、告別式まで一回も泣かず悲しい顔もせず
告別式の日には、ゲームで遊んで、SATCを見ていた妹を。

悲しくないの?
それとも隠してるだけ?

そして祖母の亡骸の写真を携帯で撮っていた従兄を。

今の時代ならではなんですか?
私にはどうしてもわからない。
理解できない。

こう思う私がおかしいの?
過敏になってるだけ?

些細な人の言葉すらも痛くて痛くて、胸に突き刺さる。


2005年01月07日(金) 星になったおばあちゃん

昨日、祖母が亡くなりました。
去年の五月に「祖母」「祖母のお見舞い」というタイトルで
こちらに書いた、祖母です。

…6日の真夜中に容態が急変し、
急いで母と共に病院に向かって私が見た祖母は、
臨終間近の、苦しい、苦しい姿でした。
あの姿が目に焼きついて離れません。

結局、明け方に祖母は息を引き取りました。
眠るように、安らかに旅立ちました。

祖母の容態急変の知らせを聞いてから
乖離が起こり、そして病院に行ってからも乖離し掛け、
亡くなった後は過呼吸と不安発作で号泣し、
私自身がすごく不安定になってしまったのですが、
今日お通夜が行われ、祖母の安らかな顔を見て、
少し実感が湧きました。祖母は亡くなったのだと。
まるで眠っているようでした。
今にも起きて、話しかけてくれそうな、そんな顔でした。

明日、祖母はお骨になります。
最後のお別れをしなくては…。
手紙を書いてお棺に入れました。


おばあちゃん、最後まで全然いいところを見せられなくて
ごめんね。やっぱり私は一番出来の悪い孫だった。
そして心配を掛け続けてた。
入院してからも私のことを気に掛けてくれてた。
最後まで痴呆になることも無く、しっかり話していたおばあちゃん。
私には元気なときのおばあちゃんしか思い浮かばない。

花嫁姿も…見せられなかったね…。
ごめんね…見せてあげたかったな…。

おばあちゃん不幸な孫だったね。ごめんね。
後悔ばかりだけど、私はおばあちゃんの孫で幸せだったよ。

私が小さい頃、沢山可愛がってくれてありがとう。
おばあちゃんが私を抱いてる写真を見たら
涙が溢れて、溢れて、止まらなかったよ。
小さい頃、二年くらい一緒に暮らしていたんだよね。
私はおばあちゃんが大好きで、いつも後ばかり追ってた。
畑仕事をしているおばあちゃんの回りをウロウロしたり、
一緒に散歩したり、泊まりに行っていっぱいお話したり、
思い出すと涙が出るような、大切な思い出がキラキラしているよ。


沢山の人に囲まれて、最後は幸せだったね。
もう痛くない。もう苦しくない。
神様が、そして空にいるおじいちゃんが、もういいよ、頑張ったね、
っておばあちゃんを呼んだんだね。
もうなにも苦しい事は無いから、ゆっくり休んでね。

期待してるよ、って言ってくれた言葉が忘れられない。
その期待にも応えられなかった。

おばあちゃん。私、死なないと約束するから。
転びそうになりながらも生きるから。
だからこれからの私をそこから見守っていて。

苦しくても必死に生きようとしていたおばあちゃんに、
死のうとする自分の情けなさを思い知らされた。
生きるという当たり前のことがとっても大切だと教えられた。


ありがとう。そして、さようなら、おばあちゃん。


2005年01月01日(土) 元旦から鬱

せっかく良い年にしようと誓ったのに、
元旦から鬱状態になってしまい、今現在も治りません。

年賀状が何通か来て、複数の人が
「前向きに頑張れ」みたいなことを書いてて。
今の私にはまだその言葉を受け止める力がなく、
ガーンとショックを受けてしまいました。
自分でもどうしてここまでショックを受けるのか分からないです。

鬱になったのも、それだけが原因とは思えないし、
やっぱり病気なんだな…と思いました。

初詣にも行って元気になることをお祈りしたのに
最初からこれじゃダメですね。。。

ああ…つらい。

夕ご飯の頃が鬱のピークで、死にたいとまで思ってしまいました。
その感情にビックリしました。
でも今は死にたい気持ちは落ち着いてきたので…。


元旦早々、暗い日記でごめんなさい。

読んでくださった方々の一年に幸ありますように。


Ira

MAIL


↑エンピツ投票ボタン
My追加