ミステリーとか、推理小説に区分されるであろうジャンルの本をあまり読まない。死んでしまったら終わりだし、謎解きには興味がない。それでも東野圭吾とか宮部みゆきあたりは数冊読んだことがあるけれど、どちらかというとミステリーとして、というよりお話、小説として読みたいので、「火車」の終わり方にはえーと、と思ったし、東野圭吾では「片想い」だけが好きで印象に残っている。赤川次郎も何冊か読んだけれど、あれはまた何か別物のような気がする。栗本薫のも読んだけれど、これもまた何か違う。基本的に、栗本薫の紡ぐ物語自体が好きなのだ。 ただ昔、会社勤め後半頃、妙に海外のミステリばかり読んでいた時期がある。おそらく日本の慣習、感覚、のようなものが疎ましかったのだろうと思う。それでも選んでいたのは探偵が同性愛者だったり、犯人が異常快楽殺人者だったりと、どこか癖のある作品ばかりだったような気がするので、ミステリー! と思って買い求めていたわけではないように思う。装丁やイラストが気に入って買った、ミステリ以外の翻訳ものもたまには読んでいたし。しかし海外のばかり読んでいたのはあの時期だけなので、よほどストレスがたまっていたのかもしれない。 話がそれたので戻そう。本屋や図書館、雑誌などでミステリの特集を見ると、ああ好きな人は好きなのだなぁと思う。わたしは日本の古典が好きだが、興味のない人や嫌いな人、退屈な人にはその感覚がわからないように、わたしも多分ミステリ脳、みたいな部分があまりないので、その魅力がさほど影響を及ぼさないのだろう。
9月に某バンドのライブに行ったとき、ふと思ったこと。わたしが学生時代後半と社会人前半あたりで好きだったバンド、を追いかけていた子達。あの子達は今ごろどうしているだろう。 9月に行ったライブを見ていた人たちは、それなりに社会生活に適応しているようにみえた。彼らなしでは生きられない、ようには見えなかった。アリーナとかにいたひとたちはまた違うのかもしれないが…。 わたしが昔好きだったバンドのライブには、この子達、ふだんどうやって生きてるんだろう? という感じの子達がいた。本当に、彼らなしでは生きていけないのではと思えた。実際、後を追ってしまう子もいた。 どちらがいいとか悪いとかではなく、単に今どうしているのかなと思う。また、ああいう感じの子達、というのは今もどこかにいて、深くて濃いライブを見たりしているのかな、と思う。思うだけで、とくに意味はない気持ちだけれど。
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