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セクサロイドは眠らない

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2002年04月28日(日) 「なんか変なんだけど、俺達、ずっと一緒かなって思ってたんだよ。女なのに、最高の友達って感じでさあ。」

小学校の頃から、彼とはずっと友達だった。

小学校三年の時転校してきたばかりの私に、最初に笑顔で話し掛けてくれた、隣の席の男の子。よく陽に焼けた、前歯が欠けた笑顔、そんな普通の男の子という印象。それからずっと友達だった。同じ中学に通い、同じ高校に通っているうちに、いつからだったろう。異性として、彼に憧れるようになったのは。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、あいかわらず彼は、やんちゃな男の子のまま、真っ直ぐな笑顔を向けて来た。

最初の小さな失恋は、彼がバスケ部の先輩の彼女へのほのかな憧れを私に打ち明けた時だった。

「なんていうかな。あの人が先輩を見に来てる時は、すっげえやる気がでちゃって、シュートがバンバン決まりそうな気がするんだよ。」
「へえ。」
スポーツが苦手な私は、それだけで埋められない距離を感じながら、自転車を押して彼と並んで歩いている。

「きれいな人なの?」
「うーん。いわゆる美人ってやつじゃないんだけどさあ。いつもニコニコしてて、後輩からも信頼されてて、あの人が試合に出ると、チームがまとまるっていうかさあ。」
「その人のこと、好きなのね。」
「好き・・・、なのかなあ。でも、先輩の彼女だからなあ。そんなこと言えるわけないよなあ。」

いつまでもそのことを話題にしたがる私に、
「もう、おしまい、おしまい。なんか、誰かに聞いて欲しかったんだけど、お前に言ったらすっきりしたよ。」
と笑った。

私もあいまいに笑った。

それから、無言で夕日を見ながら歩いた。

--

「進路、どうすんの?」
あっという間に三年を迎えた私達の話題の中心はそれだった。

一緒の大学に行きたい。

それが希望だった。

彼の恋は、先輩の彼女の卒業と共に、あっけなく終わり、私はほっとする暇もなく受験勉強に追われていた。

「俺、多分、県外に行くと思う。」
「え?そうなの?駄目って言われてたんじゃないの?」
「あれから親を説得してさあ。だって、今だけだよ。いろんなことできるの。お前みたいに頭良くないしさあ。」
「そう・・・。」

私は、気分が暗くなるのを感じながら、教科書に目を落とす。

私は、多分、この小さな街に残る。離婚してしまった母を助けるため、看護婦になる。それが、母と何度も話し合って出した結論だった。大学に行ってもいいのよ、と言う母に、看護婦になるのが夢だったから、お母さんみたいな看護婦になりたいってずっと思ってたから、と心にもないことを言って安心させた。

大学に行くにしても、県外なんて、とても無理。

私、看護婦になるの。

そんなことも、なかなか打ち明けられず。やっと打ち明けたのは、夏も過ぎてからだった。

「そうかあ。それでずっと悩んでたのかあ。早く言ってくれれば良かったのに。」
「だって、言っちゃったら、それが本当になっちゃいそうで、寂しかったから。」
「そうだよなあ。なんか変なんだけど、俺達、ずっと一緒かなって思ってたんだよ。女なのに、最高の友達って感じでさあ。」

私は泣きそうな顔で彼を見る。

彼は、励ますように笑い掛けながら言う。
「でも、お前、えらいよな。すごいよ。やっぱり女ってすごいよな。お前みたいな女がいるから、俺も励まされるんだよなあ。負けられないなあって。」

もう、人もまばらな秋の海辺を歩きながら、彼の言う、「最高の友達」という言葉を喜んでいいのか、悲しめばいいのか分からないまま聞いていた。打ち明けるなら今だと思いながらも、結局、その日も気持ちは伝えられなかった。

--

私と彼は、そうやって、違う道を歩き始めた。

夏休みや正月のたびに、帰省する彼と、二人で、あるいは同級生達と会って、はしゃいで。いつしか、それでいいと思い始めていた。

会わない間は、近況をメールでやり取りして。

私は、何度か、彼への想いを断ち切ろうと、友達の紹介やら、合コンで知り合った男の子とデートしてみた。キスもしたし、抱き合ってみたりもした。でも、結局は、彼より好きにはなれないことに気付くはめになり、どの人ともうまく行かなかった。

そんなことも、適当に脚色しながらメールで伝えたし、彼からも、小さな恋の話やら、失恋の話やら。そんなものを聞かされて。

今年、彼は、社会人一年生として、初めての大型連休を迎えて、帰省してくる。

「ゴールデンウィークには、早くお前に会いたい。進路のことで悩んでる時から、ずーっとお前がそばにいて励ましてくれたから頑張れたんだもんな。やっぱり、お前は最高の友達だよ。」

彼からのメールを見て、思う。

今度こそ、気持ちを打ち明けよう。

そう思って、彼の帰省を指折り数えて、夜勤をこなす。

--

だが、あっけない一通のメールで、全て終わる。

「ゴールデンウィーク、そっちに帰れなくなった。なんと、この俺にもついに彼女ができたのだ。会社訪問の時から何となく仲良くなって、一緒の会社に入社できてからはすごく仲良くなっちゃって。今度の連休は、その彼女と旅行行くことになった。その報告は、またメールにて。じゃあな。お前と会うの楽しみにしてたのに、残念。おまえも、楽しい連休を過ごしてくれよな。」

私は、それを何度も読み直し、それから、削除ボタンを押す。

小さく「馬鹿」、とつぶやいてみる。

それから、馬鹿は私だ、と思った。

今日は仕事休もう、と思って、病棟に連絡をする。

女の子だって、ちゃんとした男の子から励ましてもらえないと、駄目なのに。

そんなことも分からない男の子を好きだった私は馬鹿だと思った。

カーテンの隙間から入ってくる春の陽射しは、嫌になるくらい明るくて。今の私にはまぶし過ぎて涙が出る。


2002年04月26日(金) 僕の鼻に、いろいろな香りが流れ込む。それから、妻の暖かく湿った場所の香りが僕の下半身を熱くする。

僕と妻は、三ヶ月前に結婚したばかりだ。

僕は、妻と結婚できてすごく幸せだった。

ただ一つ、一緒に暮らし始めて、妻の困った癖に気付いた。妻は、月に一回、ものすごくわがままになるのだ。それも、尋常でないわがままさだった。

たとえば先月などは、「どうしても今夜、明石のたこ焼きが食べたい。」と言って泣きじゃくるので、僕は仕事が終わった後、新幹線で片道一時間掛かる場所までたこ焼きを買いに行く羽目になったのだ。おかげで、一ヶ月分の小遣いの半分がとび、ようやく買って帰った頃には、妻はもう、ベッドでスヤスヤと眠っていた。

「おい。起きろよ。買って来たよ。」
と、激しく揺すぶって起こすと、妻はものすごく不機嫌になり、暴れた。僕に枕を投げ付けながら、「熟睡してるところを起こすなんて、サイテー。」とわめいた。

「きみが欲しいって言ったんだろう?」
僕は、妻の攻撃を受けながらも、そう叫んだ。

ようやく妻が落ち着いたところで、たこ焼きを食べさせると、今度は妻は、「冷めてマズイ。」と言って暴れ出した。またまた、僕は、妻の激しい攻撃を受けることとなり、結局、僕が温めたたこ焼きを妻が食べ終えた時には白々と夜が明ける時間になっていた。

妻は、ようやくたこ焼きを食べ終えると、ニッコリと笑い、僕にとろけるようなキスをしてくれた。

「ありがとね。ちゅっ。」

そうして、妻は、布団に潜り込んで、気持ち良さそうにスースーと寝息を立て始める。

僕は、仕事があるので、寝るに眠れず、夜が明け切ってしまうまでの時間、「果たしてこの結婚は正解だったのか?」というきわめて重要かつ基本的な命題について考えることとなった。

--

さて。

今月も、そろそろ、その日が近付いて来た。一体、なんだっていうんだ?生理とか、そんなことなんだろうか?
僕は、怯えながら帰宅する。

案の定、妻は機嫌が悪かった。つまらないことで揚げ足を取り、喧嘩に持ちこもうとするのだ。僕は、それが分かっていて、じっと辛抱するものの、ついに耐え切れなくなって、反撃に出てしまう。

途端に、妻は、わーっと泣き出して、もう、僕が何を言おうとしても、受け付けてくれない。

「もう、なんだってんだよ。」
僕は時計が気になる。明日も早いのだ。

「なんでも言うこと聞くから、いい加減機嫌なおしておくれよ。」

妻は涙でびしょびしょの顔を上げて、
「本当に?」
と聞く。

「ああ。本当に。」
「じゃあ、犬になって。白い毛がフワフワした、コロコロの子犬になってよ。あたし、ずーっと犬が欲しかったの。マンションじゃ飼えないけど。」
「犬?僕が?」
「ええ。」
「そんなの、無理に決まってる。」
「じゃあ、ここから出てってよ。本気でなろうともしないで。」

妻がそっぽを向いたので、僕は焦る。

なるから。なるから。犬になるから。

僕がそう叫ぼうとした瞬間。

キャンキャン。

僕は、本当に犬になっていた。

妻はにっこりと笑うと、僕の耳の裏をくすぐったりしてすぐさま機嫌を直した。

「かわいいわねえ。うちのダーリンも、いつもこんなに可愛かったらいいのになあ。」
妻は、大はしゃぎである。

僕の鋭敏になった鼻を、妻の香りがくすぐる。僕は、妻に鼻を近づけてフンフンしようとした。

「だ〜め。おあずけ。」
僕は、妻にきっぱりと命ぜられた。

なんとも。犬の習性からして、飼い主には絶対服従なのだ。

僕は、妻に言われるままに、そこにちんまりと座り、妻のお許しが出るのを待った。妻は、シャワーを浴び、鼻歌を歌いながら、レースをふんだんに使ったランジェリー姿で、爪の手入れを始める。

僕の鼻に、妻のいろいろな香りが流れ込む。愛用のシャンプーの香り、マニキュアに入った香料の香り、それから、妻の暖かく湿った場所の香りが僕の下半身を熱くする。

妻は、そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、爪の手入れを終えると、今度は海外のテレフォンショッピングを見ながら、美容体操を始める。しなやかな猫のような姿態が、僕の前でセクシーにポーズを取り、僕は、妻が体の向きを変えるたびに、我慢できずに、フンッ、と思わず鼻を鳴らしてしまう。

そうして、ついにはこらえきれずに、キャンキャンと鳴き立てる。

「あらあら。」
妻は、笑い出して、僕を抱き上げて、その鼻に口づけてくれる。僕はもう我慢できなくて、妻の上にのしかかり、妻の首筋をペロペロと舐める。

んん。

妻は、ご機嫌な声をあげる。

僕は、いつの間にか人間の姿に戻り、すっかり気を許した妻を羽交い締めにする。

--

そうして、僕達は、今夜も熱い夜を過ごす。

一汗かいた後、妻は、僕の腕枕で、気持ち良さそうにくつろいでいる。

僕は、妻の鼻の頭にキスしながら、言う。
「ねえ。頼みがあるんだけどさあ。」
「なあに?」
「きみ、時々、ものすごくわがままになるよねえ?」
「そうかしら?」
「ああ。それで、僕、まいっちゃうんだけどさ。あのわがまま、なんとかならないかな。」
「本当に?」
「うん。」
「ほんとに、ほんとに、あたしがわがまま言わなくなっちゃって、従順な妻になることを望んでるの?」
妻は、僕の目を覗き込んで、訊ねる。

僕は、わがままを言わないで大人しくしている妻を想像してみる。

「どう?」
妻の問いにしばらく考えて、僕は答える。
「やっぱり、いやだ。わがままなきみがいい。」
「なら、今まで通りでいいわね。」
妻は、満足そうに微笑む。

--

「大好きよ。」
妻が僕の首に腕を回してくる。

ああ。その一言が欲しかったんだよと、僕は感謝で胸がいっぱいになる。

そんなわけで。

妻は月に一度、ものすごくわがままになる。そのわがままは、本当に、キュートでゴージャスでセクシーなわがままなのだ。だから、妻のわがままを。もしくは、わがままな妻を、僕はこよなく愛する。


2002年04月25日(木) くやしくて、泣いた。情けなくて、泣いた。声出して、泣いた。声出して泣いたら、少しすっきりした。

入社二年目。ついてないことだらけ。新入社員の女の子がフロアに配属されてから、あまりチヤホヤしてもらえなくなった。大学時代からの恋人とは、生活のサイクルのすれ違いで別れたばかり。いいことなし。同僚のヤスダという男と、今夜もそんなつまらない人生にビールで乾杯。

「そうかそうか。フラれたんか。」
「違うよ。あたしがフッてやったんだ。」
「可哀想にな。俺が今夜はなぐさめたるわ。」
「それよかさー、あんたのほうはどうなの?こないだあたしが紹介してあげた、彼女、駄目だったの?」
「んー。俺がはっきりせんかったから、あっちが愛想つかしたかもな。」
「あの子、結構あんたのこと気に入ってたのになー。」
「はは。今日は俺のことはどうでもいいよ。お前を慰める会だからな。」

私達は、なんのかんのと理由をつけては、ビールを浴びるほど飲む。

ヤスダ、モテそうなのになあ。いわゆる男前というわけではないけど、豪快で、真っ直ぐで、そのくせ細かいところも結構気が付くし、なんかあったかいし。

「じゃ、また明日ねー。」
「おう。二日酔いで休むなよ。」

気持ちのいい酒だ。

なんで、ヤスダとだったら、こんなに楽しいかなあ。

それでも、好きだったのは、別れた恋人。好きで好きで、苦しくて苦しくて、三年間悶々とした日々だった。フラれてすっきりしたくらいだ。

私は、星空に強がりを言って、アパートに帰る。

--

そんな風に、人生の運気が落ちている時だからか。

私の人生、トコトン、ケチがつく。

新入社員の歓迎会では、部長の横に座らされた。いいなあと思う営業のグループとは離れ、部長の機嫌を取りながら飲む酒のなんとまずいことか。

あーあ。一次会終わったら、さっさと帰ろう。

私は、心に決めて、食べるもの食べて、飲むもの飲んで。適当に部長の相手して。そうしたら、思ったより飲み過ぎてしまった。

「このあと、二人でどっか行かんか。」
部長が耳元でささやくのを丁重にお断りして、私は、タクシーを止めた。

「一緒の方向だから、送ってやる。」
部長までが乗り込んで来た。

「ちょっと休めるところに行ってもらえる?」
部長は、運転手に向かって言う。

休めるところ?

運転手は答える。
「お客さん、それって、喫茶店とか、っていう意味じゃないですよね。」
「ああ。」

タクシーの運転手は、何かを心得たように運転しだす。

ちょっと待って。パニックになった私は、タクシーがラブホテルの駐車場に滑り込み、ドアが開くと、転がるようにして降りて、それから、走って逃げた。走って走って走って。とにかく、部長が追い掛けて来ないことが分かるまで、走った。

気持ち悪くなって道端にうずくまった私は、「さいあくだ、さいあくだ。」とつぶやき続けた。

--

翌日、私が出社すると、どことなく部屋の雰囲気がおかしかった。

なに?

私は、問い掛けるような視線を隣の席の子に向けるが、さりげなく目をそらされる。

なんなの?

それからというもの、部屋の女性が私をあからさまに避けるようになった。

部長だ。

私は、数日して、ようやく気付いた。何か変な噂を流されている。

私は、くやしくて、女子トイレでちょっと泣いた。それから、泣いたら負けだ、と思って、平気な顔をして席に戻った。黙って頑張ってれば、きっと誤解は解ける。そう思って仕事も丁寧にした。

そんな態度が、更に彼の怒りを買ったのだろう。

ある日、部長がみんなの前で私を呼び付けて、やっていないミスのことで怒鳴りだした。冷静に、冷静に。そう言い聞かせるも、頭が怒りのあまりズキズキと痛んで、大声で喚きそうになる。

「部長、お言葉ですが・・・。」

ついに、何かが切れて口を開いた瞬間。

私の前に飛び出して、部長の前に立ちふさがったのはヤスダだった。

「部長がおっしゃっているのは、彼女のミスじゃありません。」
「なんだ。きみは。」
「最近、部長のされていることは、滅茶苦茶です。女の子にセクハラ行為をした上に、変な噂話まで流して。そんなことではこの部屋全体が、そのうち部長の指示に付いて行けなくなります。」
「な・・・。何を言ってるのかね。」

私は、そこまで聞いて、そこにもういられなくなって、部屋を飛び出すとビルの屋上に行った。

頭は、まだ、ズキズキとして。私は、煙草を取り出すと、火をつけて大きく吸う。落ち着こう。それから、泣いた。くやしくて、泣いた。情けなくて、泣いた。声出して、泣いた。

声出して泣いたら、少しすっきりした。

「ここにいたんだ。」
ヤスダの声が、後ろでした。

私は、慌てて涙を拭った。

「見つかったか。」
「分かるよ。お前の行く場所くらい。」
「なんであんなこと言ったのよ。部長に。あんた、違うとこに飛ばされるよ。」
「だって、黙ってられないだろう。」
「なんでよ。あたしのことなんか放っておいてくれたら良かったのに。あたしの失敗であんたがどっか行かされたら、あたし、友達としてあんたに借りができちゃうよ。」
「馬鹿だなあ。お前って。」
「何がよ。」
「俺はさ、男の子だから。間違ってると思ったら、ちゃんと言うのが男の子なんだ。女の子一人守れなくてさ、世界が変えられるわけないじゃん。」

ヤスダが、あんまりまじめくさった顔をして言うから。

私は、おかしくておかしくて、笑った。大笑いした。

「やっと笑ったなあ。」
ヤスダも一緒に笑った。

会社の顔色をうかがうのでもなく、目の前の女の子の機嫌取りをするわけでもなく、世界に向かってちゃんと間違ったことは間違ってると言える男の子と一緒に、私は大笑いした。それはすごく気持ちのいいことだった。


2002年04月24日(水) 最初はぎこちなかった彼女の体も、もう、最近では僕の指をすっかり信頼して、全てを解放してくるのだ。

その美しい人は、落ち着いた仕事ぶり、冷静な判断。そこいらの男性にも負けないほどの安定した成果をあげていた。今度は課長昇進だという噂も流れ始めた。

僕は、その人に決めた。

美しく、頭脳明晰であるが故に、周囲の期待を裏切るまいと一生懸命走り続けて来たようなその人に、束の間の休息を与えてあげたくなったのだ。

僕は、わざと遅くまで残業して、その人と二人きりになれる時を待つ。

その日は、思いがけず早くに来た。

「あら。まだいたの。」
彼女が最後のファックスを流し終えて帰り支度を始めた時に、僕は
「おつかれさま。」
と声を掛ける。

「主任のカップ洗っておきますよ。」
僕は、押し付けがましくないように気を配った笑みを向ける。

「あら、いいのよ。」
「いいんです。ついでですから。」

そうして、彼女がジャケットを着て身支度を終えるのにさりげなく合わせて、僕も片付けを終える。

「きみ、誰だっけ。名前。ごめんね、忘れちゃった。」
わざとぞんざいな口を利くのも、彼女のような女性が社会の荒波を渡っていくのに必要な処世術なのだろう。

「昨年配属された、・・・です。」
「そう。覚えておくわ。おつかれ。」
「あの、少し飲みに行きませんか?」

彼女は、チラと腕時計を見て、
「少しだけ、ね。」
と、ようやく微笑みを見せた。

--

それからは、早かった。仕事での冷静ぶりからは想像できないほどに、彼女の内面はもろく、不安定で、少し意地の悪い言葉を投げ掛けてやればすぐに泣き出すのだ。

「驚いたな。きみがこんなに泣き虫だったなんて。」
「あなたのせいよ。」
職場では聞けないような、鼻に掛かった声が僕を驚かせる。

「誰も、きみがこんなに女らしい柔らかい体をしてるなんて、知らないのだろうな。」
「誰にも内緒よ。」
「そうだ。僕達だけの秘密だ。営業の大塚が言ってたよ。彼女、処女なんじゃないかってね。」
「いやだわ。そんな話してるの?でも、処女みたいなものだったもの。あなたと会うまでは。」
「僕が知ってるきみはこんなにすごいのにね。」
僕が彼女の唇を吸うと、もう、彼女は喘ぎ声を漏らす。

最初はぎこちなかった彼女の体も、もう、最近では僕の指をすっかり信頼して、全てを解放してくるのだ。

おいおい。なんて欲張りなんだ。僕は心の中で苦笑する。

--

二人になるとまるで幼子のように揺れ易い心を見せてくるのに、職場では相変わらず冷静な仕事ぶりが少々憎らしい。

そろそろ、だな。

「主任、最近、なんかお綺麗ですね。」
そんな女子社員のお世辞に、一瞬顔を赤らめた彼女を見て、僕は思う。

その日から、僕は、「忙しい」のを理由に、彼女からの電話に出る回数を減らした。

「やっと繋がった。」
彼女の安堵の声に、僕はわざと素っ気無く答える。
「おやじの入院が長引いてるって言っただろう。病院にいる時は電話にもなかなか出られないんだよ。勘弁してくれ。」
「ごめんなさい。」
彼女の声が潤み始める。

「じゃあ、もう、切るよ。」
「待って・・・。」
僕はかまわず切る。

事は簡単だった。

彼女は仕事を休みがちになり、仕事のスケジュールは遅れ始めた。周囲から不満の声が上がるのだが、彼女自身、うろたえるばかりでどうにもならない。

僕は、新卒の女の子に、わざと親しげに身を寄せて、仕事を教えてやる。彼女の視線を無視して。

彼女が仕事を辞めたのは、それから間もないうちだった。聞けば、病院に通院しているという。

--

僕は、長く掛かって築かれた美しい城が一瞬にして崩壊するのを見るのが大好きなのだ。

最近じゃ粗悪な作りの代物ばかりだから、もっと時間を掛けても良かったかなと少々残念にも思いながら、僕は、春の街で口笛を吹く。


2002年04月23日(火) 娘はきゃっきゃと笑う。男は、その娘の手首を掴むと、自分の膝に座らせて、うなじに唇を這わす。

男は、さんざん探し回った挙句、森の奥深くに住むその老人を捜し当てた。

「あなたが魔法使いですか?」

老人は、眠たそうな目を開けて僕を見ると、
「そう呼ぶ者もおる。」
とだけ答えた。

「随分と探しました。」
「それで、何の用かな?」
「もう、いやなのです。何もかもに絶望して、死をも考えました。」
「いったい、何がそこまでおまえを追い詰める?」
「何もかもです。生まれて育った村で、父のやっていた商売を継ぎ、幼い頃から決められていた相手と結婚し、子を儲け、その子らは順調に育っています。」
「それはなんと恵まれたことか。」
「それがもう、うんざりなのです。何もかも捨てて、逃れたい。」
「じゃあ、そうすればよかろう。」
「それはできません。私は、村でもちょっと名の知れた商売をしている者です。妻も良家の娘ですし、息子達は美しく利発で、誰からも可愛がられています。今、私が村を出ても、すぐさま見つかって連れ戻されてしまうでしょう。」
「話はよく分かった。」
「何とかしてくれるのですか?」
「ああ。何とかしてやろう。まず、おまえの持ち出せるだけの財産を持ってここにもう一度来たならば、な。」
「分かりました。」

男は急ぎ、屋敷に戻って、持ち出せるだけのものを持ち出し、闇の中、再び老人のもとへと向かった。

「ほう。これはなかなかたいしたものだ。」
老人は目を細めて、男が積み上げた財産を眺める。

「で?これで私の願いは聞き届けられるのでしょうか?」
「ああ。」
「で、どうすれば?」
「おまえは自由だ。そうさな。おまえは、これから『さすらう者』とでも名乗りなさい。」
「分かりました。」

男は、そうして、その日から「さすらう者」になった。

気ままな流れ者の生活。

行く村々で、美しい娘と恋に落ち、彼女の体を充分に堪能すると、次の村に行く。

「ねえ。本当に行ってしまうの?」
娘達は涙ながらに言う。

「ああ。しょうがない。だって俺は『さすらう者』だからな。」
男は、そう言って、肩に背負えるだけの荷物を持って、旅立つ。

娘は、男がもう戻ってこないことを知って、涙ながらに見送る。

--

そうやって、何年の日が過ぎたろうか。

男は、めぐり巡って、自分の生まれた村へと踏み込んだが、そのことにすら気付かずに、村の酒場で酒を飲む。

ふと横を見ると、美しい若者。黒い巻き毛。自分にそっくりな。

男は、その若者を見て、問い掛ける。
「おまえは、もしや?」
「僕は村一番の商家の息子です。父がいなくなってからは、僕が商売を継いで母を支えて来ました。」
「おお。我が息子よ。」
「まさか。あなたが?あなたは『さすらう者』でしょう?」

若者は、父の顔も忘れたように顔をそむけると、酒場の娘とダンスを踊る。

その光景は、自分が昔同じように、妻と酒場で踊り愛を交わした思い出を誘う。

男は泣いていた。

そうして、魔法使いを探した。

「おい。おまえ。」
「なんだ。」
老人は、もう、ひげも随分伸びて、床に根を生やしていた。

「俺の過去を返せ。」
「まさか。わしが何を盗ったと言うのだ。」
「おまえにだまされて、財産を持ち出して、俺はたった一人、何も持たない者になって今ここにいる。」
「それは全てあんたが望んだことだろうに。それに、わしは魔法使いなんかじゃないのさ。」
「じゃあ、何者だ?」
「わしか?わしは『名付ける者』だ。名前を欲しがる者に、望む名前を与えるだけだ。」
「じゃあ、俺に違う名前をくれ。もう、さすらうのはうんざりだ。何も持たないのはごめんだ。」
「そうか。ならいい名前をやろう。おまえは今日から『名付ける者』だ。ここにいて、おまえの役割を求めて来る者に名前を与えてやってくれ。わしは行くよ。ここに長いこといるのはうんざりだった。わしは、もう、今日から名前をもたない者になる。」

そう言った途端、老人の姿は消える。

男は一人残されて。

人が時折訪れる。男は気が向くままに、名前を与えてやる。人々は納得して去って行く。

美しい娘が訪れる。
「ねえ。あなたが魔法使いさん?」
「ああ。そうだよ。」
「で、私にはどんな魔法を掛けてくれるの?」
「そうだな。俺を愛する好色な女になる魔法を掛けてやろう。」

娘はきゃっきゃと笑う。男は、その娘の手首を掴むと、自分の膝に座らせて、うなじに唇を這わす。

男は、今のところ、自分がもらった名前に大いに満足している。

娘に飽きたら、また別の名前を付けてやればよい。

そうやって何年も、何年も。

言葉が世界を塗り替えていく様を楽しみ続ける。

だが、ある日、男は何も名前を思いつかなくなる。出てくるのは、哀しみや憎しみに溢れた言葉ばかり。男の周りには次第に、醜い生き物で溢れ返る。

そこに若者が訪れる。

「あなたが魔法使いですか?」
「人はそう呼ぶ。」
「私に力を。」
「どんな力が欲しい?」
「自由になることができる力を。」
「ああ。良かろう。お前にわしの持つ全ての力をやろう。」

男は、立ち上がり、若者に自らの名前を付けてやる。若者の心には、溢れんばかりの言葉が渦を巻き、口から零れ落ちてくる。男はそれを見て満足して微笑む。

「あなたはどこへ?」

男は、かつて老人がやったのと同じように、根を張った髭を引きちぎり、黙って出て行く。

男は名前をなくした。

男の周りから全ての光景が消えた。

男は、自らを縛っていた言葉を全部捨てて、何もない場所で何でもない者になった。

それを、人は「死」と呼ぶのだ。


2002年04月22日(月) 相手の軽い嫉妬が心地良いうちは大丈夫。そのうち、重荷になったら別れ時。そうやって幾つも恋を渡り歩いて来た。

「ねえ。今度の土曜日、暇?」
「あ。だめ。ごめん。」
「えー?もしかして、もう、新しい男?」
「そういうわけじゃないんだけどね。」
「この前、別れちゃって暇ができたから誘ってって言ってたのに、もう、次ができたんだあ。そりゃ、友達なくすよ。」
「だから、そうじゃないって。」

なんて会話を交わしつつ、私の顔がニヤついているから、同僚はあきれている。

「今度奢んなさいよ。」
と、同僚は私を軽くにらんで、言う。

「だから、違うって。」
「はいはい。分かったけどさあ。この会社入って、一体何人目よ。」
「だから、違うの。まだ、決まったわけじゃないの。なんとなくいいなあ、って、ちょっとお茶飲んだぐらいよ。」
「ほら、吐いた。で、相手は?」

サクラバコウ。二十七歳。趣味、恋愛。

--

「今日、仕事中何回も電話くれたのね。」
私は、ベッドで携帯電話のディスプレイを見ながら話し掛ける。

「うん。ごめん。」
彼は、私の背中に手を回しながら答える。取引先の営業の男。

「仕事中は出られないのに。」
「分かってるけどね。きみ、モテるから、心配で。」
「何言ってるのよ。」

私は、笑って、軽く彼の指に噛み付く。

「ほんとうだぜ。きみのこと、いいってヤツ、たくさんいるからさ。もう、彼氏とかいんだろうなって、絶対思ってた。」
「そんなにモテないよ。」
「ほんとう?」
「ええ。ほんとうよ。」
「じゃ、キスしてよ。」
「もう、これじゃ、あたしが男であなたが女みたい。」

相手の軽い嫉妬が心地良いうちは大丈夫。そのうち、重荷になったら別れ時。そうやって幾つも恋を渡り歩いて来た。

--

「あら。もしかして、サクラバさん?」
突然話し掛けて来たその人を見て、私はハッとする。

「カヨ?」
「うん。久しぶりね。すごく綺麗になってたから、声掛ける時迷っちゃった。時間、ある?お茶でも飲まない?」
「いいよ。」

私達は、近い場所にあるカフェに入ると腰を落ち着けて、お互い、ゆっくりと相手の顔を観察する。

「カヨ、全然変わってないね。」
「やだ、ひどいなあ。子供っぽいかなあ。あたし。」
「そんなことないよ。」
「コウのこと、ね。友達からいろいろ噂聞いてるよ。」
「え?どんな?悪い噂?」
「ううん。すごくモテてるって。」
「そんなことないって。」
「今日、会って思った。本当に綺麗になったもん。モテるの、当然よ。」

私は、そんな彼女の恋人だった男から、一度フラれている。

--

大学の時だった。

カヨと同じクラスだった私は、カヨと、カヨの高校の時からの恋人という男性と三人でよく遊びに行っていた。カヨの恋人は、人目を引くくらいの美貌を持ち合わせているくせに、自分の外見には無頓着な誠実な男だった。どうしてカヨみたいな地味な女の子と付き合っているのか、分からなかった。

私は、次第に、彼に惹かれ、とうとう気持ちが抑えられなくなったある夜、彼を呼び出した。

その一言を言うために、私は、随分とお酒を飲んで、彼が
「もう、やめたら?」
と、心配そうに言った瞬間、泣き出してしまったのだ。

「どうしたの?」
うろたえる彼に言った。

「好きなの。カヨと別れてよ。」

それから、私の部屋まで私を送って来た彼と、私は抱き合った。私は、彼に抱かれながら、彼の心を手に入れることができたと確信した喜びに酔っていた。

だが、すべてが終わって服を着る時、彼は私の目を見ないで言った。
「彼女とは、別れないよ。」

その後も、何事もなかったように、私達は三人で遊んだ。あの日のことは、彼と私の中に永遠に封印された秘密となった。

--

「で?カヨは付き合ってる人とかいるの?」
「うん。私ね。今度、結婚するの。」
「そう。おめでとう。」
「でね。あなた、笑わない?」
「何を?」
「私が結婚する相手ね、・・・なの。」
「やだ、あなた達、まだ付き合ってたの?」
「うん。もう、付き合って十年以上だもん。いい加減に結婚しようか、ってね。途中、何度か喧嘩して別れたんだけど、結局、お互いしかいないことが分かったの。」

私は、その時、胸が激しく痛んだ。忘れていたと思っていた名前が、そんなにも胸を刺すことに、自分でも驚く。

「大丈夫?」
カヨに言われて、私はようやく顔を上げる。随分と、沈黙していたらしい。

私って、馬鹿だ。私は幾つも幾つも恋愛したつもりになっていたけど、私は、本当は、たった一つの恋愛しかして来なかったんじゃないだろうか?

「彼、元気?」
「ええ。」

私は、そんなことしか言えなかった。

「先に、行くね。」
カヨは、立ち上がると、動けない私を後にして店を出て行った。

それからようやく気付く。カヨは、私と彼が抱き合った日のことを知っていたのではないかと。今日会ったのは、偶然なんかではなく、私に復讐しに来たのではないかと。

それなら、彼女の復讐は充分な成功を遂げた。

私は、いつの間にか濡れていた頬に手をやる。


2002年04月20日(土) 「ええ。世界中どこを探したって、素敵なドラゴンになれる男なんて滅多にいないんですもの。」

僕の妻は裕福な家庭の一人娘で、僕らは、彼女の父親が用意した豪勢な家に住んでいた。

「ちょっと、広過ぎるんじゃないの?」
初めてその家を見た時、僕は気後れして、妻にそう言った。

「これくらいでちょうどいいのよ。」
妻は微笑んだ。

実際、妻がなぜ僕を結婚相手として選んだのかは分からない。もちろん、僕は僕なりに頑張って来た自信はあった。そこそこの大学を出て、一流の企業へ就職した。だが、見た目は平凡な男だ。それに引き換え、妻は、美貌に恵まれ、豪快な父親の性格を受け継いで大らかに育っていたので、男だってよりどりみどりだったのだ。なのに、なぜか僕を選んだ。

「僕のどこが気に入ったの?」
「あなたは、大物になる人よ。そして、私は、あなたの子供を産むのを、きっと誇らしく思うわ。」

僕は、彼女の言っていることがさっぱり分からなかったが、そんな彼女を愛した。

--

妻の妊娠が分かったのは、結婚してちょうど丸一年が経った頃だ。

つわりで青ざめた妻の顔は、見るからに辛そうだっただが、妻は生まれてくる赤ちゃんへの期待で胸が一杯なのか、弱音を吐くこともなく、お腹の赤ちゃんに歌を歌ったり、絵本を読んで聞かせたりしていた。

そんなある日、僕は、目が覚めるとドラゴンに変わっていた。

僕は、いつも起きると真っ先に妻のところに行くから、自分の姿が変わったなんて気付きもしなかった。

妻は、私を見ると目を輝かせて言った。
「あら。おはよう。ドラゴンさん。」
「ドラゴンさん?」
「ええ。あなた、素敵なドラゴンになっててよ。」

僕は慌ててバスルームに行き、等身大の鏡に全身を映す。そこには、緑色のうろこに、金色の爪を持つドラゴンが、実に間抜けな姿で立っていた。その姿は本当にあきれる程間抜けだった。大体、胸元のボタンが幾つかちぎれているパジャマを着たドラゴンなんて、世界のどこにいる?

僕は激しいショックを受けたまま、妻の寝室に戻った。

「なんてことだよ。なんでこんなことに。」
「あら、私、初めから分かってたのよ。あなたがいつか素敵なドラゴンになることがね。」
「だから、僕を選んだのか。」
「ええ。世界中どこを探したって、素敵なドラゴンになれる男なんて滅多にいないんですもの。」

僕は、自分の部屋に戻って、ぐったりとベッドに倒れ込む。これは単なる外見の問題ではない。自分が今まで生きて積み上げて来たものの崩壊という事態に直面しているのだ。妻が愛して来たのは、僕ではなく、僕が秘めていた可能性だった。じゃあ、今までの僕は、妻にとって何だったのか。

僕は、会社に休むと連絡を入れ、一人自室で考える。考えて考えて考えて。そうしていると、妻が、僕の部屋にやってくる。

「寝てなきゃ駄目だよ。」
「いいのよ。あなた、苦しんでいるのでしょう?そんなあなたを放ってはおけないわ。あなたの気持ち、分かるもの。」
「じゃあ、一つ聞いていいか?」
「ええ。」
「きみは、今までの人間の姿をした僕のことは愛してなかったの?」
「まさか。あなたをずっと、愛していたわ。あなたがたとえドラゴンにならなくても。だって、あなたはドラゴンになることのできる人だったし、仮にドラゴンになったとして、その試練に耐え得るほどに勇気のある人だって、私、あなたを見た時から気付いてたの。」

僕は、妻の言うことがよく理解できなかったが、具合の悪い妻が僕の元に来て伝えてくれた愛は痛いほど理解した。

僕は、妻を抱き上げて、妻の寝室に連れて行った。点滴を繋いで、布団を肩まで掛けてやると、
「ゆっくりおやすみ。」
と言って部屋を出ようとした。

「待って。」
「ん?」
「キスして。」
「いいとも。」

僕は、自分のいかつい顔を気にしながら、妻にそっと口づけた。

唇を離す時、妻の唇から一筋の血が流れた。

「ごめんよ。」
「ううん。嬉しい。あなたの付けてくれた、傷。」

それから、妻は目を閉じて、眠った。

--

妻が息子を出産したのは、深夜だった。恐ろしい程の悲鳴が、家中に響き渡り、妻の母親の代からの産婆が、息子を取り上げた。

深夜二時、僕と同じうろこを持つ息子が誕生した。

息子は、妻のお腹を裂いて出て来てしまったため、妻はそのまま息を引き取った。

明け方まで、僕はオンオンと泣き続けた。

防音設備のあるカラオケルームがあって、良かったと思った。

--

僕は、息子と二人取り残され、何とか生計を立てなくてはならなかった。もちろん、勤めていた一流企業は首になった。

妻の父親は、葬儀の後で僕を呼んで、困ったような顔をして、言う。
「娘がどうしてもとせがむから、きみとの結婚を許したのだ。だが、ドラゴンを跡取にするわけにもいかんのだよ。こんな時に申し訳ないが、頼みがある。この家はお前にやるから、籍を抜いてくれんかね。」
「いいですよ。」

僕にだってプライドはある。妻がいなくなってまで妻の実家に頼ろうとは思わない。

妻の父親は、僕の腕に抱かれた息子が、きゃっきゃっと声を上げるのを、妙な物を見るような目つきで見ていたが、やがて、少し顔をほころばせると、
「目元があの子に似ているなあ。」
とつぶやいて、出て行った。

僕は、就職活動を始め、ありとあらゆる業種の面接を受けた。

僕自身が見せ物になるのは嫌だったので、何とか、僕自身の能力を買ってくれるところを探した。そうして、結局、近所のラーメン屋のおやじが、僕を雇ってくれた。

最初は、皿洗いからだった。皿くらいなら、僕の熱い息であっという間に乾かすことができる。

それから、ラーメンを作るほうも、少しずつ任せてもらうようになった。もともとラーメンが好きだった僕は、この仕事を楽しんでやることができた。息子を背中に背負ってラーメンを作るドラゴンは、近所でもちょっとした評判になった。僕は、好奇心から来る客の舌を満足させるだけのラーメンを作ろうと、日夜努力した。

仕事が終わって、家でくつろいで息子の相手をしていると、なるほど、目元が妻そっくりだな。と、妻の父親が言っていたことを思い出す。

僕ら親子を眉をひそめて見る人々に対しても、くったくのない笑顔を向けられる、その小さな勇気も、妻にそっくりで。

もうすぐ、息子も保育園だ。きっと、そこでもみんなとうまくやれるだろう。僕は、信じて疑わない。


2002年04月19日(金) 私は、世界が空っぽになってしまったみたいな気がして、そこから動けない。祭りは終わった。

洋介に繋がっている点滴が、ポタリポタリと落ちるのをしばらく眺めていた後、私は編物の手を止めて病室を出る。

詰所では、相変わらず、髪を染めた若い母親がインターンを相手に耳障りな嬌声を上げている。公衆電話では、テレフォンカードを何枚も握り締めた女の子が、今夜も、看護婦に注意されるまで電話を掛け続けるのだろう。

だが、彼らを誰が責められよう。いつ終わるともしれない長い夜を幾つも過ごしている彼らを。

私は、階下に下りて、階段の脇の公衆電話から自宅に電話する。洋介が入院している間、次男の面倒を見るために実家から母が来てくれているのだ。
「もしもし。」
「あ、お母さん。健斗は?」
「さっき寝かせつけたところよ。洋介のほうは変わりなし?」
「ええ。相変わらず、意識はないまま。」
「そう。あんたも、疲れ出さないようにね。いつでも交代してあげるから。」
「ありがとう。」

他に話すこともない私達は、短い会話で電話を終える。

その足で、談話室に向かう。

いた。

「やあ。」
タクが嬉しそうに微笑む。

白い肌が、長い病院生活を物語っているが、柔らかい髪、年齢より若く見える美しい顔。以前、私が洋介の主治医と話をしている間に退屈していた待っていた健斗の相手をしてくれていたのがきっかけで、彼と親しくなった。

「あの。これ。」
私は、バッグから包みを取り出す。

「なに?」
「今日、お誕生日でしょう?」
「そうだけど。」
彼は、不思議そうに目をぱちぱちさせて、包みを開ける。中から出て来た時計に目を輝かせる。

「うっそ。こんな高そうなもの、いいの?」
「うん。」
「でも、俺、誕生日だなんて言ったっけ?」
「ええ。忘れた?」
「そうだったかな。ほんと、ありがと。サキちゃんからもらったものだし、大事にするよ。」

私は、先日、タクが
「あーあー。今年の誕生日も、この病院で迎えるのかあ。」
とボヤいていたのを聞いたのだった。

仕事中に骨折したという彼は、もう、一年以上外科の病棟にいる。

「ね。ちょっと俺の病室、来ない?」
「ちょっとだけ、ね。」

私達はわざと時間をずらして、タクの個室に入る。

タクは、ベッドの上に座ると、私を引き寄せて口づけてくれる。
「本当に、ありがとう。つまんない入院生活の中で、サキちゃんがいることだけが僕の救いだよ。」
「ううん・・・。私も。タクといると、なんだか元気が出てくるの。」

そうやって、短い時間触れ合うと、私は急いでタクの個室を出る。

--

長男の洋介が小学校の帰りに事故に遭ったのはニ週間前のことだ。

まだ、免許を取って間がない若者の車に跳ねられたのだ。

それでも、なんという皮肉か。それまで冷え切っていた私と夫の関係は、意識のない洋介のおかげで、改善されつつある。家族に無関心だった夫は、私を気遣う言葉を掛けるようになってくれたのだ。

ーー

小児病棟のほうに足を運ぶと、何やら騒がしいのに気付く。

「どうしたんですか?」
私は不安な心を抱えて、そばを行く看護婦に声を掛ける。

洋介だ。

部屋の中には、医師と看護婦がいて、洋介を囲んでいる。

ほんの少しここを離れていただけなのに。

「ねえ。洋介は?駄目なんですか?先生。」
私は半狂乱になって叫ぶ。

看護婦が、
「ご家族をお呼びになってください。」
と言う声が聞こえる。

ごめんね。ヨウちゃん。ママがここに付いててあげなかったせいで。

私は、その場にくずおれる。

--

葬儀が終わると、母は、
「じゃあ、私は帰るから。」
と言って、立ち上がった。

「いろいろありがとう。」
「しっかりおしよ。子供は洋介だけじゃないんだからね。」
私はうなずく。

事情を飲み込めていない健斗が愛らしく
「おばあちゃん、また来てね。」
と叫ぶのが、切ない。

夫が私の肩を抱いて、タクシーに乗せてくれる。

--

ひっそりとした家に戻ると、私は、妙な喪失感に襲われる。

幾日かぼんやりとした日々を過ごし、最初のうちこそ夫も心配していたが、仕事に追われるにつれ、夫は少しずつ、以前の無関心な夫に戻って行った。

そうだ。タクに会いに行こう。

私は、その思いつきに心が急に弾むのを感じる。

本屋に寄って、いつかタクが好きだと言っていた作家の新刊本を買い、健斗と三人で食べるようにケーキも買い込むと、病院行きのバスに乗る。

「ねえ。ママ、どこ行くの?」
「前、ケンちゃんと遊んでくれたお兄ちゃんのところよ。」
「ふうん。」
「覚えてる?」
「覚えてないよ。」

私達は、そんな会話をしながら、タクの病室に行く。だが、タクの病室だった部屋から、タクの名前のプレートが外され、ベッドも綺麗に整えられていた。

私は、慌てて詰所に行く。

「502号室の患者さんですか?先週、退院されましたが。」

そんな・・・。

私は、呆然とそこに立ち尽くす。

「ママ?ママ?」
健斗の小さな手が、私の手を引っ張っているが、私はそこから動けない。

--

フラフラと病院を出ると、私は、世界が空っぽになってしまったみたいな気がして、そこから動けない。

祭りは終わった。

そんな言葉が響く。

「ねえってば。」
健斗が、私を心配している。

「ねえ。ケンちゃん、病院、楽しかったねえ。」
私は、そんなことを言って、車が行き交う道路を眺める。

ケンちゃん、あんまり痛くないようにするからね。

私は、走って来た車に向かって健斗の小さな背中を押す。


2002年04月18日(木) 僕が触れただけで熱い吐息を漏らす。彼女の艶っぽい声が、そこに横たわる長い歳月を感じさせて、僕は嫉妬する。

僕が小学生の頃、母が亡くなった。

それから、父は浴びるように酒を飲むようになった。そうして、僕のことをかまわなくなった。

僕のことを心配して時折立ち寄ってくれる叔母は、僕に向かって、
「思い出が人を駄目にすることもあるからね。こうやって生きてる人間がどう逆立ちしたって、かなわない。思い出に取り憑かれた人間には、勝ち目はないってことさ。」
と、繰り返し言った。その口調は、妙に乾いた感じで、叔母自身の苦労がにじみ出ていた。

それでも僕は、父に振り向いて欲しいと、あれこれと父の気を引くようなことをしてみた。そうして、それは全部無駄だと分かったのは、僕が中学生になった頃だった。思い出に勝ち目はない。僕は、拒絶され、無力感を感じただけだった。

--

「久しぶりだね。」
大学時代の友人と久しぶりにあった時、僕はそう声を掛けて来た彼女が誰か一瞬分からなかった。

「すげ。きれいになっちゃって、誰か分からなかった。」
「うまいのねえ。」
「だってさあ。」
僕は、照れまくって、つい、飲み過ぎる。

「結婚してるんだ?」
僕は、彼女の薬指を見て気付く。

「ええ。まあ。一応ね。」
「子供は?」
「小学校一年と四歳。」
「へえ。信じられないなあ。あのエツコがねえ。」
「やだ。どうして?」
「なんだかさあ。ちょっと変わってたから、普通の奥さんとかやってるの想像つかないよ。」
「やあねえ。」

彼女は、そっと指輪をした手を隠すように引っ込めると、僕のグラスを満たす。

話がはずんで、もう、ヘロヘロになって、いつお開きになったかも分からなくて、僕とエツコは、二人で夜道を手を繋いで歩いている。

「いいの?人妻がこんなに遅くなって。」
「今日ぐらい、大丈夫だよ。それよかさあ、そっちは結婚してるの?」
「僕?僕は、失敗したんだよ。結婚に。」
「うそ。なんで?」
「なんでかなあ。頑張ったんだけどね。彼女、出て行っちゃった。もう、一旦駄目になると、どうやったってうまくいかなくなっちゃって。」
「あの時の人でしょう?一つ年上の。」
「うん。そう。」

僕は、自分の結婚が失敗した話なんかどうでも良かった。彼女の髪が柔らかく揺れて僕の頬をくすぐることとか、桜色の口紅が形良く動くこととか、そんなことばかりに気を取られていた。

「あの時さあ、彼女がいるからって言われて、私、あなたにフラれたんだよね。」
「え?そうだっけ?」
「そうよ。あなた達有名だったもの。」
「そうかなあ。覚えてない。」
「うらやましかったのに。」
「もう、よそうよ。彼女の話はしたくない。」
「ごめんなさい。」

彼女が、軽く頭を下げて、本当に申し訳なさそうな顔をしてうつむくから、僕は、その顔をこちらに向けたくて、彼女の顎をそっと押し上げて口づける。

「やだ。待ってよ。」
彼女は、立ち止まる。

「ごめん。」
「ううん・・・。」

それから、僕らは無言で歩いた。

空車のタクシーを見つけて手を上げた時、彼女は言った。
「今頃になって、遅いよ。馬鹿。」

僕は、彼女の手をぎゅっと握った。僕にとってはちっとも遅くはなかったから。彼女が何でそんなに怒っていたのかも、僕は分かってないのだった。

--

彼女の携帯の番号は、あの日集まった仲間に聞いてすぐ分かった。

「時間ないの。」
会うなり、彼女は言う。

「じゃあ、急ごう。」
僕らは、大して言葉を必要としなかった。

僕達は遅れを取り戻すようにせっかちに抱き合う。

彼女はすっかり大人になっていて、僕が触れただけで熱い吐息を漏らす。

彼女の艶っぽい声が、そこに横たわる長い歳月を感じさせて、僕は嫉妬する。

--

「ねえ。明日、会いたいよ。」
僕は、電話口で無理を言う。

「明日は、駄目よ。幼稚園の茶話会があるの。」
「明後日は?」
「小学校の参観日。」
「忙しいんだね。」
「春は忙しいの。」

四月になって、彼女はいつも忙しい。

僕は、焦り始める。

無理を言って、彼女を呼び出した。

「無理に呼んだりしてごめん。」
僕は、謝る。

「いいのよ。」
彼女の答え方があまりに静かなので、僕の胸は痛い。

「子供、大変だね。」
「子供のことは、いいのよ。気にしてくれなくて。」
「でも、子供のことが忙しいんだろう?」
「ええ。まあ、そうだけれど。子供のことはあまり言われたくないの。」
「僕には、子供がいないからね。」
僕は、拒絶されたようで、腹立たしい。

「違うの。子供のことを持ち出されると、なんだか、私達、随分と遠くに来てしまって、お互い全然違う道を選んでしまったんだなって思って、すごく辛くなるの。」
「よく分からないな。」
「分からない?私、一緒だと思ってたの。大学生のあの頃、あなたに抱いていた恋心と、今の気持ちと。だから、あなたと今抱き合えば、あの頃の望みが全部果たせると思ってた。あの頃不幸だった私は、あれから幸福になろうと沢山努力したの。そうやって、幾つも恋愛して、あなたが好きだったことも忘れるくらい幸福になろうと思ってた。」
「今、きみは充分、幸福だろうに。」

どこかに行ってしまおう。二人きりで。子供も、何年かの歳月も置き去りにして、どこかに。

「駄目なの。今の恋はどうやったって、思い出の恋に勝てないの。」
彼女の目はどこか遠くを見ている。

ああ。この感じだ。僕は、この瞳が見つめる先を知っている。急に無力感に襲われる。

そうして、僕は、彼女の中の昔の僕に勝てない。

人は、思い出には勝てない。

二人でどこかに行ってしまおう。そう言おうとした言葉を飲み込むと、あきらめて伝票を握って立ち上がり、僕は雨の中を出て行く。


2002年04月15日(月) 「ああ。16になって、僕らは普通に、じゃあねって言って別れて、それっきりさ。」「彼女、本当に行っちゃったんだ。」

僕らは長い坂を、だらだらと歩いている。

「ウサギ。小さい、手の平に載るようなウサギ。知ってるか?」
「ああ。テレビで見たことがある。」
「夏祭りなんかの夜店で売ってるところを見たことは?」
「それはないけどさ。」
「あのウサギなんだけど。魔法使いに姿を変えられた子供だっていう話があるんだ。」
「なんだよ?それ。」

僕は、隣を歩く友人に、昔仲良しだった女の子が教えてくれた話をする。

--

夜店で売られているウサギ。あれね。売ってる男を見たことがある?背が高くて。黒っぽい服を着て。そいつが魔法使いなの。魔法使いは、ウサギを子供に売る。子供は、それを飼うんだけど。

そのウサギには魔法が掛けてあってね。飼い主の子供を誘うの。誘うって言っても、その赤い目でじっと見つめるだけなんだけど。全部の子供が気付くわけじゃないんだ。自分が今いる場所、親や先生や友達なんかとうまくいってないって思ってるような子の耳には、誘う声が聞こえるの。

「行こうよ。すごく素敵な世界。きみがいやだと思うことを、無理矢理させたりしない。そんな場所へ。」
ってね。

子供は、うなずいて、夜のうちにウサギと出て行ってしまう。

そうして行きつく先で魔法使いが待っている。魔法使いは、子供の脳みそを抜いて食べちゃうの。それから、子供をウサギに変えて、空っぽの頭に、ウサギの毛のようにフワフワした白い綿を詰める。そうして、また、そのウサギ達を連れて、夜店に売りに行くの。

--

彼女はそんな話をしてくれた。

僕は、
「まさか。」
と、笑った。

「信じないの?」
「だってさ。そんなこと言い出したら、あっちでもこっちでも、行方不明の子供だらけになっちゃうよ。」
「ウサギを飼った子供全員が、家を出ちゃうわけじゃないの。本当に家や学校にいるのが辛い子供だけが家を出るのよ。それに、魔法使いは巧妙なの。ウサギを売りに行く場所を転々と変えて、変な噂が立たないように工夫してるのよ。」
「じゃあさ、何でお前がそんな話知ってるんだよ?」
「誰にも言わない?」
彼女は真剣な眼差しで、僕を見つめる。

「あ。ああ・・・。」
「その魔法使いっていうのが、私のパパなの。」
「お前のパパ?お前んちのおじさん。あれが魔法使い?」
僕は、腹巻きした太鼓腹のおやじを思い出した。

「違うわよ。あれは親戚のおじさんよ。パパは仕事で外国に行ってることが多いから、私、ずっと預けられてるの。」
「へえ。」
「ねえ。信じてないでしょう?」
「え?うーん。だって。」
「いいわ。信じてくれなくても。だけど、一つ覚えていて。」
「何を?」
「私、16になったら、魔法使いと対決するの。」
「何で、16?」
「私達、今は、12歳でしょう?大人にならないと、魔法使いに対抗できるだけの力がつかないのよ。だから、私は、16になったら魔法使いと闘いに行くの。」
「勝てるのかよ?」
「分からない。勝てたら、戻ってくるわ。負けたら、もう戻って来ないかもしれない。」
「勝てるといいなあ。」
僕は、彼女がいなくなるのは嫌だな、と思いながらそう答えた。

「捕まえられた子供達が力を貸してくれれば、勝てるかも。」
「きっと勝てるさ。」
「分からないよ。そんなの。だって、ずっとウサギのままのほうが幸せってこともあるじゃん。」

それから僕らは二度と魔法使いの話はしなかった。

「で?」
友人は訊ねる。

「ああ。16になって、僕らは普通に、じゃあねって言って別れて、それっきりさ。」
「彼女、本当に行っちゃったんだ。」
「うん。」
「帰って来ない?」
「ああ。」
「負けちゃったのかな。」
「さあなあ。まだ、世界のどっかで闘ってるのかもしれない。」

坂を昇り切ると、僕らは少し息切れしていた。

「あの先だよ。」
僕は指差す。

「何があるの?」
「新しくオープンしたペットショップ。」
「もしかして?」
「うん。彼女によく似た女の子がいるんだ。」

僕らは、その店のドアを押す。

ドアベルがチリチリと鳴る。

「いらっしゃいませ。」
微笑んだ女の子は、やっぱり、息を飲むくらい彼女にそっくりで。けれど、彼女の瞳は、僕を見てもチラとも揺れない。

僕は、彼女に声を掛けようとして、やめる。

あの勇敢な女の子は、もういないのだろうか?

それとも、脳みそを食べられて、魔法使いの手先になっちゃったんだろうか?

--

友人と坂を下りながら、彼女の言葉を思い出す。
「だって、ずっとウサギのままのほうが幸せってこともあるじゃん。」

僕は首を振る。

彼女は負けたんじゃない。

それから、世界のどこかで、黒い髪をなびかせた女の子が勇敢に闘っている光景を想像してみる。

彼女は、「覚えていて。」と、あの日言った。

だから、僕は忘れない。ずっと待ってる。

帰って来たら、まっさきに僕に会いに来る筈だもの。


2002年04月14日(日) 静かに始まった恋は、やがて、熟れ過ぎた果実のように、ある日、地面に落ちて、醜くつぶれる。

世の中にインターネットが普及したおかげで、今日も、誰かと誰かがネットで出会い、見えない相手と恋に落ちる。

男は、その女性が綴る、静かな中にも強い意思を感じる文章が好きだった。いつも、そのページを開くたびに、その凛としたたたずまいに溜め息をつく。見もしないその人に抱く感情は、もはや恋と言っても良かった。男は、ある日、勇気をふるいおこして、彼女にメールを書いた。しばらくすると、暖かい返信が来た。彼女もまた、男が持つウェブページを見てくれて、折々の感想をくれるようになった。

そうして、幾つものメールが行き交い、男と、その女性は、いつしか、実際に会いたいと思うようになった。

男は、とうとう抑えきれず、「逢いに行くよ。」と、メールを。彼女も最初は拒んだけれども、とうとう「では逢いましょう。」と。

けれども、インターネットというのは、本当に世界の端と端を、いとも簡単に繋ぐので、男は知らなかった。女性の住む島は、平均身長が2.5mの住人の暮らす島だということを。

--

いくら彼女が島では小柄なほうだとはいえ、彼女もまた、身長2mを越えていた。だがしかし、初めて会った時、男は驚きこそすれ、その時既に、彼女に深く恋をしていたので、身長の差など気にならなかった。それに、彼女は美しかった。漆黒の豊かな髪に包まれた白い端整な顔は、陶器の人形のようだった。

「美しい。」
男は、驚嘆して、つぶやく。

だが、女性は恥じ入り、うつむいてばかり。

「顔を上げてごらん。」
男は、懇願する。

女性は、海岸に近い宿の一室、誰も見ていない場所で、ようやく安心して顔をあげ、微笑む。
「やっと会えたわね。」

男は、その女性が見上げるように大きくても、かまわなかった。

「あまり見ないで。」
彼女は恥ずかしさのあまり、顔をそむける。

「こっちを向いて。」
男は彼女にそっと口づける。

そうやって、何度も。何度も。

女が、指輪の跡がついている指をそっと隠すように手を握り締めたのを、男は知っていた。

--

そうやって、静かに始まった恋は、膨大なメールのやり取りの中で育って行き、やがて、熟れ過ぎた果実のように、ある日、地面に落ちて、醜くつぶれる。

「もう、あなたには逢えない。」
彼女のメールは悲しい。

「どうして?」
男は、必死ですがりつく。

彼女は、結婚をして子供がいることや、男より大きな身長のことやら、そんなことを並べ立てるけれども、彼は納得できない。

「たとえ、きみが身長10mの恐ろしい顔をした怪物だったとしても、きみを愛するよ。」

けれども、彼女の返事は、はっきりしたものだった。

「もう、逢いません。」

男は絶望して、それから、やさしい娘と結婚をした。男のことをずっと愛し、待っていた、心やさしい娘と。男と妻の間には、二人の愛らしい子供もできた。けれども、男の心には、大きな大きな空洞があって、男は、その空洞を見つめて暮らす。

--

もう、彼女からの最後のメールが来てから、五年が過ぎた。

男は、それでもまだ、メールを待つ。

それを信じて疑わないことで、男はなんとか生きているのだから。

--

ある日、メールが一通。もう、誰からもメールが来なくなっていた、男の元にメールが一通。なつかしいアドレス。

「あの人からだ。」

男は、息を吸って、震える指でそのメールをそっと開く。

それは、彼女の娘と名乗る女性からだった。

「母の知人と思われる人々にこのメールを送信しています。」
それは悲しい知らせだった。女性が、狂気の果てに、自らの命を絶ってしまったことを知らせるメール。

仮に、それが、真実であってもなくても、男には関係がなかった。男が信じていられるものは、ただ、目の前にある、海の向こうで綴られた悲しい言葉だけだったから。

男は、ついには絶望して、ふらふらと立ち上がると、部屋を出て行く。

--

「夕飯ができたわ。」
妻が、男を呼びに、部屋を覗く。

薄暗い部屋で、電源が入ったままの、パソコンが青白く光っている。

「あなた・・・・?」

だが、しかし、妻には分かっていた。

男が二度と戻って来ないこと。

波のまにまに飲まれて、二度と戻って来ないこと。

妻は、そっとパソコンの電源を抜く。パシュと音を立てて、部屋は暗く静かになる。それはまるで、死人のまぶたを閉じさせる行為に似て。


2002年04月12日(金) 「お前さんも、随分と悲しそうだな。」「ええ。」「もっとも、ここいらの住人はみんな悲しそうだ。」

ここいらあたりは、夕暮れは特に交通量が多い。私は、行き交う車を眺めながら腰をおろす。

「見なれない顔だな。」
老人が私の顔を見て、そんなことを言いながら、横に腰をおろした。

「おじいさんは?」
「私は見ての通り。随分と長くここにいる。」
「私は、一週間くらい前に来たの。」
「なるほど。」

老人は、何かを納得したようにうなずき、それから、交差点の向こうに目をやる。犬が一匹、太った女に連れられている。痩せて、あまり元気がなさそうな犬だ。女に引きずられるようにして、ヨタヨタと歩いている。

横断歩道を渡ってこちらまで来ると、老人のほうに鼻を寄せて、クンクンと鼻を鳴らし、老人も、一言、二言、声を掛けてやっている。

「もう、行くよ。」
女が、紐をぐいと引くので、犬はよろめいて、女について歩きだす。

「あの女性は、私の娘なんだよ。」
「そうなんですか。でも、あまり犬のことを可愛がってないみたい。」
「あの犬は、亡くなった私の妻が飼っていた犬なんだよ。妻は三年前に亡くなった。あの犬も、もう随分年寄りで、散歩に行くのさえ一苦労なのに、いつもこうやって私に会いに来てくれるんだよ。まあ、娘も、ああやって犬の世話を押し付けられて迷惑なんだろうが、それでも、世話をしてくれている。感謝しなくてはな。」
「あの犬、なんだか、悲しそうな目をしてた。」
「年老いた犬というのは、いつも悲しそうな目をしているものだ。」

老人は、微笑む。それから、煙草を取り出すと、火をつけて、随分とおいしそうにゆっくりと吸い込む。

「妻があの犬を飼いたいと言い出した時には、私は反対したんだがな。もう、私らも先が短い。今から犬なんか飼ったら、犬を残して行かなきゃならなくなるってな。でも、妻がどうしてもとせがむから。」
「奥さんのこと、愛してらしたんですね。」
「結局は、妻が逝ってしまった後、あの犬が私を救ってくれた。あの犬がいなかったら、私はきっと妻の後を追っていたことだろう。妻は、最初からそれがわかっていて、犬なんか飼いたいと言いだしたんだよ。私が、孤独にはひどく弱いことを知っていてな。妻は、いつだって先のことを考えて行動できる女だった。」
「うらやましいわ。」
「若い頃は、よく喧嘩もしたがな。」

私は、本当にうらやましかった。長く連れ添った夫婦がお互いのことを語る時に浮かべる、暖かい眼差しは、長年掛けて磨かれた宝石のように美しかった。私と彼も、そんな夫婦になることができたなら、多くの苦しみも悲しみさえも、宝石に深みを与える出来事になったかもしれないのに。

だが、私と彼は、もう・・・。

--

「お前さんも、随分と悲しそうだな。」
「ええ。」
「もっとも、ここいらの住人はみんな悲しそうだ。」

私は、ガードレールに添って置かれている花やら、人形やら、酒瓶やらを眺める。

ここ、霧ノ町三町目の交差点は、事故が多くて有名な場所なのだ。

夕暮れも近付くと、こうやって、私や老人のような霊達が、静かに現われる。そうして、思い出を語り合ったり、ただ、そこにたたずんだり。

--

一週間前の夜、私は夫を待っていて、ここで車に跳ねられた。

あの夜の私は、もう、完全におかしくなりかけていて、仕事で遅くなる夫を出迎えるために、このあたりをフラフラと歩き回っていた。まだ新婚三ヶ月目なのに、夫が仕事で忙殺されて日曜でさえほとんど休めない状況が、あんまり寂しくて、疑心暗鬼になった。

あの夜、会社の同僚の女性と一緒に歩いていた夫のそばに駆け寄ろうとして、私は他に何も見えなくなっていたのだ。

--

「私は、ここで一生、夫を待っていることになるのかしら?」
「そんなことはない。肉体というのはコップで、魂というのはコップの中身のようなものだ。コップは、いつかは壊れる。そうして、しばらくはコップの記憶と共にいる魂も、いつかは新しい器を得る。」

夜も更けた頃、向こうから、男性が歩いて来る。

今日も片手に花を一輪。

私の足元にそっと置く。

私は、手を伸ばすが、夫にはさわれない。

少し痩せたみたい。ちゃんと食事しているの?

私の言葉は彼には届かない。

しばらく目を閉じていた彼は、立ち上がり、ゆっくりと夜道に消えて行く。

こうやって、毎晩。だが、いつか、彼が私のことを忘れて誰かと一緒になっても、私はいつまでも彼を待つのだろうか。

「ゆっくりでいいじゃないか。時間はたっぷりある。」
老人は、私を見て微笑む。

「さて、私は、そろそろ行くよ。ばあさんが待ってる。」
老人は立ち上がる。

振り向くと、小柄な老女がニコニコと私達のほうを見ている。それから、二人連れ添って、闇に消えて行く。

もうすぐ、あそこに犬が一匹加わるのだろう。

それは、とても暖かい光景のように思えた。


2002年04月11日(木) 見上げると、白い月。もう帰らないつもりだった。どうして?と問われたら、月明かりのせいにするかもしれない。

帰宅した夫がネクタイを緩めながらしゃべっているのを、私は黙って、リンゴの皮をむきながら聞いている。夫は、酔っているせいで声が大きいのに気付いていない。

「そろそろあいつらにももう少し力を発揮してもらわないと、会社の将来が不安だからね。資格を取れ。全員取れ。って言ってやったんだよ。なのに、あいつらと来たら、こんなに仕事させられてたんじゃ、勉強する時間もないって騒ぐんだ。時間なんて、どうやったって作れるもんだろう?寝る時間削るなり、酒飲みに行く回数を減らすなりすればいいんだ。結局、口ばっかりなんだよなあ。」
「お茶漬け?」
「ああ。」

夫は、箸を握っても、まだ、愚痴を言い続ける。

私は、リンゴを見ながら、リンゴの曲線のこと。色のこと。ここが、こう、赤で、ここから黄色が混じって、ここにえくぼのような窪みがあって。そんなことに見惚れて、その美しさを絵に描いてみたい、と、その時、放心していた。

「おい。」
「え?」
「おかわり。」
「あ。はい。」
「相変わらずだな。時々、ぼーっとして。しっかりしてくれよ。」
「ええ。」

早く描きたい。

夫が、ようやく布団に入ってくれたのを確認してから、私は、もう一度キッチンに行ってリンゴを眺める。そうやって体の中に膨らんで来たものを記憶すると、私もようやく布団に入る。

--

「ママ、今日はお仕事の日よねえ。」
「うん。」
「おやつ、用意しておいてね。」
「大丈夫よ。おやつまでには帰ってくるから。」
「そういって、こないだなんか、おやつ用意するのも忘れて遅く帰って来たくせに。」
「今日は気を付けるわ。」

週ニ回のパートに出るだけでも、なかなか大変なものだと思った。家族に迷惑が掛かるようなら即座にやめてもらうからな、と、夫からは厳しく言い渡されている。

せめて。

せめて、絵の具代だけでも、自分が働いて捻出したい。そういう一心で、働きに出た。

「いってらっしゃい。」
玄関で、学校に行く娘を見送った。

黒くて豊かな髪。私と違って背が高く、手足の伸びやかな美しい体。娘の後ろ姿は年々夫に似てくる、と思いながら見送った。

--

もう、三十を越えてから、絵が描きたくなった。それは、泉のように湧き出して、私は、ただ、描きたいから描いた。最初は、夫に頼んで週一回のカルチャーセンターに通わせてもらっていたが、結局、それでは飽き足らず、家で一人で描くようになった。

夫に隠れるように描いているが、それでも夫は面白くない。家族に迷惑を掛けるなよ。と、うるさいぐらいに何度も何度も、言う。

そうは言うけれど、娘ももうすぐ中学生だ。母を追って泣く年齢でもあるまいに。と、言いそうになるのを抑える。

いつも、少し悲しい気持ち。夫の愛も、娘の愛も、私の心を悲しくさせる。

--

夜。月明かりが差し込んで来て。それはまっすぐでためらいもなかった。

「行こうよ。」
月が微笑んだ。

私はうなずいた。

そうして、絵の具と、それから、少しの身の回りのもの。たくさんはいらない。むしろ、描くことができる手があればそれ以上は。

そっと音を立てないように、玄関を出る。

見上げると、白い月。

もう帰らないつもりだった。

どうして?と問われたら、月明かりのせいにするかもしれない。桜の花が狂ったように散っていたからでも、なんでも、理由はどうだっていい。

どちらにしても、それはきっかけに過ぎないのだから。

--

それから半月。

嫁いでからは旅行らしい旅行もしたことがない私だが、月明かりが導いてくれた島に辿り着く。

そこで、絵の具を広げ、自分の心の中の描かれたがっているものを白いキャンバスに。

私は、ようやくいろいろなものから解き放たれて、絵を描く。

--

この島には、時間の概念に人間が合わせるという習慣はない。

私は、今が何日かも知らない。

もう、家を出て随分と経ったのだろうか?

私は、描きあがった絵を波に乗せて、海から流す。それは、伝わるべくして、誰かの手元に流れつく。

風が、海の向こうから夫の嘆きの声を運んで来る。

「赦すから。何もかも、赦すから。帰っておいで。」

娘の声も。

「おかあさん。ごめんなさい。いい子にしますから、帰って来て。」

私は、もう、帰らない。たとえ帰ったとして、一度赦してもらったら、私は、また、次の赦しを請わなくてはならなくなる。そうやって、幾つも幾つも赦してもらわなければならなくなる。

だから。

赦された罪人になるくらいなら、逃亡を続けて生涯償えぬ程の罪を背負おう。

今夜も月明かりが差す。

まっすぐな明かりに、黒い影が長く延びるのを、私はどんな色で表わそう。


2002年04月10日(水) 私は、若く美しい体に抱かれながら、そんなことを思う。ふと、ホテルの鏡の中に自分の醜い姿を見て、身震いして目をそらす。

地味で冴えない。

それが、OL五年目の私への周囲の評価だった。

確かにそうだ。どことなく垢抜けない服装、下半身のほうに比重が大きい体型、しゃべるよりはいつも聞き手に回る性格。おかげで、大学を出て依頼、恋愛らしい恋愛もせずに今日まで来てしまった。

整形でもしようかしら。

なんてことも考えてみる。最近では、プチ整形なんてものが流行っていて、気に入らなかったら戻せるみたいだし。でも、そんなことしても、私の人生が劇的に変わるわけでもないわね。

今日も、同僚からの誘いもなく、真っ直ぐ帰宅する。猫のワッフルが足にまとわりついてくる。

「待っててねえ。」
と、ワッフルに言いつつ、金魚に餌をやる。

金魚は、私の影が見えると、すっと水槽のふちに寄って来る。餌をやるついでに、指を水面に滑らせると、金魚もその指を追って泳ぎ、それから、餌のほうに向き直って食事をする。魚なんてあまり頭が良くないと思っていたのに、この金魚はなんだか賢いわねえ、などと思いながら、今度はワッフルの餌を用意する。

一日部屋に閉じ込めたままなのがストレスなのか、ワッフルの毛は随分と減ってしまった。その背を撫でながら、「ごめんね。」とつぶやく。結婚して、家に入って、猫の世話をして一日暮らせたらいいなあ。などと夢のようなことを思いながら、私は、キッチンに立ち、コンビニで買って来たお弁当を温める。

つまらない日々。

--

新人歓迎会があり、めずらしく終電間際まで飲んでいた。同僚と分かれて、繁華街を駅に向かって歩く。ふと、路上の異国の物売りが並べている真っ赤な小壜が気になって、手に取る。

「ソレ、ラブ・ブラッド、ネ。」
「ラブ・ブラッド?」
「イイ、カオリ。アイ、ヲ、ハコブ。」
「愛・・・。」
「ソウ。」
「これ、ちょうだい。」
「アマリ、ツケスギナイデ。オオクモラウト、オオクナクス。」

私は、その妖しげに光る壜を大事に抱えると、終電に遅れないようにと急ぎ足になる。

--

翌日、ラブ・ブラッドを手にすると、私は、そっと耳たぶにつけてみる。濃く甘い香りが一瞬立ち昇るが、つけてみると案外と邪魔にならない。

香り一つで、随分と気持ちが華やかになる。私は、その日、なんとなくウキウキとした気分で仕事に取り組んだ。

いつもは小言ばかりの上司も、今日は機嫌が良さそうだ。

隣の席の同期が笑う。
「今日、調子良さそうじゃん。」
「まあね。」

そんな調子の日がニ・三日続いたある日、上司からメールが届いた。

「今夜、暇なら付き合わないか?」
私は、思わずドキリとする。

いつも皮肉なコメントをしてくる上司だが、ひそかに憧れている女子社員は多かったから。思わず、宛先が間違っているのじゃないかと確認してから、返事を出す。
「OKですよ。」

--

「どうしたんですか?私なんか誘って。」
「いや。最近、きみのことがどうも気になってね。仕事のほうも調子が良さそうだし。」
「ええ。なんだか調子がいいんですよ。」

私は、勧められるままに強い酒を飲む。

少し酔い過ぎたかな、と後悔し始めた頃に、彼が耳元でささやく。
「今夜、妻は旅行でいないんだよ。」

私は、体の中が、カッと一気に熱くなる。こんなの初めてだ。

私は、黙ってうなずく。

--

明け方、帰宅すると、いつものようにワッフルがまとわり付いて来た。

「待っててねえ。」
私は、これまたいつものように金魚の水槽に行く。

金魚が腹を見せて浮いていた。

どうしたことだろう。

私は、慌ててワッフルを見るが、まさか、ワッフルがやったわけもないし、と思い直す。

--

それから、私と上司は、ずるずると落ちて行った。もう、仕事中でさえも二人で客先に行くと言っては、抱き合う日々。

こんなことをしてたら、駄目だ。私は、焦燥の中である決意をする。

そうして、別れを切り出すために上司をディナーに誘う。仕事ももう辞めよう。決意してしまえば楽だった。私は、最後に彼の目に焼き付けるための精一杯のおしゃれをし、ラブ・ブラッドを多めに振りかける。鏡の中の私は美しかった。

「そうか。」
彼の目が悲しそうに光った。

「ええ。もう、駄目だと思うんです。こういうの。」
「私も、そう思っていたよ。」
「じゃあ、きれいにお別れしましょう。会社も辞めます。」
「駄目だ。」
「え?」
「きみとは別れられない。一生、そばにいておくれ。」
「どういう・・・?」
「妻とは離婚した。」

それから、彼はテーブルの上に、婚姻届を置く。
「駄目かい?」

私は驚いて、声も出ない。

夢の中にいるような気分で、アパートの鍵を開ける。

いつものようにワッフルが出てくるのを待つがいつまで経っても姿を見せない。

「ワッフル?」

それからしばらくして、冷たく固くなった猫を見つける。

--

あれから十年。私は平凡な主婦におさまっている。あれだけ恋焦がれた結婚も、手にしてみれば随分とつまらない。

ラブ・ブラッドは、もう使うまい。偶然かもしれないが、私が恋に手を取られるたびに、大事な命を失った。そう思っていたのに、私は、今日、クローゼットの奥から、その邪悪な赤の壜を取り出す。

私は、目一杯のおしゃれをして、待ち合わせの場所まで出掛ける。

大学生の彼は、まぶしそうに私を見るなり、私の手を握ってくる。

「ちょっと、よしてちょうだいよ。こんな人前で。親子にしか見えないのに。」
「かまわないよ。もう、僕はきみに夢中なんだから。」

体を寄せて来るので、私の下半身は溶けるように燃える。

何もかも、あの香水のせい。

私は、若く美しい体に抱かれながら、そんなことを思う。

ふと、ホテルの鏡の中に自分の醜い姿を見て、身震いして目をそらす。

--

大丈夫。あの邪悪な香水の生け贄にするために、私は、新しい猫を飼い始めた。後ろめたい気分を抱えながら、急いで帰宅する。

ニャー。

私は、猫の姿に、なぜかホッとする。

ああ。馬鹿みたい。ラブ・ブラッドが命を奪うなんていう迷信は、私の後ろ暗い気持ちが生み出した妄想だったのね。

私は、シャワールームに行こうとしたところで、電話の音に足を止める。

「もしもし。はい?そうです。え・・・?」

電話の向こうでは、幼稚園に通っている息子の担任が何かをしゃべっている。遊具から落ちた事故で。どうしたって・・・?私は混乱して、うまく返事ができない。じっとりと汗がにじみ、ラブ・ブラッドが卑猥な残り香と混ざって、私の脇の下から立ち昇る。


2002年04月09日(火) 彼女が気まぐれに僕の体に乗ってくると、僕は、黙って彼女を受け入れる。彼女のセックスは、静かで、小さな吐息だけが響く。

僕は、人からよく、ぼんやりした性格だと言われる。優柔不断というやつだ。そう。人生何事も受け身だ。しょうがない。性格はそう簡単には変えられない。今までそうやって生きてこれたのだから、何も問題はない。

今夜も、唯一の女友達のサエコから呼び出されて、随分と遅い時間まで付き合わされている。明日も仕事だからそろそろ切り上げたいと思うのだが、なかなか言い出せない。妻子がある男に捨てられたらしい。口では、自分から見限ってやったと言うけれど。

「結局、男は家庭を捨てられないのよ。私なんか、全然家庭的じゃないもの。料理なんかほとんどしたことないの。あーあ。誰か主夫になってくれないかなあ。ねえ。ねえってば、聞いてる?」
「あ・・・。ああ。」
「あんたに言っても分からないわよね。どうせ。女の子と付き合ったこともないくせに。」
「女の子と付き合ったことくらいはあるよ。」
僕はむっとして答える。

「へえ?自分から告白して?」
「いや。向こうからだけど。」
「どうせあんたのことだわ。相手の言いなりだったんでしょう?」
図星だ。

「あんたっていい男なのにねえ。その性格さえなんとかなれば。」
「よく言われる。」
「ねえ。最後に泣いたのって、いつよ?」
「え?」
「最後に泣いたのは?」
「忘れた。そういえば、最近は泣いてないなあ。それがどうしたの?」

横を見たら、サエコは酔いつぶれて、眠っていた。僕は仕方なく勘定を済ませると、サエコをタクシーに押し込んだ。頬に、涙の跡。

「そんなに泣くなよ。そのうちいい男が現われるよ。」
タクシーを見送りながら、僕はつぶやく。

--

帰宅すると、部屋にソレはいた。裸の女の子。長い髪。

「誰?」
「ここに、おいてくれない?」
「いいけど。」

僕は、唖然としながらも、取り敢えず誰の頼みも受け入れてしまう性格で、彼女のことも受け入れてしまったのだった。慌てて彼女の肩にタオルを掛けると、酔いも醒めた頭で、いろいろ考える。きれいな女の子だけど、どこから来たんだ?いったい、どうしてここに?

僕がアレコレ考えていると、彼女は一言、
「寝るね。」
と言って、僕のベッドに潜り込んでしまった。

僕はしょうがないから、床に毛布を敷いて眠る。なんだって言うんだろう?

--

次の日から、僕と、女の子の奇妙な生活が始まった。

彼女は、ほとんど口を利かず、一日家の中にいる。僕は、仕事から帰ると、二人分の食事を作り、一緒に食べる。それから、また、それぞれ勝手に過ごして、僕が布団に入ると、彼女が横に滑り込んでくる。そうして、一緒に眠る。猫と一緒に暮らしているようなものだ。彼女が気まぐれに僕の体に乗ってくると、僕は、黙って彼女を受け入れる。彼女のセックスは、静かで、小さな吐息だけが響く。

僕は、そんな生活も悪くないと思い始めていた。仕事の帰り、今日は何を食べようかと考えながら買い物するのも楽しい。案外と主夫に向いているのかもな。

帰宅すると、彼女が、トレーナー姿で寝っ転がっている。僕は、部屋に明かりがついている喜びに安堵しながら、キッチンに立つ。

ある日、僕が帰宅すると、彼女は赤ちゃんを抱いていた。
「なっ・・・?」
「あかちゃん。」
「分かるけど。どうすんの?」
「もちろん、育てる。」

彼女は、するっと服を脱いで裸になると、その豊かな乳房を赤ん坊の口に含ませた。僕は、びっくりしたけれども、その幸福そうな光景を見ると、こういうのもいいかな、と思えるのだった。

--

僕は、幸福だ。

唐突に、そんなことを思った。

彼女は、むずかる赤ん坊を低い声であやし、僕はその傍らにいて、幸せだった。

彼女は、ふと、顔を上げて僕を見た。

「なに?」
僕は、何か言いたそうにしている彼女に訊ねた。

「ねえ。ずっと、守っていてくれる?ずっと。生涯。私も。この子も。」
あまりに唐突で真剣な問い掛けに、僕は答えられなかった。

考えてもみれば、今までそんな話をちゃんとしようとしたこともない。

「一生?それって、結婚ってこと?」
「いいえ。」
「僕は・・・。約束なんかできないよ。こんな男だし。きみのこと、愛してるよ。だけど、今は、まだ自分のこれからのことに自信がないから、約束はできない。」

彼女は、黙っていた。

随分と長いこと。僕を見つめて。随分と寂しそうな目で。

それから、
「そう。」
と答えて、また、赤ん坊をあやし始めた。

僕は、ほっとして、ベランダに出る。

サエコに電話してみようかな。考えてみたら、すごいよな。いつの間にか子供までいて。結婚?そのうち考えよう。でも、今はよく分からない。こんなこと、まともに考えたことは人生で一度だってなかったから。

--

朝、起きると、彼女はいなくなっていた。赤ん坊もいなかった。

彼女がいた痕跡すら、何もなかった。

僕は、慌てて部屋を全部探し回ったが、何一つ残ってなかった。

来た時と同じように、ひっそりといなくなってしまった。

なんだったのだろう?長い長い夢を見ていたのだろうか?

--

彼女がいなくなった生活に慣れるのには少し時間が掛かった。仕事から帰る時、食材を買う楽しみも半減した。毎日、ビールをたくさん飲むようになった。

ある夕暮れ。道端で子猫の体を舐めてやっている母猫を見て、唐突に痛みが襲ってくる。ある存在が永遠に自分の目の前から消えてしまったと認めるのは、なんて時間が掛かることなんだろう?

胸が痛くて。

帰宅して、ビールを飲んで、それから少し泣いた。

あの時、約束をしていれば、失わずに済んだのだろうか?その前に、僕は自分からあの子を抱き締めたことはなかった。いつだって遠くから愛していただけだった。赤ん坊だって、自分の子供だと思ったことはなかった。ただ、幸福な光景に浸っていただけなのだ。

「最後に泣いたの、いつ?」
ふと、サエコの声が耳に蘇る。

サエコ、どうしてるかな?僕は、彼女に電話する。

「もしもし。サエコ?」
「やだっ。あんたどうしてたのよ。みんなで噂してたのよ?」
「元気にしてるかなと思って。」
「ちょうど良かった。ねえ、聞いてよ。また、新しい恋、駄目になっちゃったの。ね。暇なら飲みにおいでよ。いつものとこにいるからさ。」
「ああ。待ってろよ。」

僕は、急いで、サエコに会いに行く。

世界のありとあらゆることが、夢と消えてしまわないように。僕は、歩いて。言葉を交わしに行く。

いつも聞いてばかりじゃなくて、今夜は僕の話をしよう。

ねえ。僕、案外と、誰かのために料理するの好きみたいなんだよ、とか、そんなことを。


2002年04月08日(月) そうして、ウサギになったライオンは、ウサギ的な人生を手に入れ、ウサギの仲間達と楽しく語り、走り回った。

ライオンは、ここ最近、ふさぎの虫に取りつかれて、何をする気も起こらなかった。

妻は大らかな性格で、そんなライオンを見ても、「また、そのうち元気になるわよ。」と、気にも留めない風だ。

ライオンは、自分がなんで塞ぎ込んでいるのか、自分でもよく分からなかった。ただ、野原で遊ぶウサギ達がうらやましくてしょうがなかった。自分は、もしかしたら、間違って生まれて来たのかもしれない。僕は、本当は、ウサギとして生まれるべきだったのかもしれない。そんな想いが、頭を占めるようになり、ライオンはますます憂鬱だった。そんな悩み、妻にも言えるわけがない。

そんなある日。

森に、「ウサギ亭」という、料理屋ができた。ウサギ達は、いつもそこに集い、ワイワイと語り合ったり、ウサギ亭の主催で、さまざまな催しが開催されたりしているのだった。ライオンはそれがまた、うらやましくてしょうがない。

とうとう、ウサギ亭まで出向いて行って、ウサギ亭の主人に頼み込んだ。
「僕をここで雇ってくれないかな。」

ウサギ亭の主人は、ライオンをジロジロと見て、鼻を鳴らすと、
「まさか!」
と、叫んだ。

「駄目・・・、かい?」
「ああ。駄目に決まってるだろう。所詮、お前はライオンだ。我々はウサギだ。どうやったって、相容れないに決まってるだろう。」
「そうか。やっぱりな。」

深い溜め息をついて、その場にしゃがみ込むライオンを見て、ウサギ亭の主人は言った。
「だが、方法はあるよ?」
「方法?どんな?何でもするよ。」
「実は、この森の奥に、キツネがやってる病院があってね。そこでは非合法の手術もやってくれるってさ。ウサギになりたいライオンと、ライオンになりたいウサギの肉体交換、そこに行けばやってもらえるんじゃないかなあ。」
「分かった。そこに行ってみるよ。」
「その病院のことは、内緒だぜ。それから、本当にウサギになることができたら、ここで雇ってやるから、是非、来たまえよ。」

ウサギ屋の主人は、ニヤリとして、大喜びで走り去るライオンを眺めていた。

--

さて、その病院は、森の奥深く薄暗いところにあった。

ライオンが事情を話すと、キツネの医者は、フンフンとうなずき、
「今、ライオンになりたがってるウサギの依頼が来てるんだ。ちょうどいいや。健康状態もばっちりみたいだしな。」
と、言った。

「本当にうまく行くんだろうな?」
「ああ。俺の腕を信じろよ。」
キツネは、笑った。

「だが、問題は、お前さんのほうだよ。本当に、ライオンの姿を捨てることができるのか?」
「ああ。僕は、間違って生まれて来たんだ。」
「一時の気の迷いで簡単に決めることじゃないんだぞ。」
「分かってる。」

ライオンは、キツネが差し出す契約書にサインした。

「じゃあ、そこの台に横になってくれたまえ。」

キツネが腕に針を差し込む。ライオンは眠りに落ちる。夢のない、暗いトンネルをくぐる。

「終わったよ。」
キツネの声がして、目覚めた。

驚いた。本当にウサギになっていた。白くてフワフワの毛をした。耳が頭上で揺れるのを感じる。

「鏡、見る?」
キツネが手鏡を差し出した。そこには、真っ白な毛のハンサムなウサギがいた。

ウサギになったライオンは大喜びで、その足でウサギ亭まで行った。

「おや。随分と早くに決断したんだね。」
「僕を、ここで雇ってくれるかい?」
「ああ。いいとも。お前はもう、立派なウサギだからな。」

そうして、ウサギになったライオンは、ウサギ的な人生を手に入れ、ウサギの仲間達と楽しく語り、走り回った。

「まったく、お前、ウサギになって正解だぜ。」
と、ウサギ仲間も言ってくれたので、彼は、ウサギになった生活におおいに満足した。

--

ある日のこと。

ウサギ達は、ひそひそと何やら相談し合っている。

「何の相談だい?」
彼は訊ねた。

「ああ・・・。実は。うーん。言ってもいいのかな。」
「何だよ。」
「きみにはすごく言いにくい事なんだけどさあ。ウサギ亭では、月に一回、ライオンの肉を食べるという儀式があるんだ。」
「ライオン?なんで?」
「何ていうかな。我々小動物の恨みを晴らすっていうのかな。」
「そんな。」
「いや、きみの気持ちも分かるが、これは、我々ウサギで決めたことなんだよ。なんなら、きみは、その日、休むといい。」

ウサギになったライオンは、ウサギになって初めての憂鬱を感じることとなった。

その儀式の準備は着々と進められ、とうとう、その夜が来た。彼は思った。その儀式を克服することでこそ、ようやく本当のウサギになれるんじゃないだろうか?自分がどことなく、周囲と馴染みきってない感覚を拭い去ることができるんじゃないだろうか?

彼は、勇気を振り絞って、その儀式に参加した。

式は厳粛な雰囲気で行われた。参加者のウサギの数だけ、静かに、ライオンの肉が盛られた皿が回された。そうして、中央の祭壇に捧げられたライオンの首を見て、彼は息を飲む。

「あれは、僕だ!」

それから、ムカムカと怒りが込み上げる。僕がライオンだった頃、決して、食べること以外の殺戮は行わなかったのに。

彼は、立ち上がって叫ぶ。
「やめろ!」

その声は、ライオンの鳴き声だった。

ライオンだ、ライオンが来たぞ、逃げろ、逃げろ。

あちこちでささやく声が聞こえ、ウサギ達は散り散りになった。

彼は、かつて自分のものだった、ライオンの顔に駆け寄る。

それから、その顔に口をつけて、貪り食らう。

辺りは、静けさに包まれて。

ふと、顔を上げて、気付く。彼はライオンの姿に戻っていた。ウサギ亭は、消えていた。野原に、一人ポツンと立っていた。

帰ろう。

随分と家を空けていたが、妻や子は大丈夫だろうか?

ライオンは、妻のいる家に戻った。

「おかえり。待ってたのよ。」
「ああ。すまなかった。」

妻は、しげしげとライオンの顔を見て、微笑む。
「随分と元気そうじゃない?良かったわ。すぐ食事にするから座ってて。」
「今日の夕飯はなんだい?」
「ウサギの肉よ。」
「うまそうだな。」
「ええ。」

ドサリと投げ出されたウサギ肉は、ウサギ亭の主人の顔にそっくりだった。ライオンは、ただ、空腹だったので、目の前のウサギ肉に食らいついた。


2002年04月06日(土) 「そうじゃなくて、セクシーになれないかしら?」「セクシー?まだ、ブラジャーも一番小さいサイズのあなたが?」

ママと私がその街に越して来たのは、そこにママの古い友達がたくさんいるから。

朝から、荷物を解いてドレスをハンガーに掛ける。

「明日は友達を呼んでお祝いよ。」
ママは、微笑む。

私は、明日はどんなドレスを着ようかしら、と考える。

ひととおり荷解きが終わったところで、ママは買い物に行くと言って出て行ってしまったので、私は冷たいレモネードを作って気晴らしに庭に出る。ポーチで、風を受けてくつろいでいると、声がする。

「ハロー。」
「ハロー。今日、隣に越して来たアンよ。」
「よろしく。私は、メアリよ。友達ができて嬉しいわ。」

そばかすがいっぱいの笑うと愛らしい顔の少女が、今日から私の友達というわけ。

「そっち行っていい?」
メアリが訊ねて、塀を乗り越えて来た。

「背、高いのね。」
メアリが感心したように言う。

「のっぼだから、モテないわ。」
と、私は笑う。

「ううん。すごく素敵。まるでモデルさんみたいね。手も足も長くて、肌がすべすべしてて。いい匂いがする。」
「ちょっと待ってて。」

私は、部屋から、今付けている香りの小壜を持ってくる。
「あげるわ。」
「もらえないわ。こんなの。」
「お近づきのしるしよ。」
「ありがとう。」
「明日、パーティするの。来ない?」
「え?いいの?」
「うん。でも、相当イカれた連中が来るから、あなたびっくりするかも。」
「ぜひお邪魔させてもらうわ。」

こうやって、私とメアリはすっかり仲良くなった。

ママは、ご機嫌な私を見て、キスをする。

「今日、友達ができたの。」
「あら。素敵。ママにも会わせてくれるんでしょう?」
「ええ。明日のパーティに招いたの。」
「楽しみね。」

私達は、早速明日の用意に掛かる。

--

ママの古い友達というのは、ママが言ったとおり、相当にイカれた連中だった。体中にピアスをしていたり、髪をピンク色に染めたりした男女だった。

「あなた、ヘブンの娘?まあ、随分大きくなったこと。あんたを最後に見た時には、まだほんの赤ちゃんだったのに。」
悲しそうな顔をしたゲイが、私にキスする。

「でも、あんたのママに似て美人になるわ。」
「よしてよ。私なんかよりずっと美人よ。この子。」
ママは、笑って、飲み物を渡す。

メアリは、あんまり驚いて、作って来たパイを置くと帰ろうとした。

「もう帰っちゃうの?」
「ええ。だって、なんだか・・・。怖いわよ。この人達。」
「大丈夫よ。」
「アンは平気なの?」
「うん。でも、あなたがどうしても怖いっていうなら、私の部屋にいらっしゃいよ。」
「そうするわ。」

それから、私はそっと二階に上がる。

「すごい・・・。」
メアリは目を丸くする。

私の部屋は、私の自慢だった。

ママはセンスが悪いけど、私は、自分のセンスに自信を持っている。

メアリは、私のコレクションを眺めて、うっとりしたような叫び声を時折あげる。

メアリは、漆黒に光る小石を手に取って聞いて来た。
「ねえ。これは?」
「それ?それは、悪魔の爪よ。亡くなったパパは船乗りで、若い頃世界各地を回って持って帰ったものを、全部ママにプレゼントしたの。それを、私がもらったってわけ。」

あまり遅くならないうちにメアリを送って行って、階下の嬌声が響いてくるのを聞きながら布団でうとうとしているうちに、私は夢を見た。私が、悪魔の爪をつけて、メアリを抱き締めている夢。私は、ひどくうっとりと、その邪悪な爪で彼女の頬を撫でるのだった。

素敵な夢・・・。

この街が好きになれそう。

--

私は、学校には行かなかった。

時折、メアリが遊びに来る以外は、大人とばかり付き合っていた。

ママは、夜になると仕事に出て行く。

メアリは
「寂しくないの?」
と不思議そうに聞くけれど、私は今の生活に満足していた。

どちらかといえば、メアリの学校生活の話はひどく幼稚に思えた。私は、ママの友人のゲイと映画を観に行ったりするほうが楽しかったのだ。

そんなある日、メアリが言いにくそうに私に頼みごとをしてきた。

「なあに?」
「あのね。今夜、デートがあるの。初めてなの。」
「で?」
「その。どんな格好して行ったらいいか、アドバイスして欲しくて。」
「ふうん。どんな男の子?」
「普通の子よ。私とお似合いの地味な子よ。」

私は、なぜかその時、急にいじわるな気分になってしまった。

「そうねえ。あなたみたいにソバカスだらけの女の子には、キュートな格好がいいわよね。」
「そうじゃなくて、セクシーになれないかしら?」
「セクシー?まだ、ブラジャーも一番小さいサイズのあなたが?」

メアリは、かっと頬を赤らめると、
「もう、いいわ。」
と小さくつぶやいて、部屋を出て行ってしまった。

ああ。なんてことかしら。

ママが、出掛ける支度を始めた後ろで、私はクッションに顔をうずめて。

「どうしたの?」
ママは、優しく微笑む。

「最低なの。友達に急に意地悪が言いたくなっちゃって。」
「あら。そう?」
「うん。どうしてかな。」
「そういうこともあるわよ。あなたにはそういう付き合いが必要なの。ママの友達は、みんな、ひどく傷ついたせいで、どうしようもなく優しい人ばっかりで。あなたのことだって壊れ物のように扱ってくれるけれど。それじゃ、あなたが大人になれないわ。」

ママは、優しくキスをして、出て行く。

--

それから、一人、部屋の中で、月を見ていた。私も、月みたいに一人ぽっちだった。

外で気配がして、メアリが、デートから帰って来たところだった。

「じゃあね。」
と、キスも恥ずかしげに別れた二人を息をつめて見ていた後、私は、いきなりメアリの前に姿を現した。

「きゃっ。」
「しーっ。私よ。」
「なんだ、アン。どうしたの?」
「今日、ごめんね。」
「いいのよ。でも、なんだか今日のあなた、変だったわ。」
「どうかしてたの。私。」

それから、ふわっと漂う香り。この香り、私があげたやつ。

私は、香りに誘われたように、彼女を抱き締めて、それから、その柔らかい唇に、口づける。

「やめてっ。」
メアリは、叫んで、走り去る。

--

明け方、くすんだ顔のママが帰って来たところを捕まえて、私はママに抱き付いて泣き出す。

「どうしちゃったの?」
「もう、駄目なの。」

落ち着いて。

ママは、ずっと抱き締めていてくれる。

ああ。ママ。私、ずっと、今のままが幸せだと思ってたけど・・・。そろそろ。

ママは、私の涙をハンカチで拭いてくれる。

「そろそろ、ね。」
私はうなずく。

「ママも、そろそろ、本当に自分が望むように生きてみようと思うの。お金も溜まったし。本当の女性になる手術、思い切って受けようと思うの。」

そう。ママは、ずっと本物の女性になりたがっていた。そこいらの女性より、ずっと優雅で素敵なのに。

「だから、あなたも、あなたの道を選んだらいいわ。」

--

ママは、翌週、大きな旅行かばんを下げて旅立った。

私は、ママを見送って。

それから、ハサミで長い巻き毛を切り落とす。そうすると、別の顔。新しい私。

メアリとは、もう随分会ってない。

どきどきする気持ちで学校の教室に入る。

「新しい転入生だ。」
先生が紹介してくれる。

メアリの横を指差してお願いする。
「友達なんです。慣れるまで彼女の横に座らせてもらえませんか?」

先生はうなずく。

メアリは、目を丸くして。

「よろしく。」
僕は、彼女に笑顔を向ける。

「今度、デートしよう。」
授業中、僕は、彼女に手紙を渡す。

彼女は、顔を赤らめて、うなずく。


2002年04月05日(金) 長い口づけのあと、唇を離した僕に、彼女は言う。「ほら。やっぱり。あなた、私を責め始めているわ。」

彼女を見て、僕は、ハッと息を飲む。

もう、とっくに五十は越えていえる筈なのに。いや、もう、六十に手が届こうとしているかもしれないと聞いていた。

それなのに目の前にいるのは、張り詰めた肌の、美しい女。三十代、いや、二十歳と言っても通るほどだ。

「人が来るなんて、めずらしいわ。誰にも見つけられないと思っていたのに。」
彼女は微笑んだ。

「随分と探しました。」
と、僕は答える。

--

彼女の本を初めて読んだのは、僕が中学生の頃だっただろうか。少々難解であるにも関わらず、僕はその本に胸をときめかせ、以来、彼女のファンになった。人前には決して顔を出さないで、海外のどこかに引きこもって書き下ろしで小説を書く。

そんな女流作家の噂を、あなたも聞いたことがないだろうか。

「随分と姿を隠しているつもりでも、見つける人はいるのねえ。もっとも、前回ここに人が来たのは三年前だけれども。」
「一人きりでこんなところにいて、寂しくはないんですか?」
「寂しい?そうねえ。どうかしら。ただ、私は書かなくてはいけないから。書いていれば、私は寂しくはないのよ。」
「それにしても・・・。」
「なあに?」

僕は言いにくいことを思い切って口にする。
「あなたの年齢は、もう六十近いと聞きました。でも、実際のあなたは、随分と・・・。」

彼女は微笑む。
「あなたが信じることができる年齢でいいわ。いくつだっていいのよ。」

彼女は、濃い色のグラスを手に取ると、少々眉をしかめながらそれを一口飲む。

彼女に関してはさまざまな噂が飛び交っている。年齢の割に、あまりにも瑞々しく輝く恋の物語の数々。実際にはそれを書いているのは、中年の夫人ではなく、若い女性達ではないのかと。しかし、よく読めば分かる。それは、一人の人が深めて行った思索に支えられ、決して、ただの軽い恋愛ストーリーではないことが。

「私のことはどうでもいいじゃない?それより、そこに座ってあなたの話でも聞かせてちょうだい。私だって随分と一人でいたのだもの。何か面白い話を聞きたいわ。」
「僕?僕は何も話すことはんかありはしないのです。あなたの経験されてきた恋の数々に比べたら。ただ、あなたの書いたものに恋する男です。」

彼女は微笑んで僕に手を差し伸べる。

僕は、震えが抑えられない手で、そのほっそりとしなやかな手を握る。

どこからか、甘い香りが漂っている。

--

白いシーツの上で、彼女の豊かな肢体に僕の体を沈める。

甘い香り。

艶やかな髪と肌。

シーツのこすれる音。

「夢のようだ。」
と、僕はつぶやく。

「夢じゃないのよ。もっとしっかり抱き締めていて。あなたとはそう長くはいられないから。」
彼女はうわ言のようにつぶやく。

この屋敷が化け物屋敷で、彼女が僕の生気を吸う幽霊であったとしても、僕は後悔はしないだろう。日々、彼女の体に溺れ、彼女が時折つぶやく言葉の泉の中にうっとりと浸っているだけで、死んでもいいと思うぐらいだった。

「あなた、そのうち私を責めるようになるわ。」
彼女は時折、悲しそうな目で言う。

「そんなこと、あるものか。」
僕は、彼女の不安を吹き飛ばしてやろうと、強く抱き締める。

彼女がどんな恋愛をしてきたかは知らないが、今回は違う。僕は違う。僕は、彼女を幸せにしてやる。彼女が望むなら、仕事を続けることの妨げにならないように、ひっそりと息を潜めて、彼女のそばに居よう。

「本当に?」
「ああ。本当さ。」

僕は、動きを早める。

彼女の憂鬱を吹き飛ばすように、僕の動きは激しさを増す。

--

「そろそろ、遊びは終わりにしましょう。」

僕らは、ただ、日がどれくらいの早さで過ぎて行くのか気付かないままに、お互いを貪り合って暮らしていた。

「そろそろ書かなくては。」
彼女は、乱れた髪を手早くまとめると、薄いローブを羽織り、僕をベッドに置いたまま立ちあがる。

「待ってよ。」
僕は、急に不安になって、彼女の腕を掴む。

「だめよ。」
彼女は優しく微笑む。その顔は少し青ざめていて。

「そうだね。ごめん。」
僕は、謝る。だって、僕はちゃんと誓ったではないか。彼女が書くならば、邪魔にならないように息を潜めていようと。それなのに、僕はもう、彼女がどこかに行ってしまうかと不安で、彼女を引き止めようとしてばかりだ。

その、書斎のドアが閉まる音に、泣きたくなる。

--

それからの数日、彼女は、取り憑かれたように執筆を続ける。

僕は、食事もろくに取れずに、ドアの外で待つ。

だが、もう辛抱できずに、ドアを開けてしまった。

彼女が驚いて振り向く。

「少し、休んだほうがいいんじゃないのか?」

だが、彼女は、消耗するどころか、顔をきらきらと輝かせている。
「放っておいてちょうだい。」

僕は、彼女を抱き締めようとする。

その手をやんわりと払いのけると、彼女は、すぐさま机に向かってしまう。

「ねえったら。」
僕は、まるで駄々っ子のようだ。

僕はかっとなって、彼女を無理矢理こっちに向かせ、口づける。

長い口づけのあと、唇を離した僕に、彼女は言う。
「ほら。やっぱり。」
「何がだよ。」
「あなた、私を責め始めているわ。」
「ああ。そうだよ。きみは、何ていうかな。少しおかしい。書くことは、そりゃ大事なんだろうが。」
「もう、駄目なのよ。私は書かないわけにはいかないの。書かされているの。私はただの媒体なのよ。私という肉を通過して、それらは世に出て行くの。書くのには体力が要るわ。誰かがその肉体の労働をしないといけないというわけ。」
「よく分からないよ。」
「私が若くいられるのも、その取り憑いたもののせいよ。私が書くための肉体を維持できるのはそのせい。私には、もう、どうしようもないのよ。」
「どうすれば・・・?どうすれば、きみは書く手を止めて僕を抱いてくれる?」
「私も、あなたと同じだったわ。あの人に、狂ったように泣いて、愛してもらいたがった。」
「もう一度愛しておくれ。」
「心臓に深く根を下して、私の体に取り憑いてしまったものを取り除かない限り、私は書き続けなくてはならないのよ。」

彼女が微笑む顔は、もうすでに彼女のものではなく。僕は、彼女の中の魔物に身震いする。

「今なら、間に合うわ。私は、まだ、私だから。あなたが私を手に入れたいなら、今よ。」

僕は、うなずいて、そばにあった果物ナイフを手に取る。

ずぶずぶと刃を沈めて、その、湧き出す泡の中に手を差し入れる。

「これか。」
僕は、彼女の心臓と、それを取り囲むように根を張っている得体の知れない生命体を引っ張り出す。

彼女は、ドサリと倒れると、みるみるうちに、崩れて風に飛び散る。

僕は、知らず知らずのうちに泣いていた。

それから、手の平に残った、甘い匂いを放つ毒々しい色の果実を、一口。また一口。

全て食べ終わると、机に座り、彼女の残した原稿に向かう。


2002年04月03日(水) 「本当はすごく好きで。一人でいる時は、彼とキスすることとか、抱かれるところとか、いろいろ想像しちゃってたのに。」

「そこに座って。」
と言われて、私は暖色系の物がちりばめられたその部屋のソファに腰をおろす。

部屋は雑然としていて。けれども、それすら計算し尽くされたことのように感じる。あまりに整然とした部屋よりは、少々散らかったいたほうが落ち着くということなんだろう。

「カウンセリングは初めて?」
「いえ。あ、初めて、です。」
「そう。」

彼は、ゆっくりと眼鏡を拭きながら、私をちらりちらりと見ている。

「何でも、正直にしゃべらなくちゃいけないんでしょう?」
「いや。そんなことはない。無理矢理しゃべってもらっても駄目だからね。ゆっくりでいいんだよ。まずは、無理なくしゃべることができるところから。」
「あ。あの。私、言えます。何でも。」
「で?」
「うん。えと。鬼ごっこのようなものなんです。」
「ふむ。鬼ごっことは?」
「えと。彼が隠れてて、あたしが見つける。あたしが見つけたら、また、彼は隠れる。」
「彼って?」
「恋人です。」
「付き合って何年くらいになるのかな?」
「えーと。三年・・・、かな。」
「きっかけは?」
「ずっと友達だったんです。すっごく仲良くて。高校受験の頃に勉強聞いたのがきっかけで。その後はずっと一緒だった。勉強とか教えてもらって。学校から帰るのも一緒で。」
「男女として意識し始めたのは?」
「多分、高三の夏頃から。それまではグループで映画とか行ってたのに、彼が遊園地のチケット、二枚だけ渡して来たんで。それからだんだん二人で行動するようになって。」
「彼が積極的だったの?」
「どうかな・・・。多分。ていうか、途中までは友達だと思ってたんです。私。」
「ある日、その壁を越える出来事が起こったというわけ?」
「うん。」

私は、水を一口飲む。

こんなこと、人にちゃんとしゃべるのは初めてだから。だけど、言わなくちゃ。本当に頭がおかしくなっちゃう前に、誰かに言わなくちゃ。

「どっちがアクションを起こしたの?」
「彼です。日曜日だったんだけど。二人でデートして、帰り道、急に抱き締めて来て。」
「どんな気分だった?」
「嬉しかったっていうより・・・、何ていうのかな。びっくりしたって感じ。」
「それから付き合い始めたの?」
「いえ。私、その時、大笑いしちゃったんです。嘘でしょう?って。」
「彼はどう答えたの?」
「すごく傷付いたみたいで。で、私、友達だと思ってるから、とか言ったんです。」
「彼は?」
「ちょっと黙ってたけど、急にニッコリ笑って、そうだよな。って言ったんです。友達だよな。って。俺、どうかしてたよ。って。」
「それから?」
「でも、私、それから彼が気になって、電話とか、恥ずかしくてなかなか掛けられなくなっちゃったんだけど。でも、勇気出して、電話して。クリスマスの日。出て来てもらったんです。で、彼にプレゼントとか渡して。途中まではすっごいいい感じだったんですよ。なのに。ね。彼が急に真顔になってキスしようとするから、私、彼を押し戻しちゃって。やっぱり無理って言っちゃったんです。なんか、恥ずかしかったから。」
「でも、好きだったんだ?」
「うん。本当はすごく好きで。一人でいる時は、彼とキスすることとか、抱かれるところとか、いろいろ想像しちゃってたのに。なのに、いざとなったら、駄目で。なんか、笑っちゃって。恥ずかしくて、まともに相手の顔とか見れないから。」
「彼は?」
「彼?えと。その後、すっごい傷付いたみたいにして、黙って帰っちゃいました。」

私は、彼が何を考えながら私の話を聞いているのか知りたくて、メタルフレームの眼鏡の奥を見るけれども、彼の目には何の表情も見えない。

「それから?」
「彼は県外の大学に入っちゃったから、もうすっかりあきらめてて。そうしたら鬼ごっこが始まったんです。最初は気付かなかったんですよ。道をね。歩いてるとね。犬がついて来るの。ずっとついて来て。あっち行きなさいよって言ってもついて来て。で、しょうがないから餌とかやってて。そのうち気付いたんです。もしかして?って。彼がね。犬に姿を変えて、私を尾行してるんだなって分かったんですよ。」
「じゃあ、彼は犬になっちゃったわけなんだ。」
「いえ。違います。っていうか。そうなんですけど。でも、私が気付いちゃうと駄目なんです。そっから抜け出して、別のものになって私に付きまとうっていうか。一番困ったのは、読んでる本を通じて彼が話し掛けて来た時かな。」
「本?」
「ええ。恋愛物なんですけど。その主人公の台詞がね。彼が言ってることなの。愛してる。とか。僕らの恋は肉体を超えたとか。そういうことをね。ずっと言うんですよ。で、無視してストーリーを追おうとしても駄目なの。もう、彼が邪魔して来てね。」
「そうやって、いろんなものに姿を変えるというわけだね?」
「ええ。で、私が気付いて、本を放り出すでしょう?そうしたら、彼は本から抜け出て、また、私に付きまとう手段を考えてくるわけなんですよ。ちゃんと私が気付くように、いろんな信号送ってくるんです。」
「なるほど。」

彼は、じっと考え込むような表情になる。

私は、いらいらしながらその沈黙に耐える。

「問題は、今日どうしてきみはここに来たのか、だね。」
「え?」
「一体どうしたいのか。これからも鬼ごっこを続けたいのか。もう、彼にどこかに行って欲しいのか。」
「そりゃ・・・。できれば、彼がちゃんと生身の姿で私に会いに来てくれるのを望みますけど。でも、それはきっと無理なんです。彼、そういうの、苦手なんでしょうね。」
「じゃあ、今のまま、もう少し鬼ごっこを続けてもいいというわけなんだね。」
「そう・・・、なるのかな。だって、彼には私しかいないわけだし。」

私は、その時ハッとして、彼を見上げる。

どうして気付かなかったのだろう?

「また・・・。こんなところに・・・。」
「え?」
「こんなところに隠れてたのね。私が気付かないと思って。」

私は、フラフラと、目の前の相手に駆け寄る。

医者は咄嗟に身をかわす。

「いつまで?ねえ。いつまで続けるの?こんなことを。医者の格好なんかしちゃって。こんな手のこんだこと、やってて楽しい?」

私は、あんまりおかしくて、つい大声で笑ってしまう。

あの日と同じ。

あまりにおかしいのと。嬉しいのと。恥ずかしいのと。

一度に感情が押し寄せて来て。

私は、喉の奥をひくひくと言わせて。

ああ。まるで笑いが止まらない。まるで泣いてるみたいな声で、私は笑い続ける。

また、逃げるつもりね?

本当に、おふざけが過ぎるんだから。私、そういつまでもあなたの相手してあげられなくってよ?

今日こそ捕まえてあげるわ。

彼の眼鏡が、床に落ちて音を立てる。


2002年04月02日(火) 恋人は、ナイフを突き付けるように聞いて来た。僕は答えられなかった。可愛いというより、あの子は・・・。

「ねえ。タケちゃん・・・。タケちゃん。」
ルイが、薄い色の目をきらきらさせて、僕を見る。

なんて美しい少年だろう。

それがむしょうに悲しい。

「どうしたの?」
「あのねえ。」
と、庭に舞う蝶を指差すしぐさも子供のようだ。

従弟のルイの母親が亡くなって彼を預かってくれないかと言われた時、周囲は気を使って、
「しばらくの間だけだからね。施設はどうしても嫌だって暴れるもんでね。」
と、口々に申し訳なさそうに言った。

僕は、かまわない、と答えた。僕は、ルイとは気が合う。むしろルイを手元に置けて嬉しいぐらいだ、と。

ルイは、施設に入る必要はないのだ。

ルイは、いつも、世間に置いてけぼりを食らうだけで。ただ、それだけで。歩く速度が、他の人とは全然違うだけで。羽の生えた靴で、どこか人とは違う全く別の場所をさまよっているのだ。

--

僕が仕事に行っている間、ルイは静かに過ごしている。決して僕が困るようなことはしないし、ちゃんと言って聞かせれば理解もする。朝、出掛けにルイに見送られると、一人にしておくのが可哀想で胸が痛むのだが、帰宅がどんなに遅くなってもルイは僕を微塵も責めず、ただニコニコと出迎える。

「先に寝ていていいんだよ。」
と、僕は言うのだが、ルイはいつも起きて待っている。

そうして、僕に一日の出来事をせがむから、僕は、ルイが喜びそうな話を一つ二つしてやる。ルイは、僕のどんな話も、少し顔を傾けて、嬉しそうに聞き入るのだった。

--

「ねえ。どういうことよ?」
恋人の不機嫌は最高潮に達している。

ルイを預かってからというもの、恋人に会える日が少なくなったせいだ。

「だから言ったろう?親戚の子を預かってるんだって。」
「だから、いつまでよ。」
「分からない。ルイにとって居心地のいい場所が見つかるまで。」
「そんな・・・。じゃ、あたしはどうなるのよ?」
「どうって?」
「結婚。」
「もうちょっと待って・・・。」
「嫌だからね!あたし、これ以上待てないからね!」

店中に響く声で叫ぶと、恋人は僕を置いて店から走り出てしまった。

きっと、今頃、僕が追い掛けて来るのを待っているのだろう。

けれども、僕はそこに根が生えたように動けない。もうその場しのぎでなだめたところで、彼女は僕を待たないだろう。

そんなにルイって子が可愛いの?

恋人は、ナイフを突き付けるように聞いて来た。

僕は答えられなかった。

可愛いというより、あの子は・・・。

--

「遅かったね。」
ルイは、まだ起きて待っていた。

「ああ。ごめん。」
「あやまらないで。」

ルイは、絵本を開いていた。「おやすみなさいのほん」。ルイが幼い頃、ルイの母親がよく読んでくれたと言って、ルイは暇があればその絵本を見ている。

「また、その本見てたんだ?」
僕が声を掛けると、ルイはうなずく。

「この子供が、僕なんだよ。」
と、絵本に出てくる子供の姿を指して言う。

僕はうなずく。

「タケちゃんに女の人から電話あったよ。」
「女?」
「うん。」
「何て言ってた?」
「あなたがルイくん?って聞いた。」
「それから?」
「んーと。んーと。覚えてない。」
「そうか。」

彼女だ。ルイに何か変なことを言ってなければいいが。

「もう遅いから、寝よう。」
「うん。タケちゃん、おやすみ。」

--

僕は、ルイが心配で、仕事で遅くなる日は電話を掛ける。

いつも、ルイの声を聞くとホッとする。本当は、ルイが心配なんじゃなくて、ルイの声を聞きたいだけなのかもしれない。

だが、どうしたことだ?

ルイは、いつまでも出ない。

おかしい。

どこにも行く筈はないのに。何かあったのだろうか?

僕は、焦って仕事を終わらせる。

そんな時、彼女から電話。

「なんだよ。今急いでるんだ。」
電話の向こうの彼女は泣いている。

「どうしたんだよ?」
「あのね。ごめんなさい。」
「何が?」
「今日、あの子に会いに行ったの。ルイって子。それで、あたし、あの子にひどいことを。死んじゃえばいいって。」
「何てことを・・・?」
「どうしても、言わずにいられなかったの。」
「ルイが電話に出ないんだ。」
「あたしも心配でさっき電話したんだけど。もしかして、あたしの言ったこと本気にしてたらどうしよう?」

何ということを。

僕は舌打ちをする。

「ごめんなさい。ごめんなさい。多分、あたし、嫉妬してたんだわ。」
電話口の向こうで彼女が泣いている。

「とにかく、切るよ。僕は急いで帰る。」

ルイ、無事か?

--

部屋は誰もいない。

窓が開いていて、風が吹き込んでくる。

窓に三日月。

「ルイ?」
返事はない。

開きっぱなしの絵本。

絵本の中で子供が眠っている。

ああ。ルイ。きみは、どこへ?

それにしても、彼女は怖かったのだ。きみの美しさが。そうして僕も、本当は怖かったのかもしれない。きみが。きみの「善なる部分」は、まさに才能のように僕らを圧倒していた。そう。僕らがどんなに望んでも、手に入れることのない、才能。その美しい目で見つめられたら、自分の汚さを嫌でも思い出すしかないのだ。神様は随分と残酷なやり方で、その偉大な才能を、壊れ易いガラス細工のような肢体に封じ込めた。

僕は絵本に目を落とす。

大好きだったよ。と、絵本の少年に口づける。

「おやすみ。ルイ。」


2002年04月01日(月) 人魚が人間になるためには、三つのものを捨てなくてはならない。一つ目。しっぽ。二つ目。永遠の命。三つ目、・・・

私は陸に上がった人魚。

浜辺で倒れているところを、今の恋人、アメリカから渡って来た売れない画家に拾われた。

人魚が人間になるためには、三つのものを捨てなくてはならない。

一つ目。しっぽ。

二つ目。永遠の命。

三つ目。自分の体の一番魅力的な部分。

伝説となった私達の祖先、人魚姫は、その、鈴を振るような美しい声を捨てた。私は何を捨てたかって?私は耳たぶ。その桜貝のような耳たぶを、多くの男達に愛された耳たぶを、捨てた。

--

少し息抜きをしてくるわね。

と恋人に告げ、気まぐれからふらりと旅に出た。

その店には「地酒」と書かれていたので、私は恋人へのお土産にと、入る。

中は、さまざまな銘柄の瓶に混ざって、オリジナルの酒瓶が並べられている。そのほとんどが、深い青をしていた。私は、手の平に乗るような、その瓶を手に取る。底には赤や黄色のビー玉が沈められ、振ると、チリンと鳴る。なぜか、それを見ていると、私の故郷、海の底が思い出されて。涙ぐむ。

「お気に召しましたか?」
店主が、私の泣き顔を見て、微笑む。

私は、恥ずかしくて。
「なんだか、故郷を思い出しました。」
と、慌てて言い訳する。

店主は、
「お包みしましょう。」
と、その瓶を取り上げて。

私は、はっと息を飲む。

彼の長く美しい指をした手には、小指が欠けていた。

私は、無意識に、長い髪を耳にかける。

彼も見たはずだ。私の耳から、耳たぶが失くなっていることを。

そうしてその瞬間、理解し合った。

私達は、二人とも、陸に上がった人魚。私は、なぜか、その欠けた指に激しく欲情する。

--

彼は、私の宿泊している部屋に、夜、忍び来る。

「大丈夫だったの?」
「ああ。妻は、具合が悪くて実家に帰っているんだ。」

それ以上は、お互いの事情を話さないで、私達は、もどかしげにお互いの服のボタンに手を掛ける。

「見せて。」
私は、言う。

彼は、着ていたものを脱ぎ、私は、彼のペニスをじっと見つめる。
「素敵よ。」

「きみも。」
という言葉にうなずいて、私も服を脱ぐ。

「きれいな脚だ。」
と、唇を這わせ、
「それから、ここも。」
と、脚からなだらかに続いて、ついには慎み深く隠された部分に到達する。

私は、深いため息をつく。

「どうして人間になったの?」
と、彼は訊ねる。

「どうしてかな。多分、永遠に続く幸福に倦んでしまったのでしょう。」

私達は、人間として交わる。それは、人魚同士の交わりとは全然違うものだった。

--

私は、恋人に、「一ヶ月くらい滞在する。」と連絡をした。彼とは、毎日のように会う。そうして、ただ、服を脱ぐのももどかしく、何度も何度も交わって。彼の妻のことは考えない。多分、私達は、ずっと深いところで結びついていて、それは、かつて人魚だった者同士にしか理解し合えない部分なのだ。

そうやって、何度も。

しかし、いくら明日のことを考えないようにしても、いつかは終わりがくる。

ある夜。

彼は、私に告げた。
「もう、終わりにしよう。」

「どうして?」
私は驚く。

「妻が。妊娠している。」
「それが理由?唯一の?」
「きみだって、分かるだろう?」

彼は、それ以上何も言わず出て行く。彼は最初から、ずっとこの日を覚悟していたのだ。

なのに私は、これが永遠に続くと思ってた。

私は、涙を流す。

--

彼が来ないのにしびれを切らし、私は苛立って、彼の店を訪ねる。

「あの、店長は?」
「今、いないんですよ。観光ガイドの仕事もしているものですから。」
微笑むその人は、よく見ればお腹のまわりがゆったりした服を着ていて。

ショートカットの髪の、幼な過ぎる顔。

どうして彼は、人魚である私より、この人を選ぶのだろう?

「戻ったら、連絡くださるように言ってください。」
と、私は告げる。

店の奥に戻る彼女を見て、なぜかはっとする。彼女の足は、わずかに引きずられている。

--

「もう、会えないのね。」
私は、言う。

彼は、うなずく。

「奥様に会ったわ。」
「知ってる。」
「彼女の足。」
「うん。左右の足の長さが違うんだ。それで、あんな歩き方に。」
「足のせい?」
「なにが?」
「彼女を選んだ理由。」
「いや。多分、関係ないよ。」
「今、いやだって泣いたら別れずにいてくれる?」

彼は、黙って首を振る。
「僕もきみも、海から逃げてここまで来た。もう、これ以上逃げるわけにはいかないんだよ。」

分かってるけど。何て悲しい。この「死」のような感覚は、人魚だった頃に知らなかった感覚。

この先、何を想って生きていけば?

無い筈の耳たぶが、激しく痛む。


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