セクサロイドは眠らない
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俺はさ、男の子だから
愛人業
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2002年09月30日(月) |
僕は、それを気付いていながら、気付かないふり。彼女は、誰かになろうとしていた。僕の心を捉えて離さない、その人に。僕は、ずるい。 |
僕は、その電車で初めて彼女と会った。
いつも、静かに文庫本を読んでいる人。電車の中で、ただひたすらに。いつも同じ電車だと、自然、顔見知りのような気分になる。僕は、朝、電車に乗ると彼女の姿を探し、いればホッとする。いなければ不安に思う。
変だね。名前も知らないのに。
彼女は、僕の視線に気付いていたのかどうか。いつも、一心不乱に文庫本を読んでいた。その真剣な眼差しの先に僕がいることを、いつしか望むようになっていた。だけど、多分、彼女は僕を知らないまま。いつだったか、彼女の会社の同僚らしき人が彼女に話し掛けて、笑顔で答える光景を見た時、僕の心は嫉妬でズキズキと痛んだ。あれが、初めて彼女に恋していると気付いた最初だった。
そのうち、彼女の姿を見掛けなくなったのは、彼女と同じ電車に乗るようになってから、二年目の秋だった。
--
僕は、彼女以外に恋ができなくなっていた。街を歩いても、彼女の姿を探す。職場の女性から誘われても、そっけなく断る。狂ったように、探した。
変だろう?
外見しか知らないのに。
--
激しい恋愛感情は、受け入れ先を探して他人を傷つける。僕は、彼女が忘れられるかもしれないと、女の子達と手当たり次第、寝る。
だが、朝起きて、隣の女の子が僕に笑顔を向ける時、ぞっとする。きみじゃない。ねえ。早く服を着て、どこかに行ってしまって。
そんな時間を沢山過ごした後、僕は、どろどろに酔った店で、一人の女の子を見つける。
こんなとこにいたんだ?
「ねえ。僕の事、覚えている?」 首をかしげる彼女に抱き付いたまま、僕は意識を失う。
--
「気が付いた?」 水の入ったグラスを差し出されて、僕は、ボンヤリとうなずく。
それから、深い深い安堵に包まれる。やっぱり、きみだ。本当にいたんだ。
「ねえ。私のこと、知ってるの?」 「うん。」
僕の記憶よりも、ずっと派手に化粧して、短いスカートを履いている彼女に、僕はゆっくりと説明を始めた。
--
「つまり。その、名前も知らない女性が私だって言うのね。」 「ああ。」 「それ、多分、私の事じゃないわ。」
僕は、溜め息を吐く。
「見たら、分かるって思ってて、本当に分かった筈だったのに。」 「多分・・・。多分、だけど。それって、私のお姉ちゃんよ。」 「お姉さん?」 「ええ。一卵性の双子なの。双子の姉だと思うわ。」
イクミと名乗る目の前の女性は、あちこちタンスを引っ掻きまわして一枚の写真を取り出した。 「ほら。」
確かに、そっくりな笑顔で並んで写っている二人の女性は、どう見ても双子だった。
「どう?」 「髪形とか違ってて分からないけど、多分、彼女だ。」 「カオリっていうのよ。」
「ねえ。彼女、今どうしてんの?」 僕は、訊ねる。
「お姉ちゃんに会いたい?」 「うん。」 「多分、無理。」 「どうして?」 「心がね。ちょっとおかしくなっちゃったの。それで、病院に入ってる。お姉ちゃんね。私と違ってとっても真面目だったのよ。本ばっかり読んでて。男の人とも付き合った事、なかったんじゃないかしら。」 「それが、また、どうして入院を?」 「言えない。お姉ちゃんの事想ってくれてるのは分かるけど。お願い。これ以上は関わらないで。」
だが、どうしたらいいのだろう?忘れろとでも?
目の前の女性を見つめる。
「何?」 イクミは、僕の表情に気付いて、目をそらす。
「何でもない。」 僕は、答える。
それで終わる筈だった。だけど・・・。
--
イクミは、明るい子だった。お店のほうに行くと、僕の事も普通の客のように接してくれる。その笑顔に救われて、僕は何度も足を運ぶ。
時折、イクミは何か言いたげだったが、その言葉を飲み込んで。
いつしか、僕は彼女が店を終わるのを待つようになり、それから、二人で同じ場所に帰るようになった。僕らは夫婦になった。
「本は読まないの。」そう言って笑っていたイクミだが、本を読むようになった。集中力が続かないのか、すぐに本は閉じられてしまうが、それでも、彼女は努力した。茶色の髪は、黒に染めた。短いスカートは、膝を隠す丈に。
僕は、それを気付いていながら、気付かないふり。
イクミは、誰かになろうとしていた。僕の心を捉えて離さない、その人に。
僕は、ずるい。
イクミの向こうに誰かを見ながら、イクミを抱く。
--
ある夜、僕はいつものようにイクミの眠ったのを見計らって起きだし、キッチンで一人ブランデーを飲んでいた時。
眠っていた筈のイクミが起きて来て、僕の肩にそっと手を載せて、 「おねえちゃんに会わせてあげようか?」 と、言った。
聞けば、身内だけに外出許可が出るようになったという。
「まさか。何言ってるんだい?」 僕は、笑う。
イクミは、なおも、 「ねえ。ちゃんと会って。そのほうが辛くないから。」 と言うから、僕は酔い過ぎた頭でうなずく。
イクミは、数日、旅行に行く、と言う。お姉ちゃんに会う前後のあなたを見たくないから。と。
僕は、自分がやろうとしている事の重大さに気付きながら、何も言えない。それほどまでに、彼女の姉を愛していたのだ。
--
イクミから教えられたその場所は、施設のそばの公園で、イクミ、いや、いつかの電車の彼女と同じ顔を見つける。
ブランコに乗って、ゆっくりと揺れている女性は、最初僕を見ても何の反応も示さなかった。
それから、ゆっくりと立ち上がり、僕を見つけて小首をかしげる。
ああ・・・。
はじめまして。
それから、何と言おう。
僕の手は汗ばみ、心は震える。
--
「何もしなかったよ。指も触れなかった。」 イクミの顔を見て、そう言い訳をした。
「そう。」 イクミはそれだけ言って、何も答えなかった。
夫婦の間に悲しい空気が流れた。
それでも、良かったの?きみは?僕は?きみの姉さんは?
--
ニ、三ヶ月に一度、僕とカオリは逢瀬の時間を持つ。それが条件だ、とイクミは言った。お姉ちゃんに会わせてあげるから、私を捨てないで。と。
僕は、イクミの目を見ないで、うなずく。
「馬鹿だな。」 と、笑い飛ばせればどんなにいいか。
だが、僕とカオリは少しずつ心を通わせ始めている。もう、カオリを放す事はできない。今度は、カオリのために本を持って会いに行く予定だ。「カラマーゾフの兄弟」。どんな本だって、カオリは喜ぶだろう。本、好きだから。
--
イクミが事故に遭った、と聞いたのは、何度目かのカオリとの逢瀬の日。
その日、僕らは、いつもの公園で会う予定だった。だが、いつまで待っても来ないから、おかしいと思った。暗くなるまで待って、それからガッカリして帰った。
暗いままの部屋に、留守番電話が点滅していた。伝言は病院からだった。
「即死?」 「はい。どこかに急がれていたんでしょう。信号無視で飛び出したようです。」
医師の説明は続くが、何を言っているのか、混乱した頭ではうまく理解できない。
--
カオリに知らせなくちゃ。
僕は、奮える指で、カオリが入院している施設をダイヤルする。
「会って話したい事があるんです。カオリさんの身内です。」 僕はそれだけ言うのがやっとだった。
不謹慎だが、会える事も同時に嬉しかった。
僕は、電車に揺られて施設に向かいながら、思う。これからは、きみのためだけに生きよう。カオリ。
--
その病室は、明るい。
看護士は僕を案内しながら、言う。 「妹のご主人ということだけど、患者さんの事はご存知?」 「はい。」 「なら、いいわ。あまり刺激しないでね。レイプの後遺症から、知らない男性が近付くと大声で騒ぐ事があるの。」
レイプ?
そう言えば知らなかった。カオリのこと。何も。
部屋からは歌声が聞こえて来る。
「機嫌、いいみたいね。」 看護士は微笑む。
僕らは、その部屋に踏み込む。
目の前のベッドでは、見知らぬ女性。いや。確かに、でも、これはカオリ?だが、僕の知っているカオリではない。むくんだ顔の中で表情の抜け落ちた目が、こちらを見る。よく見れば、かすかに面影はあるけれど。
「違う・・・。」 僕は、つぶやく。
きみは、誰だ?
「カオリさん。妹さんのご主人よ。」
目の前の女は、僕の事を見ても、何も表情を変えない。
きみじゃない。
きみじゃないよ。
僕の恋したきみは、違う人だ。そこから逃げ出しそうになるのを、僕は、何とか踏みとどまる。
彼女は、歌い続ける。
「やっぱり分かるのねえ。いつもなら、パニックになるのに。」 看護士は、安堵したように微笑む。
僕が、ここに来るまで思っていた事。きみを。一生、これから・・・。その言葉を飲み込んで。
ああ。だけど。僕は、ベッドの上に伏して、イクミを想って泣き出す。最後の日も、僕との待ち合わせに遅れないようにと車を飛ばしたイクミを。
歌声は、低く、やさしく、響き続ける。
2002年09月28日(土) |
「ううん。したくなっちゃったのよ。」彼女は、親友にしなだれかかって、その白い腕を、親友の首に回している。「ねえ。しようよお。」 |
どうだい、親友。
右腕の付け根が少し痛む。古い傷。
人は、あんまり悲しいと、単純に泣いたりするだけじゃなくて、だから、他人にはそれが悲しみと分かりづらかったりする。そんな事を、僕の親友が知った日の痛み。
--
親友は恋をしているようだ。それを知ったのは、親友が職場の同僚を部屋に連れて来た時だった。普段はあまりお酒を飲まない親友が、同僚を相手に、幾つもの缶ビールを空けて行く。
「お前がこんなに飲むなんて、めずらしいな。」 と、同僚も、少し驚いた様子で付き合っている。
随分と酔ってしまってから、親友はようやくその同僚に向かって話し始めた。 「好きな子がいるんだ。」 って。
「誰だよ。」 「経理のイソザキさん。」 「あの子か・・・。」 「ああ。」 「やめといたほうがいいんじゃないか?」 「そうかな。」 「確かに可愛いけどさあ。」 「顔だけじゃないんだ。」 「性格に問題があるよ。」 「そうかなあ?」 「ああ。結構、誰からの誘いも受けるっていうし。自分からも男に声掛ける子らしいし。」 「知ってる。」
親友は、もう、聞きたくないという風にさえぎって、また、缶ビールを一つ、冷蔵庫から出して来る。
「もうやめといたほうがいいよ。」 親友の同僚は、心配そうに、言う。
親友は、笑って、 「大丈夫だよ。」 と、言う。
「実は、僕も誘われた事があってさあ。」 親友の同僚は、言いにくそうに打ち明ける。
「そうか。」 親友は、うつむく。
「あの子は、誰でもいいんだよ。」 「なんでだろうな?どうして、誰でもいいから、手当たり次第、寝るんだろう?」 親友は、真顔で問う。
「さあな。自信があるからじゃないの?断られないと分かってたら、誘うだろ。で、美味いもんでも食べさせてもらって、プレゼントの一つももらって、その代価が体なんじゃないのか?」 「そんなもんだろうか。それだけのために、男に抱かれるなんてわからない。」 「なら、自分で理由考えるか、彼女に聞くんだな。」 「そうだな・・・。」 「俺、そろそろ帰るわ。明日、午後から出張だし。」 「ああ。」
親友の同僚が帰って行った後、尚も親友はビールを飲み続け、それから、それまで黙って会話を聞いていた僕のほうを向いて、言う。 「あいつ、彼女とやったんだろうなあ。」
僕は、もちろん何も答えない。
尚も、親友は僕に話し続ける。 「女の子の事ちゃんと考えて寝るって事は、女の子のいろんな事を引き受けるって事だから、さあ。彼女が沢山の男と寝たりするって事は、その男達は、本当に何も彼女の事知らないんだろうなあ。」
僕は、黙っている。
親友の言いたい事は何だって分かるけど。
僕には何もできない。ただ、できるのは、右と左で違う大きさの目で、無言で彼を見つめる事だけだ。
--
親友は、普段聴かないCDを聴いたりしている。
イソザキさんが好きなアーティストなんだろうか。
親友は、繰り返し、同じ曲を聴いている。
--
親友は、時々、受話器を取り上げて、どこかに電話しようとして。溜め息をついて、受話器を置く。
あるいは、ようやくのことでダイヤルしたら、話し中だったことがあって。
親友は、クスクスと笑い出した。あまりに緊張したせいだろう。そんでもって、相手が電話に出なかった事でホッとしたんだろう。
電話しようとした相手は、多分、イソザキさんだ。
何だか見ていられない。親友にとって、イソザキさんは、ただ一人、最愛の女性だけど、イソザキさんにとっては、多分、数え切れない程の男のうちの一人で、もしかしたら、名前だって覚えてもらえないかもしれないのだ。
お願いだから、イソザキさん。気まぐれに親友にとびきりの笑顔を見せたりしないでください。退屈だからといって、親友をかまったりしないで、放っておいてやってください。
本当に、本当に、お願いします。
僕は、祈る。
それぐらいしかできない。
--
「へえ。割と綺麗にしてるのねえ。」 彼女は、ぐるりと、僕達の部屋を見回すなり、そんな事を言った。
イソザキさんだ。
僕の願いも虚しく、イソザキさんは、僕の親友の誘いに乗ってしまった。
親友の顔は、今までにないぐらいに輝いていて。僕は、思わず目をそらしたくなる。
「座ってよ。」 「うん。」 「コーヒーがいい?紅茶?ハーブティーもあるよ。」 「じゃあ、コーヒー。」 「砂糖は?」 「要らない。」 「了解。」
親友がキッチンに立った隙に、イソザキさんは、タンスの上に座っている僕を抱き上げて、僕の肩を触る。
僕は、イソザキさんの顔を見て、彼女を以前見たことがある、と思った。
親友が戻って来て、そんなイソザキさんを見て、言った。 「母が作ってくれたんだ。目も一個取れちゃったから、自分で付け直したんだけど、同じボタンがなくてさあ。」 「そうなの?大事にしてるのね。」 「ああ。それは・・・。捨てられないよ。大の男がそんなもん飾ってて恥かしいんだけどさ。」
恥かしい・・・。よなあ。ほんと。いい歳した男が、色褪せたギンガムチェックの熊の縫ぐるみ。目は左右違うし、一度ちぎれた腕は不恰好に縫い合わされている。
「でもさ、驚いたよね。あのヤマネくんだったなんて。」 イソザキさんは、僕を元の位置に戻しながら、言う。
「うん。転校しちゃったしね。あんまりイソザキさんとはしゃべらなかったから。」 「だよねえ。声掛けられた時は、一瞬誰だか全然思い出せなかったの。ごめんね。」 「いいよ。いいよ。でもさ。イソザキさん、一度だけ、僕んち来た事あったの、覚えてる。」 「そうだっけ?」 「うん。そうなんだよね。」 「覚えてないなあ。」 「だろうね。」
なんだ。二人、昔の知り合いだったんだ。
それから、思い出話をひとしきりして。
夕暮れになって、イソザキさんは、 「ねえ。飲みに行かない?」 と、親友を誘う。
親友は、うなずいて、嬉しそうだ。
パタン・・・、と、ドアが閉まる音がする。
--
すっかり遅い時間になって、イソザキさんを抱えるようにして、親友は戻って来る。
イソザキさんは、ケラケラと可笑しそうに笑って。 「お水、ちょうだい。」 と、言ってる。
それから、親友がグラスを持って戻って来た時には、イソザキさんはスカートを脱ぎ始める。
親友は、慌てて、言う。 「苦しいの?」 「ううん。したくなっちゃったのよ。」
イソザキさんは、親友にしなだれかかって、その白い腕を、親友の首に回している。 「ねえ。しようよお。」
親友は、イソザキさんから少し顔をそらして、だけど、その背中をそっと抱き締める。
イソザキさんが、腕をすべらせて親友のズボンのベルトに手を掛けた。
その手を、そっとはずして、親友はイソザキさんの背中をポンポンと叩く。 「酔ってるんだね。」 「大丈夫よ。頭はハッキリしてる。ねえ。したいだけなの。」 「ね。酔ってるよ。きみ。」
イソザキさんは、急に拗ねたように腕を外し、背を向けて座る。 「いじわるね。」
「いじわるじゃない。」 「じゃ、何で抱いてくれないのよ?」 「ねえ。前から聞きたいと思ってたんだ。」 「なあに?」 「なんでさ。そんなにいろんな男と寝るの?」
イソザキさんは、急に黙り込む。
親友は、かまわずしゃべる。
「不思議なんだ。僕の知ってるきみはそんな子じゃなかった。誰にでも声を掛けてくれて。母が出てって、父と二人で暮らしてた僕にも、笑顔で接してくれて。」 「・・・。」 「きみは覚えてないかもしれないけど、あの熊の腕。きみが縫ってくれたんだ。母が残していった、僕にとっては大事な熊の縫ぐるみ。腕がちぎれて、泣いてた僕に声を掛けてくれたんだよ。覚えてない?」 「覚えてない。」 「久しぶりにあったら、きみは随分と変わってた。」 「当たり前でしょう。いつまでも、子供じゃいられないわ。」
イソザキさんは、立ち上がると、スカートを履き始める。
「帰るの?」 「ええ。」 「どうして?」 「こんなんじゃ、嫌だもの。せっかく、私がセックスしようって言ったんだから、黙って抱いてくれたら良かったのに。何が不満なんだか。他の男と寝たことまで持ち出して。」
イソザキさんは、ものすごく怒っていた。
親友は、少し困った顔をして。あーあ。
「送って行くよ。」 「いい。」 「あの。きみを困らせるつもりはなかったんだ。」 「もう、いいって。」 「ただ、たくさんの男と寝てるきみは、すごく自分を傷付けてる風だったから。」 「だから?どうだっての?」 「なんか、見てられない。」 「そういうの、エゴでしょ。あなたの。」 「そうかもしれない。でも、いつか、きみが誰とでも寝なくなったら、僕は嬉しい。」
親友は、僕を抱き上げて、腕を撫でながら。 「なんで、熊の腕がちぎれたか、教えてあげるよ。あの日、僕は、母がいなくなって泣いてた。ずっと。母が作ってくれた熊のぬいぐるみを抱いて。そんな時さ、父が怒ったんだよね。で、いきなりこの子を取り上げて、腕をひきちぎって、窓から放り出したんだ。」 「・・・。」 「あの時さあ。泣いて、拾いに出て。そうしたら、きみがいて。どうしたの?って聞いてくれて。それで、家まで連れてってくれて、直してくれたんだ。」 「・・・。」 「ねえ。人ってさあ。ものすごく悲しい事があると、ただ、泣いたりとかじゃなくて。誰かを傷つけることで自分を傷つけたりとか。そんな風に、自分でも分からないこと、たくさんしちゃうんだよね。父は、あの日悲しかったんだ。だけどさ。泣くわけにいかなかったんだと思う。」
しばらくの沈黙のあと、イソザキさんは、小さな声で話し始める。 「すごく好きな人がいたの。すごくすごく好きで。だけど、その人は、私のこと好きになってくれなかった。ただ、一回きり、抱いて。それから、どっかに行っちゃった。」 「そうなんだ・・・。」 「おっきな穴が空いてね。どうやっても埋まらないの。ねえ。どうやっても。何人と寝ても。」 「僕には、きみの穴が見えたから。余計なことだと思ったけど、黙って見てられなかった。」
イソザキさんは、泣いていた。
イソザキさんは僕を抱き上げると、腕の傷をそっと撫でてくれた。 「あの頃は、楽しかった。人生、いい事ばっかりの連続だと思ってた。」
僕は、イソザキさんのこと、好きになったみたいだ。
「ねえ。また、この子の事、見に来させてもらうかもしれない。どうしても辛くなったら、思い出しに。」 「うん。いつでもおいでよ。」 「でも、この子に見つめられても恥かしくないようにしたいから、もうちょっと時間を置かせて。」 「うん。分かった。」
--
今、僕は、甘いミルクの香りのする部屋のベビーダンスの上に載っている。
イソザキさんは、イソザキさんじゃなくなって、ヤマネという苗字になった。
長い長い話。
僕は、右の目と左の目が違う、つぎはぎの熊の縫ぐるみだけど、割と幸福だ。
そんな僕の独り言。聞いてくれて、ありがとう。
2002年09月23日(月) |
僕にこんなおばあちゃんがいれば、いや。こんな母親がいれば。と思わせるような、聡明なやさしさが見えた。 |
「で?どうして僕のところに?」 僕は、目の前にいる三人の老人に訊ねる。
「シゲジさんが、インターネットやってるんでね。探し物ならインターネットだって聞いた事があるから。キヨエさんのね。飼ってる小鳥も、インターネット使って探したらどうかしらって言ったんですよ。」 ミツコと自己紹介した老婆が、説明する。
シゲジさんがうなずく。
手乗り文鳥を探しているという当のキヨエさんは、良く分からないという顔をして、お茶をすすって二人の顔を交互に眺めている。
「で、僕のホームページを見たというわけですね。」
「ええ。そうなんです。」 シゲジさんが、答える。
「だが、僕は、バード・ウォッチングが趣味というだけですから。」 「そうですよねえ。迷子の鳥探しまでは、なさらないですよねえ。」 ミツコさんが、少々がっかりしたような口調で、うなずく。
「亡くなった主人が、くれたんです。」 突然、キヨエさんが口を開く。
「とてもやさしいご主人だったのよねえ。」 と、ミツコさん。
「このままだと、主人に申し訳が立ちません。お願いします。」 キヨエさんが、頭を下げる。
そこまで言われては、僕も引き受けるしかない。 「分かりました。探すだけは、探してみましょう。」
ほっとしたように顔を合わせて喜ぶ老人達を見て、僕は、溜め息をつく。
「無理言って、本当にごめんなさいね。さっき、見せていただいたでしょう?なんていったかしら。ええっと。そう。フィールド・ノート。」 キヨエさんが、帰りがけに玄関で急に僕に話し掛けてくる。
「ああ。あれ。思いついた事だけメモしてるんです。」 「鳥の絵が素敵だったわ。なんていうか。素朴だけど、暖かいっていうのかしら?だから、あなたにお願いしたら大丈夫と思ったの。」 和服をきれいに着こなしたキヨエさんは、上品に微笑む。
言葉数は少ないが、キヨエさんという女性は、いつもおだやかな笑みをたたえ、柔らかい物の言い方をする。ふと、僕にこんなおばあちゃんがいれば、いや。こんな母親がいれば。と思わせるような、聡明なやさしさが見えた。ミツコさんとシゲジさんは、さしずめ、そんなキヨエさんの親衛隊というところだ。
インターネットも、罪なものだ。背後を見送りながら、僕は思う。
--
秋晴れの午後、僕は、キヨエさんと待ち合わせた駅に降り立った。
「こっちよ!」 キヨエさんは、前回と打って変わって、スラックスにスニーカーといったスポーティな服装で僕を出迎える。
「やあ。見違えましたよ。」 「主人とはいつも山歩きをしてたから。」 「そうですか。じゃ、早速、行きましょう。」 「あのね。このあたりだと、うちの近くの森林公園じゃないかと思うのよ。」 「じゃあ、案内してもらえますか?」 「ええ。」
キヨエさんは、足腰もしっかりしていて、なかなか早く歩く。平日は遅くまで残業していて運動不足の僕は、ついて行くのがやっと、というぐらいだ。
「いや。なかなかお元気ですね。」 「言ったでしょう。山歩きしてたって。」 「今でも?」 「今は、しないわ。主人がいないんですもの。」 「そうですか。」 「でも。ほら。こうやって、若い人にわがままを言って歩く事ができて、楽しいわ。」 途中、ベンチに座って、僕らはそんな話をする。キヨエさんは、僕に、ポットの熱いコーヒーを勧めてくれる。
「そうそう。先にお渡ししておくわね。」 キヨエさんがそう言って出したのは、白い封筒。
「これ・・・。」 「交通費よ。」
中を覗くと、一万円札が二枚入っていた。 「こんなにもらえません。」 「いいの。お願い。受けとってちょうだい。小鳥を探すのを手伝ってもらうんだし。ね。」
キヨエさんがあまりに真剣な顔で懇願するので、僕はしぶしぶそれを受け取った。
「すいません。でも、見つからなかったら、お返しします。」 「いいのよ。さ。行きましょう。」
キヨエさんは、立ち上がると、再びさっさと歩き出す。僕は、慌てて追う。
--
公園の中は、だが、残念な事に耳を澄ましても、鳥の声は聞こえて来ない。人工的に作られた、その公園で、キヨエさんの文鳥は見つかりそうになかった。
「ねえ。どうやって探すの?」
僕は、キヨエさんに双眼鏡を渡す。 「これ、貸してあげます。」 「ありがとう。」 「太陽を直接見たりしないでくださいね。」 「わかったわ。」
キヨエさんは、張り切った様子で、双眼鏡を覗き込んでいる。
だが、文鳥はいない。
どこにもいない。
二時間も歩き回ったろうか。
僕らは、ベンチに腰をおろし、再び休息を取る。 「ここじゃないみたいですね。」 「いいえ。きっと、ここよ。さっき、声がしたの。あれ、うちのチコちゃんだわ。」 「そうですか?僕には聞こえませんが。」 「じゃ、気のせいだったのかしら。」 キヨエさんは、急に不安な顔になる。
「まあ、ここじゃない違う場所にいるかもしれないし。」 「そんな遠くに行くなんて思えないけれど。」
結局、その日、夕暮れ近くまで探しても、キヨエさんの文鳥は見つからなかった。
「送って行きます。」 僕は、がっかりしているキヨエさんに、言った。
元気に歩いている時のキヨエさんは、しっかりしていて、年齢よりずっと若く見えたが、今のキヨエさんは、ずいぶんと小さく縮んで見えた。
僕らは無言で歩いた。
「おばあちゃんっ。」 その女性は、僕らの姿を見ると、慌てて駆け寄って来た。
「おばあちゃん、心配したじゃない。」 「ああ。ごめんなさいねえ。」 「もう。どこに行ってたのよ。」 「鳥をね。チコちゃんを探してもらってたのよ。この人に頼んでね。」
女性は、僕に向き直ると、 「どうも、母がご迷惑をお掛けしまして。」 と、頭を下げる。
「いえ。僕、結局何も力になれなかったんで。」 「本当に、すみませんでした。」
女性は、そう言うと、慌ててキヨエさんの背を抱えるようにして、 「さ。帰りましょう。」 と、少し怒ったように、言う。
キヨエさんは、僕に何度も頭を下げながら、娘さんらしき女性に連れられて行く。
--
あれから、数日。
僕は、キヨエさんの家を訪ねる。
手には、文鳥の入った鳥かご。
あの一万円の使い道を考えていたが、やっぱり、もらいっぱなしというわけにもいかなかったので。
ドアチャイムを鳴らす。
キヨエさんが顔を覗かせて、僕を見ると、パッと顔を輝かせる。 「あら。いらっしゃいな。」 「こんにちは。」 「ねえ。上がってちょうだいな。ちょうど、娘は出掛けててね。」 「じゃ、ちょっとだけお邪魔します。」
僕は、部屋に案内されると、キヨエさんに鳥かごを差し出す。
「ねえ。チコちゃん?見つけてくれたの?」 「ええ・・・。」 「ありがとうねえ。」
キヨエさんは、思わず涙をこぼす。
僕は、こんな嘘、許されるのかと思いながらも、キヨエさんにつられて、泣きそうになる。
キヨエさんが喜ぶのを確認した僕は、 「じゃあ、これで。」 と、腰を上げる。
娘さんが帰って来て、キヨエさんを怒る姿を見るのが何となく嫌だったのだ。
じゃあ、これで。
さようなら、キヨエさん。僕ができるのはここまでです。
--
キヨエさんと、僕の話はこれで終わり。だけど、もう少し続きがある。
あれから、二ヶ月ほど経って、僕は、キヨエさんの娘さんとバッタリ出会った。
「あら。いつかの・・・。」 「先日は、すみませんでした。キヨエさんを連れ回して。」 「あの時はごめんなさいね。本当は、文鳥なんていないのよ。」 「いない?」 「とっくに死んじゃったんですもの。ある日、かごの中で死んじゃってたの。だけど、母はそれをなかなか認められなくてね。」 「じゃあ、今は?」 「また、文鳥を探してるわ。」 「僕が渡したやつは?」 「渡したって?」 「あの後、僕、文鳥を持ってキヨエさんのところに行ったんですよ。」 「さあ。知らないわ。母の部屋には、空っぽの鳥かごがあっただけですもの。多分、逃がしちゃったんじゃないかしら。前にも似たようなことがあったの。」
どういうことだろう?
「母は、相変わらず、鳥を探してるわ。母のお友達も、根気強くそれに付き合ってくれてるの。」 「結局、僕がした事は無駄だったってわけか。」 「いいえ。少なくとも、母にとっては、とても大事な事だったの。いっしょに探してくれるって事がね。でも、あなたには悪い事したわね。小鳥、お幾らだったの?お金払うわ。」 「いえ。いいんです。」 「あなたには迷惑だったでしょうけど。母にとっては、鳥を探しながら、亡くなった父の事を思い出すのが大事な儀式なの。」
僕は、自分を恥じた。
ただ、同じ種類の鳥を買ってくれば、キヨエさんが喜ぶだろうと思った事。
あの日、確かにキヨエさんは、鳥を探しながら幸福そうだった。
「伝えておいてください。また、一緒に探しましょうって。」 僕は、別れ際、そう告げる。
キヨエさんの娘さんは、ありがとう、と、にっこり微笑む。
2002年09月21日(土) |
木の根元で眠る。犬になるのは、不思議な感じだ。敏感な鼻をさまざまな匂いが通過する。 |
犬の唸り声が聞こえて、目が覚める。
暗いので、自分がどこにいるかよく分からなかった。
「ここ、どこだい?」 私は、口に出して言ってみた。
唸り声が止み、 「おとうさん?」 と、声がした。
「いや。私には息子はいないが。」 「そうか。お父さんかと思った。」
少しガッカリしたように、その若い犬はつぶやいた。
「きみ、お父さんいないのかい?」 「ええ。生まれた時から。」 「私を、父親だと?」 「そうです。母に聞いていた、父の特徴に似ていたもんですから。」 「そうか。残念だったな。私は、今日、犬になったばかりだし。」 「望んで?」 「ああ。多分。」
私は、ゆっくりと立ち上がる。関節が痛むのも、目が見えにくいのも、全部、人間の時と変わらなかった。私は、随分と年老いてから犬になることを望んだ。死ぬ前に一度。どうしても果たしたい希望があったから。
「お父さんって呼んでいいですか?」 その若い犬は、聞いて来た。
「ああ。いいよ。果たして、私のようなものがいい父親になれるかどうか、分からんが。」 「とても思慮深くて、聡明な方に見えます。」 「見えるだけだろう。」 「それから、なんというか。とても悲しい事を耐えて来たような目をしていますね。」 「これぐらいの歳になるとね。悲しい事ばかりだ。」
私は、まだ慣れていない足取りで、その若い犬のほうに行く。
「きみ、飼い犬じゃないんだね。」 私は問う。
「ええ。ちょっと前に綱を切って逃げて来たんです。」 「どうしてまた?」 「飼い主と折り合いが良くなくて。」 「そうか。」 「どちらへ?」 「ああ。探し物の旅だ。」 「一緒に行っては駄目ですか?」 「一緒に?」 「ええ。お願いです。父さん。」 「それは勝手だが。」 「恩に着ます。」 「夜が明けるまで、一眠りしよう。」 「ええ。」
私と、若い犬は、その木の根元で眠る。犬になるのは、不思議な感じだ。敏感な鼻をさまざまな匂いが通過する。そうだ。この鼻が欲しかったのだ。目は薄くても、鼻が効く。
夜が明けて、私と若者は、出発する。
「ちょっと待ってください。朝ご飯を食べて行きましょう。」 「朝飯?」 「ええ。」
小学生が学校に行く時間。若い犬は、公園のベンチの陰で座る。
しばらくすると、男の子が一人、僕らの方に向かってやってくる。
「あ。もう一匹増えたんだね。きみの家族?」 そう言いながら男の子は、ランドセルからパンの切れ端と、鶏の唐揚げの入ったビニール袋を取り出して、中身を僕らの前に置く。
「仲良く分けてね。」 そう言って、男の子は、走り去る。
「さあ。どうぞ。」 「私は肉はいいよ。歯が悪い。」 そう言って、パンを少し口に含む。
腹ごしらえが終わると、私達は先に進む。
若い犬は、「どこへ行くんですか?」とも訊かず。私も、何も言わない。
「お父さんは、どんな犬だったのかね?」 「母から聞くところによると、とても勇敢な犬だったそうです。」 「そうか。」 「正義感が強くて。弱い者にもやさしくて。」 「私には、きみのお父さんは務まりそうにないな。」 「良く分からないけど、あなたは立派な犬に見えます。」 「ひどいもんだよ。私は。きっと、お前もそのうち軽蔑するだろう。」 「そんなことを言わないで。父さん。」
父さん。父さん。
私にそんな風に呼ばれる資格はあるだろうか?
だが、無条件に信じてついてくる若い犬にそう呼ばれて、私は、かつてこんな風に慕ってくれる息子がいれば、人生の終焉は全然違ったものになっていただろうにと思う。
「もうすぐだ。」
だが、私は、そこでくじけそうになる。大きな川があり、その向こうに森が見える。
だが、私は、川に渡された端の前で足がすくむ。
若い犬なら平気で行くだろう、その一メートルほどの幅の橋を前に、怖くて一歩も踏み出せない。
「父さん?」 「ああ。すまん。目があまり見えないのでね。」 「父さん大丈夫です。僕の尻尾を咥えて。」 「しかし・・・。」 「大丈夫だから。ここまで来たじゃないですか。欲しい物は、この先にあるんでしょう?」 「ああ・・・。そうだ。」
私は、若い犬の言う通り、彼の尻尾を口に咥え、ソロリソロリと橋を渡った。
時間を掛けて渡り終えた時、私は、「ほうっ。」と溜め息をつく。本当は、先ほど橋を理由に引き返したくなったのかもしれない、と思う。今ここで引き返して若い犬に父さんと慕われて、残りわずかな時間を過ごす。一瞬そんなことを夢見た。だが、若い犬のお陰でここまで来ることができた。
「もう、いいよ。」 私は、言う。
「駄目です。一緒にいさせてください。」 「もういいんだ。きみは。」 「父さん。」 「もう一回呼んでおくれ。」 「父さん。馬鹿みたいだと思うかもしれないけど、父さんに会えて良かった。ずっと家族が欲しかったんです。」 「家族・・・。」 「お願いです。父さん。」 「頼みがあるんだ。」 「なんですか?」 「全てが終わったら、私を殺して欲しい。そのために、私はここに来た。」 「嫌だ。」 「じゃあ、ここ引き返してくれ。」
押し問答の末、私達は、悲しみにくれてその先に進む。
落ち葉が深く降り積もった、薄暗い場所で、私は落ち葉を掻き分け鼻を頼りに「それ」を探す。
そうして、その場所を、探し当てる。
ああ・・・。
私は、落ち葉を掻き、その下の土を掻く。
白い骨が出て来た。
「私の妻だよ。」 と、若い犬に向かって言う。
「息子が、生まれてすぐ死んだ頃だ。私はいつまでもめそめそしている妻を責め、出て行こうとした彼女を殺したんだ。」 「・・・。」 「最後に、償いがしたくてな。こうやって探しに来たってわけだ。」 「・・・。」 「なあ。言っただろう?お前はきっと、私を軽蔑するだろうって。」 「しません。」 「どうして?」 「あなたは、こうやって戻って来たから。愛してたんですね。」 「ああ。愛していた。どこにもやりたくなかった。さあ。私を殺してくれ。妻と一緒にここに眠るよ。」
若い犬は、とても悲しそうな顔をして。
私は目を閉じる。
喉に歯が立つのを感じる。
すまない。こんなことをさせてしまって。ごめんよ。
--
朝のニュースで、森で発見された白骨死体と、その傍に倒れていた男性の死体。そうして、餓死したらしい犬の話題が流れていた。
「僕の犬かも。」 男の子が叫ぶ。
男の子の母親は、言う。 「うちに犬なんていないじゃない。そんなことよりご飯、早く食べてしまいなさい。」
最後に見た時、僕の犬は、他の犬と一緒だったから、寂しそうじゃなかった。男の子はそんな事を思い出す。
2002年09月20日(金) |
望み通り、隣家には、男と、女。だが、女は不自然に年上で、私はその生々しさから目をそらしたくて。 |
隣の家は、長く誰もいなかったので随分荒れていた。
今日も、自分の庭の花に水をやりながら、その家の持つ不気味な静けさを感じる。
「あの。駅前の不動産屋に聞いて来たのですが。借り主を探しているのは、この家ですか?」 突然、そう言って隣の家を指差しながら話し掛けて来た男性の背後には、青ざめた顔の奥さんらしき人と、彼女をかばうように立つ中年の女性。
「そうですけど・・・。」 行かないほうが、と言いたかったが、そんなわけにもいかなかった。
なにより、奥さんらしき女性は、お腹を抱えて苦しそうだ。
「妻の具合が悪くて。もうすぐ子供が生まれるんです。」 男性は、手短に説明すると、中年女性を促し、妻を抱きかかえるようにして隣の家の庭に入って行った。
「お隣・・・。」 私は、何も考えまいと頭を振る。
心なしか、隣の家の庭の草木は、元気を取り戻し、青さが増したように見えた。
--
次の日。
庭で花に水をやっている私に、昨日の男性が話し掛けて来た。 「昨日は失礼しました。あらためて、ご挨拶します。隣に住む事になったクボタです。」 「奥さん、どうです?」 「まだ、あまり良くないんですよ。医者を呼ぼうにも、電話も引いてないし。」 「もう一人の女性の方は?」 「ああ。あれは家政婦です。妻の実家は裕福でね。妻が嫁ぐ前から、妻に仕えていた者なんですよ。」 「そうですか。」 「それにしても。いや。格安で借りることができて、本当にラッキーでした。庭も素晴らしいし。」
庭の花は、昨日に比べると、確実に活気付き、花が咲き始めている。
「では、妻をあまり長く一人にしておけませんので。」 と、男は言い、家に入って行く。
--
前住んでいた夫婦は、老衰のため、ほとんど同時に息を引き取ったらしい。手を繋いで。長い長い間、その家に縛り付けられて、とうとう、外に出る事ができなかった。
本当のところは、分からない。私が今の家に越して来たのは、亡くなった父が残してくれたから。父は、私に言ったのだ。隣の家に関わるな、と。嘘か本当か、大昔、金持ちの情婦が、主人の気持ちを繋ぎとめるために心中を図ったとか。そんな陰惨な事件を教えてもらった。
私は、そんな血なまぐさい家の隣家に住んでいながら、引っ越す気にはなれなかった。人が住んでいる時の隣家は、花が咲き乱れ、家の壁のパステルカラーが愛らしく、見ていて幸福な気持ちになるから。
「そんなだから、いつまでも結婚ができないのよ。」 もう、とっくに嫁いだ姉は、笑う。
「いいのよ。」 と、私は、答える。
--
まだ、唇が青ざめて、大きなお腹を抱えてゆっくり歩くのがやっとのクボタさんの奥さんが、ご主人に支えられて庭に出て来た時の、愛に溢れる姿といったら!
具合が悪いせいで、声に力がないのだろう。ささやくように話す奥さんの口元に耳を寄せてやさしくうなずくクボタさんは、本当に幸福そうで。
ラバーズ・ハウス。
そんな風に、私は、その家を呼んでいた。
その家では、カップルが愛し合い、その愛を養分に、家が鼓動するのだ。
--
夜中、大きな声がした、と思った。
バタバタと音がして。それから、弱い猫の鳴き声が?
私は、うつらうつらと眠る合間に、いろいろな声や物音を聞いた。
「おはようございます。」 今朝も、庭越しに、クボタさんに挨拶をする。
クボタさんは、青ざめた顔で、 「妻が、昨夜・・・。」 と、だけ。
私は、言葉を失い、クボタさんの顔を見つめる。
「子供は、未熟児でしたが、何とか助かりました。」 「そう・・・。」 「お手伝いに行きましょうか?」 「大丈夫です。家政婦がやってくれています。」
クボタさんは、ふらふらと、家に戻って行った。
--
その家に住みついたら、そこからもう、出られない。
必要なものは、全て宅配で注文するようになる。
しばらくの間静まっていた隣家は、次第に活気を取り戻す。
隣の家から人が出てくる。クボタさんと、赤ちゃんを抱いた家政婦。家政婦の女は、びっくりするほど満面の笑みをたたえて、赤ちゃんをあやし、その腰にクボタさんの腕が回されている。
「こんにちは。」 声を掛けてみる。
「やあ。こんにちは。」 クボタさんは、なぜか幸福そうだ。
「赤ちゃん、どうですか?」 「ええ。何とか。彼女が面倒を見てくれてますから。」 と、顎をしゃくって、家政婦のほうを示す。
その家には、新しい一対の愛が生まれていた。
私は、 「良かったですね。」 とだけ言って、その場を離れる。
--
赤ちゃんは、だが、長くはもたなかった。
クボタさんは、さすがに元気がない。
私は、ただ、無言でうなずく。クボタさんの瞳は、何かを言いたそうにこちらを見ていた。
ええ。分かってる。
「でも、妻が支えてくれていますから。」 とだけ言って、後を振り返る。
家政婦、いや、新しい奥さんが、私とクボタさんが話をしているのを、家の窓からじっと見ていた。
最初から、決まっていたのだ。この家は、たくさんの人間を必要としない。一組の男と女が愛し合う事だけが、この家の望みなのだ。
--
家の望み通り、隣家には、男と、女。だが、女は不自然に年上で、私はその生々しさから目をそらしたくて、クボタさんが奥さんと庭に出ている時は、あまり庭に出ないようにしていた。
それでも、隣だから、声は聞こえてくる。
女の不自然に華やいだ声に、クボタさんはやさしく応える。知らない人が見ても、そこには揺るぎない愛があると思うだろう。
だが、クボタさんの瞳は、いつも寂しそうだった。
亡くなった奥さんと赤ちゃんの影を探しているように、虚ろだった。
私は、いつしか、そんなクボタさんを愛するようになっていた。クボタさんのほうは、どうだろう?だが、唯一、家の秘密を知っている私に興味を持ち、信頼してくれていたとは思う。
ラバーズ・ハウス。その家にとって、私は脅威となった。愛を脅かす存在。生垣は、棘を持ち、私を寄せ付けないように、張り出して来た。
私は、クボタさんを助けたい、と思うようになった。
--
その家の門は、外来者からの訪問を受け付けない。私は、クボタさんが庭に出ているのを見計らって、大声で呼び掛ける。
クボタさんは、何事かというようにこちらを見る。 「ねえ。ここから出ましょう。」
それは、無理だ、というように、クボタさんは首を振る。
「どうして?」 「妻を一人にはできない。」 「なぜ?」 「愛しているから。」 「それが、あなたの本心?」
さあ。わからないよ。
クボタさんの目はそう言っていた。
「ここで静かに暮らす事だけが、僕の望みだ。」 瞳と裏腹に、クボタさんの言葉は私を拒絶した。
「あなた達、何を話してるの?」 そこには、恐ろしい形相の、かつて家政婦だった女がいた。
「何って。クボタさんをここから出してあげようと思って。」 「どういうこと?」 女は、ほとんど叫ぶように、言う。
「ねえ。ひがんでるのね?そうでしょう?私達が愛し合っているから。あなたは、それに引き換え、一人ぼっちだから。」 女は、笑う。
私は、その時、棘に皮膚が引き裂かれるのを感じながらも、生垣を乗り越え、隣の家の庭に飛び込む。
さあ。これで、どう?ここには、一人の男と、二人の女。入ってしまえば、家がどちらかを選ぶ。
中年女が掴みかかって来た。
私がよけた拍子に、女は転倒した。
一瞬の事だった。そこにあった石に頭を激しくぶつけて、女は、死んでしまった。
私とクボタさんは、顔を見合わせ、それから、手を伸ばし、お互いを引き寄せた。
「ああ。僕の愛しい・・・。」 「ねえ。ぐずぐずしている暇はないわ。」
私は、クボタさんを突き飛ばし、家に、庭に、ガソリンをまいて、火をつける。
部屋に火が回るまでの間、私達は、束の間抱き合い、唇を重ねる。 「急がないと。私達の愛も、この家に食べられてしまう。」 「分かった。」 「さあ。逃げて。」 「きみは?」 「私は、どこにもいかない。この家に残るわ。」 「どうして?」
最後に、クボタさんは、私をかたく抱き締めて。
「お願い。行って。」 私は、叫ぶ。
クボタさんは、火が吹き出して来たのに驚いて、反射的に家のドアに向かう。
「さようなら。」 声は、炎にかき消される。
ねえ。ずっと、憧れていたの。この家に。ラバーズ・ハウス。欲しかった、完璧な愛。私、家に抱かれて眠るわ。
2002年09月19日(木) |
「転校してった友達の女の子って感じがするんだよな。」「で、その子の事、いつもいじめてたんでしょう?」 |
ビールを飲みながら、姉からの手紙を読む。平凡だけど、幸福そうな生活ぶりがうかがえる。特に、三歳になる娘の事になったら、親馬鹿ぶり全開だ。
同封の写真を見る。
うん。確かに可愛い。姉が自慢したくなるのも、無理はない。
僕は、その写真をボンヤリ眺めながら、来週の姪の誕生会には出席しようかどうしようかと、思案する。
--
目の前には、箱が置かれていた。箱には何かカラフルな色の印刷が施されているが、随分と古くて、何が書かれているのか分からない。
なんだ?
僕は、その箱を手に取る。
しばらく撫でて。それから、なぜか、胸がチクリと痛んで、僕は、箱を置いてしまう。
「呼んだ?」 と、声がして、振り向くと、美しい少女。長い金髪。すらりと伸びた手足。
「いや。呼んでないよ。」 第一、僕は、きみの名を知らない。
「いいえ。今、呼んだわ。箱を手に取って、撫でたでしょう?」 「ああ。」 「私、箱の精だもの。」 「箱の精?」 「うん。魔法のランプの精みたいなもの。いつも箱にいるの。」 「で、何か願い事をかなえてくれるのかい?」 「ううん・・・。そういうチカラはないんだけど。」
少女は、顔を赤らめる。
「ま、いいや。名前、教えてくれる?」 「アカネチャン。」 「アカネちゃん?」 「うん。ずっと前、そうやって呼ばれてた事があったの。」 「そうか。アカネ、ね。」
そこまでしゃべると、僕はもう、目の前の女の子に何を話し掛けていいか、分からない。第一、箱の精なるものに会ったのも初めてだし。
「お腹、空いてない?」 「空いてないわ。」
アカネは、くすくす笑う。
「何?」 「ううん・・・。なんでもない。だけど、なんだかなつかしい。」 「なつかしい?」 「ええ。ずっと以前に、この街に住んでたことがあるの。その時と同じ匂い。」
アカネは、僕の部屋をぐるりと見回す。
「ねえ。外に散歩に行きたいわ。」 「いいけど。その格好、どうにかならないかな。」
彼女は、白いひだ飾りが沢山ついた、ピンク色のドレス。それはそれで、色の白い彼女にはピッタリだったけど、どうにも、芝居にでも出てきそうな、大袈裟なドレスだ。
「あ。待ってて。」 僕は、姉の使っていた部屋に行って、クローゼットの中を覗き、ジーンズとトレーナーを持って戻る。
「これ、ちょっと大きいかもしれないけどさ。」 「・・・。」 「ああ。姉のなんだ。たまに帰省して来るんだけど、そん時、置いてった服。」
アカネは、ゆっくりとそれを手に取る。
「ああ。ごめん。部屋、出ておくから、着替えて。」 僕は、そう言って、慌てて飛び出す。
--
「なんかさ。本当に、きみ、箱の精?」 「もともとは違うわ。だけど、箱の中で生きていくことになったの。」 「どうして?」 「誰かに愛された罰。」
僕の住む街を、二人で歩く。
彼女が見たいと言ったから。
「あんまり変わってないね。」 「覚えてるの?」 「うん。」 「変だな。きみ、本当に本当に箱の精?」 「本当だってば。」 「なんていうかな。小学校の時転校してった友達の女の子って感じがするんだよな。」 「そう?」 「ああ。前、会ったことがあるみたいな。」 「あ。分かった。で、その子の事、いつもいじめてたんでしょう?」 「うん。そんな感じ。」
僕は、照れて笑った。まったく、男の子ってのはしょうがない。気になる女の子の髪を引っ張り、先生に気に入られてる女の子のスカートをめくる。
「あの角を曲がると、コロッケ屋さんがあるのよね。」 「へえ。よく覚えてるなあ。」 「まだ、やってる?」 「うん。おばちゃん、元気だよ。」
僕らは、角を曲がり、コロッケ屋の前に立つ。
「おやまあ。めずらしい。デートかい?」 コロッケ屋のおばちゃんが、歯の抜けた口元で笑う。
「うん。まあ。」 「じゃ、サービス。ニ個、持ってお行き。」 「さんきゅ。」
僕は、彼女に一つ手渡す。
「ありがとう。」 アカネは、嬉しそうに受け取る。
「いつも、さっきのコロッケ屋か、あの先の駄菓子屋さんに行って、おやつを買って。それから、空き地に行ったんだっけ。」 「よく、知ってるなあ。」 「うん。あなた覚えてないかもしれないけど、私、ね。いつも見てたんだよ。」 「そうかあ。お前、おもしろいなあ。本当に?本当に、箱さすったら、また箱に戻っちゃうのかよ?」 「ええ。」 「信じられないよなあ。」 「ね。空き地、連れてって。」 「いいけどさ。」
僕は、アカネを連れて、彼女が言う、空き地へ連れて行く。
「ここ・・・。」 「ああ。長い事、子供の遊び場になってたんだけどな。」
ロープが張り渡され、「工事予定地」という札が立てられている。
「なんか知らないけど、パチンコ屋かなんかが建つんだってよ。」 「ふうん。」 「ここで、ずっと遊んでたのになあ。」 「秘密基地があって。」 「そうそう。」 「女の子は、入れてもらえなかったのよね。だけど、お姉さんだけは特別だったんでしょう?」 「ああ。姉貴は、ね。友達はいやがったけどさ。俺、自他共に認めるシスコンだから。」 「知ってる。」 「え?」 「全部、知ってる。」 「そうかあ。じゃ、あれは?中学ん時の・・・。」 「ごめんね。私がこの街で遊んだのは、小学校の一年間だけだから。」 「そっか。」 「帰ろう。」 「ああ。」
彼女は、コロッケを食べずに手にしっかりと持っていた。油が染み出して来て、手がベタベタしてるだろうに、宝物みたいに、握ってた。
もう、夕暮れだ。
部屋に帰ると、相変わらず、古ぼけた箱が置いてある。
「いいのかよ。」 「うん。」
何か言いたげで、でも、何も言わないアカネを、何となくこのまま行かせたくなかったけれど。
「ね。お願い。」 そう言われて、僕は、箱をそっとさする。
「ありがとう。」 瞬間、声と一緒に、アカネは消える。
--
なんだ、夢かよ。ビールの空き缶が転がっている。姪の写真も散らばったまま。
その瞬間、引っ掛かっていた記憶が転がり出して。
やばっ。
僕は、もう、すっかり真っ暗になった街を走る。
「工事予定地」と書かれているその看板をよく見れば、工事の開始は来週になっている。
僕は、辺りに人がいないのを確かめて、そのロープを越えて、空き地へ入る。僕らが遊び場にしていた空き地。奥のガレキの山は、ほとんど粗大ゴミの捨て場になっていて、以前から問題になっていた。僕は、その粗大ゴミをかき分ける。錆びた自転車やら、年代物の炊飯器やら。そういったものを一つずつ取り除いて行く。
あ。あった。
僕らが「ひみつきち」と書いた、木の切れっ端。
飛び出した釘に手を引っ掛かれながら、僕は、つぶれた小屋の残骸の中を這いずり回って。
見つけた。
古ぼけた箱。開けると、中から、抱き人形。抱き起こすと、目がパッチリと開くタイプの。
「おまえだったのかよ。」 僕は、笑う。
それから、シャツの裾で、汚れた顔を拭いてやる。
「ごめんな。忘れてた。」
僕は、箱を抱えて、家に戻る。
--
「あ。もしもし。ねーちゃん?」 「あら。どうしたの?」 「来週さあ。アカネの誕生日だよねえ。」 「うん。そうだけど。」 「俺も、ちょっと遊びに行ったるわ。」 「そりゃ、アカネ、喜ぶわあ。」 「プレゼント、持ってくから。」 「いいのよ。あんたが来てくれるだけで、アカネ喜ぶから。」 「いいから、いいから。」
僕は、電話を切り、姪と同じ名前の人形に話掛ける。 「俺、嫉妬してたんだよな。お前に。」
そうだ。小さい頃から、姉の後を追ってばかりだった。秘密基地にも、仲間は嫌がったけど、姉は連れて行った。母さんもあきれるぐらい、姉に甘えてばかりだった。だから、嫉妬したんだ。お前が来た時にね。それまでは外で一緒に遊んでくれてたのに、お前がうちに来てからは、姉ちゃん、お前の髪を梳かしたり、服縫ったりするようになって。外に遊びに行く時も、いつも抱いて歩くようになって。そんでつまんなくて。だから、こっそり隠しておこうと思った。すぐ出そうと思ってたのに。それっきりになってんたんだ。
決して裕福な家庭ではなかったし、商売やってて忙しかったから、母さんは姉に、 「あんたがあっちこっち持ち歩くから失くなっちゃったんでしょう。」 と言って、ちゃんととりあってくれなかった。
姉は、あの時、ずっと泣いてたけど。心配そうに見ていた僕には、「平気だよ。」って笑って見せた。
ずっと忘れてた。そんなこと。
だけど、姉は忘れてなかったんだろうな。
人形からは、ほのかにコロッケの油のような匂い。
「いじめたりして、本当にごめんな。」
まばたきする人形の口元が微笑んで見えた。
2002年09月17日(火) |
僕は、妻にそれ以上何か言うのをあきらめる。こういうことを話し合って、僕が妻に勝てたためしはないから。 |
土曜日。
珍しく、午前十時に目が覚めた僕は、窓を開けて、秋の空気を部屋に入れようと思い付く。
「おはようございます。」 隣の奥さんの声が、さわやかな風と一緒に飛び込んで来る。
「あ。おはようございます。」 僕は、あくびを飲み込んで、慌てながら、言う。 「いい天気になりましたね。」
「ええ。本当に。小学校は、今日が運動会ですってね。」 彼女は、空を見上げながら、そんなことを教えてくれる。
「へえ・・・。いや。そういうの全然知らなくて。」 「お仕事がいつもお忙しそうですものね。」 「ええ。まあ。土曜日にこんな早く起きたのは初めてですよ。」
ふふ、と笑う彼女は、ジーンズに軍手。首からタオルを掛けて、帽子を目深にかぶっていた。
「庭いじりですか?」 「ええ。」
お隣さんの庭は綺麗に手入れされ、美しい。それに引き換え、うちの庭ときたら、夏の間に伸びた雑草が見苦しい。
「いい趣味ですね。」 「他にこれといって趣味、ないですから。」
彼女はそう言って頭を下げると、再び、庭の手入れに戻る。
僕は、ベッドルームに戻り、耳栓までして眠りこけている妻を眺める。それから溜め息一つついて、妻の横にもぐり込む。
--
僕ら夫婦は、大学で同じ研究室だった。大学を卒業と同時に結婚したが、その時は、妻はもちろん、僕にも、妻が専業主婦になるという選択肢は眼中になかった。最初から共働きでスタートしたため、僕は妻に家の中のことを何も期待しなかったし、そのまま、僕達はいつも仕事の合間に慌しく愛を確かめ合い、マイホームを建て、休日の大半は疲れて寝て過ごす事に疑問を持たずに今日まで走って来た。
そうだ。
走って。走って。
「さっき、誰と話してたの?」 妻が、呂律の回らない口調で、問う。
「隣の奥さんだよ。」 「なんて?」 「庭の事。」 「そう・・・。」
妻は、また、眠ってしまった。疲れているのだ。
僕は、眠れなくなって、部屋を見渡す。庭と同じくらい荒れていた。読みかけの雑誌とCDのケースと仕事の資料が積み重なっていた。大半が妻の物だった。
そう言えば、以前、大学の仲間と一緒に飲んだ時、誰かが言ってたっけ。 「最近、片付けられない症候群ってあるじゃない?あれってさ。一見外では几帳面に仕事してる女性なんかの中にも、多いんだってね。」
あの時、妻は、 「それって、うちのことかも。」 って、笑ってた。
僕は、ベッドを抜け出し、キッチンでコーヒーを飲むと、妻が散らかしたものを片付けようと試みたが、どこから手をつけていいのか分からなくなって、結局あきらめてしまった。
--
「でしょう?私もそうなのよ。片付けようと思うんだけどさ。どっから手を付けていいか分からないうちに時間が経っちゃって、いつもあきらめちゃうのよね。」 と、妻は笑った。
「庭もさ。ひどい状態だし。」 「何?あなた、責めてるの?ちょっとは綺麗にしろって?」 「そういうんじゃないけどさ。」 「じゃ、どういうの?」 「いや。こういうのって、人間らしい生活かなって思って。」 「庭が気になるなら、専門の業者に頼んで、草を刈ってもらいましょう?私達が働いたお金で、草を刈る人にお金を払う。そのほうが、私達が草を刈るより、ずっと効率のいいお金と時間の遣い方ってもんじゃない?」 「そうだけど・・・。」 「じゃ、決まり。」
僕は、妻にそれ以上何か言うのをあきらめる。こういうことを話し合って、僕が妻に勝てたためしはないから。
それから、 「コーヒー、お代わり要る?」 って、訊ねる。
「ええ。お願い。」 妻は、読書用の眼鏡を掛けて、日経新聞に目を通す。
--
「おはようございます。」 その次の土曜日も、僕は、朝、窓を開け放って、隣の奥さんに声を掛ける。
「あ。おはようございます。」
だが、彼女は、僕から顔をそむけるように、しゃがみ込んで、地面をつついている。何もない、土の上を。
「あの。どうかしたんですか?」 僕が問うと、彼女は、こちらに顔を向け曖昧に笑う。
彼女の目の周りには、殴られたような痣が出来ていた。
何も言って欲しくなさそうだったので、僕は、黙って窓を閉めた。
--
「気持ちは分かるけどさ。あんま、口挟まないほうがいいんじゃない?」 妻は、きっぱりと言った。
「そうかな・・・。」 「うん。隣の奥さんもいい大人だし。それに、うちら、ほとんど交流ないでしょう?何かあった時、責任取れないしさ。」 「それもそうだなあ。」 「分かったら、はい。忘れる忘れる。」
妻は、僕の前でパチンと手を叩いて、シャワールームに行ってしまった。
僕は、すっきりしない気持ちで、隣の奥さんの寂しそうな顔を思い出す。
--
「実家から送って来たんです。」 スーパーの袋に一杯の梨を差し出して、彼女はにっこりと笑っていた。
もう、痣はほとんど分からない。
「ああ。すいません。実家って。ええっと。鳥取?」 「いえ。島根なんです。」 「そうですか。いや。ありがとうございます。お茶でも、と言いたいけど、まだ妻も仕事から帰ってないし。」 「いいんです。気にしないでください。」 彼女は、微笑んで、それから慌てて帰って行く。
梨をむいて、一口含むと、甘い果汁が口いっぱいに広がった。
--
「あの。私、もうすぐ、ここ出てくんです。」 今日も、庭越しに僕らは話をする。
「出て行く?」 「いえ。あの。主人、出てっちゃって。離婚届だけ送られて来て。だから、もうここにいられなくて。」 「で?どこに?」 反射的に僕は訊ねていた。
「まだ決まってないですけど。」 「あの。良かったら、居場所が決まったら、連絡くれませんか?」 「・・・。」 「いえ。あの。庭。」 「庭?」 「少し綺麗にしたいなって思って。だから、アドバイスというか・・・。」 「そうですね。分かりました。多分、今度越す場所は、庭なんてないし。」
男というのは、憐れにも、目の前の女の力になりたいと願う動物で。
僕は、妙に悲しくなって、窓を閉める。
休日の午前中。妻が起き出してくるまでの、ささやかな時間。僕は、図書館で借りた庭の手入れの本を眺めたりして過ごすのが、最近の習慣だった。
--
「で?」 妻は、恐ろしく静かに、問い返す。
「だから。僕らの結婚ってさ。間違いだって思う。」 「そう・・・?私はそうは思わないけど。」 「生活がない。これじゃ、別々に暮らしてるのと変わらないじゃないか。」 「あなたがそう思うなら、そうなんでしょうね。だからって、専業主婦やってくれそうな女を選ぶのが正しいかどうか、私には分からないけど。」
妻は、それから全てをあきらめたように、目を閉じて、言う。 「本当は、私、隣の奥さんみたいな人にコンプレックス持ってたのよ。」
強い女だと思っていたが、目の前の妻は、閉じたまぶたの奥で泣いていた。
--
何年か掛かって、ようやく手に入れた庭付きの一戸建て。
「おかえりなさい。」 妻が、笑って出迎える。
正確には、二番目の妻。以前は、隣の奥さんだった人。
「今日、何やってた?」 「球根を買って来たの。明日、植えようと思って。」 「それから?」 「それだけ。」 もう、会話は続かない。
部屋は隅々まで片付いている。
僕が何気なく放り出した靴下やらワイシャツは、あっという間に片付いて行く。
そう。これが望んだ生活だった筈だ。
「飲んで来たから、飯はいい。」 「そう・・・。」
寂しそうに、目の前の女はつぶやく。
「だから、あんたは甘いのよ。」 そんな事を言われながら、別れた前の妻と飲む時間は、楽しいから。その綺麗な家に帰る前に、つい寄り道をしてしまうのをやめられない。
2002年09月15日(日) |
そうだ。頬はバラ色に。唇は、鮮やかな赤。しゃべると、そこから花が零れ落ちて来るような。 |
「M企画」とだけ記されている、そのマンションのドアの前で、僕はさっきからうろうろしている。最近仕事に行き詰まっている僕を心配する友人から耳打ちされたその場所は、ただ、そっけなく、そこにあった。
そうしているうちに、非常階段のほうから足音が聞こえて来たので、僕は、慌ててドアを開け、中に飛び込む。
それから、目の前に置かれたベルを鳴らす。
女性が出て来た。ひどく痩せていたし、髪の毛も自分で切ったかのように不揃いなショートカットでそれだけ見ると痛々しいほどだったが、彼女の笑顔とハスキーな声が、それを打ち消す。
「いらっしゃい。・・・さんから紹介のあった?」 「はい。」 「本当の名前でなくていいから、お名前、書いてくださる?名前なんていうのは、ただの記号だから何でもいいんだけど、呼び名がないと困るでしょう?」
言われて、僕は、柏木健二、と、本当の名前を書く。
「柏木さん、ね。いいわ。じゃ、リラックスするまで、少しおしゃべりしましょうか。」
僕は、その時には、もうすっかり目の前の女性に好感を持っていたので、 「すぐ始めてくださっていいですよ。」 と言ったが、 「私のためにも時間をちょうだい。イメージが湧くのを待ちたいの。」 と、笑って、それから紅茶を出してくれる。
「あなたも、何か訊きたい事があったら、訊いてちょうだいね。」 「ええ。いろいろ訊いてみたいんだけど、何から言えばいいのか。こういうの初めてなもので。」 「最初は、みんな初めてよ。」 「こういう仕事が存在している事すら知りませんでした。」 「私も。」 と、言ったところで、彼女は、ふふ、と笑う。
「何となくね。私が友達を撮った写真を見た人が、他の人を紹介してくれて。それからは、口コミでちょっとずつ。だから、変なお客さんはいないの。みんな、いい人だったのね。で、いつの間にか続いて。今じゃ、そうね。月に15人位かしら。それだけで、充分食べていけるから。」 「写真が好きなんですね。」 「ええ。本当は、カメラマンになろうと思ってたのよ。だけど、この仕事やって気付いたの。私って、人としゃべる事や、その人の持つ素顔を引き出すのが、もしかして好きなのかなって。」 「素顔・・・。」 「あはは。そうね。ちょっと変だけど。たとえば、お化粧で自信が付いた人が、初めて見せてくれた笑顔は、その人の素顔じゃないかなって。」 「なるほど。」 「やだ。私ったら、自分の事ばっかり。」 「いえ。面白いです。あなたに、是非、撮ってもらいたくなる。」 「いいわ。そういう気持ちになってくれる事がすごく大事なの。」
彼女は、立って、幾つかアルバムを抱えてくると、 「そろそろ始めましょうか。」 と、言う。
--
そこに並んだ写真の中から、衣装や、メイクのパターンを選ぶ。
僕は、そういうのに詳しくないからよく分からないが、昔、映画で観たマリーアントワネットが着ていたようなドレスを選ぶ。
メイクは・・・。そうだな。宝塚みたいなのじゃなくて、もっとナチュラルな感じで。
僕があれこれと思いついたように言うのを、うんうんとうなずきながら。
「いいわ。そういうの好きな人、すごく多いのよ。」 などという言葉に勇気付けられて、僕は、長い時間かかって、オプションを決定していく。
「うん。大体分かった。じゃあ、まずは顔から作って行きましょう。」
彼女は、いろいろな瓶やら化粧の道具のようなものを並べて、まずは、僕の顔の毛穴をきれいに塗り込めて行くところから始める。僕の顔の上を、彼女の繊細で誠実な指が動いて行く。それはとても気持ち良かった。僕は、ただ、彼女を信頼し、そこに座ってその心地良さを堪能しているだけで良かった。
次第に、鏡の中に僕以外の顔。ごつごつした男性的なラインは消え、柔らかい頬の線が浮かび上がって来る。
「魔法みたいだな。」 僕は、感心してつぶやく。
「いいわ。完成。」 最後、ドレスを着終えた時には、僕は、しぐさまでがどことなく女性らしくなっているように思えた。
「疲れた?」 「いや。なんていうか。気分がいい。」
彼女は、吸飲みで僕の口に水を含ませてくれて。 「じゃあ、このまま撮影、大丈夫ね?」
僕は、うなずく。
撮影スタジオに移った僕は、そこから先も彼女の指示通りにポーズを決めて行く。
「そう。すごくいい。可愛いわ。」 彼女がそう言ってくれると、僕は、本当に可憐な女性になった気分に浸るのだった。
何時間かかったろう。
気付くと、彼女が、 「おつかれさま。」 と、微笑んで、ミネラルウォーターを渡してくれた。
僕は、喉が乾いていることに初めて気付き、それをごくごくと飲み干す。興奮と、スタジオ内の乾燥。それに、思ったより衣装は重く、汗をかいたのだ。
興奮した僕の気持ちを静めるように、彼女の指が、僕の顔のメイクを丁寧に落として行く。
「シャワー、浴びてらっしゃいな。気分を高めるために香料使ってるから、良く流しておいたほうがいいわ。」 「ああ。」
まだ、夢さめやらぬ気分で、僕は、シャワールームに行く。それから、熱い湯で、意識をはっきりさせる。
--
「どうだった?」 ソファでくつろぐ僕に、彼女が訊ねる。
「楽しかったです。」 「写真は、二週間後。取りに来るでしょう?」 「ええ。」 「メールアドレスを教えてくれたら、デジタル画像も送るけど。」 「お願いします。」
僕は、普段プライベートで使っているメールアドレスを書いて、彼女に渡す。
「あの。予約はどうしたら?」 「そうね。来月以降で都合のいい日、教えてくれる?私、あんまりたくさんお客取りたくないのよね。ほら。結構疲れるし。」
それから、現金で言われた額を払い、もう、夕闇の色が濃い街の中に出る。
帰宅すると、娘が 「わーい。パパ、早いね。」 と、出迎えてくれる。
僕が、娘を抱き上げると、娘は変な顔をして僕を見る。
「ん?どうした?」 「パパ、いっつもみたいに臭くなーい。」 「そうか?」
僕は、どきっとして、娘をおろす。
「まだ、お食事の用意できてないわ。あなた、今日は随分早いんですもの。」
そういう妻に向かって、 「先に風呂入るから。」 と、僕は言う。
--
僕は、アルバムを1ページずつめくりながら、ふと、その写真に目を留める。唯一、二人で写っている写真。美しい男性と、ふっくらと愛らしい女性。
「きみの事、聞かせてくれないかな。」 「私の?」 「何歳で。恋人はいるのか、いないのか。とか。」 「なんでそんなことを?」 「さあ。気になるんだ。」 「恋人は、いない。」 「今までも?」 「前はいたわ。私がこんな写真を撮るきっかけになった人。だけど、皮肉ね。私の撮った写真を見て、彼、何かに目覚めちゃったみたいで。私を置いて、行っちゃったわ。遠くにね。どこか知らない、遠く。」 「可哀想に。」 「いいの。私も、知ったから。私の写真は、その人さえ気付かない何かを引き出してしまうって事が。」 「頼みがあるんだ。」 「なあに?」 「きみにも、写真に入って欲しい。」 「駄目よ。そういうオプションは、なし。」 「金なら、払う。」 「駄目。そういうのはお断りしてるのよ。」 「頼む。」
僕の目をじっと見て。
彼女は、いいわ、とうなずく。
「一回だけよ。」 「ああ。」 「衣装、僕に選ばせてくれるかな?」 「お願い。」 「メイクは、少し大胆に。きみは、唇がきれいだ。だから、そこを活かすようなメイクを。」 「ええ。」
僕は、先ほどみた写真の男女の衣装を選ぶ。彼女は、それを見たが何も言わなかった。それから、鏡に向かって、自分の顔にメイクアップを施す。そうだ。頬はバラ色に。唇は、鮮やかな赤。しゃべると、そこから花が零れ落ちて来るような。
それから、僕らは、二人して写り、お互いを写し合い、気付くとすっかり遅い時間になっていた。
「私ったら、すっかり調子に乗って。」 とまどう彼女に、 「そのままで。」 と、僕は、言い、衣装から大胆に出ている汗ばむ背中に口づける。
「そういうの、やめて。」 「どうして?」 「やめたのよ。誰かに愛される事を期待するのは。もう、随分昔に。」
僕は、構わず、唇を滑らせ、彼女のドレスを脱がす。
「お願い。こんな体、見ないで。」 「どうして?きれいなのに。」
僕は、恥らう彼女を抱き、彼女も次第に僕の指に応える。
それから、僕らは素顔になって。何度も何度も抱き合う。
「ずっと見たかったんだよ。きみの素顔が。」 僕は、彼女を抱き締めたまま、そうつぶやく。
--
夜、彼女の背中にそっと口づけると、僕は服を着て、外に出て、タクシーを捕まえる。
あの写真の女性は、確かに彼女だった。歳月が、彼女から女性としての喜びを忘れさせ、なかなか外せない仮面をかぶせた。
今日、僕は、彼女の仮面を外せたろうか?
--
しばらくして届いた、そのメールは、M企画の終わりを告げる簡単なものだった。
添付の写真には、一組の素顔の男女。あの日の、僕ら。二人共、素敵な顔をして笑っていた。
追伸にはこうあった。 「素顔の私に戻ります。」
僕は、そっとメールを閉じ削除ボタンを押すと、彼女の気持ち良い声と、指の動きを思い出す。違う衣装をまとってみなければ、気付かない素肌がある。それに一番気付きたがっていた彼女の笑顔を、心に刻む。
2002年09月13日(金) |
「思ったんだ。きみの相手は、きみのそばにいてくれるような人じゃないけど、きみはずっとその人のことが好きなんだなって。」 |
「この前の子はどうしたんだよ?」 と聞かれて、 「煮え切らないから、やめた。」 と、答える。
そこそこの日常。仕事も、まあまあ。周囲からそれなりに可愛がられて、僕自身、甘え上手で。そんな人生をずっと送って来たから、その女の子の眼鏡の奥の素顔がちょっと可愛いなんて、なかなか気付くもんじゃなかった。
「資料、五部ずつコピーしておきましたから。」 って、帰り際、明日プレゼンやらないといけない僕にそう言って、にっこりと微笑む彼女が、妙に気になるようになったのはいつからだったろう。
「ありがとう。」 僕は、微笑む。
声を掛けてみようかな、とも、思う。
今、彼女はいない。大体、一年ぐらいしかもたない。付き合ってると、いろいろ面倒があることが分かって。それでも付き合うかどうかって考えると、何だかどうでも良くなって、別れてしまう。だから、あの子の事も、もうちょっと様子を見てからにしよう。
--
通勤途中、あの子を見かける。
昨年できたばかりのマンションから出て来るのを見かけて、僕は思わず、 「おはよう。」 と、声を掛けた。
「あ。おはようございます。」 「ここなの?住んでるの。」 「はい。」
彼女とは、あまり話がはずまなかった。どちらかというと、僕ばかりがしゃべってて、彼女は、へえ、とか、はい、とか、そうですか、とか。そんな事を言ってばかりだったから、僕はちょっと不安だったりした。多分、女の子のほうから僕に興味を持つ事に慣れてたから。
会社に着く頃には、僕と歩くのは少し迷惑だったかな、と思い始めた。
つい、つまらない事を聞いてしまった。 「彼氏とか、いるの?」
彼女は、はっと息を飲んだような気がした。それから、小さな声で、 「いません。」 と、答えた。
それから、 「あの。私、お茶の当番なんで、先行きますね。」 と言って、走って行ってしまった。
失敗したかな、と思った。最初から最後まで間違いな気がした。時間を巻き戻して、もう一度、彼女が住むマンションで出会うところからやり直したかった。
なんだろう。このモヤモヤした感じ。
--
しばらくは彼女と会わなかった。
それから、ある朝。
僕は、いつものように、朝、職場に向かっていると、マンションの入り口で彼女が立ってこちらを見ている。
「おはよう。どうしたの?」 「待ってたんです。」 「僕を?」 「ええ。」
その時は、なんだかすごく嬉しくて。この前の失敗を取り戻そうと心に誓った。
それでも、やっぱり彼女とはあまり会話が弾まなかった。相変わらず、彼女は、ええ、とか、はい、とか。だから、僕は彼女を笑わせようと必死になった。ひっきりなしに、話し続けて。彼女がクスクス笑ってくれると、ホッとした。
人は、不安だとおしゃべりになるんだな。
そんな事、二十四年生きて来て、初めて知った。
そうやって、毎日、一緒に通勤する日々。だけど、それだけ。彼女の閉ざされた心にうっかり足を踏み入れないように、気を付けながら、彼女を笑わせるために話題を探す。
--
一度、給湯室の中での会話が偶然聞こえて来て、僕は思わず耳を傾ける。
「・・・さん。婚約者が死んじゃったんだってね。」 「そうなの?」 「本当よ。」 「やーん。かわいそう。」
ああ。それで。彼女の暗い表情の説明が全てつく。
僕は、仕事中も彼女の横顔を盗み見て、勝手に同情して、勝手に胸を痛める。いいだろう?それぐらい。僕がきみを気に留めるのは、勝手だ。
--
僕らは、仕事帰り、小さな居酒屋で。
「なんで、誘ってくれるんですか?」 って、彼女が訊ねる。
「さあ。なんでかなあ。」 「私、口下手だし。」 「うん。」 「あ。ひどい。」 「だって、そうなんだろ?」 「そうですね。なかなか上手くしゃべることができなくて。」 「いいよ。その分、僕がおしゃべりだから。」
それでも、少しずつ。ほんの少しずつ。彼女は僕に心を開いてくれるのが分かる。
「前さあ、彼氏いるのって聞いたろ?」 「ええ。」 「あの時、ちょっと様子変だったよね。」 「ごめんなさい。」 「でさ、思ったんだ。きっと、きみの相手は、きみのそばにいてくれるような人じゃないけど、きみはずっとその人のことが好きなんだなって。」
彼女は突然泣き出して。それから、 「ごめんなさい。」 と、小さい声で行って、席を立って店を出てしまう。
僕は、また地雷を踏んだようだ。それでも良かった。そうでもしないと、彼女に近付けないから。
携帯が鳴る。遊び仲間からだ。 「どうしたの?最近、遊ばないね。」 と言われて、ああ・・・、と答える。
前は、嫌いだった。こんな風に誰かの気持ちを想って、心を乱す事。だけど、今は。
--
朝、マンションの前で、彼女が中年の女性から叱られて、頭を下げている。
ものすごく長い時間、くどくどとその女性は何か言っていた。
ようやく解放された彼女に、僕は、 「どうしたの?」 と、訊ねる。
「ゴミの出し方で。ちょっと間違えちゃって。」 「ああ。そう。」
彼女はものすごく青ざめて、気分が悪そうだったから、僕は近くの喫茶店に彼女を連れて行く。
「大丈夫?」 「ええ。もう、大丈夫。前から時々、注意されてて。」 「そうかあ。だけど、人間だもんなあ。間違える事だってあるよなあ。嫌なおばさんだよ。人間、ああはなりたくないねえ。」
僕は、彼女を励まそうと一生懸命しゃべる。
「あのね。あの人、そんなに悪い人じゃなかったの。ちょっと前までは。だけど、ここ最近。なんだか、ね。家庭内でいろいろあるみたいで。」 「だからって、きみに当たるのは筋違いだろ?」 「違うの。家の中がひどい事になって、周囲も、彼女を遠ざけるようになって。急に別人みたいになっちゃって。」 「何?同情?」 「わかんない。わかんないけど。私だって、あんな風になっちゃうかもよ。人って簡単に駄目になっちゃうかもよ。」 「ならないよ。きみは、ならないって。」 「どうしてそんな風に言えるのよ?私、今だって、立ってるのが精一杯なのに。なんでそんな風に信じられるの?いつかは、私だって、あのおばさんみたいになっちゃうかもしれない。あなただって、私を避けるようになるかもしれない。私だって、いついなくなっちゃうかしれないのに。」
彼女は、泣いていた。多分、自分でも気付いてなかっただろう、頬に伝う涙。
ずっと、悲しみを抱えてたんだ。
僕は、彼女の涙を見ながら、思う。
ようやく泣き止んだ彼女は、 「いくつ寝たら、解放されるのかなあ。」 と、独り言のようにつぶやく。
いくつ寝ても忘れる事はないかもしれない。だけど、そんなに簡単に誰かの事を忘れないで欲しい。誰かを好きなままでいるきみが、僕は、好きだ。前は、解答のある恋愛が好きだったけど、今は、答えが見つからないままの恋愛も好きだ。
そういうこと。
僕は、黙ってハンカチを差し出して、 「さ。仕事、行こう。」 と、声を掛ける。
2002年09月12日(木) |
女は、自分が笑わない理由を、僕に話し始める。女が笑わない理由なんてどうでも良かったが、僕は、まどろみながらそれを聞く。 |
「なんで?私のどこが不満なの?」 目の前の彼女は呼び出した店で、大声を出す。
それから、顔をくしゃくしゃにして、ポロポロと目から・・・。
ああ。やめてくれ。僕は、顔をそむける。
「なんだって言う通りにして来たじゃない。」
だが・・・。
「あなたの言う通りの服を着て。」
違うんだ。
「じゃ、なんで、付き合うなんて言ったのよ?」
それはきみが・・・。きみが望んだんだろう?
僕は、黙って伝票を掴んで立ち上がる。
「ちょっと待ってよ。」 彼女が僕の腕を掴む。
「こっちを向いてよ。私の顔が見られないの?」
そうだ。見たくもない。そんな醜い顔など。歪んで、目からも鼻からも液体が流れ出してる。そういうのは、嫌なんだよ。
僕は、とうとう彼女を振り切って、店を出る。
--
何度目かな。またうまくいかなかったよ。僕にはどうにも手に負えないみたいだ。
「どうしたの?ぼんやりして。」 そう言われて、僕は 「疲れたよ。」 と、つぶやく。
「あなた、いつも疲れてるのね。」 女は無愛想に、言う。
「今日も、何もしないで、おしゃべりだけなのね。」 「ああ。」 「あなた、変わってるわ。」 「そうかな。」 「私のどこが気に入ってるの?」 「母と似てるところ。」 「あら。どんな方?顔が似てるの?私と?」 「さあ。良く見たら、全然似てないかもしれない。だけど、どこかが似てるんだ。」 「お母様、私に似てるなんて言われたら嫌かもよ。だって・・・。」
それから、女は、自分が笑わない理由を、僕に話し始める。女が笑わない理由なんてどうでも良かったが、僕は、まどろみながらそれを聞く。
あのね。私、昔は本当に無細工な子供だったの。誰からも相手されないで。親でさえ、顔をそむけたわ。同級生も、誰も友達になってくれなかった。大きくなってからも、恋人なんてできやしなかった。いろいろとからかわれてねえ。就職も、多分、顔のせいだわ。幾つも落とされて。だから、決心したの。ようやく私を採用してくれた会社で、私は必死に働いて、お金を貯めてね。それで、整形しようってね。
「それが、その顔?」 「ええ。そうよ。」 「それが、どうして笑わない理由に?」 「何回も整形を繰り返すうちに、笑うと顔が不自然に引き攣れるようになっちゃったの。だから、笑わない。私の顔は、完全に作り物の仮面よ。皮膚の下の筋肉では自然に動かせなくなっちゃった。」 「そう・・・。」 「だから、笑わない。客には不評よ。だけど、たまに、ね。あなたみたいな男がいるの。笑わないところが魅力だって言う男がね。」 「そうだ。笑わないほうがいい。」
僕は、その、作り物の顔を撫でる。
僕には、目まぐるしく変化する顔より、こんな風に表情の抜け落ちた顔のほうが好ましく思われるのだ。
それから、目を閉じて、思い出す。遠い昔。
--
僕は、泣いていた。
祖母が部屋に入って来て、 「泣いていると、お父様に叱られますよ。」 と、冷たい声で言った。
僕は、かまわず、泣いていた。
「今日から、これがあなたの面倒を見ますから。」 祖母は、そう言い残して、僕の部屋を出て言った。
僕は、振り返った。
そこには、ロボットが。人間の女の形はしているけれど、顔に表情はなく、のっぺりとした人口皮膚が機械の体を覆っている。
そんなもの、要らないと思った。死んだ母親は戻って来ない。
そのまま僕は、亡くなった母のドレスを胸に抱いて眠っていた。
途端に、焼けつく痛みで目が覚める。 「お前は、いつまでこんなものを。」
父は、何度も何度も僕を殴る。それから、母のドレスをズタズタにして、部屋を出て行ってしまった。
僕は、痛む頬を押さえて、立ち上がる。目を上げると、ロボットが僕をじっと見て、最初の命令を待っていた。
「これを捨ててきておくれ。」 僕は、始めて、その表情のない顔に話し掛けた。
--
「お母様の話を聞かせてよ。」 「本当の母は、僕が四歳の頃に亡くなったから、よく覚えてないんだ。」 「あら。」 「新しい母は・・・。そう。きみにちょっと似ていた。」 「お母様の事、好きだった?」 「どうかな。分からない。何でも僕の言う事を聞いて。どうかな。そんなもんだと思ってた。その日からは、それが僕の母だったし。」
--
あの屋敷で、僕は、そのロボットとほとんど二人きりで過ごすうちに、笑ったり泣いたりすることを忘れて行ったのだ。
あの事件があるまでは。
僕は、もう、十六になっていた。相変わらず、屋敷にこもったままで、父が買ってくれた書物で勉強し、ロボットを話し相手に生きていた。
その女の子は、どこから入って来たのか。
僕を見て、 「ああ。良かった。このお屋敷、人がいないのかと思ったわ。」 と、顔を奇妙な形に歪めた。
「きみ、誰?」 「私?近くに越して来たの。一人じゃつまらないから、お友達を探してるの。」 「そうか。」 「あなたは?学校にも行かず、こんなところで?」 「ああ。僕は、父に言われた勉強だけしていればいいから。いずれは、父の会社を継ぐんだ。だから、要らない勉強はしなくていいって。」 「へえ。あんたのお父さん変わってるのね。」 「父は・・・。父は立派な人だ。」 「それで、お母さんも、何も言わないの?」 「母は、いつも僕の言うことを聞いてくれる。」
その時、女の子は、母を見た。正確には、ロボットを。それから、不思議そうにそれを触って、突然、ケタケタと声を立てて。
僕は、驚いた。
女の子の顔がさっきと同じように奇妙に歪み、壊れたような音を立て始めたから。
「これ、何?変なお人形ね。」 女の子は、尚も声を立てる。
つまりは、それが「笑う」という事だと気付いたのは、随分経ってからだったが。
僕は、急に不安を感じ、女の子に飛びかかって行って。よせよ、とか何とか言いながら、その口を塞ぐと、今度は、女の子はキーキーと騒いで、今度は目から水を流し始めて。
それからは良く覚えていない。
祖母の声がして。
使用人が僕を女の子から引き剥がしたんだと思う。
--
あの時、気付いたのだ。僕は、人が泣いたり笑ったりするのを見ると、妙な不安を覚える。
「どうしたの?」 女は、相変わらず、口だけ動かして、僕に話し掛ける。
「何でもない。昔の事を思い出してただけだよ。」
そう。僕は、あの後、母を殺した。なぜかは分からないが、女の子の言葉を思い出し、目の前のロボットにむしょうに腹が立ったのだ。
「僕は、母を殺したんだ。」 ふと、そんな風に言ってみた。
女は、何も言わなかった。その皮膚の下にどんな表情が隠れているのかも、分からなかった。
2002年09月10日(火) |
それから、彼と二人で、まだ名前のない子猫に名前を考えた。さんざんもめた挙句、名前はセロリに決まった。 |
少し先の道端で、痩せ細った子猫がミィミィと鳴いている。
つい先日、ずっと飼っていた猫を亡くしたばかりの私は、思わず駆け寄ろうとして。
向かいから歩いて来ていたサラリーマン風の男性と顔を見合わせる事になる。相手は、思わず照れたように笑い、 「や。猫、好きなんで、つい。」 と、笑った。
つられて、 「私も、好きなんです。」 と、言う。
「いいんですよ。先にあなたが見つけたんですから。」 と、私が言うと、彼は、 「いや。僕んちは無理です。妻がアレルギー持ちで。」 と、言うから。
「私も、本当はアパートで飼っちゃいけないんですけど。でも、結構みんな飼ってるから。どうしようかなあ・・・。」 「うーん。猫好きとしては、是非、あなたみたいな人に拾って欲しいんですけど。」 「そうですか。じゃ、飼っちゃおう。」 私は、その、片手に納まりそうな子猫を胸に抱く。
「あの。良かったら、これ。僕の勤め先です。メールください。猫の餌代ぐらいは、僕もちょっとは負担しますから。」 「いいんです。実は、私も、飼ってた猫が・・・。」 「あのっ。変な意味じゃなく。本当に、僕も猫が好きで。」
なんだか、嬉しかった。初めて会ったその人は、とてもいい人に見えた。シンプルな結婚指輪が、彼を誠実に見せていた。
本当にいい人なんだな。
そういうのは見たら分かる。
「じゃ、猫、頼みましたよ。」 男性は、腕時計をチラと見ると、慌てて背中越しに手を振って、走り去った。
「あはは。面白い人だねえ。」 私は、猫に言う。
猫はしきりに私の手を齧っている。
--
それから数日して、入るはずのバイト代が入らなくて困ってしまい、考えた挙句、彼にメールをしてみる。
「先日、猫を拾ったミユキと言います。覚えていらっしゃいますか?」
返事はすぐ返って来た。
「覚えてますよ。あれから、猫、どうしてます?」
「とっても、元気。」
「見に行きたいなあ。なんて。あまり本気に取らないでくださいね。女性の部屋に行きたいなんて、僕も失礼なヤツだよなあ。」
「あ。いいですよ。来てください。良ければ今夜。場所は・・・。」
彼は、予想通り、猫缶を持って寄ると言う。私は、素直に餌代がないと言えば良かったかなあと思いつつ、猫の背中を撫でる。
彼は、両手一杯抱えた猫缶を置くと、 「これ、気に入るかなあ。猫ってさ。いろいろ好みがあるだろ?」 「大丈夫。この子、何でも食べるのよ。すごくいい子。」 「なら、良かった。」
それから、彼と二人で、まだ名前のない子猫に名前を考えた。さんざんもめた挙句、名前はセロリに決まった。
「名前、気に入ったかなあ?ママが考えたんですよう。」 「あ。ずるい。二人で考えたんだよ。僕がパパですよ。」 「で?なんでセロリなの?」 「妻が苦手で僕が大好きなもの。」 「あ。ひどい。奥さん、怒るよ。」
そんなことを言い合って、二人で笑った。セロリは、私達の顔を交互に見上げていた。
--
「お久しぶりです。」 大学時代のマンドリン部の先輩に誘われて、その家を訪れた時、私は、あっと息を飲む。マユミ先輩の横に立っていたのは、あの人。猫の人。
「主人のハラダよ。」 と、紹介するマユミ先輩の顔は、本当に幸福そうだった。
静かに微笑む先輩が、私は大好きだった。実は、今度、同じサークルだったRさんが結婚するから、結婚式に何か演奏したいの。そう持ち掛けられて、私は、それからしばしばマユミ先輩の家に遊びに行くようになった。
だけど。
どうしてかな。私は、彼と以前から知り合いだったこと、結局言えずじまいで。セロリの事は、マユミ先輩には内緒のまま、ハラダと猫を挟んでの逢瀬を続けた。
猫に会うために。猫を見せるために。
そう言い聞かせて、私達は、会い続ける。
だが、そうやって言い聞かせる言葉がもはや何の歯止めにもならないと気付いた時、私達は、抑えきれないほどの感情をぶつけ合って、抱き合った。
「駄目・・・。お願い・・・。」 私は、泣いていた。
「お願いだから、自分を責めないでくれ。今だけ。頼むから。」 ハラダは、そう言って、私をきつくきつく抱き締めた。
--
私は、ハラダに抱かれた後も、マユミ先輩の家に遊びに行った。子供がいないから、昼間は寂しくて。そう言って、私の職場の近くまで来たからとランチに誘い出してくれた時、そうつぶやいた。
「子供、欲しいですか?」 「そりゃ、もう。でもね。私、アレルギーがあるから。ステロイド剤が抜けるまでは待とうねって。主人と。」 その時、胸がチクリと。
「焦らなくても。」 「そうよね。主人もそう言うの。」 マユミ先輩は、微笑む。
それからしばらくしての事だった。
ハラダからの連絡が途絶えたのは。
何度、マユミ先輩に聞こうかと。それでも、それはできないと、受話器を置く。
もう、飽きたのかなあ。
セロリが、鳴く。
「待って、ね。」 私は、餌を皿に移す気力もなく、ただ、受話器を持って座り込む。
マユミ先輩から電話があって、 「今度の日曜、遊びに来ない?」 と、言われた。
「いいんですか?日曜は、ご主人もお疲れでしょうから、お邪魔しちゃ・・・。」 「いいのよ。彼、ね。入院してるの。」 「入院?」 「ただの検査入院よ。」 「どこか悪いんですか?」 「大した事ないの。血液の関係でね。」
私は、不安になり、どこの病院に?と、危うく訊くところだった。
「だから、ね。寂しいの。ね。来て。」 「はい。」
結局、私は、ハラダの情報が少しでも手に入れられたらと、そんな気持ちで、マユミ先輩が待つ家に向かう。
「明日、退院なのよ。」 そう笑う先輩に、私も、少し安堵してうなずく。
--
「入院してたんですって?」 ハラダが一ヶ月ぶりに訪れた時、私はさりげなく訊く。
「ああ。」 「どこか、悪いの?」 「いや。血液のね・・・。」 どことなく歯切れの悪い声でハラダが答えるから。
私はそれ以上訊くわけにもいかず、セロリの事に話題を移す。セロリがね。この前、川に落ちて。必死で猫掻きって言うのかしら?近所の男の子が、網で助けてくれたんだけどさあ。
そんな話をすると、ハラダの顔もほころんで。 「ほんと、俺達の子供みたいだよなあ。」 と、笑う。
いつか、あなたの子供を。
そんな夢、心の奥底に押し込んで、私も、一緒に笑う。
浮いたり沈んだり。小さなさざ波を抱えながら、私は、彼と、こうやって会えるだけで・・・。
--
夜中、電話が鳴る。
なに?
マユミ先輩だった。 「ごめんなさいね。こんな夜遅くに。今、病院からなの。あのね。ハラダが・・・。」 「どうしたんですか?」
やっぱり、悪い病気だったんですか?
「いえ。ごめんなさい。事故で。」 「先輩、落ち着いて。先輩。」
落ち着かないといけないのは、私のほうだった。
電話が切れた後、セロリを抱いて泣いた。 「パパがね・・・。パパが・・・。」
--
葬儀の席に、私はこっそりとセロリを連れて行った。
時折鳴く声がバスケットから漏れて。私は、つられて泣いた。
こんなことなら、あの人の子供が欲しかった。そんな事を思うのは、私が女だからだろうか。それでも、私と彼の間には、この子が。セロリが。でも、マユミ先輩には何もない。一緒に名付けた、子猫すら。馬鹿げた優越感で、ようやく自分を慰める。
火葬場で、マユミ先輩がつぶやく。 「彼ね。入院してたでしょう?」 「ええ。」 「あれ、ね。血液の検査っていうの、嘘なの。」 「え・・・?」 「子供がね。できないから。それで、彼、子供が欲しくて。自分から検査受けるって言って。」 「・・・。」 「結果はね。彼の問題じゃなかったみたい。精子の数も正常だって。だから、これから子供、頑張ろうなって言ってた矢先だったのに・・・。」
泣きじゃくる先輩を前に、私はポトリと手にしたバスケットを落とす。
中から、ニャーニャーと、また、鳴き声が。私は、それを拾おうとしてしゃがんだまま、立ち上がれない。
「ミユキちゃん・・・?大丈夫?」 マユミ先輩の気遣うような声に、余計涙が溢れる。
2002年09月09日(月) |
何より興奮するのは、その手首の切り口で。赤い肉の間から、骨がにょっきりと飛び出している。 |
その店で、僕は面接を受けていた。どうしても働かなくてはいけなくて、どんな仕事でもするからと頼み込むために入ったその店で、思わぬ美しい店のママにドギマギしてしまい、僕はこの店でならただ働きでもいいや、と、思わず、そんな事を口走っていた。
ママは、その美しい切れ長の目をこちらに向けて、 「馬鹿ねえ。お金が要らないなんて、そんな風に自分の労働を安く売る人に限って、ろくな仕事をしないんだから、そんなことを言うのはおよしなさいよ。」 と、僕を叱責した。
僕は、もうこれで、ここに勤めることは成らないかと思い、ひどく失望して、あわや、椅子を立ちかけた。
「ねえ。一つお願いがあるの。もし、引き受けてくれたなら、来週からお店に来てもいいわ。」 と、ママは言った。
「なんでしょう?」 僕は、腰を落ち着けるつもりで座り直し、問うた。
「あのね。預かって欲しいの。これを。」 と、小さな小箱を取り出した。
その、突き出したママの手は、手首から先が包帯でぐるぐる巻きになっていて、僕は、先ほどからこの手のせいで余計にドキドキしていたのだと気付く。
「これ、なんですか?」 その小箱は、大人の男の弁当箱ぐらいで、受け取ると思っていたよりも手にずしりと重かった。詰め物でもしてあるのか、振っても音はしなかった。
「何でもいいでしょう?」 と、彼女は一度はそう言ったけれど、僕の不安気な顔を見て、 「教えてあげましょうか?」 と、言い直した。
「ええ。そうしたら、取り扱いなんかにも気を付けることができますし。」 「あのね。それは、私の手よ。」 「手?」 「ええ。」 そう言いながら、彼女は包帯を巻いた手を、僕に差し出して見せた。
わけが分からなかったが、そう言われたらそれぐらいの大きさだった。
「なんで、これを僕が預かるんです?」 「男が取りに来るからよ。私の手を、ね。」 「なんでまた?」 「さあ。ちょっと異常なの。その男、ね。倒錯っていうのかしら。普通の体じゃ、欲情しないのよ。詳しい事は今は言えないけどね。でね。お友達に頼んで、私の手を保存する容器を作ってもらったの。」
ママは、ふふっと笑って。 「ね。絶対、開けちゃ駄目よ。開けたら、私の手、組織が駄目になってくっつかなくなるから。」 と、声を潜めて言うのだった。
「分かりました。」 僕は、ただ、ママの要望とあらば何だって聞きたい気分になっていた。
「で、その手は、なんです?義手?」 「ええ。まあ、ね。ダミーよ。」 「それでも取りに来たら?」 「大丈夫よ。あいつは馬鹿だから、偽物とは気付かずに持って帰っちゃうわ。それで、怒り狂うに違いないの。」
そう言って笑うママの顔は、言っている事の内容とは裏腹に、冷静だった。
「とにかく、預かります。」 「ええ。お願いね。何かあったら、ここに電話して。」 「はい。」
僕は、名刺を受け取ると、その小箱を高級菓子屋の紙袋に入れて、持って帰った。
変な女だ。
僕は、部屋で小箱を前に、そうつぶやいた。
それから、ママが煙草を吸う仕草を思い出す。包帯を巻いてないほうの手の、細くて白い指の爪先に塗られたマニキュアが美しく踊って、僕はそれにじっと見惚れていたのだった。
なるほど。あの手なら、僕だって自分の物にしたくなるかもしれない。
そんなことを思った。
--
僕は、部屋で、ただじっと小箱を見つめて座っていた。何となく、目を離した隙に失くなってしまうのじゃないかと不安で、そばを離れることができなかった。
だが、ただ時間が経過するだけで、何も起こらない。
10分・・・。20分・・・。1時間。2時間。
それから、僕は腹が減ったので、小箱を紙袋に入れると、手に下げてコンビニまで行き、弁当とお茶を買った。その間も、なぜか僕は異様に興奮していた。誰も知らないが、今、僕は、女の手を。真っ白で美しい手を。
それから、部屋に戻り、僕は、小箱をまたテーブルの上に置くと、それを眺めつつ、弁当を食べた。
それから、激しい衝動が起こった。箱を開けたいという衝動。
それは何気ない小さな疑問からだった。あの女、結婚してるんだろうか。そんな疑問が、急に湧いて。今、預かっているのは左手だ。もしかしたら、この箱の中の手は、指輪をしているだろうか。
箱には、鍵はどこにも無さそうで、簡単に開けられそうだった。
気にし始めたら、気になるもので。僕は、箱を撫でさすり、何度か蓋を開けようと、手を掛けて。いやいや。僕は、試されているのだ。今、僕が箱を開けたりしたら、職と、彼女の信頼と、彼女の手そのものを全て駄目にしてしまうのだ。
僕は、気分転換に、シャワーを浴びる。
それから、部屋に戻ると、やっぱりその箱は、誰かが手を掛けるのを待っているかのようにそこにあった。僕は、いつもならビールを飲むところを、ぐっと我慢した。酔ったら、それこそ自制心を無くしてしまいそうだったから。
夜になり、僕は布団に入り、傍らに寄り添うように、小箱を置いた。
とても眠れそうになかった。
だが、いつしか、眠っていたのだろう。
夢を見た。
手首が、箱から出て来て、その美しい指で僕を愛撫する夢。何より興奮するのは、その手首の切り口で。赤い肉の間から、骨がにょっきりと飛び出している。
手は、まったくもって男の体を良く知っていた。僕は、手に導かれ、呻き声を上げ、その繊細な動きを拒もうとするが、拒めない。僕はうめく。
二度と持ち主の体に戻ることのない手。そう思うと、余計に興奮する。
僕は、この手を持って、どこに行こう。
目が覚めると、汗びっしょりだった。箱は相変わらず僕の傍らにあって、重さを確かめるが相変わらずだ。大丈夫だ。
夢か・・・。
僕は、安堵して、そのまま夜明けを迎える。
--
言われた通り、昼過ぎに店に行く。
ママが一人で待っていた。相変わらず、僕は、その包帯の巻かれた手が気になってしょうがない。
「開けなかったでしょうね。」 「はい。」 「じゃ、そこに置いて。今日はもう、帰っていいわ。」 「あの・・・。」 「仕事は、来週からお願いするわ。今日と同じ時間に来てちょうだい。最初は店の掃除からだけど。」 「はい。」
僕は、寝不足のせいか、足元をふらつかせながら立ち上がる。
「ありがとね。助かったわ。」 ママの声が背後から聞こえる。
店の入り口で、入れ替わりに体格のいい男が店の中に入ろうとするのとすれ違った。
僕は、ちょっとした好奇心から、近くの電信柱の陰に隠れて、その男が出て来るのを待った。
随分と長い時間が経ち、男は出て来た。
やっぱり。
手には、例の小箱が入っている筈の紙袋。後から出て来た店のママは、男の背後にしがみつくようにして、何やら言っているが、男はそれを振り切って言ってしまう。
心臓がドキドキしていた。
彼女の左手は、持って行かれてしまったのだろうか。
--
翌週、僕は、その店に行くと、相変わらずママが一人で出迎えてくれた。
左手を確かめると、もう、包帯はなく、普通に手がある。
「ああ。これ?」 ママは、笑って。
「あの箱の中身、まさか本当に私の手だって思ったんじゃないでしょうね。ちょっと遊んだだけよ。あの箱の中身は、預かり物よ。帰る時、入り口で会ったでしょう?あの男の。たまには、こんなおふざけでもしないと、やってらんないもの。」
ああ・・・。そうだよな。手のわけがない。
じゃ、あの箱の中身はおおむね、拳銃か何かだったのだろうか。
ママは、あはは、と、尚も笑っている。
なんで簡単に信じたんだろうな。僕もつられて、苦笑いする。
包帯のないママは、僕が記憶していたほどには美人じゃないなと、ぼんやり考えながら、手渡された掃除道具で店の掃除を始める。
2002年09月08日(日) |
「ねえ。抱いて。」リョウは首を振る。「抱きたくない。」「なぜ?」「きみが、僕を試そうとしてるのが分かるから。」 |
その生まれたばかりの悪魔は、草むらで少女に見つかってしまった。
「あら。あんた、何?」 「俺か。俺は、あんたを食うために。」
次の瞬間、少女の魂は悪魔に食べられてしまい、悪魔は少女の体に納まった。
それは、あっという間のことだったから。
あ。
と、驚いた少女の表情のまま魂は入れ替わり、背後から声がする。 「ボール、あった?」
少女と同じぐらいの年齢の少年の声だった。
「ないよ。」 悪魔は答えた。
「そんな筈ないよ。」 と言って、少年はやってきて、少女の背後から手を伸ばすと、少女の手元にあったボールを拾い上げる。
「な?」 少年は笑ってみせる。
「あ・・・。」 悪魔は、しまった、ボールぐらいどうして見つけられなかったのだろうと、なんだか恥かしくなってしまった。
「どうしたの?行こうよ。」 少年が悪魔の手を引っ張る。
--
その少女は、病的な嘘つきだった。次から次へと嘘をつくから、両親ですら、少女を愛そうとしなかった。担任の教師や同級生からも嫌われていた。だが、とても美しい顔をしていたので、少女は守られていた。美し過ぎて、誰も手だし出来なかったのだ。
唯一、少女の友達だったのは、隣の家のリョウという同い年の少年だった。
その少女が引っ越してきた時、リョウは少女のあまりの美しさに心打たれ、この少女を一生守ろうと心に誓った。だから、少女がどんなに嘘つきでも、その嘘すら愛そうとして、しばしば、少女の仕掛けた罠で怪我をさせられたり、少女の代わりにいじめられたりした。
それでも、リョウは、少女がか弱い存在だから、と、どこまでも少女を守ろうとしていた。リョウの両親に、「あんな娘と付き合うのはよしなさい。」、と言われたって。同級生の女の子達に、「あの子と付き合うなら、絶交よ。」と言われたって。
そんな時だったのだ。
悪魔はそうと知らず、少女の体を乗っ取ったのは。
--
悪魔の次のターゲットは、リョウだった。
だが、なかなか難しい。
悪魔は、自分が乗っ取った少女がひどい嘘つきだったと知り、だからあんなに簡単に乗っ取ることができたんだな、と納得した。だが、リョウの心は難しかった。
たとえば、何か後ろ暗い事があって、目の前の人間から目をそらそうとする瞬間などが一番魂に食いつき易いのだけれど、リョウはいつだって人の目を真っ直ぐに見るのだ。
悪魔は、とまどいながら、チャンスを狙い、リョウと行動する。
リョウは、いつだって少女の姿をした悪魔にやさしくしてくれて、どこにでも連れて行ってくれた。学校の裏山でセミをたくさん取ってくれた。
「すごい。どうやって取るの?」 悪魔は、リョウが魔法使いのように思えて、目を丸くした。
「簡単だよ。」 と、小さな虫かごを満たして渡してくれて、 「きみ、なんだか雰囲気変わったね。」 と、言った。
「どこが?」 と、悪魔は聞いた。
「どこがって。うまく言えない。あんまり嘘をつかなくなったし。前は、何も欲しがらなかったけど、今は、ほら。セミの捕まえ方とか知りたがるし。」 リョウは、そう言って嬉しそうに笑った。
つまり、いい人になったってわけか。これじゃ悪魔かたなしだな。
悪魔は、帰宅すると、カゴから一匹ずつセミを取り出してはその魂をチュッと吸い取りながら、こんな筈じゃなかった、と思う。
--
いつしか、リョウも悪魔も、成長し、大学生になった。相変わらず、悪魔の乗っ取った少女は美しく、多くの青年達が周りを取り巻くようになった。
悪魔は、今でも、リョウの魂を狙っていた。
リョウは、変わらず、悪魔のそばに寄り添い、何かある時だけ手を差し伸べてくるが、それは随分と控えめだった。悪魔は、リョウの魂を奪えないことにイライラし、自分を取り巻く男達と遊んだ。それから、酒を飲み過ぎた。
酔った悪魔は、リョウのアパートに転がり込む。
「また、こんなに酔って。」 そんなリョウの悲しそうな顔を見ると、悪魔は少し嬉しくなる。
「私、いろんな人と寝てるの。」 悪魔は、にっこりと笑って打ち明ける。
リョウは、悲しそうな表情のまま、何も言わない。
「ねえ。怒らないの?」 「怒るって、何を?」 「私が、あなた以外の人と遊び回っても、それでもあなた、平気なの?」 「信じないよ。」 「あら。ひどいのね。最愛の人の言葉が信じられないの?」 「違うよ。僕は、僕の信じたいものを信じる。」
悪魔は、服を脱ぎ、その美しい裸身を晒してリョウに迫る。 「ねえ。抱いて。」
リョウは首を振る。 「抱きたくない。」 「なぜ?」 「きみが、僕を試そうとしてるのが分かるから。」
悪魔は、どうにもリョウの心を突き崩せない事を知り、腹を立て、それからワッと泣く。
リョウは、そんな悪魔の頭を撫でながら、言う。 「ねえ。きみ、覚えてる?きみが小さい頃。僕に初めて会った頃。きみは嘘つきって呼ばれてた。だけど、僕はきみを信じてた。なんでだと思う?僕がきみを信じたかったから。きみに頼まれたわけじゃない。誰に頼まれたわけでもない。僕が信じたいと思ったものを、ずっと勝手に信じて来たんだ。だから、ね。僕が信じるのを誰にもやめさせる事はできないんだよ。」 「どこからそんな勇気が出てくるの?」 「きみだよ。きみがいるからだよ。」
悪魔は、その晩、リョウの腕で眠った。
朝起きると、リョウが、 「腕がしびれたよ。」 と、笑いながら、コーヒーを入れてくれた。
悪魔は、つられて笑った。
--
それから月日が経ち、悪魔の中の悪い心は、リョウの腕の中でウトウトと眠り続け、それから、すっかりと消えてしまった。
「結婚しよう。」 リョウがそう言ってくれて、迷わずうなずいた時、悪魔は、自分が悪魔だったことさえ忘れかけていた。
それから、愛らしい子供が生まれた。
母親に似た、とても愛らしい。
リョウは、子供を産んで疲れて横になっている妻に口づけて言う。 「ね。僕は、きみと、この子を一生守るよ。」 と、言った。
周囲がその美貌を誉めそやし、その愛らしい子供は甘やかされて育った。
そのせいだろうか。五歳になる頃には既にいろんな嘘つき始める。
嘘が一つ発覚するたびに、母親の心はチクリと痛む。自分の過去に遡って、いろんなことが思い出されそうで、チクリチクリと痛む。
だが、夫は、笑って、 「大丈夫だよ。僕達の娘だもの。」 と、言う。
そうね。きっと、大丈夫よね。
夫の笑顔に励まされて、妻は微笑む。信じること、愛すること、待つこと、全部、目の前のこの人から教えてもらったから。今度は、私もこの子に教えていけばいい。
「ねえ。パパ。セミの捕まえ方、教えてよ。」 息せき切って飛び込んでくる娘は、だって、かつての私と、とってもよく似ているから。
信じるのは、ずっと容易い。
2002年09月07日(土) |
かすめるようなキスの後、彼女はうつむいてしまう。男もなぜか恥かしくて、照れ笑いして。「さ。行こうか。」と、立ち上がる。 |
母に頼まれて田舎から出て来た彼女は、届け物の紙袋をしっかり手に、目的地に向かう。動く歩道は、彼女の歩調と合わず、人の群れが背後からぶつかってよろける。
それでも、彼女は、見るもの全てが新鮮で楽しかった。見上げれば、視界を妨げるように伸び立つ建物が彼女の心をときめかせた。
以前、田舎に帰って来た兄が連れていた兄嫁が言ったことがある。 「ここらは、上を見ると空が見えるから、素敵ね。」
その時は言っている意味が分からなかった。空が見えることのどこが不思議なんだろう?
彼女は、一人歩いていて、ようやくその意味に気付く。
だが、今の彼女にとって、空をさえぎるビル群すら、見ていて楽しかった。
あ。
誰かが背後から激しくぶつかって来て、彼女が無理をして履いていたヒールの高いパンプスは、脱げて転がってしまった。
「ほら。上ばかり見て歩いてるから。」 男の声がやさしく笑って、手が差し伸べられた。
「ありがとう。」 男の手にすがってゆっくり立ち上がると、彼女の目の前の背の高い、色の浅黒い男は、微笑んだ。
「いや。さっきからさ。危なっかしくて見てらんねんだもん。」 「私が?」 「ああ。上を見て、あっちをキョロキョロ。こっちをキョロキョロ。」
彼女の頬がさっと染まる。
「いや。可愛いなって思って。」 そう言う男は、濃い色のサングラスをして、髪の毛をピカピカするもので撫でつけていたけれど、優しい人だと分かった。
「このあたり、始めてなんだろ?」 「ええ。」 「俺が案内してやろうか。」 「いいんですか?」 「ああ。暇だしな。どこに行くんだい?」
彼女は、母親に持たされた行き先の住所の紙を見せる。
男はヒュウっと口笛を鳴らして、 「偶然だな。ここは俺の家の近くだ。いいよ。連れてってやるよ。」 と、言った。
「助かります。」 「いいって。」
男は、そっと、人混みから彼女を守るように、彼女の背中に手を回した。
彼女はドキッとして、ほんの少し身をよじるようにしたが、男は手の力を緩めたりしなかった。誰かとこんな風に触れ合うのは、中学校のフォークダンス以来だ。と、彼女は思って、うつむいた。
男のほうは男のほうで、そんな彼女の甘酸っぱい感情に触れて、妙に気持ちが和らぐのだった。
「腹、空かないか?」 「え?」 「何か食べたくないかっての。」 「ええっと。」 「お前、ほんとトロいな。ここじゃ、そんな風にのんびり生きてたら大変だぜ。」
男は笑って、彼女を手近な店に連れて行って座らせると、苺の乗ったクレープを持って戻って来た。 「女の子はこういうのが好きだろ?」 「ありがとう。」
それから、食べ終わって彼女は笑い出す。
「なんだよ?」 「ほっぺたにクリームが。」 「え?そうか?」 「うん。この辺。」 彼女が肩から掛けたバッグの中を探ってハンカチを出そうとする手を彼は押さえて、 「あんたの口で。」 と、言うから。
彼女は、キョトンとして、それから頬を薔薇色に染めて彼の頬に唇を持っていく。
かすめるようなキスの後、彼女はうつむいてしまう。男もなぜか恥かしくて、照れ笑いして。 「さ。行こうか。」 と、立ち上がる。
--
二人にとって、多分、その日はとても楽しい一日だった。
だけれども、彼女がふと、路上のパフォーマンスに見とれて立ち止まっている間。男がそれに気付かずに歩き過ぎてしまった間。
悲しい事に、二人はお互いを見失う。
男は、彼女を捜すが、結局見つけられずに、彼女が言っていた行く先で待つ事に決める。どうしても彼女に会いたかった。それが、男にとってはとても似つかわしくない場所でも。
その屋敷で、男は居心地悪そうにもぞもぞと体を動かしている。
目の見えない上品に髪を結った老婆が、使用人に連れられて入って来る。 「あなたが、孫を?」 「はい。ですが、残念なことに途中で見失ってしまいました。」 「あの子が悪いのよ。ほら、あの調子でしょう?都会はあの子には危険過ぎるの。」 「俺も・・・、いや、僕もそう思います。今頃、彼女、どうなってんだろ。」 「大丈夫よ。あの子は、もうじきここに来るわ。」 「分かるんですか?」 「ええ。あの子を一人にしとくような真似はしないわ。」 「なら、いいんですが。」 「ねえ。聞かせてちょうだい。あの子はどんなだった?」 「そりゃ、もう。可愛らしくて。天使みたいで。」 「あなたも、あの子を好きでいてくれたのね。分かるわ。あの子のそばにいてくれたこと、感謝します。」
男は、少女の祖母が立派な人格の持ち主だと分かって安堵する。
だが、ほどなく、部屋に入って来た素晴らしい体格の持ち主が彼の腕を掴んで連れ出す。
「待ってくれ。彼女に会いに来たんだよ。」 男が叫ぶが、鍛えた体の持ち主はそんなことには構わず屋敷の外に連れ出そうとするから。
男はしがみつくと、頬に一発、二発。気が遠くなるまで。
--
「おばあちゃま!」 その愛らしい娘は、老婆の首に飛びつく。
「あらあら。大きくなって。」 老婆は、彼女が可愛くて仕方がないという風に抱き締める。
「おばあちゃまに、お土産。」 彼女は、よれた紙袋から、田舎で作られたワインを。母が作ったジャムを取り出して並べて見せる。
「無事に着いて何よりだよ。」 「あのね。素敵な男の人が途中まで一緒に探してくれたの。」 「そう。良かったわね。実は、さっき、その人がこちらに見えてね。」 「あら。会いたかったのに。」 「急いでるからって、帰られてしまったわ。」 「そう・・・。」
彼女は、どうした事か胸が痛い。
なぜだろう。
「さ。疲れたでしょう?部屋に。」 高価なスーツに身を包んだ、その男性は、その少女に話し掛ける。
彼は思う。さっきのチンピラを殴ったのは、自分勝手な行動だったかもしれないが、この屋敷と財産を相続する少女のフィアンセとしては適切だった筈だ、と。
また会えるといいね。都会のオオカミさん。
赤頭巾という名の少女は、痛いような酸っぱいような気持ちで、あの時、男の頬で味わったクリームの味を思い出す。
2002年09月04日(水) |
こんなに長く初対面の男としゃべっていた自分に驚きながら、どうしてもこのまま別れたくなくなっていて、思わずそう口にしていた。 |
いつもの店に入ると、アヤコは、 「生ね。」 と、言い、スギウラは、 「瓶で。」 と、注文する。
いつからだっけ。
運ばれて来た白く冷えたジョッキを口につけながら、アヤコは思う。
幾つになるんだっけ?目の前のスギウラを見ながら思う。最初に会った頃、アヤコは十八でスギウラは四十手前だったから、もう、五十ニ、三になるだろう。アヤコは来月で三十一になる。
「ほら。何でも注文しろよ。」 スギウラは、自分は飲み出すと食べ物を口にしない。そんな癖を知っているから、アヤコは、勝手に自分の好きなものを注文する。
出会った頃は、こんなに長く続く関係とは思ってもみなかった。
--
出会ったのは、スギウラが単身で赴任していた町に観光に来たのがきっかけだった。一人旅が好きなアヤコは、その日も、ちょっとした連休を利用して、さして観光場所もないその小さな町に来ていた。立ち寄った土産物屋では、自転車を貸してくれるという。見れば、サイクリング・ロードという札が立っていて、アヤコは暇つぶしに自転車を借りることにした。
ところどころ、方向を指し示す標識があって、それを辿りながらぐるりと一周すればいいという具合。それは思ったよりも距離があって、アヤコは、途中疲れてベンチに越し掛けて休息していた。
「どっちから来ました?」 急に声を掛けられて、顔を上げると、日に焼けた男が、ロードレース用の自転車を降りてアヤコの隣に腰を掛けた。
「・・・からです。」 「ああ。なるほど。僕も行ったことがあるが、いいところだ。僕は、二年前から単身赴任で来てるんですよ。」 「そうですか。自転車は趣味で?」 「ええ。この季節は毎週のように走ってます。」
グラブを外すと、手だけが綺麗に日焼けを免れていて、アヤコはその時、「この人、案外色白だなあ。」と思ったりして見ていた。
それから、男は携帯していた道具でコーヒーを沸かして、差し出してくれた。
「結婚、してるんですか?」 アヤコは何気なく、訊ねた。
「ええ。ですが、今は単身赴任です。妻は、実家のほうに帰らせてます。東北のほうなんですが。私もそちらの出身です。」 「じゃあ、滅多に帰れませんね。」 「そうですね。ここに初めて来た頃は、冬でしたが、みんなスカートを履いてたので、美人ばっかりに見えて驚きました。あっちじゃ、冬は寒くてスカートなんか履いて出たりしませんから。」
そんな調子で。ベンチに座って、アヤコとスギウラは日が暮れるまでしゃべっていた。
「すいません。汗、引いちゃいましたね。風邪ひくと大変だ。」 夕暮れの涼しい風が吹き始めた時刻になって、男は慌てて立ち上がった。
「楽しかった。すごく。明日も、会えます?」 アヤコは、こんなに長く初対面の男としゃべっていた自分に驚きながら、どうしてもこのまま別れたくなくなっていて、思わずそう口にしていた。
「明日?ああ。仕事だ。何なら、夜、どうです?僕の仕事が終わってからになりますが。」 「是非。」
この町に来た楽しみが、ようやく見つかったと思った。
翌日、スギウラと過ごした時間も楽しくて。
ほどなく、アヤコはその町に越して来た。
--
「今度、結婚するんだ。」 同僚のSが突然そんな事を言うから、 「うそ。知らないよ?誰と?」 なんて、アヤコは思わず訊き返してしまった。
「ほら。例の。」 「あの、紹介で会った、年下の?」 「うん。」 Sは、ふふっと笑って。
その顔はとても満ち足りていて幸福そうだった。
「ねえ。アヤコは?」 「私?」 「あの人とはどうなったのよ?」 「ああ。うん。別に。変わらない。」 「ちょっとお。いいの、そんなで。」 「うん。いいんだ。」
アヤコは、話題が自分の事になると、どう答えていいか分からなくなって、つい言葉があやふやになってしまう。既婚の男と付き合う女にとって、いかに愛で満たされているかを主張するほど虚しいことはないから。
「それよかさあ。式の準備っていろいろ面倒なんでしょう?」 急いで、相手に話を振ると、幸福の絶頂にいる彼女は笑顔で我が事を語りだす。
うらやましい?
わからない。
アヤコは、友人を笑顔で見つめながら自問する。
--
「ねえ。なんで、瓶ビールに変えたんだっけ?」 アヤコは、今日、何気なくスギウラに問う。
「ああ。これ?」 「うん。だって、前はジョッキで飲んでたよねえ。」 「そうだな。」 「なんで?」 「瓶だとさ。こうやって置いておくと、何本飲んだか分かるだろ。で、数えて、そろそろやめるかって、さ。ほら。俺、前、肝臓ちょっと悪くしてるから。ジョッキだと、飲み過ぎちゃうんだよな。」 スギウラは、そう言って苦笑いした。
アヤコは、そうか。と思った。
そんなことを言って、アヤコに気付かないところで自分の体をいたわっているスギウラは、アヤコより一歩先を一人で行ってしまう人のように見えた。
ちょっと寂しくて。
知らず知らずに、アヤコの顔が曇っていたのを見てとったのか。スギウラは急に口を開く。 「盆に。」 「え?」 「俺、妻に会いに行ってただろ。」 「うん。」
その話はわざと訊かずにいたのだ。
「ようやく、決めたよ。」 「何を?」 「離婚。」 「そう・・・。」
それ以上は、スギウラは何も言わなかった。アヤコも、訊かなかった。
ただ、アヤコは無意識に瓶を数えていた。
もう、随分と待った事だから。この先、あと幾らだって待てると思っていたけれど。
「三本。」 「え?」 「瓶が三本並んだら、やめさせてくれよな。」 スギウラが言うから、アヤコは嬉しくてうなずく。
2002年09月03日(火) |
そんなことはどうでもいい。手近な女に手を伸ばすと、女は彼の下半身をまさぐって、「あら。あんた、これじゃ無理よ。」と、笑った。 |
日曜の午後いつもの時間になると、そろそろ同室の人達が冷やかし始める。元気な者は気を利かせて、部屋を出て行こうとさえ、する。
「いいのよ。いてよ。いつものことなんだから。」 彼女は笑って、言う。
そんな調子だから、彼が花やら、こまごまとした包みを抱えて入ってくると、部屋の皆が、笑顔で出迎えることになる。 「待ってたわ。」 「いらしゃあい。」
彼は照れたように笑いながら、真っ直ぐに妻のところへ行く。
「遅くなってごめん。」 「ちっとも遅くないじゃないの。」 「きみを待たせてるかと思うと、いつだって遅刻した気分になっちゃうよ。」 「おかしな人ねえ。毎週も来なくたっていいのに。」 「来るの、迷惑?」
少し拗ねた顔になる彼に、彼女は、 「馬鹿ねえ。」 と、笑って、言う。
それから彼女は、数々のプレゼントを受け取る。それはもう、見舞いの品というよりは、恋人に贈るプレゼントと呼ぶほうが相応しく思えるのだった。 「あら。素敵なブレスレット。」 「だろ?きみに似合うと思って。今、着けてみてよ。」 「ありがとう。でも・・・。こんなの、私、していく場所ないわ。」 「早く退院して、遊びに行こうよ。」
そんな調子で、彼はいつも面会時間ぎりぎりまで彼女と語り合い、それから、看護婦に注意されて慌てて、さよならのキスをして、病室を名残惜しそうに出て行くという具合。
「本当にやさしいご主人よねえ。」 同室の中年女性が、彼女に聞かせるとも、独り言ともつかない口調で、言う。
--
彼女は、親戚の紹介で彼と知り合った。お互い、一目見た時から気が合って、話し始めると、どこまでもどこまでも転がるボールのように、会話は続くのだった。
「結婚しよう。」 彼のその言葉は、普通なら、会って一ヶ月では早過ぎるものかもしれないが、二人にとっては早過ぎたりしなかった。彼女は、即座にうなずいた。
来月は東京に戻らなくてはいけない。だが、いずれは地元に戻ってくるから、故郷の女性と結婚したくて、あちらこちらにお願いしておいたのだ、と、彼は言った。 「だから、しばらくは東京について来て欲しいんだ。」
彼女は、 「もちろん、行くわ。」 と、言った。
二人共、気持ちは同じだった。片時も離れていたくなかった。
--
東京での生活は、長くは続かなかった。彼女は、持病の喘息が悪化して、入退院を繰り返すはめになったから。結局、彼女や彼女の両親と相談して、彼女は一時的に故郷で療養することとなった。
「ごめんね。」 青ざめた顔で、ヒューヒューと苦しそうな息の下から彼女はつぶやく。
「何言ってんだよ。ちゃんと治すのは、この先、僕らが一緒に暮らすために必要な事なんだから。」 彼は、そう言って、彼女の目のふちに溜まった涙を人差し指で拾う。
それから、毎週、故郷に向かうのが、それを病室で出迎えるのが、彼と彼女の習慣になった。
--
「ねえ。いいのよ。こんなにしょっちゅう来なくても。」 彼女の言葉に、彼はハッとして顔を上げる。
「どういう意味?」 「どういうって。お金、大変でしょう?東京の家賃、高いのに。それから、こんなにいつもいろいろ買ってくれて。入院費だって、かかってるわ。」 「何言ってんだよ?全部、お前のために。」 「だから。ね。お金もちょっとでも貯めて。いつか、あなたと住む家も欲しいし、子供も欲しいの。」 「当たり前だよ。」 「でも、ちょっとおかしいわ。これじゃ、お金貯まるはずないもの。」
彼は、随分と長いこと無言で。
それから、苦しそうに答える。 「分かったよ。これからは月に二回にする。こんなにいろいろ買うのも、やめる。」 「ええ。お願い。あなたの負担が気になるもの。」 「その代わり、手紙、書くよ。」 「そうね。それがいいわね。私も書くわ。」
その日、彼が病室を出て行く後姿を見て、彼女は、何となく声を掛けたくなったのだが、その言葉を飲み込んで、無言で見送る。
--
「お母さん、どうしたの?」 いつもより少し暗い顔で見舞いに来た母が心配で、彼女は訊ねる。
「タカユキさんのことだけど。」 「あら。彼が何か?」 「どうやら、たくさん借金作ってるみたいでね。ちょっと心配なのよ。」 「借金?」 「ええ。ちょっと最近変な電話が掛かってくるようになってね。」 「変なって。」 「そっちに行ってないか、とか。でさ。うちも知りませんって言ってるんだけど。少し心配で、東京のほうに電話してみたけど、なかなか捕まらなくって、それどころか家主さんに家賃を滞納してるから払ってくれって言われちゃって。」 「そんな筈、ないわ。」 「ああ。あんたにこんなこと、言いたくなかったんだけどね。このまえ、やっとタカユキさんと連絡ついて、聞いても、何の心配もないの一点張りだから。あんたからそれとなく聞いてみてちょうだいよ。」 「ええ。ありがとう。ごめんね。お母さん。心配掛けて。」 「何言ってんの。あんたは早く治して。」 「ええ。」
彼女は、母親が帰ってしまうと、しばらくベッドの上で身動きしなかった。それから、彼からの手紙を開く。東京での生活ぶり、貯金の額、そんなものがすべて薄っぺらな言葉となって零れ落ちて行く。
--
彼は、随分と酔っていた。今、どこにいるのか分からないぐらいに。
女がいた。
女は、彼の愛しい妻とは似ても似つかなかった。
妻が恋しかった。一人じゃ、ちゃんとやれない。それは恐怖にも似た気持ちだった。何とか、週一回、妻の笑顔を見ることで頑張ろうとしたけれど、それも減らせと言われたら、週末は耐え難く長かった。気付けば、あちこちの金融会社から借りた金額も増えていた。
そんなことはどうでもいい。手近な女に手を伸ばすと、女は彼の下半身をまさぐって、 「あら。あんた、これじゃ無理よ。」 と、笑った。
「そんなこと言わないでくれよ。」 と、尚も女の体を無理に抑えつけたところで、誰かが後から彼の肩を掴んで来て、一発二発と殴られて、後は記憶が途切れた。
--
ようやくアパートに辿り着くと、電気が点いていた。急いで部屋に飛び込むと、彼女がいた。
「おかえり。遅かったのね。」 「どうして?」 「待ってたのよ。あなたが心配で。」 「なんだよ。待ってたのはこっちだよ。いつだって。」 「分かってるわ。」 「こっちこいよ。」 「ええ。」
彼女は、彼のシャツに血がついているのも構わずに、言われるままに寄り添って。彼は、安堵のあまり、そのままの姿勢で眠りに落ちた。ずっと待ってたんだぜ。おい。お前がいなきゃ・・・。お前がここにいなくちゃ、な。
--
朝、電話の音で目覚める。
妻の姿を探すが、いない。買い物にでも行ったかな。
受話器を取る。
受話器から聞こえる声をうまく理解できなくて、彼は何度も何度も聞き返す。 「残念ですが、奥様は昨夜・・・。」
--
彼女は、小さな木の箱に納まるぐらいになってしまった。
彼女の両親は、最後に彼にあてて彼女が書いた手紙を渡してくれた。
ずっと待たせて、ごめん。タカくん、私を待ってると、駄目になるから。私がいるせいで、駄目になるから。
手紙には、そんな事が書いてあった。なんだよ。何が書いてあるのか、よくわかんねえよ、と、彼は思った。
「あんなに発作がきつくて、一晩中苦しんだのに、ものすごく安らかな顔で逝ったんですよ。」 めっきり老け込んだ彼女の母親が、ぽつりと言った。
2002年09月02日(月) |
彼は、そうやって、ずっとずっと他人を拒絶して、一人で生きて行くのだろうか。どうして、彼は怖くないんだろう? |
「ねえねえ。あの人、かっこいいよ。」 「あの人って?ああ。あの人。うん。見た目はなかなかいいけど、性格はどうなんだろうねえ。」 「性格よりも、私は見た目だよ。見た目。ああん。ああいう人ってもう彼女いるんだろうなあ。」 「ちょっと、アコ、静かにしなよ。にらまれてるよ。」
そう。あの時から。入社式の時から。私は、彼に憧れている。長身で、いつも微笑をたたえたような、その顔に。
--
入社して、ずっとその人に憧れていた。遠くから見て憧れているばかりだたった私が、この夏新しく始まったプロジェクトで彼の下に配置された時、私は、小躍りして喜んだ。
「良かったねえ。」 友人はあきれたような顔で私を見ている。
「だってだってー。こんなに早く一緒に仕事できるとは思わなかったんだもん。」 「だけど、タニグチさんって、ホモだって噂よー。」 「あ。ひどー。でも、ホモでもいいや。あれだけカッコ良かったら。おしゃべりできるだけでもいい。」
実際の彼の噂は、そう悪いものではなかった。特定の恋人がいる気配がないところから、ホモだとか、遊び回っているとかいう人間もいたが、仕事はきっちりするし、彼が女性と一緒のところを見たという人もいないところから、むしろ、仕事以外趣味も持たない、面白味のないやつという言い方をする人間もいた。
とらえどころがない、というのが一番合っているだろうか。
とにかく、どんな噂より、自分の目で確かめよう。
結果、私は、一緒に仕事をしてみて、ますますタニグチという男性に惹かれていった。
グループリーダーという立場の彼は、いつも、穏やかな口調で部下に指示を出し、いつもグループのメンバーが全員帰るまで、自分が先に仕事をあがったことはなかった。部下のちょっとした部分を見つけてさりげなく誉める様子などは、私はいつも嫉妬に駆られながら見ていた。
あれじゃ、放っておいたら誰かにとられちゃうよ。
私コは、焦りから、誰よりも遅くまで仕事をした。何度かは、タニグチと二人きりになることにも成功した。
「もう、しまっていいよ。」 タニグチの柔らかい声が掛かるまで、一心不乱に仕事をしていたふりをする。
そうして、 「あ。もうみんな帰っちゃったんですね。」 などと、わざと言う。
「きみ、ええっと。」 「キノシタアキコです。みんなにはアコって呼ばれてます。」 「キノシタくんは、家、遠いの?」 「電車で二駅です。」 「おくるよ。」 「いいんですか?」 「ああ。」
そんな会話の一つ一つが、全ては夢の中で交わされているような気分だった。
「自宅から通ってんの?」 「え。ああ。はい。一人暮ししたいんですけど、親が許してくれなくて。」 「そうか。いや。家族がいるっていいよ。一人は寂しいだろう。女の子は一人暮らしなんかしないほうがいいよ。」 「タニグチさんは?」 「僕?」 「誰かと一緒に?」 「いや。」
ああ。良かった。
安堵して。
恋人とかいるんですか?って訊こうと思ったけれど、胸がドキドキしているうちに駅に着いてしまって、 「じゃあ。明日。」 って、タニグチさんが笑顔で言うから。
「おつかれさまでした。」 って言うしかなくて。
タニグチさんは、駅まで押して歩いていた自転車にさっと飛び乗ると、行ってしまった。
いるよね。多分。そういうの、何となく分かる。見てても、物欲しげなところとか全然ないし。むしろ、満たされてるっていうのかな。何か、彼を支えるすごく大きくてあったかい存在があって、彼はそのせいでとっても安定してるっていうか。なんだか、そんな感じに見えるもの。
私は、帰りの電車に揺られながら、そんなことを思う。
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「で?どうなの。タニグチさんとは。」 友人が、ビールをぐいっと飲んだ後に、開口一番訊ねる。
「どうって。どうにもなんないわよ。」 「やっぱりねえ。」 「やっぱりって。」 「だって、あれからいろいろ訊いたんだけどさ。タニグチさんって、ほんと、ガード固いっていうか。あれじゃ、ベッドの上で服脱いだって、指一本出して来ないだろうって噂よ。」 「やだ。そういうの、聞きたくないよ。」 「ごめん、ごめん。だけどさ。アコ、無理だって。やめとき。」 「いいじゃない。私、正面から勝負するから。酔ったふりして迫るとかじゃなくてね。ちゃんと、言う。絶対。」 「まあ、そこまで決意が固いなら、とことんいっちゃったほうがいいかもね。」 「うん。」
私も、ビールを、ぐいぐいっと一気に飲む。本当のところ、私はかなり落ち込んでいた。
他の人、好きになったほうがいいかなあ・・・。
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「・・・なんです。」 「え?」 「好き、なんです。」
自分でもびっくりするぐらい声がかすれて、うまく言えなかった。話があるからと、仕事帰りに誘った店で、ろくに味もわからない食事を終えた後、私は意を決して告白した。
「そうか。」 彼は、静かに言った。私の気持ちをちゃんと両手で受けとめて、その重さを探っているようだった。
「きみも、いくらか噂を聞いたと思うけど。僕は、誰かと付き合う気は全然ないんだ。」 「やっぱり・・・。」
私は、自分でも驚くほど落胆して、後から後から涙が溢れてきた。
駄目だったらあきらめよう。そう何回も言い聞かせて来たのに、実際に彼の口から聞く言葉は鋭利な歯で私の心を切り刻む。
「付き合ってもらいたいとか、そんなわがまま言いませんから。いっつも会って欲しいとか、彼女になりたいとか、そういうんじゃなくて。」 「だったら、どうしたいの?」 「分からない。けど、そばにいたいんです。」
彼は困ったように、黙ってしまう。
そんな時でさえ、みんなが見ていて恥かしいから、店を出よう。などと、彼は決して言わなかった。ただ、私が泣き終わるのを待って、そっとハンカチを差し出してくれる。
「今日はすみませんでした。奢ってもらったりして。」 別れ際に、頭をペコリと下げる。
「いいよ。なんだか、今日は心があったかくなったよ。アコちゃんのおかげだ。」 そういって、去って行く彼は、何だかとっても孤独に見えて。
なぜだろう。彼は、そうやって、ずっとずっと他人を拒絶して、一人で生きて行くのだろうか。どうして、彼は怖くないんだろう?
私は、胸が締め付けられるような思いで、彼を見送った。
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翌週のことだった。
部長が、彼の提案を、自分の提案として発表した、それが、社内の提案賞を受賞したのは。賞金は五十万だった。
私は、知っていた。タニグチさんが、夜遅くまで練った提案を、部長があっさりと却下してしまったのを見ていたから。
ひどい・・・。
今日、彼はどんな気持ちでいるんだろう。
先週のことで気まずくて、今週一言もタニグチさんとしゃべっていなかった私だが、さすがにいたたまれずに、彼が仕事を終わるのを待って、 「あの。」 と、声を掛けた。
「どうしたの?」 彼の声はいつもと同じに柔らかだった。
「どうしてですか?」 「どうしてって。」 「部長のことです。黙ってていいんですか?」 「何を怒ってるんだい?」 「だって、これじゃ、あんまり・・・。」 腹が立ってくやしくて、私は泣いていた。
「よく泣くね。」 彼は微笑んでいた。
「帰ろう。」 と、言うから、私は黙ってうなずいて。
無言で歩く。
どこに行くのだろう?
聞くこともできずに、私達は歩いた。
辿り着いたそこは、彼のマンション。
「いいんですか?」 「いいよ。初めてだな。他人を連れて来たのは。」
私は、怒りもくやしさも吹き飛んで、ただ、彼の部屋に入れてもらえる光栄に、眩暈を覚える。
「彼女は、さ。寛大だから。知らない人間が来ても、受け入れてくれるんだよ。」
彼女?
何もない殺風景な部屋が広がっている。
部屋の奥には。
ぶよぶよとした、あれは?
巨大なピンクの豚。
彼は、ネクタイを緩めるのももどかしそうに、その豚の腹に体を投げ出す。
その表情は、安堵。放心。いや。赤ちゃんのように無垢な。
「先輩。私・・・。」
彼の耳にはもう何も聞こえていないようだ。
「あの。私、帰ります。」 そう言うけれど、私の足は凍りついたようにうまく動かない。
くすくすとも、きゃっきゃっとも、つかない笑い声。それが彼の声だと気付くまでに随分掛かった。
それから、私はようやく彼のマンションを出て、酔っぱらいのような足取りで歩き始める。彼を包む絶対的な幸福の理由を、私は知りたかったのだ、という事に気付くけれど、そこで見た光景はあまりに・・・。
「そりゃ、誰とも付き合う気はないってことよね。」 ふふふ。と、私は笑い始める。その声は、次第に大きくなって、ついには大声で笑いだして、私は止まらない。嫌だ。先輩のがうつっちゃったかしら。と思うのだけど、もう、その笑いは抑えることもできなくて。
私の笑い声が夜空に響いている。
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