タアイモナイゾ...claire

 

 

エース 4 - 2006年09月30日(土)


■交わり

 「蒼衣彩華?あぁ、知っとるよ」
テレビのリモコン片手に、堺は答えた。
「えっ!?誰だよ?」
ビックリして俺がそう聞くと、堺は意外そうな顔をしてこちらを見る。
「お前、知らんの?あれや、I高校のマネージャー兼選手」
「はぁ…選手?」
「えーと、ちょっと待っとれ。りいなー?」
堺は立ち上がると、風呂に入っている奏さんを呼んだ。なにやら探し物をしているみたいだが。
 その間、俺はテレビをなんとなく見ていた。どうやら、巨人がまた負けたみたいだ。そうしている間に奏さんは風呂から上がってしまった。
「将馬ー、あった?」
呼ばれた堺は振り返る。なにやら本棚から何かを探し出そうとしているみたいだが。蒼衣さんについての資料でもあるんだろうか。
「いや、ないわ。どこやったっけなぁ」
「あ、そっちじゃないよ。そこの棚」
そういうと、奏さんは濡れた髪のまま違う棚を探し始める。なんだか自分の立ち位置がわからなくなってきた。
「ほら、あった。これやろ」
結局目当ての物を見つけたのは奏さんだった。大分古めの野球の雑誌みたいだが。
「おぉ、それや。康次、ちょっと見てみ」
呼ばれてそこにある雑誌のページの見ると、タイトルが
『期待の新星(!?)無敵の高校女子野球児』
見るとそこには、今よりも少し若くみえる蒼衣さんらしき人が載っていた。相変わらず、無表情で。
―マネージャー兼選手
そういうことか。考えてみればそうだ、今の高校野球は女子は公式戦に出られないのだった。しかし何故、そこまでして彼女は野球に携わろうとしていたのだろうか。俺には正直、そこまで情熱的に、逆境ばかりの世界で耐え抜き、好きな事をやっていける自信が無い。
「公式戦での成績はそりゃもちろんないけどな、他の練習試合とかは凄かったらしいで。打率8割超えとか」
まったくもって、もったいない話だ。
「なんか、一回男装して試合に出たのがバレたとかでしばらく出場停止になったらしいし」
将馬の話に、奏さんは口を尖らせた。
「酷い話やねぇ、別にええやん。そんな区別せんとあかんもんかなぁ」
「で、康次。この子となんかあったんか?」

 俺は昨日のことを二人に話した。将馬はそこまでの関心はなかったが、奏さんは違った。さすがは女の子、という感じに。
「神山君。それは絶対あれや、うん。あれしかない」
「な、なんだよ?」
「男ならぁ、ガツンと言わなぁ、いけんもーんーやーでー」
…変な奏さん。俺はそう思った。
「なぁー、しょぉーまぁ?」
酔っ払いみたいに、堺にも絡む。
「…うるさいわ」
…本当に目の毒だ。

 今日の蒼衣さんは、実に30本ものホームラン賞を叩き出した。スウィングにも気合が入っているような気がする。俺も投手をやっていたからなんとなくわかるが、できれば勝負したくない打者になるだろう。非公式ながら打率8割超えというのも、俺が一番良くわかるのかも知れない。
「今日は、気合入れました」
しかし、言ってる事と、表情が違う。それは今日の成績見ればわかるが、テンションの上げ下げができないのは唯一の欠点ではないのか。俺は初めてそう思った。
「…でしょうね、見てればわかりましたけど。でもホントに楽しんでやってますか?」
あら?と言うような表情で、彼女は俺を見た。
「楽しいですよ、毎回。でも、今日は特別なんです」
「どうしてですか?」
そう訊くと、ファインダー越しの彼女は答えた。
「週末だからです。」
すると蒼衣さんは不意に、ふわりと笑った。
「あ、そのままで」

―カシャッ

今日はいい写真になりそうだ。ポラノイドから出てきた写真が出来上がるのを楽しみに、会話を続ける。
「へぇ、週末の楽しみですか。いいですね」
「…髪、伸ばしてるんですか?」
唐突な質問に少し驚いた。でもそういえば前髪が目にかかるようになってきた。そろそろ切る時期だろうか。
「いえ、そろそろ切ろうかなと思ってますけど」
「私が切りましょうか?」
…奏さんの言った事を思い出す。やはり蒼衣さんはどう考えても、俺にアプローチを仕掛けているとしか考えられない。どうしてだろう?というのが、素直な所感。
「い、いいんですか?」
「えぇ、週末ですから」
彼女はまた笑った。こっちの表情の方が、写真に残したかったかも知れない。
 そうして、俺は仕事上がりの後、蒼衣さんの家で髪を切ってもらう事になった。俺の部屋でも良かったが、流石にそれは…いや、理性が保てたとしてもだ。見た目的に良くない物はしないのが一番良いに決まってる。…まぁ、本能が勝ったところで、俺にできることなんて高が知れているのだけど。俺が望めばそうなるのではないかと言う、微かな期待が危機感を齎(もたら)すのだ。そう、自分のこれから的に…なんだか良くわからなくなったので、あまりそういうのは考えないようにしよう。髪を切ってもらうだけだ。「週末だから、仕方ない」。関係ないけど、彼女が言うのだから正しいという事にしたい。
 しかし、事態は思わぬ方向へ転がり始めていった。

 「…あの、一人暮らし…だったんですか?」
リュックも下ろさず部屋を見回す俺に蒼衣さんは言った。
「えぇ、そうですよ?」
迂闊だった。帰り道ずっと野球討論なんてしてる場合じゃなかった。広島東洋カープの投手陣のこれからの課題についてなんて、彼女が一人暮らしをしているのと比べたら、どうでもいいことだ。あと中日ドラゴンズの守備の素晴らしさも余計だ。だが、帰り道の時点それをで知ったところで、俺がどうできただろうと思えば。知ることも無駄だ。しかし、心の準備が。こんな事バイト仲間に知れれば、どうなることか。
「じゃあ、さっそくやりましょうか。ベランダにどうぞ」
そう言いながら、蒼衣さんは上着を脱いでキャミソール姿になった。なんて綺麗な肌だろうか。ホントに野球やってたんだろうか。色んな事を考えてしまい、悶々とし、意識が正常に保てなくなりそうだ。それは、一人暮らしの女の子の部屋に来た事が無いと言われればそうでは無いが。シュチュエーション的には明らかに自分の気持ちがオーバーフローしてしまっている。もう考えてることも意味が解らない。
『いや…そもそも自分が一人暮らしなのに、俺を呼ぶのが悪い』
そんな事を自分に言い聞かせながら、ベランダに出て行った。

 彼女の部屋のベランダは、小さな美容室だった。隣の部屋との境目の壁には大きな鏡が貼ってあり、ちゃんとアームが可動式の電気スタンドも2箇所に設置されている。それに加え、夜空。これはなかなか良い感じではないか。そして美人の美容師が俺の髪を手際よく切っていく。まるで美容室の穴場を見つけたような錯覚に陥ってしまっていた。 
 散髪もそろそろ仕上げかと言う所で、俺は訊いてみた。
「美容の専門学校とかに行かれてるんですか?」
作業の手を止めず、蒼衣さんは答える。
「いえ、普通の女子大生です。友達とかとよく切り合っていたのでついでに勉強してたら、結構上手くなっちゃったみたいで」
さらに、彼女は付け足した。
「…小さい頃は、野球選手か美容師になりたかったんですよ」
今度は二人して笑っていた。彼女の謎の美女像が、段々崩れていってるような気がした。

 「こんな感じでどうですか?」
目の前の鏡に映る自分は、どこか懐かしかった。不意に、高校の時のアルバムを思い出す。
「18歳に戻った感じです」
少し言い方が悪かったか、蒼衣さんは少し案じてしまっていた。
「…ごめんなさい。嫌、ですか?」
「い、いえ、そんなわけないじゃないですか!大体、素人の人にこんな綺麗に切ってもらえるなんて思っても見なかったですよ。ありがとうございます」
まぁ、これで堺の前に出たら笑われるだろうけど。前髪もここまで切るのは久しぶりだ。
「いいんですよ。男の人の髪切るの初めてだったから緊張してしまいましたけど、なんとか帳尻合わせることができました」
「あ、初めて…?」
気になるフレーズを発見した俺を他所に、彼女は続けた。
「それじゃあ、シャワーで洗い流してもらえますか?そこのドアですから」
「あぁ、はい」
「それから…ちょっと」
「ん?なんでしょう」
「ちょっと飲みませんか?お酒、今日買い足して来たんで」

 「喜んで」と反射的に答えたが、俺は、馬鹿か?温かい雨に打たれながら俺は風呂場でうつむいていた。断るなら今のうちだろうか。しかし、なんだこの状況。何故俺はシャワーを浴びている?あぁ、そうか髪を洗い流すためだ。決して体を清めようなんて事はないのだ。
「神山さん?シャンプー使ってくださいね。それからボディーソープも」
「あ、え?…はい」
曇りガラスの向こうの人も、いい加減何を考えているのかわからない。天然なのか?世間知らずか?それとももう慣れっこなのか。…でも、男の髪を切るのは初めてというのが気になる。普通この年頃の男女が同じ部屋で二人きり酒を飲むと言う行為が、どういうものか解っているのだろうか。解っててやっているのだろうか。しかしその裏腹に膨らむ、期待。期待。期待。
 いや、馬鹿は俺だ。状況に流されるな、俺は普通の男とは違うんだ。そんな軽い気持ちでこんな美人だからと流れ的に「そういう」関係になってしまわないような精神力を俺は持ち合わせているはずなんだ。…再度そう言い聞かせたところで、俺は風呂場から出た。実際、気持ちで感情がコントロールできるなら。初めから苦労なんてしていないはずだけれども。正直これは、どうしようもない。
「………………」
そして、俺の服の上には、コンビニのトランクス。サイズも、ぴったりだ。
 「ちょ!蒼衣さん!なんスかこのパンツは!?」
いきなりシャツだけ着たパンツ姿の男に、蒼衣さんは多少驚いた。何やら赤い飲み物を作っている様子で。テーブルの上には野菜たっぷりな料理があった。
「…あの、ごめんなさい。やっぱり黒が良かったですか?青しか無くて…ローソンには青しかないんですよ」
何を言っているんだこの人は。
「いや、そうじゃなくて…。俺は別にお泊りしに来たわけでもないのに、なんですかこの待遇は?なんですかそのオードブルは?…まさかデリバリーじゃないですよね!?」
その俺の発言に蒼衣さんは少しムッとしたようだ。
「いいえ、私一人で作ったんです。チーズは嫌いですか?」
「大好きですけど…。わ、悪いですよ、こんなの。…髪切ってもらった上に、下着まで新調してもらって、それにこんなおつまみ…ってか、もうこれ晩飯ですよ。」
テーブルの上に置かれた料理は、既に自分の空腹感を満たす事に十分な事に気付いた。
「…いいんですよ。神山さんとは、前々からゆっくり話がしたかったですから」
それを聞いて。思わず俺は言葉に詰まった。さらに蒼衣さんは続ける。
「じゃあ、ズボン穿いて来て下さい。それから一緒に飲みましょう。…私最近、お酒作るのにはまってるんです。今日もカシスベースのカクテル作って見たんですけど、良かったら味見してくださいね」
てっきりビールとかチューハイを買い溜めしたのかと思えば、彼女が買ってきたと言うのはカクテルに良く使われるリキュールのようだ。手元にはシェイカーまであった。
「…タキシードかなんか、着てくればよかったです。持ってないですけど」
俺がそう言うと、蒼衣さんは笑った。

 俺はその晩、久々に酔っ払ってしまった。蒼衣さんと飲む酒は美味かった。元々甘い酒は好きではないが、彼女の準備が良く、いろんなアルコールを食らい、酔いつぶれる寸前まで俺は来ていた。
 素面では顔から火が出るような発言も平気な顔をして口から出している。蒼衣さんも聞き上手で退屈な素振りも見せず、俺の機関銃のような話に自然に付いて来ているようだった。
「蒼衣さん…あんたはホントに、ひどいひとですよぉ」
「え?どうして?」
意識を朦朧とさせながらも、蒼衣さんのグラスに酒が入ってないのを俺は自然とわかっていた。
「だってそれ、茶じゃん。全然俺と付き合ってくれる気なさそうじゃねぇか」
「ふふ、確かに今日はあんまり飲んでないけど、そんなことないし。それにほら、神山君と飲んでると楽しいよ」
「……気を遣ってくれなくてもいいんだよ」
「そんなこと」
蒼衣さんが何か言おうとしているにも関わらず、俺はおもむろに立ち上がった。
「いくらッスか?」
「…何が?」
「今日のお金ですよ」
「…神山君、もう自分の家に帰るような時間じゃないし、例えあなたが男の人でもこんな状態で一人で夜道、歩かせる訳にはいかないわ」
嫌だ。
「今日は泊まって行けばいい。明日朝一に帰ればいいの」
駄目だ、こんな状態だからこそ蒼衣さんと一晩を過ごすようなことをしてはいけない。今の内だ。自制が利く今でなければ、何か大事な物を失う気がしてならない。今以上酔ってしまえば、俺は例え自分のこともどうでも良くなってしまう。
「…蒼衣さん、悪いけど、俺はそんなたいした奴じゃないよ。こんな優遇してもらえるのは凄く嬉しいけどさ」
彼女は黙って酔っ払いの言葉を聞く。全て飲み込まれている。そんな感じだった。しかし、わからない、彼女の気持ちがわからない。俺は多分ここで彼女とセックスをしたとしても、誰もおかしいだなんて思わないと思う。大概の女性は男にここまで気を許すとなれば、余程信用しているか、抱かれることを容認しているのが大体だ。だが蒼衣さんは違う。恋愛とかそういうのより、俺のもっと違う何かを見ている。抱くのは俺だとしても、包み込むのはきっと、彼女になるだろう。そんな相手に甘えるのは、怖い。
「俺は…わかんないですよ、どうすればいいのかわからないですよ」
「…………」
「でも、自分の部屋に戻れば、結果は一つしかないんですよ」
俺は音を立てて椅子に座った。それでも、蒼衣さんはまるで、俺がもう立ち上がることのない様に、テーブルの上の俺の手を握った。
「…好きにすればいいと思う。あなたの好きに。そしてまた帰っても、またここに来ていいと思う」
「あんたは…」
「お願い。帰らないで。…一緒にいて」

 彼女に男性経験が無い事は薄々感づいていたが、確信した時はもう遅かった。初めて見る苦痛に歪む蒼衣さんの顔でも、先程まであった自制心は完全に消えてなくなってしまっていた。
――けものだ。
俺は獣だ。誰とだって『できる』、獣だ。この女が悪い。
 俺なんかに気を許した、この女が悪い。

 朝。目が覚めると一人。あれだけ酔ったのに不思議と酒は身体に残っていない。だがベットのシーツには確かに、俺が蒼衣さんの処女を奪った印があった。この赤い染みは、俺の物でもあるのではないだろうか。
 そう思うと気分が悪くなり、タバコが欲しくなった。だが探すまでも無く、寝室の机の上にはそこに置いた記憶の無い、俺のタバコとライター。新品であろう灰皿も置いてある。
 「情けねぇな…」
その一言は、タバコの煙と一緒にどこかに消えていった。


-

エース 3 - 2006年09月18日(月)

■謎


 高校生の時の連れは、ほとんどいなくなってしまった。唯一残ったのは、三塁手だった堺 将馬(さかい しょうま)のみ。俺が肩を壊してからも付き合いがあったのは、彼だけだった。
 堺は、就職して一人暮らしを始めていた。俺と同じ、受験勉強から逃げた組。最も、彼はちゃんと就職しているため、俺と同じなんて事はないのだが。
「あーしかし、冴えんなぁ」
目の前でタバコをふかす男に対して、銀色のツンツン頭の堺はぼやいた。
「うっせーな。別にいいだろ」
「あぁ、俺は構わんが、オンナの前でそれはないやろ」
堺は彼女と同棲していた。元野球部のマネージャーだ。同じ関西の出身と言う事もあり、大分気が合っていたようだ。付き合いだしたのは高校を卒業してからの話だが。
「あは、私は構わんよ。タバコのにおいキライじゃないし」
正座してにっこり笑う長髪黒髪美人。眼鏡をかけたら、誰がどう見ても優等生の佇まいだっただろう。そんな女性がこんなぶっきらぼうな野郎と付き合うのだ。自分には無い物を…ってやつだろうか。正直それまでの経緯は興味が無いが、二人が仲良くしているのは、街中でそこらへんのカップルを見るよりは、気分が良いものがある。大雑把な堺の部屋がこんなにも整理整頓ができているのも、彼女のおかげ他ならない。
「ほら、りっちゃんもそう言ってるし、お前も吸えば?」
「はっ、バカ言え。これ以上納税なんかしてたまるか。りいな、要らん事言うな。」
彼氏にそう言われてしまった奏(かなで)さんは、口を尖らせる。
「えー、そんな毛嫌いせんでもええやん。じゃあ私も吸うもーん。神山君、一本ちょうだい」
「な、お前!こっから追い出すで!」
「えーやんか!私まだ一本たりと吸った事ないんやで!?初体験してもええやん」
たまにこのやり取りが、目の毒になることもあるけど。
 俺はこれから、どうするのだろう。なんとなく考えているのが、今のバイト先に就職。それからは……。止めだ、こんな事考えたってなんにもならない。思いを固めたって、その通りになるわけじゃない。でも、この二人はどうだろう。おぼろげに将来のビジョンが見えているんじゃないだろうか。
 ふざけて堺の顔に煙を吹きかける奏さんは、どこか幸せそうだ。野球部のマネージャーをしていた時は、見た事のない表情を、今は日常的に出しているようだ。今彼女にそんな表情をさせているのは、間違いなく堺だろう。
 そう思ってしまうと、なぜか居辛くなった。一通り挨拶の言葉を言うと、俺はその部屋を後にし、コンビニ寄って帰った。


 「通算、1000号記念ですね。」
レンズ越しの彼女は、珍しく素っ頓狂な顔をした。
「えっ?」
撮影を中断して、カメラを顔の前から下ろした。
「あ、数えてなかったんですか?今日最後のホームラン賞で、1000本目だったんですよ?」
「はぁ…数えてませんでした」
「え?だって今日は14本で止めたじゃないですか。意識してたんじゃないですか?」
俺がそういうと、彼女は少し困ったような顔をした。あくまで、そう見えただけだが。
「今日はなんだか、あの、ボーっとしてました」
「はは、そんな日もあるんですね。でも帰り道気をつけてくださいよ、最近この辺痴漢が出るそうだから」
そう言うと彼女にカメラを向け、シャッターを切…
「あのっ」
ボタンを押した瞬間に喋り出したものだから、彼女の「あ」の発声をしている彼女のレアな写真ができてしまった。
「あー、タイミング悪かったですね。口開いてますよ、これ。撮り直しますか?」
「……一緒に」
「え?一緒に?」
「あ、の、今日…は歩きなので、その」
今日のポーカーフェイスは休みらしい。色んな表情を見る。見た事も無い表情を。少し顔が赤いような気もするが、気のせいか。
「歩き、なんですか。いつもの自転車じゃなくて。」
嫌な、と言うか。想像もしたことも無いことが起こる予感が、一瞬で頭を過ぎった
「はい、だから、一緒に帰ってくれませんか?」


 初夏の蒸す夜に歩く。空は曇って、暗い。隣に美女。ここ最近の自分としては、あまりに特殊な状況だ。ボディーガードと言うのは、恐らく建前だろう。彼女ならば痴漢が出てきても逆に倒してしまいそうだ。
「あの…タバコ大丈夫っすか?」
この不可解な状況にイライラしてしまう。
「…えぇ、どうぞ」
彼女に煙がかからないように配慮して煙を吐く。
「タバコ、吸われるんですね」
「あぁ、はい。」
やはり悪印象なんだろうか。俺はタバコを吸わないような人種に見られるのか。初めて俺がタバコをふかしている姿を見た人はほとんどが意外がる。そして「止めた方がいい」と言う。
「それにしても、バッティング上手いですよね。何かやってたんですか?」
俺が聞くと、彼女はためらいも無く答えた。
「野球やってました。高校の時」
「…ポジションは?」
「キャッチャーです」
呆気に取られた俺を他所に、彼女は淡々と答える。野球をやっていたと言うのも、割と信じがたい事だ。俺は思い切って聞いて見ることにした。
「あの…」
「はい?」
「女性の、方ですよね?」
俺がそう言うと、彼女は少し考えて、答えた。
「いえ、男ですよ」

………。

「…男、ですか」
「はい」
「ついてるんですか?」
「えぇ。まぁ」
少し、背筋が凍る。身の危険を感じる。これだけ美人なのに。なんて勿体無いことなんだろうと、本能的にそう感じてしまった。あまりに淡々としているので、疑おうにもそれは難しい状態。
「神山さんは、野球やってましたよね」
「…やってましたけど、今はからっきしですよ」
ため息の代わりのように、俺は長い煙を吐いた。
「S高のエース。甲子園でのピッチング、見事でしたよ。…でもあんなことになってしまって、残念です」
そう言われ、不意にあの時の記憶が戻ってしまう。しかし、いつまでもそんなことに囚われていては、いつまでも抜け出せないままだ。事実は事実で、過去のことと割り切らなければならないのはわかっている。
「はは、あれは痛かったですよ。カッコ悪いとこ見せちゃいましたね。」
「そんなこと…」
だが、この話題は俺にとってやはり足枷のような物だ。彼女…いや、彼には悪いがもうこの話はしたくなかった。
「それより、蒼衣さんの高校はどうだったんですか?」
彼は少し考えた。しかしその姿を見て、男だとわかる人間は果たしてこの世にいるだろうか。
「行けませんでした、甲子園。結構良いところまで行ったんですけどね」
「そうですか…。」
「…あなたの所に、負けましたから」
「え…えぇっ!?」
俺は素直に驚く。一瞬地雷を踏んだように思えたが、それはそれ。例え逆の立場でも、俺は彼を咎めたりはしないだろう。
「流石に、マネージャーの事までは、覚えてないんですね」
彼は少し、微笑んでいた。どこをどう見たら、この人が男だとわかるのか。決定的な一箇所しか思い浮かばなかった。
「マネージャーって…さっきはキャッチャーって…??」
「じゃあ、私、この先なんで。今日はありがとうございました。安心して家に帰ることが出来て、良かったです」
交差点で立ち止まる蒼衣さんにそう言われ、次の言葉が出なかった。かろうじて出たのが
「い、いえ、どういたしまして」
信号は青になる。横断歩道を渡る前に、振り返らずに蒼衣さんは言った。
「…さっきのは、ウソです。」
「…どれがですか?」
「男っていうの」
「…ホントは、キャッチャーじゃなくて、ライトなのかと思いました」
俺がそう言うと、蒼衣さんは振り返る。その顔は明らかに微笑んでいた。
「また、一緒に帰ってください。」
「…喜んで」
「おやすみなさい」
蒼衣さんは歩き出す。俺は彼女の姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。
 部屋に帰っても、彼女の笑顔が忘れられず。今日の記憶の大半は、彼女の笑顔のような気がした。

「読めないな」
彼女の謎は、今日のことで一層深まってしまっていた。


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