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セクサロイドは眠らない

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2002年08月31日(土) 酒に酔った勢いで、いつのまにかエイコの手に自分の手を重ねていた。エイコは、少し身をよじらせると、手を引っこめた。

いつものように、赤木と青沼と黄田の三人の中年男は、半分酔ってふらふらと歩きながら、
「そろそろ新しいところを開拓するか。」
などと相談していた。

赤木が
「そうそう。この店なんかどうだ。」
と引っ張り出したチラシの店は、値段も手頃だし、後の二人も、いいんじゃないか、ということになった。

薄暗いボックス席に座ると、女の子がおしぼりを持って来た。まだ、十代のようにも見える。人形のようにスラリと伸びた足に、思わず三人共目をやってしまう。

女の子が去ると、三人は身を乗り出して、彼女の品評を始めた。

「顔がなんていうかな。清純だよな。髪だって染めてないし。」
「わからんぞ。ああいう子に限って、遊んでたりするんだ。」
「ちょっと痩せ過ぎだなあ。」
「いや。後から見たら、なかなかいい尻をしていたぞ。」

そんな話をしているうちにフロアマネージャーが来たので、赤木が、
「さっきの女の子、呼んでもらえる?」
と言った。

「さっきの、といいますと。ああ。エイコちゃんですね。少々お待ちください。」
と、マネージャーは、女の子を呼びに行く。

「お待たせしました。」
エイコと呼ばれた女の子は、硬い表情で三人の間に座る。

「きみも何か飲む?」
「私、お酒は・・・。」
「でも、こういうとこってさ、自分から飲まないと怒られるんじゃない?」
「ここはあまり無理は言わないんです。」
「そうか。じゃ、ジュースでも頼むといい。」

エイコは、ジュースとフルーツを頼むと、取り立てて愛想をするわけでもなく、そこの座り、時折、空いたグラスの水割りを作ったりする以外は、ぼんやりとしていた。明らかに、こういった仕事に真剣に取り組む気はなさそうだった。だが、三人の中年にはそこがまた好もしく、しきりに彼女の機嫌を取るように交互に話しかけてみたりもするのだった。

三人は最後には相当酔ってしまって
「また来るよ。」
と、エイコに言うと、よろめきながら出て行った。

エイコは表情を崩さず見送り、テーブルを片付けるために戻った。

マネージャーがこちらを見ている。文句を言いたいようだ。だけど、どっちみち、文句は言わない。私なりのやり方を貫いていれば、いずれにしても、私みたいなのを好む男がちゃんと付いてくれるから。

事実、エイコは、店でも人気の女の子だった。

--

三人の男は、しょっちゅう一緒に飲み歩いていた。赤木は一度も結婚した事がなく、青沼と黄田は離婚していた。そんな独り者の気楽さが、いつも三人をつるませている。

「こないだの子、良かったなあ。」
「こないだって?」
「ほら。エイコとかいう。」
「ああ。あの子か。少しお上品ぶってて嫌だな。客に気を遣わせる。」
「そこがいいんだよ。」
「そうか?」
「ああ。俺だったら、自分の娘があんな風だったら、もう外には絶対出したりしないよ。逆に、男に媚びまくるような女にだけはなって欲しくないね。」
「それもそうだな。だが、俺達は客だから、もう少しは気を配って欲しいなあ。」

そんなことを言いつつ、三人はなぜかエイコのいる店に足を向けてしまう。エイコが忙しいと言うと、「じゃあ、空くまで待つよ。」ということになり、最後には結構な金額をその店に落とすことになってしまうのだ。

「いつもありがとうございます。」
エイコは、だんだんと気を許し始め、そんな可愛らしい事も言うようになった。

「俺達、エイコちゃんのファンクラブ作ってんだもんなあ。」
青沼が言い、三人で笑う。

--

エイコは三人の男と、それぞれに外でデートするようになっていた。男達はお互いにそれを知りつつ、暗黙のルールで知らんふりをしていた。

今日は、赤木は、エイコにせがまれて高級な和食の店に行き、頼んで奥の座敷に二人にしてもらった。仕事で疲れていた体も、エイコの若さを前にすると急に元気が湧いてくる。何より、赤木はエイコの顔が好きだった。いつまで経っても男に慣れないような、どこか男に怒りを感じているような、その顔が大好きだった。それは単純な欲望とは違う。赤木は、エイコの肉体をどうにかしたい、などという気持ちはまるでなかった。ただ、その硬い表情を見ていると、何か思春期の頃の、もう二度と戻れないような感情。思い出すと、どうしようもない喪失感に包まれて泣きたくなるような。そんな時代を思い出して、おかしくなりそうだった。

赤木は、酒に酔った勢いで、いつのまにかエイコの手に自分の手を重ねていた。

エイコは、少し身をよじらせると、手を引っこめた。

「青沼や黄田とも、こんなことしてるのか?」
いつしか、問い詰めるような口調になっていた。

「ええ。してるわ。おいしいものをいただいて、おしゃべりするだけですけど。」

なあ、俺の女に。喉まで出かかるその声を飲み込む。

何が歯止めになっているのか。抜け駆けはしないという、友情から来る気持ちか。自分の物になれ、などと、エイコが一番嫌がる言葉だとわかっているからか。

「そろそろ行きましょう。」
絶妙のタイミングで、エイコはあっさりとそんな風に言う。

「ああ。行こうか。」
赤木は、ちょっと飲み過ぎたと思いつつ、立ち上がる。

だが、こんな女の子を前にして、飲み過ぎないほうが無理だった。

--

青沼の家は、もうローンも終わったとかいう一戸建てで、少々大声で騒いでも平気な場所にあるので、三人は今日は青沼の家で飲んでいた。

「なあ。あの子のことだが。」
突然、黄田が口を開いた。

「なんだ。エイコちゃんのことか。」
と、青沼が言った。

「俺、正直言って、あの子が気になってる。娘みたいな歳だって、笑われるだろうが。何度かデートもした。」
黄田が、ぽつりぽつりと話し始める。

「ちょっと待ってくれよ。俺も、あの子は気になってんだぜ。」
赤木が、慌てて言う。
「だけどさあ。抜け駆けはまずいと思ってたから、悪さはしてないさ。」

青沼が、口を開く。
「俺もだ。」

黄田は
「そうか。」
と、溜め息のようにつぶやいて、それから、言った。
「三人のものに、しよう。」

「三人のものったって、どうするんだよ。」
「分ければいい。」
「お前、狂ってるのか?」
「ああ。狂ってる。もうとっくの昔に狂ってる。エイコを見た時から。」

赤木は、あのエイコの目を思い出す。俺だって、狂う。その瞬間、社会とか友情とか常識とかを吹っ飛ばされそうな、あの目に。

--

三人は、エイコを青沼の家に誘い出した。

「なあに?三人で。」
「いやね。エイコちゃんのお誕生日が近いって聞いたから。」
「あら。良く知ってるわね。」

エイコは、どこか不審そうな目を三人に向けながら、それでも帰ろうともせず、三人に勧められるままに、少しずつアルコールを口にする。

「随分飲めるようになったんだね。」
黄田が、言う。

「ええ。さすがに飲まないでいるわけにもいかないから。」
エイコは、これから何かが起こることを感じているのだろう。いつもよりずっと早いピッチで酒をあおる。

時間だ。赤木が黄田と青沼にうなずいてみせる。

二人もうなずき返す。

そうして、もう、随分とぐったりしてしまったエイコの透き通るような肌に、注射針を刺し込む。手荒な事はしたくない。

数時間。三人は、そこで身動きもせずにエイコを見つめていた。

エイコは、すっかり硬くなって、まるで本当の人形みたいに転がっていた。

--

黄田は、腰から下をもらった。

尻を上に向けると、そのこんもりと盛り上がった曲線が美しく、黄田は何度も何度もさすって楽しむ。

やっぱり女は尻だよなあ。と、下種な笑みを浮かべる。

エイコが生きている時は指一本触らせてもらえなかったもんな。

--

青沼は、首から下の上半身をもらった。

乳房はそう大きくはなかったが、触ると張りがあって若さを象徴していた。出ていった女房の柔らかくダラリと垂れ下がった乳房とは対照的だ。

その乳房を指先ではじいたり、弾力を楽しんだりしたあとで、青沼は、エイコの上半身の横に体を横たえて、その手をそっと握る。

なんだかな。若い頃を思い出すんだよ。こんな風に手を繋いで歩いたりしたかったな。

--

赤木は、エイコの首から上を。

指一本触れずに、さきほどから眺めている。

エイコの口がゆっくりと開き、いつもの気だるく冷ややかな口調で話し始める。
「ねえ。あなた、私の顔を見てるだけでいいの?」
「ああ。見てるだけでいいんだ。」
「そう。良かった。」
「悪かったな。こんなことになって。」
「いいのよ。私、あなた達のこと、嫌いじゃなかったもの。」
「三人で出した結論なんだ。」
「仲がいいのね。」
「ああ。」
「うらやましいわ。」
「こうでもしなきゃ、お前は俺達のものにならなかったもんな。」
「今頃さあ。あの人達、私の体を好きにしてるかしら。」
「かもな。」
「良かったわ。切り離されてるおかげで、それを感じなくて。私の体に男が触るなんて、考えただけでもぞっとするもの。」
「俺は、見てるだけでいい。なんだろうな。郷愁っていうにはもっと強い感情で揺さぶられるんだよ。」
「わからないけど。このままそっとしててくれたら、助かるわ。」
「変だけど。こうなってからのお前のほうがずっと幸福そうだ。」
「そうね。なんでかしらね。体から解放されるって、すごく素敵だなって。」
「なら、良かった。」

赤木はずいぶんとためらって。それから、エイコの形のいい唇に、指でそっと触れる。

エイコは、柔らかく微笑む。

赤木は、エイコが笑うところを初めて見た、と思った。


2002年08月30日(金) そうなればもう、私は、発情した体を彼に任せて、火照った下半身に支配された時間を過ごす。

「じゃあ、帰るよ。」
恋人が少し名残惜しそうに服を着始める。

「うん。」
私も、わざと甘えたように言う。

「たまには泊まって行きたいんだけどな。」
「だめだめ。このアパート女の子ばっかだから、そういうのうるさいし、ね。」
「うん。わかった。」

恋人はあきらめて私に軽くキスすると、
「じゃな。」
と言って、部屋を出て行く。

私は、恋人の車の音が遠ざかって聞こえなくなるのを確認して、服を脱ぐ。

やっぱり、いいなあ。この格好はくつろぐ。私は、うーん、と背を伸ばし、少しかたくなってしまった体をほぐす。

私は、昼間は人間の姿で、夜は猫の姿で過ごすのだ。

私の母さんもそうだった。

普通の人間だった父さんは、そんな母を、猫としても人間としても愛したけれども、早々に亡くなってしまった。

「いつか、父さんみたいな人と結婚できるといいわね。」
母さんは、しょっちゅう言っていた。

私は本当のところはそうは思わなかった。どちらかというと、母さんは父さんが死んでホッとしたように見えたし。所詮は、人間は人間なのだ。私達のような猫人間の気持ちなんか本当のところは分かりっこない。今の恋人とだって、そろそろ付き合って二年が来ようとしているけれども、私が猫になってしまうことは内緒にしてある。言えば、多分、それを丸ごと受け入れてくれるような。そんなやさしい人だとは分かっていたが。それでも、私は、全部を知られるのが怖かった。

--

日曜の午後。

私と恋人は、恋人の部屋でテレビを見ている。

テレビでは、猫の虐待をした男の報道が流れていた。

私は、その報道に怯え、身震いして、ついにはヒステリックに泣き出してしまったから。恋人は驚いて、私をなだめ、何とか落ち着かせようとした。

「どうしたんだよ。」
「何でもない。放っておいてよ。」

こうなると、自分でも手がつけられないことは分かっていた。いろんなものが吹き出してしまうのだ。小学生の頃、下校中にクラスの男の子達が子猫をいじめて遊んでいたシーンを見て感じた恐怖とか。あるいは、ペットショップで狭い檻に閉じ込められた猫の視線とか。そんなものを見ても、人前では平然と振る舞っているくせに、時折、感情が一気に押し寄せて来て、私はパニックを起こしてしまうのだ。

恋人は、私が前にもこんな風になったことを覚えていて、ただ、私の興奮が治まるまでじっと抱いていてくれた。

何時間経ったろうか。

私は、恋人の腕の中でボンヤリとして、彼の唇を全身に浴びるのを感じていた。私は、快楽の波を漂い、彼の腕にしがみついていた。

「落ち着いた?」

汗ばんだ胸に頭をつけて、私はウトウトしていた。

「ん。」
「良かった。今日は泊まって行けよ。」
「ダメ。それはできない。」
「何でだよ?」
「私、自分の枕じゃないと眠れないし。」

恋人は、少し怒ったように、裸の胸を私から離した。

「ごめん。」
「いいよ。きみが、何を隠したがってるのか分からないけどさ。」

私は少し悲しい気分になって、服を着る。

--

その日は私の誕生日だった。

恋人が笑顔で差し出した大きなバスケットの中からは、ミィミィと泣き声が聞こえていた。

「なに?」
「開けてごらん。」

開けると、そこには小さな白い猫がいた。

「猫、好きだろ?」
「どうして?」
「見てりゃ分かるよ。」
「そう・・・。ありがと。」
「嬉しくない?」
「ううん。嬉しい。でも、アパートで怒られちゃうわ。」
「大丈夫だよ。内緒で飼えば。」
「そうかな。」

私は、彼の嬉しそうな顔に応えようと、無理に笑顔を作った。

--

帰宅して、私は溜め息をつく。この私に猫を飼えと?無理な話を。こんなことになるなら、早いところ私が猫人間だって打ち明けてしまえば良かった。とにかく、2〜3日したら誰かにあげてしまおう。そう思って、その夜はミルクだけやると、隣の部屋に閉じ込めておいた。

だが、夜中泣く小さな声はどうしても聞き逃せなかった。

私は、仕方なく猫の姿で子猫のところに行った。

「ママ?」
「ママじゃないわ。」
「でも、ママと同じ匂いがするよ。」

と、出ない乳をまさぐって、それからようやく子猫は眠りに就いた。

--

私は、恋人とあまり会わなくなった。

会っても、どこか上の空だった。

「結婚。」
という言葉がふいに飛び込んで来て、私は慌てて目を上げる。

「聞いてなかったの?」
恋人は少し怒ったような顔で、私に言う。

「もう、僕はこれ以上待てないからね。」
「そんな急に言われても。」
「いつもそうだ。そうやってノラリクラリ。」
「ごめんなさい。私やっぱり、あなたとは・・・。」
「そうか。」

それが全ての答えだった。

彼は伝票を掴んで、私の前から去った。

--

「ねえ。私、フラれちゃったわ。」
私は、夜、猫に言う。

猫は、人間よりずうっと成長が早い。

いつのまにか、美しい青年に育った猫は、私が何を言おうとおかまいなしに、私の体にのしかかって来る。そうなればもう、私は、発情した体を彼に任せて、火照った下半身に支配された時間を過ごす。

私は、そんな行為も好きだった。恋だとか愛だとか、結婚だとか、所有だとか、そんなものとは関係もなく、ただ欲望を満たし合う時間が。

それから、美しい猫と私は寄り添って眠る。

--

時が過ぎ、私は美しい娘を。

娘も私と同じ。夜は猫になってしまう。私と同じような運命を背負った子は産むまいと思っていたのに、結局、産んでしまったわ。

この子の父猫は、ある日フラリと出て行ったまま、帰って来ない。

私は、年老いて一人暮らしている母に電話をする。
「どう?母さんのほうは最近。」
「新しい恋人ができたのよ。」
「また?」
「また、なんて。やあね。楽しいわよ。お互い、楽しくやりましょうって決めてるの。」

それは、人間の?それとも猫の?なんて無粋なことは訊かないでおこう。

年老いても、母は母なりの人生を楽しんでいるみたいだから。

私は母と会話しながら、代々女の子供しか産まない、猫人間について。あるいは、どこかに男の猫人間もいるのかしら。などととりとめもなく考えてみる。

「あなたも、恋をなさいよ。まだ若いんだからね。」

母の朗らかな声に、私は笑って、
「もちろんよ。」
と、答える。


2002年08月29日(木) 確かに、自分は地味で、決してもてるほうではない。だから、高望みする気は毛頭ない。だが、なんでこんな男なの?3回目

前回までのお話 → 第1回 第2回

「もう一回、殺したらいい。簡単だよ。ひっこ抜けばいい。俺はあんたから養分をもらって生きてる。あんた次第なんだよ。」

ミチコは、ヤマシタの顔を見つめた。

「そんなに見るなって。」
ヤマシタは笑った。

「それもそうね。抜いちゃえばいいんだ。なんで思い付かなかったんだろう。」
「ああ。そうしろよ。お前に殺されるんだったら、いいさ。」

ミチコは少し驚いて、訊ねる。
「なんで?」
「なんでって。さっきも言っただろう?惚れてるからさ。」
「分からないわ。」
「俺、あん時もさ。お前に殺されるの、何だか嬉しかったんだぜ。」
「変よ。」
「変か。そうか。自分でも分からないんだけどさ。好きな女から殺されるのって、最高だなってあん時思ったんだよ。」
「そこまで好きだったら、私の気持ちを察して欲しかった。そうしたら、私だってあなたを殺さずに済んだのに。」
「余計な事だったんだろうけどさ。あんたを引っ張り出してやりたかった。殻に閉じこもって、本当の気持ちを出さないあんたをさ。」
「そうね。余計なことだったわ。」
「だけど、車を運転してる時のあんたはかっこ良かったぜ。いきいきしてて楽しそうだった。いつもの何倍も美人に見えたよ。」
「そりゃ、どうも。」

ミチコは、ビールをヤマシタの顔に差し出す。
「飲む?」
「いや。いらない。あんたに寄生してから、物を食べたいとは思わなくなった。」
「そう。」

ミチコは、残りを飲み干してしまうと、
「寝るわ。」
と、言った。

「俺を抜かないのか?」
「ええ。明日にする。今日は疲れたもの。」
「じゃ、寝顔見てていいか?」
「お好きに。」

ミチコは、コトリと眠りに落ちた。

その夜は、夢を見なかった。

--

そうやって、ミチコは腕から生えたヤマシタと、幾日か過ごした。こんな体では仕事に行くこともできなかったし。だんだんと仕事もどうだってよくなっていた。

ミチコは、どこにも出掛けずに、気が向けばヤマシタとしゃべっていた。こんなにも誰かとしゃべったのは初めてだった。笑うことすら、した。

「そのほうがいい。」
「え?」
「笑顔のほうがずっといい。可愛いよ。」
「やだ。変なこと言わないで。」
「正直に言っただけだ。」
「変ね。あなたのこと、あんなに嫌いだったのに。」
「今は?今も嫌いか?」
「分からないわ。あの時は怖かった。私の人生にどんどん踏み込んでくるあなたが。今は、よく分からない。もう怖くはないわ。なぜかしら。あなたを生かすも殺すも、私次第だからかしら。」
「そうか。」

ヤマシタは笑った。この声は弱々しかった。

いやだ。いつものように笑ってよ。そう言おうとして。

気付けば、ミチコも随分と衰弱していた。ここ数日、ろくに物を食べないでいる一方、ヤマシタから確実に養分を吸われ続けていたのだ。

「なあ。このままじゃ、共倒れだよ。」
「うん。」
「だから、早く俺を抜けって。このままじゃお前、死んじゃうよ。」
「そうするしかないのかしら?」
「ああ。お前まで死んじゃったらダメじゃないか。」
「あなたを・・・。もう一度・・・。」
「そうだ。俺はもう、自分でも自分の体をどうしようもできないから、お前が決めるしかないんだよ。」
「私が、決めるの?」
「そう。あの時みたいに、一気に俺を殺してくれよ。お前に殺されるなら、本望だよ。恨んだりはしないさ。」
「いやよ。」

ミチコの目から涙が転がり落ちた。

「どうしたんだよ?」
「分からない。」
「俺のこと、嫌いだったんだろ?」
「前は。」
「今は?」
「分からない。」
「ま、そんなこと、どっちでもいい。とにかく、俺なんか引っこ抜いてしまえよ。そうすれば、お前は助かる。」
「無理よ。今更、あなたを殺すなんて。」

ぞっとしたのだ。ヤマシタがいなくなること。たった一人になってしまうこと。

馬鹿ね。今までだって一人だったじゃない。

そう言い聞かせても。どうしても。

「ねえ。笑わないで聞いてね。私、あなたのこと、好きみたいよ。」
ミチコは照れ臭くて、ヤマシタの顔も見ずにつぶやくように言った。

「だから、私、あなたと一緒にいるわ。」
「馬鹿だな。大馬鹿だよ。」
「いいの。」

ミチコは、ヤマシタの頬に口づけた。

--

もう、だいぶ朦朧として来た。ヤマシタの茎も、もう、その顔を支える力もなくダラリと垂れ下がっている。

ミチコは、横になると、その傍らにそっとヤマシタの顔を横たえた。

「死ぬの、怖いか?」
「思ったほど怖くはないわ。一人じゃないから。」
「俺もだ。」

二人はもう、言葉を交わさなくてもお互いの気持ちを分かり合うことができるようになっていた。

根は、深く張って、深く深く張って。いずれにしても、引き抜くことなどできないほどだったから。

ミチコは、安堵に包まれて、静かに目を閉じた。

------


2002年08月28日(水) 確かに、自分は地味で、決してもてるほうではない。だから、高望みする気は毛頭ない。だが、なんでこんな男なの?2回目

※昨日のを読まれていない方は昨日の分からお読みください。

「あ。ごめん。寝てた?」
「うん。まあ・・・。」
「今日、いい天気だろ。だから。」
「ね。私、こんな格好だから着替えたいの。」
「ああ。わかった。」

近所の手前、これ以上、ヤマシタに大声を出させるわけにもいかなかったが、ましてや自分の部屋に上げるのも嫌だったので、取り敢えずヤマシタにはアパートの向かいの喫茶店で待っておくように頼んだ。急いで服を着替え、薄く化粧をする。

「お待たせ。」
「ああ。悪かったね。電話してから来ようと思ったんだけど。」
「いいのよ。」

ミチコは、目の前の悪夢に対して、その瞬間冷静だった。

「ねえ。ドライブしない?」
「いいけど、俺、車持ってないよ。」
「私の車を出すわ。」
「へえ。そりゃすごいな。」

ヤマシタは嬉しそうにニヤニヤした。

ヤマシタが助手席で話し続けるのをほとんど無視して、ミチコは無言で車を運転した。もともと車の運転は好きだった。

「車の運転、うまいね。」
「ええ。私ね。私より運転がうまい男としか付き合う気がしないの。」
「はは。ミッちゃんは案外と辛口なんだな。」

車はミチコの実家の近くの山道に入った。ミチコの少々荒い運転のせいでヤマシタは車に酔ったのだろう。だんだんと口数が少なくなった。

ミチコは、適当なところで車を停めて、ヤマシタに言った。
「ねえ。あそこにある花を取って来てよ。」
「花?」
「早く。お願い。」

ヤマシタはふらふらと、ミチコが指差すほうに歩いて行った。ミチコは、その背後めがけて、思い切り車を発進させた。

ミチコは、車から降りると、まだ息があるが意識を失っている彼を、渾身の力で動かすと、何とか道端まで転がして行き、急斜面から突き落とした。

ミチコの息は荒かったが、悪夢を葬り去ったことに安堵し、再び車に乗り込んだ。

部屋に戻ってシャワーを浴びながら、ミチコは腕の傷に気付く。どこでついたのだろう?思ったより出血がひどいので、消毒して包帯を巻くと、ミチコはベッドに入って眠りに落ちた。その日、夢を見た。ヤマシタの夢を。内容は覚えてないが、あの分厚い唇がニヤニヤと笑い、ひっきりなしにしゃべる夢を見た。

--

「ねえ。あれからどうなった?」
サチエから電話があった。

「あれからって?」
「ほら、あのヤマシタとかいう男。」
「ああ。もう、電話、ないわよ。」
「そう。なら良かった。タケシがね。言うの忘れてたみたいでね。この前ようやく電話したんだけど、何度電話しても全然出ないっていうから。」
「そう・・・。」
「良かったねえ。あんなのに付きまとわれたら迷惑よねえ。タケシはさあ、あれで意外といいやつなんだよ、なんて言うんだけど。ほら。彼、男友達を大事にするから。」
「ねえ。頭痛いの。悪いけど、切るね。」

最近、体の具合もあまり良くないのだ。精神的なものもあるのかもしれない。腕の傷も、表面はふさがったが、中で膿が溜まっているのだろうか、紫色に腫れて、痛みが引かない。

その日は、会社に電話をして2〜3日休む、と告げたのだった。

ミチコは、その左腕があまりに痛むので、小型のナイフでその傷口をそっとつついた。皮膚は避け、ドロリとした半透明の膿が溢れ出して来た。ミチコは、タオルで抑えると、顔をしかめて痛みに耐えた。それから、また、眠ってしまった。最近疲れ易く、寝ても寝ても、ぐったりしている。

目が覚めた時には、夜中だった。腕の裂けた傷口をそのままに、ミチコは、ビールを飲んで、また眠った。

「怪我をしている時にアルコールは良くないよ。」
誰かが、耳元でそんな事を言った。

--

「おい。起きろよ。もう、昼だぜ。」
ヤマシタの声がしている。

「何?どういう事?」
ミチコは、ぼんやりした頭で、辺りを見渡す。

「ここだよ。あんたの腕。」

にょっきりと生えた、ヤマシタの頭。

ひっ。

相変わらずの、ぽっちゃりした顔と、分厚い唇。ミチコの傷からは、何かの植物の茎が伸び、その先にはヤマシタの頭があった。ミチコは、思わず吐き気をもよおす。

「あーあ。飲み過ぎだろ。」
そんなことを言われて、
「違うわよ。あんたのせいよ。」
と、思わず言い返す。

混乱した頭で、ミチコは考える。
「どういうこと?」
「俺だって、知らないよ。あんた、花が欲しいって言ってただろ。だから、俺が花になっちゃたんじゃない?」
ヤマシタは、何がおかしいのか、ヒーヒー笑う。

「取り敢えず、さ。電話。掛けたいんだよ。これでも、俺だっていつまでも無断欠勤はできないからさ。放っておくと騒ぎになるぜ。警察が動いても、あんた困るだろ?なんせ、あの日、近所の人は俺があんたのところに来てたこと、知ってるからなあ。」

ミチコは、こっくりとうなずいて、ヤマシタが言う電話番号を押す。

「あ。もしもし、ヤマシタです。お疲れさまです。実は・・・。」

自分の腕に受話器を差し出して、ヤマシタが、親戚で不幸がどうの、という言い訳をするのを訊きながら、ミチコは尚も必死で、この状況を理解しようとするが、頭痛がますます激しい。

ミチコは、冷蔵庫からビールを出す。

「あんまり飲むなよ。こっちまで酔っちゃうよ。なんせ、あんたから養分もらって生きてるんだから。」
「これが飲まずにいられる?」
「ま、気持ちは分かるけどさ。」

酔って頭をボンヤリさせると、ミチコは今度は、とりとめもなくヤマシタにしゃべり始めた。

「あんたのこと、大嫌いだった。」
「分かってたよ。」
「声を聞くのも。」
「ああ。タケシみたいにかっこよくないからな。」
「なんで、あたしなんだろう?って。他に可愛い子はいっぱいいるのに。」
「なんでだろうなあ。俺もさ。あんたが嫌がってるの分かってたから。」
「じゃ、放っておいてくれたら良かったのに。」
「そうはできなかったんだよ。なんていうのかな。あんた、いっつも一人って感じでさ。ガード固くてさ。なんか、そこが痛々しいんだけど、たまんないっていうか。」
「同情してたの?」
「そんなじゃないよ。惚れてたんだよ。本気で。」
「なんであんたなのよ。おしゃべりであつかましくて、コーヒーの一杯も奢れなくて、車の運転もできない。」
「はは・・・。俺なりには頑張ったんだけどね。」

ミチコはもう、飲み過ぎて朦朧としていた。

「なあ。俺のこと、もう一回殺せよ。」
ヤマシタの声がした。

「どういうこと?」
回らない頭で、問い返した。

明日に続きます・・・。


2002年08月27日(火) 確かに、自分は地味で、決してもてるほうではない。だから、高望みする気は毛頭ない。だが、なんでこんな男なの?

「やあ。今、帰り?」
そう、突然声を掛けられて、思わずミチコは持っていたバッグを落としそうになった。

「えと・・・。」
「ヤマシタだよ。」
「ああ。」
「ね。時間ある?あるなら、ちょっとお茶でも。」
「え・・・。ええ。」

ぽっちゃりした顔のその男は、先日、知人が開いた合コンに来ていた男だった。あの時も一人でしゃべり続けていた。ミチコは、どちらかというと無口で細面の男性が気になっていたのだが、その男性は、ミチコの友人といつの間にか消えていてがっかりさせられた記憶がある。

「偶然だね。こんなところで会うなんて。」
「そうね。」

店で出されたオシボリで顔を拭く男の仕草を嫌悪しながら、ミチコはうんざりして答えた。

「職場、この辺りなの?」
「ええ。まあ。」
「ふうん。や。たまたま暇だったんでこっちのほうまで足を伸ばしたんだよ。きみに会えて良かった。」

ミチコは、ふと、この男はわざと私を待ち伏せていたのではないかと疑う。

アイスコーヒーをズズッと音を立てて飲むところも、耳を塞ぎたくなるぐらいだ。

「この前の合コンさあ。あの後、きみを誘おうと思ってたんだよね。なのに、あっという間にいなくなっちゃうから。」
「ええ。ちょっと気分が悪くて。」
「そうか。で?もういいの?」
「ええ。」

なんで、この男なの?ミチコは、泣きそうな気持ちになってくる。確かに、自分は地味で、決してもてるほうではない。むしろ、いつだってその場で一番いいと思える男性が他の女性とくっついてしまうのを、何度も何度も見て来た。だから、高望みする気は毛頭ない。だが、なんでこんな男なの?

「この後、予定は?」
ヤマシタが、しきりに訊いてくる。

「ごめんなさい。今日は、妹から電話が入るの。」
「そうか。残念だなあ。」
ヤマシタは大袈裟に溜め息をつくと、メモを取り出して自分の電話番号を書いてくる。

「じゃ、暇があったら電話してよ。ね。」
そう言って、ミチコの手にメモを押し付けると、立ち上がった。

「行こうか?」

ミチコは、ほっとして立ち上がる。

レジで財布を出すと、ヤマシタが
「わりい。奢ろうと思ってたんだけどさ、今、そんなに手持ちがないんだ。割り勘でいいかな?」
と、訊いて来た。

ミチコは、黙ってうなずきながら、本当につまらない男だ、と心の中で吐き捨てる。

--

ミチコは、もちろん、電話などしなかった。帰宅したら、もう、メモのことなど忘れていた。

風呂上がりに鏡を見る。眼鏡を外した顔は、まあまあ可愛いらしい。肌だって綺麗だ。だけど、今まで一度も男性から誘われたことがない。それが、自分。これから先もずうっとこのまま、誰からも声を掛けられずに生きて行かないといけないのだろうか。

ミチコは、そんな悲しい予感を振り払って、布団に入る。

なかなか寝つけない。

--

ヤマシタと会ってから、一週間ほど経った頃、急に電話がなった。

「もしもし?」
「あ。俺。ヤマシタ。」
「なんで、この電話が分かったの?」
「教えてもらったんだよ。この前一緒に飲んだ時の、あの背が高いやつ、いただろ。あいつ、きみの友達と結局くっついたんだよね。で、教えてって頼み込んだんだ。」

サチエだ。まったく余計なことを。

「全然電話くれないからさあ。」
「忙しかったの。」
「そっか。何の仕事?」
「銀行の窓口係。」
「へえ。すごいとこ勤めてるんだ。」
「すごくないよ。」
「いや。すごいよ。」

そう称賛されるのは、悪い気はしない。だが、なんで今、自分はこの男としゃべってるんだろう?なかなか切ることもできず、ヤマシタの、こちらに口を挟ませないで質問の答えだけを誘導していく、奇妙に巧みな話術に巻き込まれて、一時間などすぐに過ぎ去ってしまった。

「あの。私、明日早いから。」
「ああ。ごめん。また、電話するよ。じゃな。」

ようやく電話を切ることができて、ミチコは、ほうっと息を吐く。

黒い雲が、ミチコの心に広がっていた。

変なのに付きまとわれちゃってるなあ。サチエに電話して抗議しようとして、手が止まる。サチエは、それこそ、出来たての恋人に夢中なのだろう。この時間はいつだって話し中だ。

--

「ごめんね。ほんと、悪気はなかったんだ。」
さっきから、サチエは平謝りだ。

「迷惑してるのよ。」
「だってさあ。この前ミチコと偶然会って借りたものがあるから電話番号教えてくれって言われて、どうしても断れなくて。」
「大好きな彼の頼みだからでしょ?」

私は、思いきり皮肉を込めて言ってやる。

「そういうんじゃないけど。彼、友達想いなのよ。」
「どうでもいいわ。とにかく、私、迷惑してるんだから。」
「全然、無理そう?」
「何が?」
「ヤマシタくんと付き合うってのは。」
「無理よ。無理。絶対に無理。」
「分かったわ。タケシに頼んどく。ヤマシタくんにもうミチコに電話しないでって言ってもらうわ。」
「お願いよ。」

私はきつく念を押すと、立ち上がる。

--

相変わらずヤマシタから電話が掛かってくる。

サチエはちゃんと恋人に頼んでくれたのだろうか?イライラして、ヤマシタからの電話に返事をする。

「ね。今度の日曜、暇?」
「忙しい。」
「じゃ、その次は?」
「その次も。」
「そっかー。残念だな。」

ヤマシタは、あきらめたような声になる。

そのうち、本当に、電話もしてこなくなればいいのに。

「ごめんね。じゃあ。」
私は、最近では、自分から有無を言わせず電話を切ることを覚えた。

--

特に予定のない日曜。

私は、いつまでもベッドでゴロゴロしていた。

途端に激しくドアチャイムの音が鳴り出す。

誰?

「僕だよ。ヤマシタでーす。起きてる?」
あのおぞましい声が聞こえて来た。

どうしてここを?

私は、パニックになって、ベッドから飛び起きる。

「ごめん。来ちゃった。新聞取ってないから、まだいるんだよねえ?」
大声で言うものだから、私は慌ててドアを開ける。

「ちょっと。どうしてここが?」
私は、その時、髪を振り乱し、すごい形相をしていたことだろう。だが、そんなことはどうだって良かった。


明日に続きます・・・。


2002年08月23日(金) 嫌な女の子だったと思う。長くした髪が風になびく時、男の子達がどんな風に見るか知っていて、髪に手をやっていた。

「ママ?ママったら。」
「え?」
「やだ。ぼんやりして。ちょっと出掛けて来るね。」
「デート?」
「ふふ。」
「あんまり遅くなっちゃ駄目よ。」
「はーい。」

娘は、明るく私に笑いかけると出て行った。

ぼんやりしていたのは、昔を思い出していたから。私が娘と同じくらいの年齢の頃、私は、男の子達に人気があった。自分でも自覚して振舞っていたから、嫌な女の子だったと思う。長くした髪が風になびく時、男の子達がどんな風に見るか知っていて、髪に手をやっていた。

何人かの男の子に、ひどい事を言ったかもしれない。

あの日。「交際して欲しい」と書かれた手紙を持って、断りに出掛けたんだっけ。校舎の裏で、私は本当に申し訳なさそうな顔して、「ごめんね。」と言った。あの時、私にじっと見つめられて、その子は、「いいんだ。」と曖昧につぶやいて、慌てて行ってしまった。

そんな事を思い出していたのは、夫が出て行ってしまう時、あの時の男の子と同じ目をしていたからだと思う。

--

夫がささやかな浮気をしたのが原因で、私達は離婚をした。私は、プライドがずたずたになり、夫をどうしても許す事ができなくなったのだ。離婚は私から切り出した。そうして何度も話し合いをした。

「しかし、僕には充分な養育費は払えないよ。ミユキだって、来年は大学受験だし。」
「働くわ。」
「そんな事、簡単にいきやしない。」

そんな会話をぐるぐると続けた。

夫は、娘のことを可愛がっていたので、できれば離婚したくなかったのだろう。だが、私は、突っぱねた。

先月、夫はとうとう出て行った。

--

私は、早速仕事を探しに行った。が、ハローワークは、予想外に人がごったがえし、その日は、仕事を求める人の多さと熱気に圧されて、早々に帰宅してしまった。

翌週、ようやく気力を振り絞って、再度ハローワークに行くものの、なかなかこれといった仕事が見つからず、がっくりと肩を落として帰った。

娘は私の焦りを察して、何も言わないでいてくれたし、時折掛かってくる夫から電話は、私のほうがさっさと切ってしまった。

少しの間は、貯金で食べていけばいいわ。

私は、取り敢えず就職をあきらめて、ワープロ教室に通うことにした。

ワープロを習うのは楽しかった。教室の仲間とはすぐ仲良くなり、教室の帰りにお茶を飲んだりするのも、学生に戻ったようで楽しかった。

だが、二週間の受講期間はあっという間に終わってしまった。

--

「ワープロが打てるかた」という募集文句のチラシを見て、面接に行ったのは、その翌週だった。

採用一人に対して、十数人が、順番に面接を受けようと並んでいるのを見て、その瞬間絶望してしまった。思わず、回れ右をして帰ろうかと思ったが、ここまで来たのだからと何とか踏みとどまり、中年の脂ぎった社長の面接を受けた。

「ママ、どうだった?」
「うん。駄目みたい。」
「大丈夫だよ。ママ、頑張ってワープロ練習したもんね。」

翌日だった。社長じきじきに電話が入ったのは。
「もう一度、お越し願えますかね。」

「やったね。ママ。」
「行ってくるわね。」

私は、その会社に再び足を運んだ。

今度は、会社の一番奥の社長室に通された。

ドアが閉まると、その男は切り出した。
「ワープロの要員はもう決まっちゃったんだけどね。うちも、もう一人ぐらいは何とかなるんだよね。」

私は、身を乗り出した。
「どんなお仕事ですの?」
「まあ、仕事ってほどのものはしてもらわなくていいんだ。ただ、たまに夜、食事とかね。そういうのを付き合ってもらえば。あんた、離婚してんでしょう?」

社長の視線に気付いた私は、慌ててソファを立つ。
「私、失礼します。」

尚も
「悪い話じゃないと思うから、ちゃんと考えてよね。」
という声を振り切るようにして、急いで帰宅した。

夕方、娘に起こされるまで、ぐったりと寝込んでいたらしい。

「ママ、大丈夫?」
「ええ・・・。」

涙の跡が残ってないか、慌てて鏡で確かめると、
「お夕飯、作るわね。」
と、キッチンに立った。

夫の言っていた通りだ。本当に大変だった。私は、今更ながらに働く大変さを噛み締め、同時に、離婚した女に向ける世間の目というものを知った。

--

ワープロ教室の仲間から電話で誘いがあった。

「気晴らしに行っておいでよ。」
娘に言われて、私は出掛けることにした。

私達は、再会を喜び合い、おしゃべりに花を咲かせた。みな、一様に、ワープロを習ったぐらいでは就職が難しいことを口にし、幾人かは、それでも事務の仕事などに就く事ができた、と言った。

「で、あなたは?」
私に話の矛先が向けられたので、私は、先日の面接の顛末を語った。

「ひどい男もいるわねえ。」
「だってさあ。こんなに色っぽい女性が離婚したなんて知れたら、周囲が黙ってないわよ。」
「元気だしなさいよね。」

口々の励ましに、私は、じんわりと涙が出て来る。

離婚してから、私は涙もろくなった。

夫の一度きりの浮気よりも、もっともっとひどいものがこの世には満ちていると知って、今更ながら甘えていた頃の自分にぞっとする。

別れ際、一人の女性がメモを手渡してくれた。
「ここの社長さん、最近事業拡大するって言うんでね。人を探してるかもしれないから、行ってみたら?あ。変な人じゃないから。私も知っているけど、立派な方よ。」

私は、ありがとう、とうなずいて、メモを大事に手帳に挟む。

--

気持ちの良いオフィス。

感じのいい従業員の対応。

先日行った会社とは大違いだ。

少し待たされた後、社長室に招き入れられた。

「お待たせしました。」
社長という男は、想像以上に若かった。

少し額が後退しているものの、腹に贅肉もついていない。

「知人に聞いたのですが・・・。」
「ああ。・・・さんですね。よく存じております。なんでも母と稽古事で知り合ったそうで。」
「実は、お仕事が欲しくて。」
「そうですか。」
「履歴書を持って来たんです。」

彼は、私の履歴書をじっと見て、
「失礼ですが、ご結婚は?」
と、訊ねてきた。

「恥かしいのですが、先月離婚いたしました。」
「そうですか。」
彼は、それ以上訊こうともせず、また、履歴書に目を落とした。

心臓がドキドキする。

そう言えば、随分と長い事、私は他人に評価されることなく生きて来たのだった、と思う。

「結構です。明日から来ていただきましょう。」
「え?本当ですか?」
「ええ。是非、あなたの主婦としての視点を、我が社に生かして欲しいと思います。」
「ありがとうございます。」

私は、深く頭を下げた。

--

入社して、数週間があっという間に過ぎ、私は企画室の仕事が楽しめるようになって来た。別れた夫とも、電話で近況を交し合う間柄になった。

「復縁はないの?」
と、問う友人達に、私は笑って首を振った。

その日、私の歓迎会が開かれ、職場のみなが私に声を掛けてくれた。一人でこんなに羽を伸ばすのは何年ぶりだろうか。

ほてりを冷ますため、廊下に出て開いた窓から顔を出していた私に、背後から社長の声がした。
「こんなところにいたんですか。」
「ええ。少し飲み過ぎてしまって。」
「みんなが待ってますよ。」
「すぐ戻ります。」

それから、社長のほうに向き直って、
「本当に、感謝しています。」
と、頭を下げる。

「こちらこそ。」
「社長は、結婚はなさってないんですの?」
「ええ。」
「もてそうなのに。」
「はは。理想の女性が忘れられなくてね。」
「それも、素敵ですわね。」

彼は、少しためらった表情を見せて
「まだ、僕の事、思い出せませんか?」
と、訊いてくる。

私は、彼の顔を見る。それから、記憶を探る。

「校舎の裏で、きみに振られた。」

私は、驚いて声が出ない。

「あの時の?」
「ええ。」
「やだ。私、全然・・・。」
「当たり前だ。僕は、大勢の中の一人だったもの。」
「それで、私を?」
「いや。それは違う。会社の飛躍の時に、若いスタッフ以外の意見を取り入れたかった。信じてください。あなたの採用理由に、個人的な感情は一切なかった。」

私は、動揺していた。

その奮える手をそっと握って、
「お願いです。これからも我が社に貢献を。」
と、言って。

それ以上は何も言わずに去って行く彼の背中にうなずいて。

多分、私は、多くの人の忍耐強いやさしさによって、導かれている。

そう思いながら、私も宴会の会場へと急ぐ。


2002年08月22日(木) 「どうして、マミがこんな目に会うの?こんなにお祈りしたのに、神様はなんてひどい仕打ちをするのかしら。」

「ねえ。ママ。おめめをつぶって。」
「うん。」
「おてて、出して。」
「何かしら?」

手の平に、そっと暖かい感触が触る。

「もう、おめめ開けていいよ。」

私はそっと開ける。

手の平には、小さなキャンディの空き箱。

「開けてもいい?」
「いいよ。」
マミは、くすくす笑っている。

開けると、そこには、小さくたたまれた紙。開くと、「まま」と書かれた絵。それから、セミのぬけがら。

「お隣のおにいちゃんにもらったの。」
「これ、ママがもらってもいいの?」
「うん。だって、マミ、ママのことが大好きなんだもん。」
「でも、パパがやきもち焼いちゃうわねえ。」
「パパにもプレゼント作ったから、あとで渡す。」
「そう。」

五歳になるマミは、誰からも可愛がられる子だった。こぼれそうな瞳。少し茶色がかった髪。唇から飛び出す愛らしさあふれる言葉達。

きっと、隣の男の子は、少し男まさりなところがあるマミに何とか気に入ってもらおうと、セミのぬけがらをプレゼントしたに違いない。そんなことを思うと、私は微笑みが抑えられなくて、つい、マミを抱き締めてしまう。

「まま、暑いよー。」
「あら。ごめんね。おいで。ママ、マミの好きなプリン作ってあげる。」
「わーい。マミ、お手伝いするー。」

そうこうしているうちに、義父が訪ねて来る。

「あら。おとうさん。」
「いや。何。近くまで来たもんでな。マミに梨を持って来たんだ。甘くておいしいぞ。」
「あ。おじいちゃんだー。」

義父も、マミの顔見たさに、しょっちゅう立ち寄る。今晩辺り、また、義父が抜け駆けした事で、義父と義母の間で小さな喧嘩が起こるだろう。

不思議だ。

一人の少女がこれほどまでに周囲を明るくし、何かしてあげたいと思わせるなんて。

マミは、それでも、決して天狗になったりしない。やさしい子。空の天使はこんな顔をしているにちがいない。

誰もがマミの成長を見守り、その豊かな将来に思いを馳せる。

だが、その日はあっけなく訪れる。

ある日、マミの命は原因不明の病で天国に召された。

「どうして、マミがこんな目に会うの?こんなにお祈りしたのに、神様はなんてひどい仕打ちをするのかしら。」
私は号泣する。

夫が。義父が。義母が。多くのマミを知る人達が。マミの死を悼んで、泣く。

--

その病院で、百歳を越える老人は、今、ようやくその長い長い寿命を使い果たそうとしていた。

集まった親族の顔は疲労困憊していた。

「今度こそ、本当でしょうね?」
「ああ。多分。」
「危篤だって何度も呼び出されたっていうのに、その都度持ちこたえちゃって。」
「そんなもんだよ。俺なんて、もう有給使い果たしたもんなあ。」
「だけどさあ。生きてる時も、周りにさんざん迷惑掛けてさあ。ミツエさんなんか、三度も流産したのは、お父さんのせいだってよ。」
「しっ。今、そんなことを言うな。」
「分かってるけど・・・。」

その時、患者の体に繋がっているモニターがフラットになり、一瞬、みな静かになる。

医師が看護婦に
「二十三時三分。」
と、時刻を告げた瞬間、ミツエと呼ばれていた女が号泣する。

あれは、悲しくて泣いてるんじゃない。皆が思った。

その老人は誰からも憎まれた。いっそ死んでくれたらと、何人の人間に思われながら生きて来たことだろう。

誰からも愛されずに最後の時を終えた魂は、長過ぎた勤めを終え、いそいそと天に昇って行く。

--

今日も、地上からは、笑い声や泣き声が絶え間なく響く。私は、それらに耳を傾けながら、せっせと作業にいそしんでいる。

箱の中から、その創造物を一つ手に取って眺める。

「ええっと。これはとても愛らしくできた。まったく、私の最高傑作だ。誰からも愛されるだろう。こんなものが長生きしたら、地上は希望に満ちてしまう。よって、少ししかネジを巻かないでおこう。」

私は、キリキリとニ三度ネジを巻くと、地上に手を伸ばしそっと置く。

さてさて。

お次は。

別のを取り出す。

「おやおや。これは失敗作だ。見た目は良く出来ているが、中の作りが失敗してしまった。これでは、いつも曲がった方向にしか歩かないだろう。だが、面白いぞ。」

私は、キリキリ、キリキリ、と、目一杯ネジを巻くと、また、地上に置く。

「ねえ。遊ぼうよう。」
うるさい天使達が、私の足に絡みついて来る。キーキー騒いで、私の足の親指に齧りついて来るものもいる。

まったく、こやつらは何も考えていない。私を邪魔することばかりだ。なぜ、こんな邪悪なペットを作ってしまったのだろうな。と、自分を呪う。

「お前ら、これだけのネジを適当に巻いて、地上に運んでくれ。そうしたら、遊んでやるよ。」
すっかり疲れた私は、仕事を天使達に任せて、自分はゴロリと雲の上に横になる。

地上では人間達が私の事を「神」と呼んで崇拝しているらしい。

気まぐれ・怠惰・自分勝手。私は、自分の特徴をそっくり込めた創造物を作り続けることで、その愛に応える。

私は、魂の寿命のネジを巻くという我が仕事に、今日もうんざりしているだけの者。ネジの巻き加減はいつだって気まぐれなのだ。


2002年08月21日(水) 「ううん。違うわ。五年経って、ますます彼の事が好きで、彼のためにもっともっと綺麗になりたいって思ったの。」

双子の妹が電話をしてくるから、何事かと思って出向いていった。

最初は、分からなかった。

喫茶店でこちらに手を振っているのが、妹だとは。

「何?あんた、これ一体どういう事?」
思わず大声で叫ぶ。

「美容整形、したの。」
「整形って、あんた・・・。親からもらった顔に傷つけて、平気なの?」
私の声には、なじるような響き。

「やっぱり、怒られると思ったわ。」
「当たり前よ。大体、私達みたいな五十過ぎのおばさんが整形したなんて、周りだっていろんなこと思うんじゃない?」
「考え過ぎよ。」
「そりゃ、あんたは、一人身で気ままにやってるからいいでしょうけどね。」

正直に言えば、妹の整形は成功だった。シワが減り、鼻筋も通り、何より乱杭歯だった歯が美しく整っていた。笑顔が美しかった。

正直に誉めてあげるほど、私は器量が大きくないの。

そう、自分に言い訳しながら、妹の顔を溜め息まじりに眺める。

かつては、同じだった顔。大差ない人生。どこでどう違って来たのか。気付くと私は、夫と子供の世話に追われてくたびれた毎日を送り、妹は、気ままな一人暮しを時々の恋人が彩っていた。

「まったく、思いきったわねえ。」
「ええ。だってね。女として咲き誇れるのもあとちょっとじゃない?」
「まだ、これ以上、男を捕まえようっての?」
「いいえ。整形したのは今の恋人のためよ。」
「だって、今の人って、もう随分になるでしょう?」
「うん。五年。」
「今更、顔が理由であんたの元を去ったりしないと思うのだけど。それとも、若いライバルでも現われたの?」
「ううん。違うわ。ただ、どういえばいいのかしら。五年経って、ますます彼の事が好きで、彼のためにもっともっと綺麗になりたいって思ったの。」
「まったく・・・。」

美しくなれば、人生のいろんなものが、好きな男が、思うままに手に入るわけじゃなし。ましてや、整形なんて半分は自己満足だ。確かに以前より美しくはなったけれども、整形をした事を知らない他人から見れば、絶世の美女というわけではない。そんなにまでして、手に入れられるものがたった一人の男の心なんて。

わからないわ。

私は、立ち上がる。

「おねえちゃん、ごめん。」
振り向くと、妹が頭を下げている。

なんで?なんて、あんたが謝るのよ。あなたの顔だし、好きにすればいいじゃない?それとも、私を哀れんでいるのかしら。平凡な主婦として一生を終えようとしている私を。

そろそろ、息子が部活を終えて帰って来るから、早く帰って夕飯の支度をしなくちゃ。私は、追われるように、家族のために家路を急ぐ。

そうよ。私には、家族がいる。あんたなんかには、この幸福は分からないでしょう。自分をいじって幸せ探しをするといい。

ふと、自分も整形してみることを想像する。妹と私は、他人が見まがうほどに似ていたから、私が整形してもきっと妹とそっくりな仕上がりになるに違いない。だが、頭を振ってその想像を打ち消す。夫は何て言うだろう。子供達は?きっと、私と同じ反応だ。

「いい歳をして、みっともない。」

--

妹は、昔からいつも、私より人気があった。冷静で勉強の良くできる私に比べて、勉強があまりできなかった妹は他人から好かれることだけで世の中を渡っているようなものだった。

うらやましいと思ったこともある。

だが、今の私には、夫と子供がいる。妹には、手に入れられなかったもの。

--

「ねえ。あなた。」
私は、夕飯の時、ふと妹のことを夫に話そうと、声を掛けた。

「ん?」
夫は、不機嫌そうな返事をしたきり、私のことをちらっと見ようともせず、黙々と箸を動かしている。

私は、夫との会話をあきらめて、自分の分を食べることに専念する。

「ねえ。ママ、また太ったんじゃない?」
息子が、私を見て言う。

「そうかしら。」
「ちょっとはおばちゃんを見習えよ。双子だとは思えないよ。いつも、スタイルいいしさ。おしゃれだしさ。」
「ひどいわね。ママはね。あんた達をずーっと一生懸命育てて来たのよ。いっつも忙しくして、ね。ママの服買うぐらいだったら、あんた達のおやつ代にしてたわ。」

そうよ。ママは、あなた達のために。

--

妹の部屋は、綺麗に片付いていて、シンプルだけど、ちょっとしたところにセンスを感じる部屋だ。

「いつも綺麗にしてるわねえ。」
「殺風景だけどね。」
「仕事、どうなの?」
「大変よう。やっぱり、この景気じゃあねえ。」

私は、ふと、気後れを感じる。大学に行くだけの偏差値がなかったから、親に頼んで自らインテリアの専門学校を選んだ妹。専門学校なんか行っても就職できるの?なんていう心配をよそに、ちゃんとインテリアデザイナーの職を得て、一昨年からはフリーでやっている妹。

「おねえちゃん、どうしたの?今日は。」
「ええ。何となく、ね。」
「変なの。」
「恋人とは、どう?」
「うまくいってるわ。この顔も、気に入ってくれたみたいだし。おねえちゃんもしてみれば人生変わるかもよ。」
「今更、変えるっていっても・・・。」
「あら。ちょっとしたことよ。ちょっと手を加えるだけで、自分の気持ちが驚くほど変わるのよ。」
「うちの家族なんか、あなたの恋人みたいに変化に寛大じゃないしね。」
「あら。誰だって、家族が綺麗になるのは大歓迎だと思うけど・・・?」
「いいのよ。」

私は、笑って、目の前の紅茶に砂糖を入れ、くるくるとかき回す。

あとは、とりとめのない話。

なのに、最後に口をついて出た言葉は、こんなものだった。
「ね。整形って幾ら掛かるの?」

--

私は、今、ピンク色のクリニックの前に立っている。

バッグを握り締め、随分と長く。

「やあね。実際は整形なんてやらないわよ。」
妹にはそう言ったものの、あの時にはもう心は決まっていたのだ。

夫や子供の称賛の声を想像する。

そうして、深く息を吸い込んで、思い切ってクリニックのドアを開ける。

--

「なんだ、そりゃ?」
出張から帰って来た夫が、ぎょっとしたような顔でこちらを見る。

腫れは引いているから、そんなにおかしくはない筈なのに。

「分かる?」
「あ・・・、ああ。」

私は、胸をときめかせて次の言葉を待つ。だが、夫は私から目をそらすと、「疲れた、」と一言いって、寝室に入ってしまった。

何?

どうしたの?

誉めてくれないの?

私は、くやし涙をこぼす。三百万もかけた結果がこれ?

--

私は、最近、また太ったかもしれない。鏡を見ると、妹の顔と似ているような、全然違うような顔が、こちらをボンヤリと見ている。夫は、もう、私の顔をあまり見ない。

さっき、携帯で誰かと話をして、それから、ちょっと出かけてくるわ、と言ってどこかに行ってしまった。浮気をしているのかもしれない。いや。それはないかな。あんなぼんくら男。妻が綺麗になっても、誉め言葉の一つも言えない。家庭があっても恋愛するような男は、妹の恋人みたいな男じゃなくちゃ無理だ。妹から聞けば歯の浮くような言葉のオンパレードだもの。

夫は、最近じゃ、私とあまり口をきかなくなった。やっぱり、整形なんかして怒っているのだろうか?古いタイプの人だし。

私も、気晴らしに、少し化粧を丁寧にして町に出る。

太ったから実際には買わないけれど、秋物の服をウィンドウ越しに眺めて歩く。

あら。前を歩くカップルのうち、男のほうは随分と夫に良く似ている男じゃなくて?それから、腕を絡めて寄り添っている女は。ああ・・・。私と良く似た。いえ、全然似てない・・・。あれは。

そういうことだったの?五年もの間?

私は、その場で、へなへなと座り込む。

「おねえちゃん、ごめん。」
いつか、妹が私に頭を下げた意味が、ようやく今頃になって分かる。


2002年08月20日(火) どうしても都会に馴染めなくて、仕事を続けようと頑張るきみが痩せて行くのが辛くて。僕は、「結婚しよう。」と言った。

もうすぐだ。

もうすぐ、きみの景色に会える。

鈍行の列車の窓から吹き込む風が、僕の頬を撫でる。その風を感じることはできなくても、僕には、分かる。頬に伝わるもので。

--

きみはいつも泣き虫だった。といっても、僕はきみの涙が大好きで。きみは、我慢強くて頑張り屋さんだから、そう簡単に辛いとか、くやしいとかで、泣いたりはしなかった。きみが泣くのは、いつも、嬉しい時。本当に、些細なことで泣くもんだから、付き合い始めの頃はしょっちゅう驚かされていたっけ。

たとえば、田舎のお母さんから届いた小包でも泣いたし、植えた花が芽を出しただけでも泣いた。そんなに泣くと目が溶けて流れ出しちゃうよって僕がからかったりするから、きみは鼻の頭を赤くしたまま笑ったりした。

僕は、きみが泣くのと同じぐらい笑うのも好きだった。

今、僕は、きみの骨が膝の上でカタカタと音を立てるのを聞きながら、電車に乗っている。早く行きたい。その場所へ。そうして、眺めたい。きみがいつも言っていた風景を。

--

僕と、亡くなった妻が会ったのは、都会の真ん中だった。電車に乗ろうと切符の自販機の前にいるけれど、どれを選んでいいのか分からなくて、結局、おろおろと立ち尽くしていたから。僕は、そんなきみが可愛くて、思わず声を掛けたっけ。その時の涙が忘れられない。あんまり泣いて止まらなくなるもんだから、まるで僕が悪さしたみたいに思われたらとバツが悪かった。

後で、ようやく泣き止んだ彼女が、
「ごめんね。びっくりしたでしょう?」
と、かすれた声で言った。

「大丈夫?」
「ええ。一人で本当に心細かったから、誰かに声を掛けてもらったのがすごく嬉しくかったの。私ね、嬉しいとすぐ泣いちゃうの。」
「知らないやつに声を掛けられたら、警戒しなくちゃ。」

彼女は、笑った。

その瞬間、僕は恋に落ちた。

僕らは、週末毎に会った。

どうしても都会に馴染めなくて、仕事を続けようと頑張るきみが痩せて行くのが辛くて。僕は、「結婚しよう。」と言った。

彼女は、また、泣いた。

--

「私の住む場所は、遠い遠い場所で、山の奥で、あなたもあきれるぐらいの田舎なのよ。」
彼女は、そう教えてくれた。

手紙で彼女の母親に結婚の承諾を得て、僕らは安物の指輪と、ケーキで、二人でお祝いをした。

「早く、お母さんに挨拶に行かなくちゃね。」
と、言っていた矢先だった。

僕の運転する車に、対向車がぶつかって来たのは。

最後、きみをかばった背中に強い衝撃が走ったのを覚えている。

--

駅に降り立つと、そこからはもう、歩くしかない。

不器用な格好で歩くから、随分と時間が掛かる。

途中、道端に座って、ペットボトルの水を飲む。うまく飲めなくて、唇の端からこぼれてしまう。まだ、リハビリがすっかり終わらないうちに、僕は病院を抜け出してこの村に来てしまった。

夏休みだからだろうか。昼の暑い時間なのに、子供達が走ってくる。

「あ。誰かいるー。」
「知らんやつじゃ。」
「おじさん、誰?」

子供達は、僕を覗き込み、それから悲鳴を上げる。

「うわ。化け物じゃ。」
「ロボットじゃ。」
「逃げろー。」

そんな台詞は、もう随分と慣れた。

僕は、ゆっくりと立ち上がる。こんなペースじゃ、彼女の母親に会うまでに日が暮れてしまうよ。初めてなのに見慣れた風景を見ながら、僕はゆっくりと歩き続ける。

この道をずうっと真っ直ぐ行ったら、村で一つきりあるポストがあって、そこを右に曲がったら。

そこに立っているのは。

あれは、多分。

--

事故の後、意識を回復した僕に、医師は、「手を尽くしたのですが、残念ながらあなたの体は。」と、事務的に告げた。僕の脳は冷たい金属の体に納められていた。

「妻は?」
僕が最初に発した言葉も、不気味に響く人口音声だった。

「奥さんは、残念ですが・・・。」

僕は、その時、体中を振り絞って、悲鳴を上げようとした。だが、聞こえて来るのは、奇妙に響く金属音だった。

「だが、一つだけ。あなたの目ですが。」
「目?」
「それは、奥様の目です。」
「妻の?」
「ええ。お顔は、とても美しく傷一つなかった。微笑んでいるようでした。その顔にメスを入れるのはしのびなかったのですが、何とか目だけでも救い出したかった。ですから、勝手とは知りつつ・・・。」

僕は、医者の思いやるような眼差しを見て、うなずくだけだった。

「鏡を貸してください。」
僕は、その醜い顔を覗き込む。だが、そこにただ一つ、活き活きと明るく輝いているのは。そうだ。妻の目だ。黒目がちの、潤んだ。途端に、目から、一筋、二筋。あれよあれよという間に、拭いきれないほどの涙が人口の皮膚を伝った。

「馬鹿だなあ。泣くなよ。」
僕は、僕の目に向かって、言った。

--

今、その老婆は、僕に向かって手を振っている。

あらかじめ、何度も手紙をやり取りして、僕らの事をしっかり理解してもらったから、大丈夫だ。

僕と彼女は、今、一つの光景を見ている。

僕の目からは相変わらず、涙が。

「本当に泣き虫なんだから。」
僕は、つぶやいて、残りの人生を過ごす場所を。そうして、ずっと懐かしく思って来た場所を。涙でかすんだ瞳ごしに見つめる。


2002年08月19日(月) 足を水に浸す。すうっと体が潤うような気分になり、気持ちがいい。私は、そのまま眠ってしまう。

ナツミが、大声で訊いてくる。
「ママー、私の体操服、乾いてる?」
「ええ。ちゃんと乾かしてたたんであるわよ。」
「さんきゅ。」

そんな会話の合間にも、バタバタとシュウイチが玄関のほうに走って行くから、
「朝ご飯は?」
と、問うと、
「朝練、遅れるからいいっ。」
と、出て行ってしまう。

そろそろ、タイチとミサキを起こさなくちゃ。

朝の我が家はいつもにぎやかで。

ようやく起き出して来た夫は、うるさそうに顔をしかめながら新聞を広げる。

「今夜、付き合いがあるから。」
「じゃ、お夕飯はいいのね?」
「ああ。」

夫は、小さいながらもグラフィックデザインの会社を経営し、最近では何とか軌道に乗って来たところだ。少し働き過ぎではないかと心配になるが、夫は、「四人の子供を大きくするまでは休んでいられないからな。」と、笑う。

高校二年のシュウイチ、中学三年のナツミ、小学校六年のタイチ、小学校四年のミサキ。我が家の宝物。にぎやかで、みんないい子。そう。欲しかったのは、こんな家庭。

「じゃ、私も、行きますね。」
「ああ。いってらっしゃい。」
タイチとミサキを送り出してしまうと、今度は私が仕事に出る。デザインの専門学校の講師だ。夫の会社も少しずつ順調な売上げを出しているとはいえ、私も仕事をしなくては、とても食べ盛りの子供を四人抱えるのは無理だった。

電車で、知らず知らずに開いた席を探し、即座に座る。

次の駅で老婆が乗って来たのに気付かず居眠りしているふりをするのにも心がチクリと痛むけれど、どうにも最近、体がいうことを聞かないのだ。

電車のアナウンスで飛び起きて、慌てて電車を降りる。

今日も、一日が始まる。

--

「ねえ。ママ、画家になりたかったって本当?」
お風呂で、ミサキが訊いて来る。

「ええ?そんなこと、誰に聞いたの?」
「パパが言ってた。」
「そうね。そんなことを思ってた日もあったわ。」
「じゃ、何でやめちゃったの?」
「ナツミが生まれて、シュウイチが生まれて。そのうち、タイチとミサキも生まれて。子供を育てるのが楽しくなっちゃってね。絵を描くより、ずーっと。」
「ミサキ、ママの描いた絵を見てみたいなあ。」
「じゃ、お風呂から上がったら、昔描いたのを見せてあげるわね。」
「うん。」

ミサキは、末っ子だけに、まだまだ私に甘えたいようで。

周囲から、「お子さんが四人もいたら大変でしょう?」なんて言われた時期もあったけれど。この子がいるから頑張れる。仕事も。家庭も。もう一年か二年空けたほうがいいと医者からも言われたけど、あの時無理をして産んでおいて良かった。

--

お風呂あがり、子供達が四人共集まったところで、私は、昔のスケッチブックを広げる。

「ママ、上手だねえ。」
「ほんとだー。本当にママが描いたの?」
「ねえ。これは?何のお花?」
「色塗ってないね。色塗ったらいいのに。」

その花の絵が、子供達の目を引いたのを嬉しく思いながら答える。
「これはね。家族の花、っていうタイトルなの。色は、赤よ。みんなが思う赤をイメージしてごらん。ママね。このお花を描こうとした時、満足のいく赤が塗れなくてね。結局、まだ、お花は白いまんまなのよ。」

私は、もう、疲れてウトウトしている。

「ママ、風邪引くよ。」
タイチが毛布を持って来てくれる。

「ママ、最近、食事もあんまり食べないし。」
シュウイチとナツミが、心配そうに言い合っている。

大丈夫、大丈夫。

みんなが大きくなるまでは、ママ、ずっとこうやってみんなを・・・。

--

夫とは、パリの留学中に知り合った。私は、才能をささやからながらも、行き詰まりを感じている時で、少し年上で、もう、世界的なコンクールにも入賞した夫の作品に魅せられていたから、初めて会ってから、結婚まではあっという間だった。結婚すると、すぐにナツミを身ごもった。

「子供を産んでからも、絵を続けるといいよ。」
夫はそう言ってくれたけれど。

夫も、デザインだけでは食べていけず、私も家族の生活のためにすぐに働きに出たから、きっかけを失ったまま、ずるずると絵筆を握らない日々が続いて、そのうち、シュウイチが、タイチが、ミサキが。あっという間の六人家族。夫は、一人っ子で、兄弟が多いのに憧れていたというから、とても嬉しそうだった。

--

どうしたのだろう。

今朝、起きあがることもできず、私は、ベッドに横たわったまま。

タイチが心配そうに来てくれる。

「大丈夫よ。ちょっと熱でもあるのかしら。」
私は、心配しないで、というように笑い掛ける。

「ママ、何か欲しいものある?」
「ないわ。」
「だって、ママ、昨日も、一昨日も、夕飯ほとんど食べなかったじゃない。」
「大丈夫だったら。ちょっと夏バテかしらね。」
「スープでも何でも。僕達で作るから。」
「お水、持って来てくれる?洗面器に入れて。足をね。浸したいの。」
「うん。分かった。」

子供というのは、時として、親の力になりたいと切実に願うものなのだ。

勢い良く飛び出して行くタイチの背中を見て、随分とたくましくなったものだと感激せずにはいられない。

「ママ、はい。」
「ありがとう。そこに置いておいてね。」
「うん。」
「じゃ、学校行ってらっしゃい。」
「じゃ、ママも早く良くなってよね。」

仕事先に電話を入れなくては。そう思うけれど、そんな力もなく。足を水に浸す。すうっと体が潤うような気分になり、気持ちがいい。私は、そのまま眠ってしまう。

--

「ママが。ねえ。おねえちゃん、ママが。」
ミサキの金切り声が、どこかで聞こえる。

慌てて、兄弟達が集まってくる足音も。

すすり泣きや、私を呼ぶ声。

どこか遠い。

「パパに電話した?」
「うん。したよ。」

子供達が、力を合わせて、何か大きな出来事に対処しようとしている。

頑張れ。

力を合わせたら、大丈夫だよ。

声も、うまく出せない。

辺りはもう、暗いのだろうか。随分として、夫の声がする。
「ああ。なんてことだ。こんな姿に。」

夫は、何を嘆いているのか。

「パパのせいだよ。パパがいっつもおうちにいないから。」
ミサキの声がする。

違うのよ。パパは、ママやみんなのために。

--

次に意識が戻った時は、私の足は、ひんやりと冷たい土の中。

「ね。本当に、これがママ?」
「当たり前だよ。ママの描いたスケッチブックにあったろ。あんな花、ママにしか描けないもの。」
「ね。すごくきれいな赤だよね。深くてやさしい色。」

子供達の声。

私は、どうやら花になってしまったらしい。

「ねえ。ママは、本当は私達を育てるよりも、ずっとずっと絵を描きたかったんじゃないのかな?」
ナツミが言う。

「違うよ。ママは、きみ達を育てることで、ようやくこの花の色を完成させたんだよ。」
夫の声。

「そうだといいなあ。」
タイチが言う。

「そうに決まってるだろ。」
シュウイチがタイチを小突く音が。

「ねえ。あたし、毎日ママにお水あげる係になるー。」
ミサキが言うから。

「そんなのずるいよ。」
と、一斉に声があがる。


2002年08月17日(土) 「そうだ。妻が一匹。僕が一匹というわけだ。妻もえらく気に入っていて、しょっちゅう同じベッドで寝ているよ。」

その友人の家で、僕は驚くべきものを見た。

美しい女が首に首輪を付けられて、はいつくばって歩いているのである。その滑らかな背から尻にかけてのラインがいやらしく動くさまに驚いて、その瞬間、僕の目はその女に釘付けになった。

僕は、慌てて、友人と、友人を取り巻く男達の顔を見回すが、彼らはその女に目もくれず、談笑している。

お、おい。一体どういう事だよ。

僕は、友人の袖を引っ張った。

「何だ?」
「あれだよ。あれ。なんだよ。新しいお遊びかよ?」
「ああ。あれか。あれは、犬だよ。新しく飼い始めたんだ。今、我々の間では人気の種類でね。なかなか可愛いだろう?」
「可愛いなんてもんじゃないよ。最高だよ。」
「はは。そうか。おまえがそんなに犬好きだったとは知らなかったなあ。」
「ちょ、ちょっと触ってもいいか?」
「ああ。お好きに。」

友人は、また、他の友人達と会話を始めた。

僕は、テーブルの上のビスケットを取ると、女に差し出した。女は、それを少し嗅ぐと、ふん、と知らん顔をした。

贅沢な女だな。

僕は、今度はテーブルにある肉片を取って差し出した。女は、しばらくそれを眺めていたが、ようやく、その形のよい口で僕の手から肉片を食べた。肉汁が唇の端を伝って流れたのをナプキンで拭いてやる瞬間、僕は、激しく興奮してしまったのだった。

女は、それ以上、僕の手から食べ物を食べようとせず、尻を振りながらゆっくりと部屋を出て行った。

「素晴らしい。」
僕は、うっとりとつぶやいた。

「何だ?あれが気に入ったのか?」
そこに居あわせた男のうちの誰かが僕に言った。

「ああ。」
「あれなら、僕も飼ってるぜ。二匹。」
「二匹も!」
「そうだ。妻が一匹。僕が一匹というわけだ。妻もえらく気に入っていて、しょっちゅう同じベッドで寝ているよ。」

僕は、その男の妻と、若い青年がベッドで絡み合う光景を頭に浮かべる。なんて淫らなんだろう。

「あの犬、僕も飼いたいのだが。」
帰り際、僕は知人に言う。

「あれか・・・。きみにはちょっと手が出ないぞ。」
「なんとかするから。バイトでもなんでもして。」
「そこまで言うなら、あの犬の購入ルートを教えんでもないが。」
「頼むよ。」
「しかたがないな。」

友人は少々困惑していたが、僕は犬、いや、あんな素晴らしい女のためなら、何でもするつもりだった。

--

僕は、自分のアパートの万年床に寝転んで、素敵な犬が僕の部屋に来た時のことを想像する。犬は、飼い主に忠実だから、きっと、素晴らしいペットになるだろう。

せめてそれぐらいは、僕の人生、楽しいものであってもいい筈だ。

僕は、いつも、裕福な友人のことをうらやましく思って来た。幼ななじみだというだけで、友人は、僕がいつ訪ねて行っても快く僕を屋敷に入れてくれる。だが、僕以外、そこにいつも集まっている人間は、みな、裕福で、僕とは別世界のやつらばかりだった。

神様というものは、まったく不公平な仕打ちをするものだ。

友人は、人が好いから、僕が行っても帰れとは言わない。僕のことを、昔からの友人と言って紹介してくれる。

なんでだ?なんで、僕を?

金持ちというのは、貧乏人と付き合うことも道楽の一つだと考えているのだろうか?貧乏人を見てみろ。自分より悲惨な人間に自分を見ては、ぞっとして目をそらす。

僕は、そんなことを考えながら、ウトウトしていた。

夜になって、ようやく起き上がると、友人の家からもらってきた料理を広げて、安い焼酎で流し込む。

外では、親をなくした猫がミイミイとうるさいから。僕は、外に出て、猫を蹴飛ばす。猫は、ギャッと声を上げて、どこかに逃げて行く。

そろそろ仕事探さないとな。

--

「例の犬の件だが。」
「ああ。」
「金なら、ある。」
「どうしたんだ?」
「いや。ちょっと借りたんだよ。」
「そうか。実は、僕の知人でブリーダーをやってる人間がいてね。今度、何匹か、売りに出そうとしている情報が入ったんだ。今なら、比較的安く手に入るから、どうだい?見に行ってみるかい?」
「ああ。頼む。」

僕は友人と一緒に早速、そのブリーダーの家を訪ねた。

「おかげさまで、最近ちょっとしたブームになりましてね。」
その男は、友人と同じで、金持ち特有の物腰の柔らかさを有していた。

「ご覧になりますか?」
「ええ。是非。」

僕は、奥に案内されて、息を飲む。

幾人かの若い裸の男女が檻の中で気だるげに寝そべっている。

ああ。これだよ。これ。僕が欲しいのは。

「あの、一番奥の。あれが欲しいのだが。」
「ああ。あの子ですか。さすが、お目が高い。」

僕が犬に見とれている間に、友人が金の話をつけてくれた。

「来週、お届しますよ。」
ブリーダーの男は、にこやかに僕に手を差し出して来た。

僕は、その手を握った。

金持ち特有のふくよかな手だった。

--

翌週、犬は届いた。

「なんだ、これは?」
僕は、配達員の前で怒鳴った。

「確かに、お客さま宛てのお荷物ですが。」
「全然違うだろう。引きとってくれ。」
「それは困ります。」

「いやもう。なんだよ。どういうことだよ。」
僕は、今、途方に暮れて、そのみすぼらしい犬と一緒に部屋にいる。

確かに、その黒目がちの瞳は、あの日選んだ、あの女に似ていたけれど。それだけだった。痩せ細ったその犬は、こちらを見て、飢えたように舌を垂らしていた。

「食うもんなんか、ねえよ。」
僕は、犬に言うと、不貞寝した。

--

友人は、電話で困惑した声で答えていた。
「いや。そんな筈は。だって、確かに一緒に見に行っただろう?あれで間違いない筈だが。」
「とにかく、返すよ。」
「しょうがないな。僕の面目までつぶれる。」
「この際、面目なんてどうだっていいだろう?こっちは大金を払ったんだ。」
「分かった。僕が半額払って買い取るよ。今回はそれで我慢してくれよ。」

結局、僕はその提案を飲むしかなかった。半額とはいえ、あんなみすぼらしい犬に金を払う人間なんて他にいないだろうから。

僕は、どこでどう間違ったのかを考えようとしたが、頭が痛くなったのでやめた。どうも、難しいことを考えようとすると、すぐ頭が痛くなる。

--

翌日、僕は、嫌がる犬を無理に引きずって、友人宅へ行った。入り口で使用人に迎えられて、僕は、屋敷に踏み込む。その瞬間、ただの汚い犬は、あの素晴らしい娘に変わった。

なんてことだ。どういうことだよ?

友人が出て来た。
「いや。残念だな。きみが気に入らなくて。いい犬だよ。これは。」

友人は、その女をやさしく撫でる。女は、僕に怯えた目を見せながら、友人の愛撫に体を預ける。

くそっ。これって、一体なんだよ?

怒りで声も出ない僕に、友人は封筒を差し出す。
「じゃ、これ。現金がいいんだろう?」

僕は、封筒をひったくると、外に飛び出す。

なんだよ、なんだよ、なんだよ。僕は、うまいこと騙されたのか?

--

僕は、自分の部屋に辿り着くと、どこでどう間違ったのかを考える。

何がいけないんだ?

僕は、自分の部屋を見まわす。

友人の部屋からくすねて来た純銀のシガレットケースやら、バカラのグラスが、その輝きを失って転がっている。

どうしてだろう?

友人の家では、どれもこれも、あんなに素敵に見えたのに。

この部屋で見ると、まるでおもちゃにしか見えない。

はは。どこでどう間違ったんだか。

消費者金融の取り立て屋が、ドアを激しくノックしている。


2002年08月16日(金) エリちゃんが、あんまり泣くものだから、僕は、エリちゃんの頬を伝う涙に思わず舌を出して触れた。

エリちゃんは、僕の頭を撫でて悲しそうな顔をするのだ。

原因はわかってる。

彼女の恋人だ。

僕が駄目だっていうんだろう?彼女の恋人は、猫毛アレルギーだから、僕が住んでる部屋に入るだけで、目は真っ赤になるし、ひっきりなしの鼻水も止まらない。

エリちゃんは、恋人と結婚したいと思ってる。そのためには、僕と一緒にいるわけにはいかないのだ。

「ずっと一緒だったのに。マンションに内緒にしてたし。」
エリちゃんは、ワッと泣き出す。

僕は、困って、エリちゃんの頬の涙をそっと舐める。

エリちゃんの涙は、僕が舐めても舐めても、後から溢れてくる。

--

僕は、そっとエリちゃんちを出た。

「エリちゃん、元気でね。」
僕は、つぶやく。

それから、深夜の街をヒタヒタと走る。僕、生まれてから、エリちゃんち出た事なかったから。間違って他の猫のテリトリーに踏み込んで、あやうく半殺しにされかけたりしたけど。

とにかく、走る。

ずっと前に聞いた場所に行くために。

--

その老婆は、僕の顔を見て。
「間に合ってるよ。」
と、言った。

「違うんです。」
「じゃ、何だい?」
「人間にして欲しいんです。」
「やめといたがいいよ。」
「どうして?」
「人間になるのは大変さ。猫みたいに気楽ってわけにはいかない。」
「だけど、もう決めたんです。どうせ、僕、エリちゃんに捨てられたら、死んだほうがましなぐらいですから。」
「やれやれ。」

魔女は、僕の顔をじっと見る。
「まだ、若いのにねえ。」

それから、小さなビンを取り出して渡してくれる。
「これを飲んで、どんな風になりたいか念じてごらん。」
「分かりました。」
「おっと。ここで飲まないでおくれよ。」

僕は、口にビンをくわえて、黙って頭を下げる。

「ほんと、あんたはラッキーだったよ。今日は、私の誕生日だからね。私はとても機嫌がいいのさ。人間にしたら若いほうがいいってことになるんだろうけど、魔女ってのは、年を重ねてこそ一人前だからね。あ。一つ言っておくけどね。今、あんたが心に想ってる人に、あんたが猫だったことを思い出してもらうこと。それから、愛してもらうこと。これが、永遠の変身を成功させるのに重要なことだから。一年経っても、あんたを思い出す人も、愛する人もいなかったら、あんたはもとの猫に戻っちまうからね。」

分かったよ!おばあさん、誕生日おめでとう!

僕は、心の中でそう叫んで、帰り道を急ぐ。

僕は、他の猫も人間も通りかからない路地裏で、その薬を飲む。バイバイ。僕の尻尾。僕のひげ。

--

「まったく、あんなところで裸で倒れてるんだもの。何事かと思うわよ。」

気が付くと、僕はシルクのパジャマを着て、フカフカのベッドに寝ていた。

「ここは?」
「ここはここよ。あんたを助けたの。」
「ありがと。」
「あんたが、そんなに若くて可愛くなかったら、とっくに警察に電話してるところだったわよ。」

化粧は濃いけど、美しいその人は、名前をサエコといった。

「僕、記憶がないんだ。」
「それで?どうするの?」
「分からない。恋人を探す。」
「恋人?」
「うん。」
「どこに住んでるの?」
「分からないけど。」
「話にならないわね。」

僕は、翌週からサエコさんのお店で働くことになった。サエコさんは、都内にカフェを幾つもオープンさせている、やり手の実業家だった。

僕は、本当ならサエコさんのマンションを出て行かないといけなかったのだが、サエコさんは、
「ここにいていいのよ。」
と、言ってくれた。

サエコさんは、時折、迎えの車に乗り込んで出かけて行く。なんでも、結構名の知れた人の愛人という噂だった。

僕は、サエコさんが出かける日は、サエコさんが帰って来るまで起きて待っている。

それから、サエコさんが化粧を落とし、お酒を飲むそばで、ただじっと座っている。そんな時のサエコさんはすごく悲しそうだ。

僕は、ただ、どうしていいか分からずに、サエコさんの向かいに座って。こういう時、猫だったら、尻尾が動いてしまうんだろうな。とか。そんなことを思いながら。

「ねえ。こういう時、人間だったらどうしたらいいのかな。」
なんていう台詞は、サエコさんを笑わせた。

「あんたって、まるで、以前は人間じゃない生き物だったみたいね。」
サエコさんが笑ってくれたので嬉しかった。

「余計なことは言わなくていいの。黙って抱き締めてくれれば。」

僕は、言われた通り、サエコさんを抱き締めた。

サエコさんは、子供みたいにじっとしていた。

--

ある日、カフェに、エリちゃんが来た。

僕は、エリちゃんに思い出してもらわないといけなかった。

だけど当然ながら、エリちゃんは、僕を見て何も気付かなかった。

「何にしましょう?」
「エスプレッソ。」

エリちゃんは、カフェインを取ると眠れなくなると言ってたのに、いつのまにかこんなものを注文する人になっていた。

「素敵なお店ね。こんなところに出来てたなんて。」
「ありがとうございます。」

僕は、ちょっと嬉しくて。それから、時折、エリちゃんは一人で店を訪れるから。

僕は、必ず、エリちゃんが来ると、エリちゃんの周りをうろついてみたり、声を掛けてみたりした。

エリちゃんは、ちょっとほっそりして大人っぽくなったみたいだった。

--

ある日、エリちゃんは、店の中で突然、泣き出して。

それで、僕はオロオロして。

店の外までエリちゃんを追い掛けて行ったことがあった。

エリちゃんが、あんまり泣くものだから、僕は、エリちゃんの頬を伝う涙に思わず舌を出して触れた。

エリちゃんはその瞬間、泣くのもやめて、僕をまじまじと見た。

「あ。ごめん。つい。」

エリちゃんは、ううん、と笑った。
「昔、こんな風に慰めてくれた子がいたわ。」
「誰?素敵なヤツ?」
「ちっちゃくて。いつだって、私を守ろうとしてくれたの。」

エリちゃんは、もう泣き止んでいた。

それから、
「恋人とうまく行かないの。」
とつぶやいた。

--

僕がとても幸福そうだから。サエコさんもあきれたような顔で見ていた。

--

それから間もなくだった。

エリちゃんが僕に結婚の招待状を見せたのは。
「来てくれる?」

僕は、混乱して、うまく答えられなかった。
「なんか、変だよ。僕が行くなんて。」
「そう・・・、かな。お友達だから。」
「友達?」
「そう。なんか、あんまりしゃべらなくても、なつかしくて。私の大事な部分を知っているお友達。」
「僕・・・。」
「いいの。どうせ、お店が忙しいんでしょう?」

エリちゃんは行ってしまった。

--

式の当日。

サエコさんが、へまばかりする僕に、
「帰っていいわ。」
と言った。

僕は、エリちゃんの結婚する会場に走った。

花嫁控え室を探して、僕は、飛び込んだ。

エリちゃんは、すごく綺麗な花嫁さんだった。

「あの。」

エリちゃんは、
「来てくれたんだ?」
って言った。

「ごめん。こんなところまで。」
「いいの。すごく嬉しい。」
「すごく綺麗だ。」

それから、エリちゃんが目をつぶる。

僕は、エリちゃんの唇に、僕の唇を。

唇を離すと、小さく溜め息が漏れる。
「ねえ。思い出したの。あなたが、誰か。あなた、私が飼ってた・・・。」

僕は、うなずく。
「ありがとう。思い出してくれて。」

ドアの外で、新郎の声がする。
「入っていいかい?」

「幸せにね。」
僕は、エリちゃんに片目をつぶって見せると、窓からヒラリと飛び出した。猫は身軽だから、さ。

--

「馬鹿ねえ。」
サエコさんが、お尻に湿布を貼ってくれている。

「とにかく、無茶よ。なんで三階の窓から飛び降りたりしたの?」
「前は、あれぐらい平気だったんだ。」

サエコさんはそれから、グラスを二つ持ってくる。
「ね。人間だとね。こういう時は、お酒を飲むのよ。」

僕は、
「もらうよ。」
と言って、笑おうとするけれど、その顔は痛みのせいで少々歪んでいたに違いない。


2002年08月15日(木) 「あんた、すごいな。」「何が?」「なんだか、こんなに感じてるくせに、顔だけ見たらすげえ冷めてんだもん。」

朝、起きてすぐに、その違和感を感じた。

なんせ、動くたびに感じるのだもの。

私は、すぐさま確認した。

うわっ。

やっぱり。

私の体は、とにかく、女性からみても素晴らしい体になっていた。胸は、豊かに揺れていたが張り詰めていたし、ウェストはくびれ、下腹部にはほとんど贅肉がなかった。肌もなめらかで、きめが細かかった。

本当に?

私は、喜びに溢れ、小躍りする。

その時、"体"が言った。
「ちょっと。ブラくらい、早く着けてよ。胸の形が崩れちゃうじゃない。」

驚いて、私は訊ねる。
「あなた、誰よ?」
「私は、私よ。体の持ち主よ。」
「うそ。」
「ほんとよ。びっくりだわ。今朝起きたら、まるで違う部屋にいるんですもの。」
「ねえ。あなたもしかして、きれいな顔が欲しいって、昨日の流星群に向かって言った?」
「うん。」
「私もよ。素敵な体が欲しいってね。」
「ふうん・・・。」
「最高よ。あなたの体。」
「そりゃ、どうもありがと。」
「あら、不満そうね。」
「うん、まあね。顔は確かにいいけど。性格がねえ。」
「ま。何てこと言うの?」
「ま、いいわよ。これからはお互い、このパーツでやってかなくちゃいけないものね。」

私は、早くも会社に電話して、休暇を取ると告げる。新しい下着や服、買わなくちゃ。

自慢じゃないけど、私は、顔にはちょっとした自信があった。だが、問題は、体だった。ペタンコの胸。ぽっこりと膨らんだ下腹。まるで幼児体型だったから。

男達は、私とベッドを共にすると、大概は驚いて、それから見て見ぬふりをする。けれども、結局、フラれてしまうのだ。この体のせいで。ああ。素敵な体になりたい。この顔にふさわしい体に。そうしたら、もっともっといい男を捕まえて玉の輿に乗ってやるのに。

私は、野心家だった。

とにかく、金がある男が好きだった。

「あなたは?」
私は、"体"に訊く。

「私?大体予想がつくと思うけど、顔がね。ひどかったのよ。だから、体目当てで寄ってくる男も、結局は本気で付き合う相手としては見てくれないってわけ。」
「そうなの。」
「だからさ、私とあんた、ちゃんと組んで動けば無敵ってことよね。」
「ええ。」

私達は、早速、カードを使って、下着やらセクシーな服を買い込む。

「やだ。もっと可愛いブラ、ないのー?」
「馬鹿言わないでよ。こんな大きな胸に合う下着なんて、国産じゃなかなか見つからないんだから。今日のところはこれで我慢してよ。」

私達は、半分喧嘩しながら、下着を買い、服を買った。

「さて。これからどうする?」
お昼を食べながら、私達は相談する。

「ね。お願いがあるの。」
"体"が、言う。

「何?」
「どうしても会いたい男がいるの。」
「いいけど。」
「あたしを振った男よ。」
「わかるわぁ。」
私は、深くうなずく。

「派手な女が好きだって言うのね。」
「そりゃ、ヤな男ねえ。」
「うん。自意識過剰で。」
「また、なんであんた、そんな男に会いたいの?」
「見返してやりたいの。」
「わかったわかった。」

私達は、伝票を掴むと、颯爽と歩く。もう、何もコンプレックスを感じなくていいってなんて気持ちいいんだろう。

男は無職らしかった。

ピンポーン。

「はい。」
奥からのっそりと出て来た男を見て、私は、ひっ、って声を上げそうになった。

「誰?」
薄汚く太ったその男は、私をまじまじと見た。

ちゃんと答えなさいよ。でなきゃ、あんたのその綺麗な顔、爪で引っ掻いてやるから。なんて、"体"が言うものだから。

「あんたが昔フッた女よ。」
と、私は答えた。

「うーん。覚えがないなあ。」
「そりゃ、そうでしょう。」
「ま、上がってよ。散らかってるけど。」

本当に、そうだった。

きったない。

私は、声も出なかった。

男は、私が部屋に入ると、いきなり抱きついて来た。自信満々な態度だった。

「やめて。」
私は、思わず叫んでいた。

"体"は、かまわず、男の手を導いて、自分の下着の中に引き込んでいた。

男は、汗臭い体で私の体にのしかかって来た。

キスだけはやめて。

私は、そう懇願した。男が"体"を愛撫したことで、幸いなことに私は快感を感じなかった。ただ、自分の首から下が別の生き物のように動いているのを見て、なんだか不思議な気がした。

「あんた、すごいな。」
男は、言った。

「何が?」
「なんだか、こんなに感じてるくせに、顔だけ見たらすげえ冷めてんだもん。」
「思い出した?私のこと。」
「いや。思い出せない。だけど、この体、どっかで抱いた気がする。どこでだっけなあ。」

私は、笑い出したいのを抑えた。

男に抱かれる不快感はあったにしても、男が自分の体に夢中になるのは楽しかった。

「なあ。俺の女になってくれよ。」
男がうわ言のように言う。

冗談じゃないわ。

と言おうとした、その口を、私の"手"が覆った。私は、ただ、快楽の呻き声をあげているように思われたことだろう。

--

「一体、なんであんな男がいいの?」
帰り道、私は言った。

「分からない。なんだか、根拠もなく自信満々なところ・・・、かなあ。」
「私は嫌よ。」
「そんなこと言わないで。お願い。じゃなきゃ、ここから飛び降りるから。」

"体"は、歩道橋の手すりに駆け寄る。

「ちょ、ちょっと・・・!」
「ね。いいでしょう?ちょっとだけ。」
「分かったわ。」

私は、あきらめて答える。

実のところ、私は、知りたかった。恋の楽しさを。苦しさを。

私が幼い頃、母が父に捨てられてからずっと。そう。恋の楽しさなんか知らなかった。ずっと見返してやるって、そればっかり。だから、"体"が抱えている不思議な情熱に、私はすっかり魅せられていた。

--

結局、そのろくでなしの男は、早々に、私を、いや私達を捨てた。

「なんで?」
私は、思わず叫んでいた。

"体"のために。

"体"が、震えて止まらなかったから。

「他に女ができたから。」
男は、しゃあしゃあと答える。

「あんたって、ほんとに最低ね。」
「お前が来たんだろう?抱いてくれって。だから、抱いてやったんだよ。」
男は薄笑いを浮かべていたから。

私は、その時ほど激しく男を憎んだことはなかった。

その時だった。

"体"がパッと飛び出して、台所にあった包丁をつかんだのは。

それからは、私の頭は、ただ、目の前で起こった光景を理解しようとするのに必死だった。

血しぶきが飛び、自分の体が生暖かい液体に染まって行く。

"体"の悲鳴が聞こえてくるようだった。

そうだ。しっかりやんな。こんな男は、世の中から消えていなくなったがいいよ。

私は、そうつぶやき続けた。

--

「ねえ。あたしたちさ。本当に欲しいものが手に入ったら、もっと幸せになれるって思ってたよね。」

"体"がつぶやいた。

「うん・・・。」
「ごめんね。私、自分のことばっか。」
「いいのよ。変だけどさ。なんか、ちょっと面白かった。泣いたり、笑ったり。そういうのがさ。あんたから伝わって来て、ほんと。」

体は、ぬるぬるする包丁を、最後に私達の首に当てた。

「ほんと、ごめん。」
「いいって。」
「あんた、いい人だね。」
「あんただって。」

私は、微笑んでさえいたと思う。

自分の体のどこからか血が出ているのは感じたけど。痛みは感じなくて。ただ、だんだんと頭がぼうっとするのだけが分かった。

「誰かをすっごい好きになるのって、なんだかうらやましいなって思ってた。」
私は、そっとささやいた。

「辛かったりもするんだけどね。」

私達は、眠るようにそこに倒れたままだった。"手"がそっと私の頬を撫でてくれていたけど、もう、それも夢の中みたいだった。


2002年08月14日(水) そういうお前こそ、最近、腹の脂肪を気にしてダイエットしてるのは女の子を気にしているせいだろう?僕は、そこんとこ、黙っておく。

朝。

いつもの時間。

「おはよう。」
「おはよう。」

僕は、もうとっくに目が覚めていて、体中にピンピンと力がみなぎっている。

「行くか。」
「おう。」

僕と、カズヤは、朝の街に飛び出して行く。

「はは。朝っぱらから元気いいなあ。」
「当たり前だよ。」

僕達は、道行く人に笑顔を振り撒きながら、駆け足で。

どこに行こう、というのではなくて、こうやってカズヤと一緒にいるのが楽しい。

僕は、犬のルーキーで、飼い主がカズヤだ。僕らはいいコンビだ。声を掛け合いながら、朝の街を。

--

今日もあの子とすれ違う。カズヤも僕も速度を落とし、カズヤはうつむき加減だ。

「おはよう。」
あの子に、僕の声は届かなかったろうか。

素敵な女の子と、その女の子にふさわしい真っ白でフワフワの犬。

僕らは、彼女達とすれ違った直後はちょっとぼうっとしてしまって、しばらく無言で歩く。

いつも、同じぐらいの時間。僕達のささやかな楽しみといえば、彼女達が散歩しているのに行き当たって、その美しい横顔を見ること。

「ね。あの子達も、僕らみたいに気が合ってるだろうか。」
僕は、カズヤに訊いてみる。

「多分ね。多分。」
カズヤは、少し考え事をしている顔でうなずく。

僕は、カズヤの恋の病が思いのほか重傷だと知り、心の中でニヤニヤする。

--

家に帰って、僕は朝食をもらい、カズヤはシャワーを浴びてさっぱりして。

僕は、今朝も朝から食欲旺盛。

「はは。よく食うなあ。」
カズヤが笑っている。

「うん。食べなくちゃね。」
「太ったら、彼女に嫌われるぞ。」
「なに。いいさ。」

そういうお前こそ、最近、腹の脂肪を気にしてダイエットしてるのは女の子を気にしているせいだろう?

僕は、そこんとこ、黙っておく。

「なあ。あの子、どう思う?」
急に、カズヤが訊いてくる。

「うん。素敵なんじゃないかな。」
「あの子、僕の事、どう思ってるかな。」
「どうかな。でも、毎朝顔合わせてりゃ、親近感も湧くんじゃねーの?」
「そうだよな。」
「告白すんのか?」
「いや。見てるだけでいいんだよ。」
「なんだよ。根性ないな。」
「いいさ。」

カズヤは、微笑んで立ち上がる。

いいやつだな。本当に。僕が女の子なら放っておかないのに。

--

今日も、あの子とすれ違う。

「おはよう。」
僕も今日は勇気を出して、白い犬に声を掛けてみる。

だけど、知らん顔されちゃった。声が小さかったろうか。そんなことをグルグル考えてみる。

カズヤは、またボンヤリしている。カズヤもきっと、女の子のことを考えて。

--

「な。告白しろよ。」
僕は、とうとう、しびれを切らしてカズヤに言う。

「そんな。」
「男だろ。」
「だけど、犬の散歩ですれ違うだけのやつに告白なんかされたら、ひくって。」
「大丈夫だよ。駄目でもいいじゃん。もともと、犬の散歩ですれ違うだけなんだし。」
「手紙、書こうかな・・・。」
「ああ。そうしろ、そうしろ。」

カズヤは、部屋に引っ込んでしまった。

何時間も出て来ない。

はは。今頃、紙屑の中で頭抱えてるかな。

随分と時間が経った後、カズヤがようやく出て来た。

「いいか。読むから、聞いてくれよな。」
カズヤは、僕の前でラブレターを。

うん。いいよ。とても心がこもってる。

なんでかな。

僕が犬じゃなけりゃ、今頃、号泣してるぜ。

それぐらい。なんというか、カズヤのラブレターは・・・。

--

次の日の朝。

きっと、カズヤは眠れなかったのだろう。目を真っ赤にして、僕の散歩紐を握っている。

「頑張れよ。」
「ああ。」

いつもの時間。いつもの場所。

彼女達が近付いて来る。

僕らは、立ち止まる。

カズヤは、ペコリと頭を下げて、手紙を差し出す。

女の子は驚いた顔で、カズヤと僕を交互に見ている。

あちゃー。恥かしくて駄目だ。カズヤにとっての世紀の一瞬だ。

途端に、カズヤが散歩紐をぐいと引っ張って。走る。走る。おいおい。分かったから、ちょっと待てよ。おい。カズヤは、何も言わず、走り続ける。

その日は夜までカズヤは一言も僕に離し掛けなかった。

--

次の日。

いつものように僕らは散歩に。

そうして、いつもの場所。いつもの時間。

彼女は通らなかった。

カズヤは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。

次の日も。また、次の日も。

そうして、気付いた。女の子が、僕らに会うのを避けて、散歩の時間を変えてしまったこと。

「大丈夫だよ。」
カズヤは、僕に言う。

僕は、何も言わない。

--

一度だけ、見た。

カズヤが仕事に行ってて、僕は、家の前でウトウトとしていた時。

あの女の子の声がしたから薄目を開けてみたら、彼女、背が高いヤツと一緒に歩いてた。

僕は、目を閉じて。また、眠っているふりをした。

--

あの女の子のことは、カズヤの口からはもう語られることは無かったけど、一度だけ。

「なあ。ルーキー。」
「ん?」
「僕、こんな体だけどさ。でも、こんな僕でも夢を見たかったんだよ。」
カズヤが言う。

「夢は誰だって、見ていいさ。」
僕はカズヤに言う。

カズヤは、しゃべることができない。他人が見たら、僕らはいつも黙って寄り添ってるだけに見えたかもしれないけれど。カズヤが事故で言葉を失った時も、僕はカズヤのそばにいたから。だから、僕らはいつだって、自由に言葉が交わせるのだった。

「僕、思ったんだけどさ。」
僕は、言う。

「ん?」
「あの、女の子達、さ。あの白い犬でさえ、僕とは言葉を交わさなかった。」
「僕らの声、聞こえなかったんだね。」
「ああ。だけどさ。いつか、僕らの言葉が分かる女の子と犬にきっと会えるから。」
「そうかな。」
「そうさ。」
「ルーキーだけでも、いいお嫁さん貰ってやりたいけどな。」
「いいよ。僕は。」

もう、すっかり夜で、僕は眠たいふりをする。

いつか、カズヤにも、素敵な彼女ができるかもしれない。いつか、僕にも、素敵なお嫁さんが来るかもしれない。

それはそれで素敵かもしれないけれど。

犬だって、夢を見る。

目を閉じて。

僕が人間の少年になって。カズヤは、言葉を取り戻して。浜辺を走る夢。一緒に笑う声が、波に吸い込まれて。

犬だって、夢を。

きみだって、夢を。

見ていいのさ。


2002年08月13日(火) それから、私は自分の体を調べるのに、日々の時間を費やすようになった。自分の体を覆う、その皮膚を剥いだ。

気付けば、その薄暗い家で私は母と暮らしていた。

私には、幼い頃の記憶がなかった。

何でも、ひどい大病を患ったとかで。

「生死の境をさ迷ったのよ。」
母は、私の髪を撫でながら、言う。

私は、そんな母の手を取って、
「ごめんね。」
と、言う。

「何言ってるの。」
と、母は私を抱き締める。

「あなたがいるから、今、私はこうして生きていられるのよ。」
と、母は、言う。

私は、年に二度、その病院に行く。

まだ、体が完全に回復していないから、という理由で。「私は一体何の病気なの?」と訊くけれども、「一生治らない病気。」とだけ言われて。病院に入ると、すぐさま、眠らされる。そうして、目が覚めた時には、確かに体が随分と楽になるのだった。

病院の医師は、どこかしら狂気じみた顔をした男で。

「あの人は天才なのよ。」
と、帰り道、母はいつも私に言う。

それから、いかにその医師が素晴らしいかを、夢見るように言い続ける。

「でも、どうして?そんなすごいお医者なら、なんで森の奥でひっそりと開業しているの?」
私は訊いたことがある。

「あの人はね。他人が分かる名誉なんか欲しくなかったの。自分のためだけの研究がしたくて、あんな森の奥に引っ込んじゃったのよ。」
「そう。」

--

母が亡くなったのは、本当にあっという間だった。

街中にインフルエンザが流行った時、私が医者を呼びに行くと言っても聞かなかったのだ。

「外に出ちゃ、駄目。あんたは、体が弱いんだから。」
「大丈夫よ。家では、何だって手伝いができるもの。」
「でも、駄目。お願い。そばにいて。」

母は、そう言って、私が医者を呼ぶのを拒み、あっけなく亡くなってしまった。

医者なら、例のあの医者を呼べばいいのに、とも思ったけれど。

「いい?母さんが死んでも、どこにも連れて行かないで。この家の庭に埋めて。」
母は息を引き取る間際に、そう言い残した。

私は、言われた通り、母を庭に埋めた。

--

私は、そうやって独りぼっちになってしまった。

誰も訪れて来ない部屋で。

ある日、私の腕に小さな突起が出来ているのを知った。

なんだろう?

そういえば、私、そろそろ病院に行かなくちゃいけないのに。医者のいるところまでどうやって行けばいいのか、分からない。母がいつも車に乗せて行ってくれてたから。一人じゃ、出歩いたらいけないよ、といつも言われていたから。

私は、病院に行かないと、死んじゃうんだろうか?

私は、その突起を手で触ってみる。

何ともない。

ただ、確かに確実に、私は、病気のせいだろう。体をうまく動かせなくなっていた。早く、病院に行かなくちゃ。

私はカッターナイフで突起をつついてみる。

血が吹き出すかと思ったが、実際には、皮膚が裂けて現われたのは、小さなネジ頭だった。

「何?」
私は、驚いて、自分の腕を眺める。

私は、慌てて部屋の奥からドライバーを見付けてくると、ゆるんだネジを締める。そうすると、腕から響いていたカタカタという音がおさまった。

私、人間じゃないんだ。

私は、その時、驚くというよりは、いろいろなことの辻褄が合ってほっとした方が先だったのだと思う。きしんで上手く動かせない足のことも。年に二回の入院のことも。一人で外に出るのを禁じられていたことも。

そうだったんだ。

私は、笑った。

それは、良く聞けば、人間の笑い声とは確かに違った。ケケケ・・・と響いた。

--

それから、私は自分の体を調べるのに、日々の時間を費やすようになった。

自分の体を覆う、その人口皮膚を剥いだ。それから、足を取り外してみたり、自分の体を動かすと、歯車が小さくきしんで音を立てるさまをじっと眺めたりした。

次第にそれだけは足らなくなって。私は、自分の体を分解し始めた。

自分で自分の体を壊すのは狂気じみていたかもしれないが、私には、他に生きて行く術がなかった。

たとえば、人は、それまでの生の道のりを知らずして、どうやってその先に歩いて行くことができるのか?

私は、自分の生の源を知りたいと思った。

そうして、私は、自分の体を解体して行き、果ては、もう、どこにもいけない体を抱えて、自分がこの先行くべき道について考えた。

私は、その時点で、自分を元通り組み立てることも可能だったのだ。

だけど。

そこには、何も無かった。空っぽだった。今更、もう一度自分を組み立てて、その中に何を入れればいいというのだろう。

私は、結局、唯一残った腕で、自分の心臓部にあるスイッチを切ることにした。

それは、小さくて赤いランプの光だった。この光が消えれば、私という存在は死に絶えてしまうのだ、と思った。自分が死ぬ、というのは、とても奇妙な感じだったが、怖くはなかった。それどころか、これほどに満足して行動することは、今までになかった、とも思った。

私が私を分解してみて分かったことは、私が間違った存在であったこと。そうして、唯一、抱き締めてくれた母の腕がなければ、私はここにいたってしょうがないのだということ。

だから、私は、心安らかにその時を迎えられた。

私の体から発しているかすかな音が、ヒュゥンと音を立てて止まった。

後には暗闇が待っていた。


2002年08月11日(日) 正直、寂しくてどうしようもない夜が続いていて、私は悲しくてしかたがなかった。彼が入って来て、泣いている私を見て、驚いて。

小さな喫茶店だった。

改装すればもっと若いお客さんも増えるのかもしれないけれど、私は、その古ぼけた店で満足だった。ずっと私を支えてくれたその店で、私は息子と私が食べるものを稼いできたし、そこから他へはどこにも行き場がなかった。

どこにも行き場がない、ということと、愛する、ということは似ているな。

と、なぜか常々そんなことを思いながら、私は、今日もその店で客にコーヒーを入れる。

「あの人も随分長いわねえ。」
いつもの友人が、カウンターで声をひそめて私に言う。

私は、唇に人差し指を当てて、首を振る。

陰気な客だが、客は客だ。陰口は許されない。こんな小さな店だけど、いや、小さな店だからこそ、守らなければならないルールというものもある。

その客は。だが、確かに。もう、何年目になるだろうか?いつも同じ時間にそこに座り、コーヒーを一時間かけて飲むと、出て行く。平凡な老人だが、表情だけが固くこわばり、いつだって、私を、この店を、憎んでいるかと思えるほどだ。

私のことを良く知っている友人は、軽く舌を出すと、いつものように、夫や子供の愚痴をひとしきりしゃべって、帰って行った。

入れ替わりに、中学生になる息子が入って来た。

「こら。表から入らないでって言ったでしょう?」
「うん。ごめん。あの。通信簿。」
「ああ。奥に置いておいて。」
「駄目だよ。今すぐ見てよ。ね。約束だろ。数学、全部5なんだよ。」
「しょうがないわねえ。」

私は、溜め息をついて、財布から取り出した数枚の紙幣を渡す。

「さんきゅ。」
息子は、あっという間にいなくなり、店には、例の陰気な老人と私だけが残る。

一学期、どの教科でもいいからオール5を取ったら欲しがっていたものを買ってあげる、なんて、うっかり約束したものだから。

私は、こちらを見ない客に向かって弁解する。老人は、聞こえてないのか、変わらぬペースで最後の一口を飲み終えると、いつものようにコーヒーの代金をカップの横に置いて出て行ってしまった。

私は、息子の説明は余計だったかしら、と思ったりもしたが、多分、彼は子供が好きなのだろうと思っていたから。

あれは、息子が小学生の頃、いつも注意していたのに、さっきみたいに店に飛び込んで来て、私に話し掛けてきたから、私は老人を気にして、彼の顔を見た。驚いたことに、老人はかすかに微笑んでいるように見えたのだった。だが、一瞬、微笑んだように見えた表情は、すぐさま、悲しみのような怒りのような表情に変わったから、錯覚だったのかもしれない。

--

この店を始めた頃は、私もまだ若く、夫と一緒だった。念願の喫茶店を作ると、だが、夫は、喫茶店ができた途端、あっという間にこの世を去り、私と店だけが残された。

私は、だからこの店を、夫との間にできた子供のように思い、一生懸命に切り盛りして来たのだ。

その中に、一人の学生が、いつからだったろう。常連になっていた。大学生だった彼は、毎日、毎日、通っては、私に日々の出来事を話してくれた。いつしか、大学生は社会人になり、そうして、結婚した。

それは、本当に偶然だった。

店がもうとっくに終わった時間。

私は、てっきり表を閉めたと思って、グラスを傾けていた。夫の命日だった。正直、寂しくてどうしようもない夜が続いていて、私は悲しくてしかたがなかった。

彼が入って来て、泣いている私を見て、驚いて。

そうして、私は次の瞬間抱き締められていた。

十二も年上なのに。

私は、彼の腕でつぶやいた。

「ずっと好きだった。」
彼は、私を強く抱き締めた。

なぜだろう。あの時、どうして拒まなかったのだろう?

だけど、遅かった。私は、その日から、彼を待つようになった。新婚の奥さんに心の中で詫びながら。

彼が何かを言ったわけではない。

その匿名と名乗る男の電話が、恋人の妻が病気で入院した事を告げた時、私は、恋人との別れを決意した。彼が泣いて私を抱いてきても、私は首を振り続けた。彼が来なくなった時、私はつわりの口を抑えて、初めて洗面所で泣いた。

--

ある日。

珍しく立て続けに客が出入りし、その違和感を頭の隅に追いやって、私は忙しく働いた。

ようやく落ちついた時間に、その違和感の理由に気付く。

老人が来ない。

次の日も。

また、次の日も。

一週間が過ぎても、変わらず、老人は来なかった。

私は、小さな不安を抱えて、その夜も店を閉めようとした、その時。少し痩せた老人が、すっと姿を現したから。私はびっくりして、老人を招き入れた。

「どうなさったの?」
私は、老人にコーヒーを出し、自分は煙草の火を点けた。

「来られない事情があってね。」
老人の声は、弱々しくかすれていた。

「心配したわ。」
「そうか。」
「いつも来るお客さんは、みんな家族みたいなものですもの。」
「こんな私でも?」
「もちろん。」

ましてや、毎日欠かさず来てくれていたとなれば。

「あんたを憎んでいた。」
老人は、絞り出すように言った。

「そう・・・。」
私は、何と答えていいか分からなかった。

「息子を殺したのは、あんただから。」
「殺した?」
「ああ。」
「まさか、彼の?」
「そうだ。あの後、嫁は出て行って、あんたに捨てられてた息子は自殺してしまった。」
「あの人が死んだ?」
「そうだ。」

私が最後に愛した男。愛しい一人息子の父親。学生の頃からずっと通ってくれて、私はただ彼が私の入れたコーヒーを飲んで見せてくれる笑顔だけが、欲しいものだった。

「だから、あんたを憎んで。どんな女か見てやろうと思って。」
「だから、この店に毎日来てたのね。」
「ああ。息子が何を思って、ここに通い続けたか、あんたのどこを愛し、どこを憎んだか、全部知りたくてね。」
「そう・・・。」
「随分と長い時間を使ってしまった。」
「本当にね。で?何が分かった?」
「全部分かってしまったら、ここに来る理由は無くなる。」
「じゃあ、もう、全部分かっちゃったんだ?」
「そうだな。」

私は、煙草をもう一本取り出す。

「良かったら,教えてくれる?何が分かったか。」
「あんたをずっと憎んでいた。」
「・・・。」
「殺したいぐらい。どうやって殺したらいいかと。そんな事も考えていた。」
「・・・。」
「一人の少年を見た。息子に良く似ていた。とてもいい子だった。」
「・・・。」
「素晴らしい母親に育てられた子供だけが見せる笑顔を持っていた。」

私は、顔を見られたくなくて、立ち上がり、
「お酒になさる?」
と、訊いた。

「そうだな。」
老人は、答えた。

私は、グラスを二つ出して来た。

「なあ。ずっとずっと、一つのところにいるということは、愛とよく似た行為だと思わんかね。」

私は震える手で、濃い液体を注ぐ。

「ずっと、あんたを憎んでると思ってた。先週まではな。」
老人は、静かに言った。

「だが、事情があって来られなくなった時、初めて思ったよ。長い長い間、私がここに足を運んだ理由が。」
「なんですの?」
「息子が愛した女と、息子によく似た少年をずっと見ていたかったんだな。」

私は、老人が、酒を飲んで、次の言葉を言うのを待った。

「なあ。ずっとここにいたいと思ったんだ。そういうのを愛というんだと、なんだか急に気付いてね。」

私は、老人の乾いた手に、自分の手を重ねる。

「また、明日から毎日いらしてくださる?」
「ああ。来るよ。」

私もまた、長い長い間抱えていた感情がオセロゲームのように引っくり返って行くのを感じた。

老人は、
「今日はもう疲れた。そろそろ帰るよ。」
と。

「また、明日、ね。絶対よ。」

--

次の日も、いつもの時間、あの席は空いたまま。

「ねえ。ここにいつも来てたおじいちゃんがいたじゃない?」
おしゃべり好きの知人が、いつものように噂話を始める。

「あのおじいちゃんさあ。隣町から毎日通ってたみたいよ。でね。先週、急に心臓の発作で倒れて、意識不明だったんだけどさ。昨日、夜、亡くなったみたい。」
「へえ。」
「偶然ね。知ってる人が教えてくれて、で、このお店に来てたおじいちゃんのことだって分かったから、すごくびっくりしてさあ。」

私は、洗い物が忙しくて、顔を上げられない。

「なんだか、いなくなると寂しいわねえ。」
友人は、しみじみとした口調でそんな事を言う。

「いるわよ。」
私は、答える。

「え?」
友人が素っ頓狂な声を出す。

「ねえ。母さん。」
その時、夏休み中の息子が、いきなり飛び込んで来る。

「こら。表から入るなって言ったでしょう?」
私は、息子をにらむ。

息子は、笑えるぐらい、陽に焼けて。

おじいちゃんが見てるわよ。お行儀悪い。

そうつぶやいて、空の席にうなずいて見せる。


2002年08月09日(金) 「馬鹿だなあ。そんなことに焼き餅やいてもしょうがないだろう?第一、僕は今はもう人間なんだし。二度とウサギに戻る気もないしさ。」

「ねえ、昨日の夜、電話が繋がらなかったよ?」
「昨日?うーん。電池切れだったかな。」

僕は、彼女の部屋に来ても、寝転がって、ぼんやりと見たくもないテレビの画面を見ている。

彼女がしきりに何かしゃべっているのを、僕はろくに聞きもしないで相槌を打つ。

きれいに片付いた部屋。

彼女はいつもここで僕を待っている。

「結婚」とか何とかいう言葉が聞こえる。「両親」とか。「そろそろ」とか。僕は、面倒そうな顔をして、彼女の手を引き寄せると、口づける。

「もう、ちゃんと聞いてよ。」
そう言って彼女は口先で怒るけれど、僕はかまわず彼女の服を脱がせる。

「ねえってば。」

--

シャワーを浴びてバスルームを出てみれば、彼女がうつむいている。

「帰るよ。」
僕は、彼女が泣いているのを知っていて、見ないふりをする。

「もうちょっと一緒にいたい。」
「駄目。」

僕は、車のキーを回しながら思う。ちょっと意地が悪かったかな。しょうがない。僕は、一人の時間が好きだから、まだ結婚する気もないし。

機嫌を直した彼女がマンションから出て来たから。

「ごめんね。」
と、小さく言うから。

僕は、
「ん。」
と答えて、車の窓を開けて彼女に軽く口づけて。それから自分の部屋に向かって車を発信させる。

立って見送る彼女が闇に消える。

--

いつも、そんな付き合い。

身勝手な男と、泣き虫の女。

どこにでもいる、退屈な恋人同士。

--

「前、僕がウサギだった時に、」
そんなことを言ってしまったのは、本当にうっかりだった。

「ウサギ?」
彼女は、耳掻きを持つ手を止める。

僕は、その時、彼女の膝枕でボンヤリしていた。

「ああ。ウサギ。」
彼女の反応にうろたえて、僕は答える。

「あなた、ウサギだったの?」
「まあね。」
「どんな?」
「グレーの毛。黒い目。すばしっこい足。」
「素敵だった?」
「ああ。素敵だった。」
「自由だった?」
「自由?いや。誰かに飼われていたけど。でも、素敵だった。パパやママや兄弟達がいて、時折、暖かい胸に抱かれていた。世の中は今よりずっと単純だったしね。」
「そう・・・。」

彼女が突然泣き出すから、僕はわけが分からなかった。まったく、女の子ってどうしてこうもしょっちゅう、突然泣き出すのだろう?

「何だよ?」
「分からない。」
「じゃ、泣くなよ。」
「多分、焼き餅。」
「焼き餅?」
「私の知らないあなたに。」
「馬鹿だなあ。そんなことに焼き餅やいてもしょうがないだろう?第一、僕は今はもう人間なんだし。二度とウサギに戻る気もないしさ。」
「分かってるんだけど。でも、素敵だったんでしょう?」

彼女は、泣き止まなかった。

もしかしたら、理由なんかどうでも良かったのかもしれない。女の子は、いつだって、男の首根っこつかまえて責める機会を待っているから。

僕は、うんざりして、黙って彼女の部屋を出た。

イライラした気分だけが残った。

--

次に彼女の部屋を訪ねたのは、それから三週間が経っていた。もう、喧嘩をした理由も忘れていたが、気まずかったのでしばらく間が開いたのだった。だが、彼女の部屋は空っぽだった。彼女はどこにもいなかった。

僕は、部屋の中を捜して、それから僕宛のメモを見つけた。

「ウサギになってきます。」

ウサギに?

僕は、そのメモを見るまで、彼女と前回交わした会話の内容すら覚えていなかったのだ。

馬鹿だなあ。

まだ、気にしてたのか。

僕は、苦笑して、その紙を丸めようとして。

でも、本当に、きみはウサギになっちゃったのかい?

--

あれから、彼女はまだ戻って来ない。

多分、素敵な白いウサギになって。今頃ニンジンを齧っているかもしれない。

僕は、最近では、休日になると、「ふれあい農場」だのに行って、放し飼いのウサギを一羽ずつ、抱いて、その目を覗き込んでみる。

きっと、彼女がウサギになってたら分かる筈だから。

ねえ。ちゃんと私を見つけてよ。

彼女は、僕のそばにいながら、ずっとそう訴えていたのに、僕ときたら。

そう。

かつて、僕はウサギだった。抱き上げてくれるやさしい手を知っていた。無邪気な瞳を向けることをためらわなかった。そんな素敵な日々を僕がちゃんと思い出せるように、彼女もウサギになっちゃったんだろうな。

それを、「馬鹿だなあ。」なんて言った僕は、本当に馬鹿だったのだ。

僕は、メモをもう一度、見る。そのメモは「探しに来て。」と言っていた。

だから、僕は探す。ちゃんと、探す。

ウサギは鳴かないから、ちゃんと目を見ないと探せない。


2002年08月08日(木) でも、ちょっと面白いじゃない?あんな綺麗な顔で、どんなセックスするか見てやりたいのよね。

ナリコは、嘘つきだね。

そんなことを、幼い頃から繰り返し言われた。

「今日、誰と遊んだ?」
たとえば、小学校に上がったばかりの頃、母親はそんなことをナリコに訊ねる。

「今日は、ミサキちゃんと、チヅルちゃんと遊んだよ。」
「へえ。そう。幼稚園の頃は、あんまり遊んでなかったのにね。」
「うん。」

ナリコの母親は満足そうだった。

だが、翌日、ナリコが小学校から帰って来ると、いきなり頬をはたかれて、
「なんで、そんな嘘をつくの?」
と怒鳴られた。

聞けば、ナリコの母親が買い物帰りにミサキちゃんに会って、
「ナリコと遊んでくれたのね。ありがとう。」
と声を掛けたところ、
「私、ナリちゃんとは遊んでないよ。」
と答えたという。

「その時、母さんがどんな気持ちだったと思う?恥かしいったら。」
と、涙ぐんで、突き飛ばされて、ナリコは柱に頭をぶつけて、ぼんやり思う。

嘘って、どうして、分かっちゃうんだろう。

私とママの間だけにあったら、絶対ばれなかったのに。

ああ。そうか。ミサキちゃんがいけないんだ。ママがミサキちゃんとしゃべったからいけないんだ。

ナリコは、その日の帰り道、ミサキちゃんに
「帰ろう。」
と言った。

ちょうど、チヅルちゃんはピアノのお稽古があったから、ミサキちゃんは「いいよ。」と言った。

帰り道に、ミサキちゃんは、タナカ商店でアイスを買っていた。

学校の帰りにアイスなんか買っちゃいけないんだよ。と、ナリコは言ったが、
「いいって。ナリちゃんも、一口舐めていいよ。」
と、無理に口に押しつけられたので、一口だけ舐めた。

それから、裏山で遊んで、その後、雨で増水した川のそばまで来た時、ナリコはミサキちゃんを川に突き落とした。

最初はミサキちゃんの手や足が、水の流れの間に見えていたけど、そのうち見えなくなった。

ナリコは、家に帰った。

母親に、
「今日は、ミサキちゃんと遊んだ。」
と言うと、母親は、
「本当に?」
と、ナリコを少しにらんだ。

「本当だよ。でね。ミサキちゃんが、学校の帰りにアイス食べた。」
「ナリコは、食べなかったでしょうね?」
「うん。ミサキちゃんだけ、食べた。」
「ナリコはそんなことしちゃ、駄目よ。」
「分かってる。」

その時、電話が鳴った。

ナリコの母親は、しばらく電話でしゃべって、それからナリコに
「ミサキちゃんが帰って来ないって。」
と言った。

夜、ナリコの両親や、警察が来た。

ナリコは、
「裏山で遊んだ後、別れた。」
の一点張りで通した。

結局、皆、あきらめて、町内で捜索隊が結成された。母も加わって、ミサキちゃんを捜した。翌朝、川に張り出している木の枝に、ミサキちゃんの体が引っ掛かっているのが見つかった。

ナリコの母親は、青ざめた顔で、
「川のそばで遊んじゃ駄目よ。」
と、言った。

--

その後も、ナリコにはあまり友達もいなかったが、一人だけ、転校して来た、おとなしいリカという女の子がナリコの遊び相手だった。

と、言っても、ナリコが嘘の言葉を並べるのを黙って聞いているだけの女の子だった。とても美しかったが、ほとんど口を開かず、その子を相手にしていれば、ナリコも嘘つきと責められる事はなかった。ナリコは、リカになんでもしゃべった。本当のことも、嘘のことも。

高校も大学も、ナリコは、リカと一緒だった。

大学に入ると、ナリコにも幾人か恋人ができた。最初は、リカが目当てで寄ってくる男の子達も、リカの愛想のなさにうんざりして、ナリコと親しくなるのだ。

ナリコは、相変わらず嘘つきだった。

だけど、幼い頃と変わったのは、嘘のつき方が上手になった事。

青臭い男達に抱かれる時も、ナリコは嘘をつき続けた。

「気持ちいいか?」
と聞かれたら、
「すごくいいわ。」
と、答えた。

「俺のこと、好きか?」
と聞かれたら、
「あなたがいないと死んじゃうわ。」
と。

それも、本当のように言うから、男達はさして美しくないナリコに夢中になった。

だが、ナリコの嘘がどうしても通用しない男が現われた時、ナリコは、生まれて初めて、苦悩し、怒り、悩んだ。その男は、美しく、知的だった。ナリコは、美しい男が好きだったので、何とか彼を自分に振り向かせたいと、あの手この手を使った。

そうして、ある日とうとう、気付いた。男が、リカのことばかり見ていることを。

ナリコは、そのことに気付き、愕然とした。

--

「ねえ。リカ。あなたのこと、ずっと親友だと思っていたのだけど。」
ナリコは、リカを呼び出して、言った。

「あなた、私が誰のことを好きか知っているでしょう?」

リカは、黙ってうなずいた。

「あの人がどうしても欲しいの。」
ナリコは、懇願した。

「だから?」
「だから、あなたにいなくなって欲しい。」
「いいわよ。」
「いいって?」
「私を殺して。」
「駄目よ。」
「本当は、そうするつもりで呼び出したんでしょう?さ。早く。」

リカは、ナリコの手を取って、自分の喉に持って行った。

違うよ。そんなつもりじゃ・・・。

だけど、ナリコには、もう逆らえなかった。

ナリコは、リカの喉に力を込めた。

リカの喉が、ぐうっと音を立てても、ナリコは力を緩めることができなかった。

暗い部屋で、リカの死体とボンヤリといつまでもいた。

ナリコは、リカの死体に向かって、いつまでもしゃべっていた。男達の事。本当は抱かれたって、全然良くないのよね。下手だし。自分本意で子供だし。お金もあんまり持ってないし。男って、嘘がばれると怒るけどさ。お互いさまだと思うの。結局は男のほうが自分勝手なんだもの。あいつだって、きっとそう。顔は綺麗だけど。どうせ、見かけだけで女の子を判断するのよ。だから、本当は、あいつとも一回寝たら別れるつもりだけどね。でも、ちょっと面白いじゃない?あんな綺麗な顔で、どんなセックスするか見てやりたいのよね。

ねえ。リカ。誰かに訊かれたら、ちゃんと答えてよね。

リカの死は、リカが自分で望んだんだって。

私、本当は全然殺すつもりじゃなかったって。

ほら。私、あんまり信用ないから。

ね。


2002年08月07日(水) 足の感触が、スカート越しに伝わって来て、僕は、動悸を抑えられない。友人打たれて跳ねる足を、夢想する。

一時帰国していた僕が友人の別荘に呼ばれたのは、夏の初めだった。

彼は、小説家で、夏の間は山奥にあるその別荘にこもって小説を書いているというのだ。

その別荘は、山の奥深いところにあった。誰も知らないような場所。

汗だくになって辿り着くと、友人が笑顔で出迎えてくれた。
「遠かったろう。」
「ああ。まいったよ。なんでこんな場所に?」
「うるさいやつらが来なくていいしね。何より、涼しいし。」

確かに、エアコンなどなくても、そこは涼しく、何より静かだった。

僕は、友人のそばに寄り添っている車椅子のほうに目を向けた。

「僕の妻のマリだ。」
友人は、紹介した。

その女性は、
「座ったままでごめんなさいね。」
と言いながら、頭を下げた。

下半身はロングスカートに包まれて、膝にはブランケットが掛けてあった。黒い艶やかな髪の毛がゆるく編まれて胸元に垂れていた。

「驚いたな。いつの間に結婚したんだよ。」
「マスコミに嗅ぎつけられるとうるさいんでね。内緒にしてたんだよ。」
「あれだけ、結婚なんかに縛られるのは嫌だって言ってたのに。」
「気が変わったのさ。きみだって、彼女と話せば分かるよ。」

そんなやり取りを、マリは、微笑んで見ていた。

「これ、おみやげ。」
僕は、手にしていたものを友人に渡した。

「これは?」
「いま、ニューヨークあたりで話題の絵さ。」

その絵には、躍動するイルカが描かれていた。

「見せてちょうだい。」
マリが言った。

マリは、その絵を見ると、何かショックを受けたように、まじまじと絵を見つめた。

だが、友人は、
「後で掛ける場所を決めよう。」
と、マリの手からその絵を取り上げてしまった。

「腹減ったろう。何か用意するから、きみも手伝ってくれ。」
友人は、僕に言った。

「おいおい。客に手伝わせるのかよ。」
「ああ。この別荘では、主人も客もないんだ。」

僕らは、マリを残してキッチンに行った。

そこで友人は声をひそめて、言う。
「マリのことなんだが。」
「ああ。」
「記憶を無くしてる。」
「そうか。」
「なにもかも、事故のせいなんだ。」
「一体、何があったんだよ。」
「海の事故だ。たまたま居合わせた僕が助けたのが、付き合うきっかけなんだよ。マリは、足を片方なくしている。」
「そうか。」
「だから、あの絵は悪いが・・・。」
「ああ。分かった。」
「海でのことを思い出させたくないんだ。」

その時、友人が本当にマリという女を愛していることを痛いほどに感じた。あの、女好きで、会うたびに違う女性を連れていた友人とは別人のようだった。

--

午後は、三人で飲んだり食べたりして、旅の疲れを癒した。主に、僕と友人ばかりがしゃべっていて、マリは、黙って聞いていることが多かった。

僕が、酔った勢いでマリにワインを勧めると、マリは、
「ごめんなさい。私、あまり飲めないの。ほら。私、体がこんなだから、お手洗いが近くなると面倒なの。」
と、言いにくそうに言った。

僕は、「ああ。」と、だけ言って。

マリを見ていると、懐かしいようなもの。何か、失われてしまったもの全部がそこにあるような気分に襲われる。

夜が更けて来た。

友人は、一言、
「もう寝よう。」
と言って、立ち上がり、マリの車椅子を押して出て行ってしまった。

--

飲み過ぎて眠りが浅かったせいもあるだろう。夜中、奇妙な物音で、僕は目を覚ます。

何かを打ち据えているような音。それから、小さく響く悲鳴。

マリの悲鳴だ。

僕は、そっと客室を抜け出して、音のする方に行った。

その部屋には、友人とマリがいるようだった。

夫婦だもの、当たり前だよな。

友人は、しきりにマリを責め立てるような言い方を取り、マリの体を打っているのだろう音がそれに混じって響いて来る。マリは、打たれるたび、悲鳴を。

僕は、耳を塞いで、部屋に戻る。

朝まで眠れない。

--

朝食の席で、僕は、マリの顔をそっと見る。

何もなかったように、無傷な笑顔があった。腕などの露出している部分にも、何の痕跡も。あれは夢だったのだろうか。友人に向けるマリの眼差しも、信頼と愛情に満ちていて、僕が思わず嫉妬するほどだった。

--

だが、夜な夜な、マリの悲鳴が聞こえる。

僕は、耳を傾けずにはいられない。

そうして、マリの白い裸身を想像する。

--

夏も終わり頃、友人は一週間ほど東京に戻ってくる、と言う。
「マリを頼んだ。」
「ああ。」

それでか。と、思った。マリを一人ここに置いて、別荘を空けるのは心配だから、僕が呼ばれたのか、と。

友人は、別荘を発つ間際、マリにそっと口づけて。

マリの髪を、顔を、記憶に刻むように見つめ、それから背を向けて出て行った。

僕は、マリと二人きりになってしまった。

「さて。どうする?暇つぶしにトランプでも?」
考えてもみれば、陽気で話好きの友人がいなくなると、僕らは途端に気まずい空気をそこに意識するのだ。

「お願いがあるの。」
「え?」
「海に連れて行って。」
「海?だけど、それは・・・。」
「お願い。」
「ああ。分かった。」

あいつには、内緒で行きたいんだね。

僕は、マリを抱き上げて、車を停めた場所まで歩いた。片方しかない足の感触が、スカート越しに伝わって来て、僕は、動悸を抑えられない。友人打たれて跳ねる足を、夢想する。

車の場所まで辿り着いた頃には、汗で体がびっしょり濡れていた。

「無理お願いして。」
「いいんだ。」

彼女の白い手が伸びて、僕の顔を流れる汗に触れる。

「行こう。」
その後は、二人とも無言で。

僕は、彼女の告げた海に向かって車を走らせる。

--

「着いた。」
「連れて行って。」
「ああ。」

岸壁から見下ろす海は、波が白く砕けては飛び散り、それは海が手を伸ばして誘っているようにも見えた。

彼女が、あまりにも魅入られたように海を眺めているから。

僕は、ふと、不安になって、
「帰ろう。」
と、言う。

マリは、
「思い出したわ。」
と、僕にささやいて。

それから、僕が抱く腕をほどいて、彼女はヒラリと海に向かって体を投げた。

長いスカートがひるがえって、そこには、美しい曲線を描く尻尾が見えて、うろこがキラリと光った。

--

僕は、長い間、そこに立ち尽くす。

友人は、こうなることを望んでいたのかもしれない。そうして、わざと留守にして、僕をマリと二人きりに。

彼女を海から離して、狭い別荘に閉じ込めて。だが、友人もまた、魂を囚われて。二人、そこから動けないままに、傷つかない肌を傷つける遊びを繰り返していた。

そうだ。僕だって、海で人魚を見かけたら、連れ帰らずにはいられなかったろう。

僕は、車に乗る。

助手席に残された一枚のうろこが、哀しく光る。


2002年08月06日(火) 恥かしがっていたが、次第に、慣れ、そうして、鏡の中の僕らに見せつけるように、足を開いて、微笑んで見せた。

妻が出て行くと言い出したのはあまりにも突然だったので、僕はただ、激昂する以外にできなかった。

「ごめんなさい。」
と、目を潤ませて言う彼女は、僕がいくら責めて理由を問いただしても、何も言わなかった。

彼女は、出て行ってしまった。これまでに身に付けきれないほどに沢山買ってやった宝石も、一部屋全部を埋め尽くすドレスも、何もかも置いたまま。

そして、僕は、途方に暮れる。

--

そこそこ成功したほうだと思う。

二十代で父の会社を継いでからも、父が築いた評価に甘えることなく、会社を更に成長させて来た。子供こそいなかったが、妻を寂しがらせないよう、年に二回は海外旅行に連れて行ってやった。もちろん、多少の浮気はしたが、妻を悲しませるようなやり方はしていない筈だ。

妻だって、今の生活に満足していた筈だ。友人とのランチや旅行を楽しんでいたようだし。なぜ、そんな生活を手放す必要があったのだろう?

「好きな男ができたのか?」
と、問うた。

妻は、黙って首を振った。

だが、その目は、恋する乙女のように濡れていた。

「男だな。」
僕は、妻に言ったが、妻はもう、僕の目を見ていなかった。

--

何が原因か、考えても考えても、分からなかった。

先週末、ハワイに住む姪の結婚式に行った時にも、何も変わった素振りは見せていなかったから。

結婚式が終わった後、他の親族が日本に帰国した後も、私は妻とハワイにしばらく残った。今年は、毎年連れて行く旅行のための時間が取れそうになかったので、ついでに済ませてしまおうと言うわけだ。

そこで、泊まっているホテルに、宿泊の延長を頼んだのだが、これが手違いで、私と妻は同室になってしまった。

夫婦だから、同室は当たり前なのだと思われるだろうが、私と妻は、旅行の時はいつも別室で寝起きしていたので、これには実に困ってしまった。妻は神経質で、夜、誰かと同じ部屋で寝るのを極端に嫌がる。そんなわけで、私は、もう、随分と妻を抱いていなかった。

さぞかし、一緒の部屋で疲れるだろう。

僕は、そんな危惧を抱いて、海で泳いだ後、妻と部屋に戻った。

だが、僕の懸念をよそに、妻は、上機嫌だった。

「素敵な結婚式だったわ。」
どうやら、姪の結婚式に、興奮しているようだった。

「そうだな。」
ふいに、僕は、妻の日に焼けて火照った体に手を回したくなり、その通りにした。本当に、それは、何年かぶりの衝動だった。

妻は、一瞬顔をこわばらせたが、すぐに力を抜き、僕の手の動きに応えて来た。

ハワイの空気が、僕らをそんな風にしたのだろうか。あるいは、姪の結婚式が。

僕は、妻をドレッサーの前に連れて行き、鏡の中の妻に向かってささやいた。
「見てごらん。綺麗だ。」

妻は、最初は恥かしがっていたが、次第に、慣れ、そうして、鏡の中の僕らに見せつけるように、足を開いて、微笑んで見せた。

そんな妻を見るのは、僕も初めてだった。

本当に綺麗だった。三十代の後半とはいえ、まだまだ、張りのある体も。なぜ、こんなにも長いこと、僕は妻を放っておいて平気だったのだろう?

僕らはそうして、ハワイのホテルで三日三晩、抱き合った。

--

帰りの飛行機の中で、妻は物憂げだった。疲れているのだろう、と思って、僕も、話し掛けることをしなかった。

--

そうして、帰国後、ほどなく、妻は出て行ってしまった。

--

電話で、話す。

変な感じだ。つい、先週まで僕のそばで空気のように暮らしていた女が、どこか遠い遠いところにいるような感じ。

「なぜ?」
僕は、まだ、執拗に問う。

「恋よ。」
「恋?やっぱり?」
「違うの。恋がしたくなったの。」
「誰と?」
「分からない。ただ、ハワイで、あなたに愛されて、私は、鏡の中の私を本当に美しいと思った。」
「確かに綺麗だった。」
「そうしたら、じっとしていられなくなったの。まだ、見ない誰かのために生きていきたくなったの。あなたが私を見なくなったのと同時に、私自身も私を見なくなっていたことに気付いたのよ。」
「分からないよ。」
「ええ。分からないでしょうね。あなたには一生分からないでしょう。」

僕は、電話を切った。

--

一年が過ぎ、僕は他の女を抱く気にもなれない。その間、僕はいろいろなことを考えた。男というものは、女がそばにいつもいてくれるようになると、その女の事を考えなくなって、いなくなって慌てて考え始める生き物だから。

後悔だけが、僕を支配する。多分、長い長い時間を掛けて、僕は妻をないがしろにしていた。物を与え、旅行に連れて行ってやればいいと思っていたのだ。

ある夜、思い切って、別れた妻に電話をする。

妻は、英語を教えて生計を立てているという。

「明日、会えるかな。」
離婚してから、妻に会うのは初めてだった。

「そうね。夜、うちへいらっしゃる?」
「いいのか?」
「ええ。いいわよ。」
「男を部屋にあげても?」
「ええ。あなた、お友達だもの。私ほど、あなたを知っている人は他にはいないと思うの。つまらない、小さな女のプライドなんだけれどもね。」

ああ。確かに。

--

僕は、そして、今、小さな家の前で、両腕からあふれるほどの花束を。

さきほどから、まだ、ドアチャイムを押すことができずに立ち尽くしている。

つまりのところ、僕は、恋する男だった。

再びのチャンスをもらいにやってきた男だった。


2002年08月05日(月) いろんなことを考えるのが面倒だった。空っぽの僕の人生にとって、腕一本の価値はひどく軽かった。

目が覚めると、そこは病院だった。

しばらくの間、自分の身に何が起こったのか判然としないまま、ぼんやりとしていた。

「お気づきになられたんですね。」
看護婦がやって来て、僕の手首を取って脈を測っている。

「ここは病院ですね。」
「ええ。もうすぐしたら、ご家族の方が来られると思います。」
「事故・・・、ですよね。」
「そうです。」

その時にはもう分かっていた。僕の左腕の肘から下が無い事に。

「あとで先生が来て詳しい説明をしくださいますから。」

--

思い起こす。

あれは、深夜のことだった。僕は、車でバイパスを走っていたのだ。その時、中央分離帯を乗り越えて大型トラックが迫って来た。

全ては一瞬の事だった。

避け難い事故だった。

--

夜、母がやって来た。父が亡くなって、今は、近所のスーパーの鮮魚コーナーで働いている。

「こんな体になっちゃったら、お嫁さんも来てくれないわねえ。」
と、涙ぐんでいる。

「左手なのが、せめてもの救いだよ。」
僕は何とか笑って見せようとする。

「事故したほうのトラックのね。会社から入院費とか全部出して下さるから。」
「ああ。」
「あっちの運転手は、かすり傷だって。」
「ふうん。」
「ま、まだ、お子さんも小さいって言うからね。それはそれで良かったんじゃないかって思ってね。タカちゃんにも、あんまり責めないであげて欲しいし。」

母がしきりにあれこれ言うが、僕は、まだ、傷のせいか疲労していて、ウトウトしながら聞いている。

別に、守らなくてはいけない家族がいるわけでも、結婚を約束している恋人がいるわけでも、一生を賭けてやりたい仕事があるわけでもない。だから、もう、いろんなことを考えるのが面倒だった。空っぽの僕の人生にとって、腕一本の価値はひどく軽かった。

大丈夫。責めないよ。

--

刑事は、形ばかりの果物カゴを持って、僕のそばに座っている。

テレビに出て来る刑事のようにくたびれた格好をしているわけでもなく、普通の中年だった。

「まだ、何かあるんですか?もう、警察には全部お話しましたが。」
「ああ。いえね。ちょっと気になってることがあるんで。」
「気になること?」
「いえ、まあ。別に、私一人が気にしていることでしてね。」
「単純な事故処理じゃ済まないんですか?」
「いえ。そういうんでもないんですよ。」

何とも歯切れの悪い言い方だ。

「じゃ、何です?」
言い方に少々力がこもる。

「いえ、ね。あなたの腕なんですが。」
「腕?」
「ええ。左の腕、ね。ないんですよね。どこを探しても。」
「そんなもの、いつも探すんですか?」
「ええ。まあ。」

僕は、ダンプの下敷きになって、車体の隙間でかろうじて命を取りとめたと聞かされている。

「でも、今になって腕が見つかったところで、僕の腕がくっつくわけでもないんでしょう?」
「そりゃあ、まあ、そうなんですがね。ちょっと気になりますよね。」
「お気遣いは嬉しいんですが、もう戻って来ないものを気にしてもしょうがありませんし。」
「確かに。確かに。」

刑事は、立ち上がる。
「いや、失礼しました。」

刑事が立ち去った後、嫌な後味が残る。

妙な男だった。

--

が、しばらくして、また、その刑事はやって来た。

「や。加減はどうですか?」
「熱が下がらないんですよね。」
「そりゃ、いけませんな。」

刑事は、汗を拭き拭き、座っている。

「もう、全部終わったと思うんですが。」
僕は、言う。

トラックを運転していた男が、顔色の悪い妻と小さな女の子を連れて謝罪に来た時の事を思い出しながら。あれじゃ、責めように責められない。居眠りだった、と言う。もちろん、そのことは悪い事だ。だが、妻のお腹に二人目ができて金が要りようだったんで、なんて言われたら、何と答えたらいいのだろう。

「おたくの左腕、なんですがね。」
「またですか。」
「事故の時、誰か見かけたとか、そういう記憶ないですかね。」
「誰かって。腕を持って行くような人間をですか?」
「ええ。まあ、そんなとこです。」
「見ているわけないです。僕は、トラックがぶつかりそうになったところから記憶が途切れてますから。」
「そうですよね。」

男は、尚も執拗に、僕の口から手がかりが飛び出さないかと、待ち受けているようだ。

「悪いですが、刑事さん。僕は、被害者です。自分の事故の傷から回復するのに精一杯なんです。もう、どうでもいい捜査でこれ以上わずらわせないで欲しい。」

刑事は、うなずく。

その顔には、絶望が滲み出ていて。
「分かってます。」

刑事はゆっくり立ち上がる。

「訊かせてもらえませんか?」
僕は、その背中に声を掛ける。

刑事は、振り向く。

それから、右足側のスラックスの裾を引っ張り上げる。

チラリと見えたそれは、義足のようだった。

そういえば、刑事は、始終、足を引きずっていた。

「これ、ね。持って行った女を捜してるんですよ。私の足。」
「誰なんです?」
「私が昔付き合っていた女です。妙な女でね。人間の体に抱いていた興味は、尋常じゃなかった。だが、私は、その女が好きでね。この女になら殺されてもいい、と思ってましたがね。結局、逃げられましたわ。その時、足、一本、持ってかれてね。」
「まだ、見つからないんですね。」
「ええ。そうですわ。ですから、迷惑と知っていてもね。おたくさんのように、事故で体の一部失くしたとなったら、何か手がかりはないかと思ってね。」
「そうですか。」
「いや。失礼しました。もう、来ません。」

その、不自然な足の音と一緒に、刑事は去って行った。

奇妙な話ではあるが、その刑事の話を、僕は信じた。足と一緒に、その魂まで持って逃げられた、男の話を。

憐れなようでもあり、少しうらやましくもあるのだった。


2002年08月02日(金) 時々、私が彼を恋しく思ったのは、なぜだったのだろうと思う。喧嘩だったのか。セックスだったのか。

恋人がいなくなった。

ある日、仕事から帰って来たら、いなくなっていた。

彼は、仕事をしていなかったから、家事をするのが条件で転がり込んで来た。

恋人は、どうやら本当にいなくなったようだ。お気に入りのTシャツやら、ギターやら、そんなものが全部なくなってしまっていたから。

それも当然かもしれない。ここ最近、毎日のように喧嘩してたし。喧嘩の内容はいつも同じ。私が、「稼ぎもないくせに。」って言ってたから。さんざん喧嘩した後は、いつも、あいつがあやまって来て、私の服を脱がせるから、それが喧嘩の終了だった。あいつは、「お前みたいな女で勃つ物好きは俺ぐらいだからな。」と笑っていた。

郵便受けには、この部屋の鍵が入っていた。

本当に帰って来る気がないなら、たいしたもんだ。

あいつ、根気も根性もないから。

--

次の日、犬がドアの前に座りこんでいた。

耳が垂れて、尻尾がちぎれた、情けない犬だった。

私は、犬を部屋に入れてやった。

ものすごくお腹を空かせていたみたいで、冷蔵庫にあるものを適当に皿に入れてやったら、ガツガツ食べた。あいつにそっくりだった。情けないところ。

バスルームで体を洗ってやった。それから、一緒に眠った。

犬は、まったく役立たずだった。私が仕事に行っている間に粗相をしていることも多かった。散歩に連れていけとうるさかったが、疲れている時は二日に一回ぐらいしか連れて行ってやらなかった。犬は、そういう日はいつまでも鳴いていた。

ぎくしゃくした関係は、私とあいつとの関係にそっくりだった。

多分、この犬はあいつだ。

素直に謝って戻って来れないもんだから、犬になって戻って来たのだ。

--

私は、悲しくてしょうがなかった。本当は帰って来ると思ってたのに、いつまでも帰って来ないから。夜中に酒を飲んで、犬を見ているとむしょうに腹が立った。

その真っ黒な目は、「何も知らない」と言っている。

「僕はあいつじゃない。」って言っている。

だから、私は、犬を殺した。

馬鹿にするんじゃないよ、って思った。

--

その日は休日だったので、殺した犬を、捨てに行った。山道を、車で入れるところまで入って、そこに捨てた。

それから、犬の生臭い匂いを消すために、掃除して、消臭スプレーを部屋中にかけた。

--

その日の夕方、彼がひょっこりやって来た。

彼は、ちょっと痩せていた。

あいからわず、お気に入りのTシャツを着て、無職だった。

「やっぱり、あんたが犬だったのね。」
「何、訳わからんこと言ってんだよ。」
って、彼は、笑った。

喧嘩しなかったのは、その日だけだった。

彼と私は、シーツをはがした剥き出しのベッドで抱き合った。犬の匂いがして来る気がした。

次の日から、私は仕事に行き、彼は食事を作った。

それから、喧嘩をして、セックスをした。

時々、私が彼を恋しく思ったのは、なぜだったのだろうと思う。喧嘩だったのか。セックスだったのか。

それから、犬を恋しく思う。ちょっとした物音にもビクビクしていた情けない犬を。そうだ。情けないものを飼うのが、私は好きなのかもしれない。

男が、最近、携帯を持つようになった。

「お前と連絡取れたほうが便利だろう?」
って言っていたが、本当は、そんなじゃないことは分かっている。
女がいるのは分かっていた。

私は、彼の昼間の行動まで詮索する気はなかったから、黙っていた。

だが、その夜は、もう駄目だった。

夜、電話が掛かって来て、彼は、部屋を出て、何やら誰かとしゃべって。
「ちょっと出て来るわ。」
と言った。

私は、カッとなった。

犬のほうがよっぽどマシだった。

ここからどこにも行かず、情けない顔で飼われている犬のほうが。

だから、私は、持っていた包丁を思いきり振り上げた。

--

明日、仕事から帰ったら、犬がドアの外で待っていてくれるだろう。

私は、夜中、いつまでもぬるぬるする手を洗いながら、そんなことを思った。


2002年08月01日(木) だが、人というのは、一旦何かを気にし始めると、なかなか気にしなかった昔には戻れないものだ。

「それ」に気付いたのは、父が単身赴任を終えて帰って来てしばらくした頃からだろうか。

最初は、気のせいかもしれないと思った。母はパートを始めて忙しくしていたし、姉貴はしょっちゅう恋人のところに入り浸っていたし、弟も、バイトだのなんだのと忙しそうにしていて、それはどこの家庭でも同じ風景だと思っていたから。

夕飯の時間よ、と母が呼んでいる。

僕は、階下に下りて行って、食卓に付いた家族を見渡す。

今日は、弟がいない。

そうだ。いつも、誰かかならず一人欠けている人間がいる。

そんなの、どこでもそうだろうと言われたら、そうなのかもしれない。だが、人というのは、一旦何かを気にし始めると、なかなか気にしなかった昔には戻れないものだ。僕は、その日の夕飯で不在だった家族が誰か、というのを日記に書くことにしている。

今日の日記の最後には、小さく、「弟」と書いた。

--

家族は、父と母、姉と弟、そして僕。それから、足の悪い祖母の六人だった。

いないのは、大抵、姉か弟だったが、たまに、父や母も仕事の付き合いだのなんだのと、帰宅が遅くなる。

祖母は、足が悪いので、ずっと家にいる。

祖母と同じぐらい家にいるのが長いのは、僕。なぜなら、僕は世間で言う「ひきこもり」だから。もう、随分と長い事、家の外に出ていない。だからかな。こんなつまらないことが気になっているのは。

僕自身は、なぜ外に出なくなったのか分からない。気が付けば、外に出るのがやたらと億劫になって、いつも家にいるようになっていた。誰か会いたいという人がいるわけでもなければ、何かしたいことがあるわけでもない。気が付くと、何もせずに家にいることが多くなっていた。

母は、そんな僕を見て、「おばあちゃんの面倒を見てもらえるから、助かるわ。」と笑っていた。

--

そんな僕だったが、遂には外に出て行かなければならなくなった。父が、僕のバイト先を勝手に決めて来たのだ。

「そろそろ、どうか。」
と、遠慮がちに言う父に、
「いいよ。」
と答えて、僕は、そこでバイトをすることに決めた。

実際のところ、面接もせずに、こんな僕を雇おうとする会社があるのかどうか疑問だったが、実際行ってみれば、とても雰囲気のいい会社で、僕みたいな人間でもここでなら充分にやっていけそうだと実感したのだった。

僕に仕事を教えてくれる、エリコさんという女性は、大柄で、少し口が大きかったが、とても気さくな人で、緊張してろくにしゃべることができない僕の気持ちをほぐそうと、冗談を言っては、一人で「あはは。」と笑うような、面白い人だった。

「ね。初日からで悪いんだけど、今日、マサオくんの歓迎会しようと思うんだ。急だけど、いいかな?」
「うん・・・。」
「じゃ、決まり。」

僕は、結局、そのあたたかい職場のスタッフの人達に連れられて、近所の居酒屋へ行った。

飲んでいる途中、僕は、バイトの初日の報告をしなくちゃ、と、家に電話をした。

母が、電話に出た。
「あら。マサオ。どう?調子は?」
「ああ。結構いい感じ。」
「それは良かったわ。」
「でさ。今日、早速、歓迎会してくれるっていうから、夕飯いいわ。」
「はいはい。にしてもさあ。今日はめずらしく家族そろうわって思ったら、あんたがいないんですものねえ。」
「え?姉貴も、ケンも、帰ってんの?」
「そうなのよ。お父さんもね。あんたのことが気になるからって、ちょっと早めに仕事切り上げて来たみたいよ。」
「ふうん・・・。」

僕は、やっぱり、と思いながら、電話を切る。

もう、すっかりできあがっているエリコさんが、「まさおくーん。」と呼んでいる。

--

「なあ。ばあちゃん。俺、前から不思議に思ってること、あんだけどさあ。」
「はい?」

祖母は少し耳が遠いから、耳に手を当てて、大声で返事する。

「この家さあ、おかしいと思わない?全員揃ったこと、ないと思わない?」
そんなおかしなこと、ばあちゃんになら言っても大丈夫と思ったんだ。

祖母は、うんうん、とうなずいて、僕に顔をぐいっと近付けて来て、言う。

「あんたも、気が付いてたかい?」
「うん。」
「そうかい。それはね。秘密さ。」
「秘密?」
「ああ。誰にも言うんじゃないよ。」
「分かってるって。」
「今度、ね。教えてあげる。その秘密をね。」

祖母は、キッチンで母親が料理しているのを気にしているようだった。

「今はね。教えるわけにいかないから。」
「ああ。分かった。」

秘密って、何だろう。

そんなことを思っていると、母の、「ご飯よ」という声が聞こえる。

今日は、姉貴がいなかった。

「彼氏と旅行だってさ。」
弟が、教えてくれた。

--

バイト先では、相変わらず、みな、異様にいい人で。

僕は、多分、他人が怖いと思っていた昔を忘れ掛けていた。

そうして、結果から言えば、僕は祖母のいうところの「秘密」を聞くことができなかった。

祖母は、あの会話をした翌週、突然に息を引き取ってしまったから。

なんでだよ?元気だったじゃん。足以外は、どこも悪いとこないって。僕は、最後の時、祖母についていてやれなかったことを悔やんで、泣く。

「あんた、ばあちゃんっ子だったもんね。」
旅行から帰って来た姉が、僕の肩に手を掛ける。

--

葬儀の席で、母や姉が涙ぐんでいる。普段は、ばあちゃんのこと邪魔にしてたくせに。

火葬場で父がしんみりとした声で、言う。
「こうやって家族が揃うのも、久しぶりだな。いつも、誰かしら、いなかったもんな。」

母がうなずく。
「本当にね。」

しらじらしい。

ばあちゃんは秘密を僕に教えようとしたせいで、殺されたんじゃないか?

僕は、急に、そんな事を思う。

ばあちゃんは、ただ、ボケていただけかもしれない。

僕は、ただ、そんな妄想を膨らませてる変なヤツかもしれない。

ああ。だけど、いつからだろう。僕の周りが、僕の知らないところでうまいこと動いていて、僕だけがそのレールにうまく乗っかれない気がしているのは。

秘密さえ。秘密さえ守っていられたら、僕は、みんなとうまく笑えるだろうか。消されずに済むだろうか。

ねえ。ばあちゃん、教えてよ。


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