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セクサロイドは眠らない

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2002年03月30日(土) 彼の指に上手く反応できないうちに、彼が待ちきれないように押し入ってくる。ねえ。違うの。私の欲しいものは、違うの。

もう、十年あまりも勤めているデザイン事務所を後にして、私は夜の街に繰り出す。デザイン関係、なんて言ったところで、私のやっているのは、地元のスーパーのキャラクターデザインをしたりといった、誰でもやれる穴埋めの仕事だった。

退屈な仕事。

仕事の退屈さを埋めるために、週末は夜の街に出る。いつもの溜まり場の店に顔を出し、そこに出入りしている男達とラブ・アフェアを楽しむ。いつからだろう。男達と寝るのがこんなに簡単になったのは。

--

月末の週末、珍しく残業になった。どうせいいや。一つの情事が終わって少し疲れていたので、しばらくはまっすぐ部屋に帰って一人になりたい気分だった。

ようやく仕事を片付けて顔を上げると、同僚の古川が
「飲みに行かない?」
と、言った。

私はしばらく考えて、
「いいよ。」
と答えた。

「あー、嬉しいね。いつも週末はさっさと帰っちゃうからさあ。ようやく俺の番だが巡って来たって感じだな。」
「ちょうど、空きができたのよ。」
「知ってるよ。」
「なんで?」
「携帯が鳴らなくなった。」
「いやあね。そんなことまで見てたの。」
「もう、夫婦みたいなもんでしょ。これだけ一緒に仕事してれば。」
「そうかもね。」

私達は笑い合って、小ぢんまりした居酒屋に入る。

古川とは、もう、本当に長い。お互いの恋人と一緒に旅行したこともあるぐらいだ。
「最近、彼女とかいんの?」
「いや。いねー。あんたとは違う。もう誰でもいいってわけにはいかないんだよ。」
「ひどいわねえ。私だって誰でもいいわけじゃないわ。」
「俺にはそう見えるね。」
「お好きに。」

それから、古川は真顔になって、言う。
「今夜、俺んち来ない?」
「え?」
「いいだろう?」
「いいけど・・・。さ。」
「ずっと待ってたんだよ。本当に。おまえが俺のこと振り返る余裕ができるのを。」
「それって口説いてんの?」
「あ?ああ・・・。嫌か。」
「嫌じゃないけどさ。今さら照れくさいじゃん。」
「俺、結構本気だぜ。」

まだ冷たい春の風を感じながら、古川は手を握って来た。

どきん。

やだ、なんか、恥ずかしいじゃない。

--

彼とは、随分と前からこうやっていても良かったのかもしれない。

と、虚飾も虚栄もない体に抱かれる。

夫婦みたいなもんだから。と言った彼の言葉を思い出す。

終わって煙草に火をつけると、
「どうだった?まあまあだろう?」
と、彼が聞いてきた。

「まあまあね。」
と、私は笑った。

男は、ほっとしたような顔で、私の髪を撫でる。

「ねえ、あんた、さあ。」
私は、無防備になった彼の顔を眺めながら言う。

「ん?」
「案外と甘えん坊でしょう?」
「どうして分かるの?」
「ふふ・・・。どうしてって、さあ。男って、大概そう言ったら、図星って顔するものなのよ。」
「なんだ。」

このまま、成り行きで夫婦になっちゃってもいいか。

その夜、本当にそう思えたのだった。

--

四月に入り、事務所に中途で採用した木下という男性が入って来た。おとなしい男だった。背が高く甘いマスクをしているのに、やたらと無口だった。

「あれで、もう少ししゃべったら、もてるのにね。」
私達は噂し合った。

その日の午後。

たまたま、事務所のあるビルの屋上に出て煙草を吸おうとしたところで、木下が先客でいた。

「風、まだ強いね。」
「そうですね。」

彼は私の顔を見もしない。

「ねえ、結婚してんの?」
「僕ですか?いえ。してませんけど。」
「毎日、まっすぐ帰ってるみたいだから。」
「人付き合いとか、苦手ですから。」
「いい男なのに、欲がないよね。」

彼は答えなかった。

その煙草をはさんだ白く長い指がどきっとするほどに色っぽく、彼の広い肩とよく似合っていた。

「ねえ。今度飲みにいかない?」
「遠慮しときます。」
「つれないわね。」
「古川さんに悪いから。」
「やだ、そんなの関係ないわよ。」
「あなたが関係なくても、彼はそう思ってなさそうですよ。」

木下は、煙草をもみ消すと、会釈をして立ち去った。

いやな男。

--

少し気になる、と思った。

あんな男に関わったら、きっと嫌になるほど振り回される。

私は、男の指を思い出す。それから、少し厚ぼったい唇を思い出す。

「何考えてんだよ?」
古川が、背中に口づけてくる。

「何にも。」
「うそつけ。」

彼が激しく唇を吸ってくるから、私は、古川の指に集中する。

「なあ、結婚しよう。」

私は、答えない。

あ・・・・。

その時、目を閉じて、自分の上にいるのが木下だったらいいのにという考えが入り込んで来てどうしようもなくなった瞬間、激しく上りつめる。

--

日曜は、古川と会いたくなくて、誘いを断って一人出掛ける。

古川でもいいはずなのに、何が不満なのだろう?

そんなことを考えて歩く。

人ごみの中、彼を見かける。周囲より頭一つ高い。木下だ。声を掛けようとして、私は気づく。横を歩く女性。あきらかに彼より年上のその女性と、五歳くらいの女の子。

いたのね。大事な人が。

私は、なんだかむしょうに悲しくなって、慌てて自分の部屋に帰る。

電話が鳴ってる。きっと古川だ。

いつまでも鳴ってる。

でも出ない。

--

「なあ、考えてくれた?」
もう、すっかり馴染んだ指。

「日曜だって、ずっと電話してたんだぜ。」

彼の指に上手く反応できないうちに、彼が待ちきれないように押し入ってくる。

待ってよ。お願い。

「元気ないね。」
「うん。」

ねえ。違うの。私の欲しいものは、違うの。

悲しくて、涙がこぼれる。

「どうしたの?」
彼は驚く。

「分かんない。」

これじゃ、ないの。私が欲しいのは。

もっともっと大きな欠落を抱えたまま生きる不器用な男が欲しくてどうしようもないの。

私は泣く。

困った男が、私の中で萎えていくのを感じながら。


2002年03月29日(金) 唇が離れた時、彼女は抵抗をやめた小鳥のようにぐったりとして、口から深いため息が洩れる。

春である。

僕の社にも、新卒が幾人か入ってくる。

「今年は可愛い子いるかな?」
隣に座ってる同僚が言う。

「あんまり期待すんなよ。」
と、僕は笑う。

その日の午後、僕らのフロアに配属された女の子の一人を見て、僕は息を飲む。
「彼女だ。」

もちろん、彼女であるわけがない。彼女は、数年前に事故で亡くなったのだから。だが、なんて良く似ているんだろう。とりわけ、少し横を向いた時の頬から唇にかけての曲線。僕は彼女から目が離せない。

--

それから数週間して、新人歓迎会があったので、僕はさりげなく彼女の横に座る。

最近の女の子は本当によく飲む。彼女もご多分に漏れず、どんどんグラスを空ける。かなり酔いが回った頃、彼女は言う。
「課長さんって、かっこいいですよね。みんなで噂してるんですよ。」
「そうか。それは嬉しいな。」
「ね。結婚、なさってるんですか?」
「結婚?いや。してない。」
「すごくモテそうなのに。あ。そうか。モテるから、結婚したくないんですね。」
「そういうんじゃないんだ。婚約者が事故で死んでしまったんだよ。」
「あ・・・。ごめんなさい。私って、酔うとつい余計なこと言っちゃうみたい。」
「いや。いいんだ。それより、きみ。僕の婚約者だった人に似てるよ。」
「え?そうですか?」
「うん。口元かな。口元にえくぼができるところ。」
「わあ。なんか嬉しい。きっとその人、すごく素敵な人だったんでしょうね。」

彼女が、ビール瓶を取ろうと手を伸ばしたので、僕は、その手をそっと掴む。
「もう、やめておきなさい。」

彼女はコクリとうなずく。

目のふちが少し赤くなって。ああ。やはり、彼女に生き写しだ。

--

隣の同僚と仕事帰りに立ち寄った店で、同僚がニヤつきながら僕に言う。
「あの子にかなりご執心みたいだな。ほら、あの新人の。」
「ああ。あの子か。似てると思わないか?」
「え?誰に?ミサちゃんにか?」
「ああ。」
「そうかなあ。」
「ああ。僕にはそっくりに見える。もちろん、よく見れば随分と違うところも多いのに、どうしてだろうな。」
「それで彼女が気になるのか?」
「ああ。」
「気をつけろよ。彼女は、生きてる。生身の人間だ。死んだ人間のことを重ねるな。」
「分かってるよ。」

--

その日、随分と遅い時間に、外回りから帰ると、まだ彼女が一人で残業していた。

「どうしたの?一人?」
「え、ええ。ちょっとミスっちゃって。」
「どれ、見せてごらん。」
「あ、いいんです。一人でやれますから。」
「でも、きみを一人残して帰るわけにもいかないだろう。」

僕は、彼女のそばのデスクに腰掛けて、書類を取り上げる。

「こりゃ、一人じゃ無理だ。手伝うよ。」
「すみません。」

僕達は黙々と仕事を片付けて、気付けばもう随分と遅い時間だ。

「送って行くよ。」
「いいんです。」
「何言ってるんだよ。こんな時間に一人で放り出せるものか。」

僕らは、無言で、歩く。

「・・・、あの。」
「何?」
「この前はすみませんでした。私、酔ってて・・・。」
「ああ。いいんだ。」
「怒ってらっしゃるかと思って。」
「そんなことを気にしてたの?」

僕は、彼女の唇が動くの眺めている。

気付いた時には、僕は、彼女を抱き締めていて、その唇が、僕の知っている唇か確かめようとしていた。

「やっ・・・。」
彼女の体の力が抜けるまで、僕は強く抱き締めていたから。唇が離れた時、彼女は抵抗をやめた小鳥のようにぐったりとして、口から深いため息が洩れる。

「ひどい・・・。」
彼女は、泣いていて。

僕は驚いて立ち尽くす。

彼女は、僕に背を向けて走り去った。

やっぱり、あれは彼女じゃない。彼女は、差し出された腕に平気でしなだれかかっていくような女だった。

僕は、行きつけの店で、間違えてついばんだ唇を忘れるために、グラスを重ねる。

それから、フラフラとアパートに戻る。

ドアの外に人影。

彼女だ。

「来てくれたんだね。」
どこかに飛んで行ってしまったと思った青い鳥は、僕のカゴの中にいた。

「入れよ。」

彼女は黙ってうなずく。

「課長。私、あの。ごめんなさい。ああいうの慣れてなくて。」
「いいよ。もういいよ。」

僕は、背後から彼女を抱き締めて、長い髪をかきあげると、うなじに口づける。

白くて細い首。

やっと会えた。

その首は、今、目の前にあって、強い力を加えるとすぐにも折れてしまいそうだ。

やっと。

きみとの時間を終わりにしないと、僕は自由になれない。他の男の車に乗って事故で逝ってしまった、きみ。随分と待っていた復讐の時間が、やっと巡って来た。


2002年03月28日(木) 「ねえ。お兄ちゃん、どうして私のことが嫌いなの?」「さあなあ。何もかも、嫌いなんだよ。」

「パパ、できたよ。」
僕は、数学の問題を解くと、それを差し出してパパの表情をじっと見る。

パパは、僕の差し出した解答を時間を掛けて眺める。

そうして、にっこりと笑って言う。
「うん。良くできている。さあ。次は、この問題をやってごらん。」

僕とパパは、こうやって毎日数学の問題を解く。

パパは言う。
「数学ってすばらしいだろう?世界の切れ端を単純な記号で表すことができるんだ。やろうと思えば、世界を丸々、記号で描くことだってできる。小説家が小説を書くように、それはものすごく自由なことなんだよ。」

僕は、パパの言っていることがそんなに素晴らしいことなのかどうかは分からない。ただ、パパの言うことに黙ってうなずくだけだ。パパはA地点からB地点へ行く道筋を見付けてごらん、と言う。僕は、パパの言う通り、A地点からB地点へ。歩いてみせる。

パパは、大喜びする。
「お前は才能があるぞ。今、お前が解いたような問題は、パパは十六歳で解いた。お前は、たった九歳で、それがやれたんだからな。うん。すばらしい。」

だけど、僕はどうしようもなく不安だ。

だって、僕は、いつかきっと道に迷う。

そうしたら、パパは、その時は、もうにっこり笑って褒めてくれたりしないだろう。僕は、パパの笑顔が欲しくて、問題を解く。

パパは、僕が問題を解くから、愛してくれるんだ。

じゃあ、僕が問題を解くことができなくなったら?その時は?

パパはくるりと背中を向けて、行ってしまうだろう。そうして、僕は、道を見つけられずに立ち尽くす。

僕は嫌な想像を追い払って、問題用紙を読み始める。

--

曇りの午後。

学校から帰ると、僕はパパが帰ってくるまでの時間、パパにもらったパズルの本を読む。僕が大好きな本だ。パパがくれたにしては珍しく色付きの本。

背後から鼻につんと、甘いキャンディーの匂い。また、あいつだ。

僕は、振り向いて、一つ年下の妹に向かって言う。
「あっち、行けよ。」

「何よ、けち。ちょっとぐらい見せてくれたっていいじゃない。」
「お前、女の子だろう?パパに買ってもらったお人形で遊べばいいんだ。」
「ずいぶんひどいのね。私だって、お兄ちゃんみたいな絵本が欲しいわ。」
「どうせ読んだってお前なんかに分かるものか。」
「ひどーい。お兄ちゃんのいじわる。」

妹はプイと部屋を出て行ってしまう。

僕は、妹が大嫌いだ。お人形のように可愛いのは認めるが。何の努力もしないでも、最初からパパに可愛がられている。僕のように、一生懸命数学の問題を解かなくったって。それどころか、日増しに、その金髪は輝きを増し、ピンクの頬がつややかに光る。パパは、とろけるような顔で、その頬にキスをする。

女の子はいいよ。その存在だけで愛される。

--

遠くで雷が鳴っている。

今夜、珍しくパパは出張でいない。

ママは、いつしか僕達に「おやすみ」を言いに来なくなった。この家は、まるで僕と妹とパパの三人だけで暮らしているような感じだ。

雷がますます近くで響き、僕は少し怖いけれど、机でパズルの本を読んで気持ちを落ちつける。

背後で声がする。
「お兄ちゃん。」

また、あいつだ。振り向くと、妹がテディ・ベアを抱き締めて、泣きそうな顔になっている。

「どうしたんだよ?入って来るなって言っただろう?」
「ちょっといい?」
「駄目だ。」
「ねえ。お兄ちゃん、どうして私のことが嫌いなの?」
「さあなあ。何もかも、嫌いなんだよ。」
「私が・・・。その・・・。パパと仲良しだから?」

僕は、ドキリとして、答えられない。

妹は、しくしくと泣き出す。

これだから女の子は嫌だ。泣けばいいと思ってる。僕だって、泣きたいのに。でも、男の子が泣いたりしたらパパが喜ばないから、じっと我慢してるのに。

「何だってんだよ?」
「私、お兄ちゃんみたいになりたかった。男の子になりたかった。そうやって、パズルとか解いて。」
「お前は、今だって充分楽しそうじゃないか。何にも考えずにお人形遊びしてればいいんだよ。」
「私、男の子になりたい。そうしたら・・・。そうしたら・・・。」
「そうしたら?」
「パパにキスしなくても。パパに抱かれなくても。夜、パパが来るのをベッドで待たなくても。パパの前で服を脱いだりしなくても。パパに愛されるのに・・・。」

妹は、ただ、テディを抱き締めて、泣きじゃくっている。

僕は、ただ、呆然として、妹を見る。

無条件で愛されたがっているのは、僕だけじゃなかった。

僕は、そのテディを見て、思い出す。

そう言えば妹は、うなるほどの人形をパパに買ってもらっているくせに、いつもこのテディを抱いている。これは僕が小さい頃、ママに作ってもらったやつだ。僕は、いつもこれを抱いて寝ていた。そうしたら、小さかった妹がこのテディを欲しがって泣いたんだっけ?僕は、あの頃はまだ、妹が大好きだったから、テディを妹の腕に抱かせてやったんだ。

そう。あの頃は、まだ、僕ら兄妹は本当の笑顔を知ってた。


2002年03月27日(水) 僕は、彼女の愛らしいおヘソに、口づける。「やだっ。」彼女は小さな悲鳴を上げる。

三月は忙しいんだよ、と、わざと疲れたような声を出してみせ、ベッドの妻に背を向ける。

花粉症のせいなのか、当て付けなのか分からないが、いつまでもぐすぐすと鼻を鳴らす音がして、僕はイラついて眠れない。

もう、妻を抱かなくなって何ヶ月経ったろうか。何がきっかけか、もう分からない。些細な口論が増えて来て、夫婦の関係がいつしか苛立つものになって来たためか。

悪いとは思っている。

妻は妻なりに下着などに工夫を凝らし、僕の帰宅を待っている。いっそ、抱くことができれば、他の小さないさかいなど全て解決できるのにとも思う。だが、どうしても駄目だった。

--

その日も、ほんの些細なことから口論になった。

そうして、いつものお決まりの台詞。

「ねえ。あなた、もう、私のこと嫌いなんでしょう?」
「そんなことない。」
「嘘。嫌いなんだわ。」

ああ。それこそ、僕が僕自身に何度も問うたこと。いっそ別れたほうがいいのかとも思ったが。僕は妻を愛している。ただ、抱くことができないだけ。

「また、帰って話し合おう。行ってくるよ。」

妻が盛大に鼻をかむ音が、また響いている。

--

帰宅すると、部屋には明かりがついていなかった。

「おい。」
呼び掛けても返事がない。

妻がいない。

僕は、慌てて妻のクローゼットの中を見る。服は全部揃っている。どうしたのだろう?家中探しても、いつもと様子が変わったところはない。

妻の実家に電話してみる。
「ケイコ、行ってます?」
「いいえ。来てませんよ。どうなさったの?」
「いえ。何でもないです。」

慌てて受話器を下し、僕は頭を抱えてソファに腰を下す。こんな僕に愛想をつかしてとうとう出て行ってしまったのだろうか?

その夜、彼女からはとうとう連絡がなかった。

朝になっても。僕は一人。キッチンを探し回り、ようやく紅茶を煎れ、トーストを齧る。僕は、今更ながら、生活の全てを彼女に頼っていたことを知る。

--

「おかえりなさい。」
「ああ。戻ってたのか。」
「どういうこと?私、ずっと家にいたわよ。」
「嘘だ。だって昨日・・・。」
「ねえ。今日はね、いいニュースがあるの。」
「なんだよ?」
「あの、ね。出来たの・・・。」
「え?」
「やあねえ。赤ちゃんよ。三ヶ月ですって。」
「まさか。」

頭の中でどう考えても、僕は、三ヶ月どころか半年以上彼女を抱いていない。

「きっと、あの夜よ。あなた、少しだけアルコールが入ってたせいで、随分と激しかったじゃない。」
彼女は、耳たぶを桜色に染めて微笑む。

「そう・・・、だったかな。」
僕は少し混乱して、彼女の顔を見る。

もし、彼女が浮気でもしていたら、こうも堂々と僕の前で喜んでみせるだろうか?

「ねえ。嬉しい?」
「あ・・・、ああ。なんだか急で、よく分からない。」
「男の人って、そういうものなんですってね。でも、生まれたらきっと実感が湧くわ。」
「そうかな。」

生真面目過ぎるほどの彼女に、嘘なんか吐けるはずもない。

「やだ、私の顔、変?」
「あ。いや。疲れてるんだ。風呂にしてくれる?」
「ごめんなさいね。私ったら、もう、あなたより赤ちゃんのことばっかりで頭がいっぱいになっちゃって。」

--

妻は、変わった。肌はつやつやと輝き、いつも笑顔で僕に接する。あのいさかいの日々が嘘のようだ。そうして、僕は、混乱を引きずったまま、そんな妻を見ている。彼女は狂ってしまったのだろうか?

「ねえ。あなた聞いてる?」
「あ・・・。ああ。」
「最近、あなたちょっと変よ。」
「そうかな・・・。ところで、きみ、花粉症治ったの?」
「花粉症?そうねえ。そういえば、そうかも。」
「良かったじゃないか。」
「ええ。これも赤ちゃんのお陰かもね。それより、さあ。赤ちゃんがお腹で動いたの。触ってみてくれる?」
「え?」
「やだ。そんな顔しないで。触ったら、あなたもきっと実感が湧くわよ。」

彼女は、僕のそばにきて、マタニティウェアの裾を持ち上げると、白くてペタンコのお腹を見せる。

やっぱり、想像妊娠なのか。

触ってみるが、妊娠の気配などまったくない。

急な衝動だった。

僕は、彼女の愛らしいおヘソに、口づける。

「やだっ。」
彼女は小さな悲鳴を上げる。

僕は、彼女の体をそっと膝に載せると、その大袈裟なマタニティウェアを脱がせて、背後から抱き締める。

「ねえ・・・。そっとして。お腹の赤ちゃんがびっくりするから。」
「分かってるって。」

その白い乳房も、まだ、母乳を出す準備をしているとも思えないくらいに引き締まって、余計な脂肪はついてない。

「僕達、ほら、赤ちゃんが出来てから、こういうことしてないだろう?」
「ええ・・・。でも。」
「ベッドに行こうよ。」
「うん。」

僕達は、それから、優しく優しく交わった。

僕は、彼女が狂ってしまったから彼女を愛せるようになったのだろうか?

僕は、彼女の花粉症が治ったから彼女を愛せるようになったのだろうか?

僕は、彼女の妄想が生んだ赤ちゃんのせいで彼女を愛せるようになったのだろうか?

そんなことは今はどうでも良くて、彼女の滑らかな体に激しく飢えていて。だが、その頂きに登りつめるのが怖い。全てが終わったら、僕と彼女を幸福にしている妄想は消え去って、また、あの憂鬱な日々が戻ってくるのだったらどうしよう。あるいは、本当に僕達の愛らしい赤ちゃんがここにいたら、僕らは幸福になれるのだろうか?あるいは・・・。

彼女の喘ぎ声が高まる。

僕は耳元でささやく。

ねえ、一緒に・・・。


2002年03月26日(火) まだ、天使になり立ての私は、彼のそばに飛んでいく術も知らないでオロオロと、空から眺めているだけ。

彼の事務所に電話する。

もう、電話番の女の子も帰った時間。

彼は出ない。

いつまでも、いつまでも、耳元でコール音。

あきらめて電話を切って、「誰も電話に出なくて良かった。」と思う。電話番の子が出たら、すぐさま電話を切っていただろう。彼が出たら・・・。私はきっと困っていただろう。職場には電話しないでと言われているから。とにかく、今日、繋がらなくて良かった。あんまりうるさいくらいに電話をしていることを、彼に知られなければいいと思う。今日は、もう、お仕事は仕舞ったのですか?

--

彼には奥さんがいて。

私は、そんな彼を愛してしまって。

彼は、彼なりに私のことを好きでいてくれて。ありがちな恋人同士のように、少し、想いの量が違っていて。彼のほうが少ないのだけれど、それは、彼が私を嫌いというのではなく。

ぐるぐる。

彼が好き。彼が、もっと欲しい。彼の時間、彼の声、彼の指、彼の匂い。もっと欲しい。

今日は、彼とどうしても話がしたい。どうしたんだろう。いつもなら、ちゃんと我慢して。また、約束の日まで何とかやり過ごせば、彼と会えるからって。そう自分に言い聞かせることができるのに。今日は駄目だった。

彼の携帯に電話する。

「もしもし。」
彼の声は固い。

「ごめんね。私。」
「めずらしいね。どうしたの?」
「どうしても声が聞きたくて。」
「今日は行けないって、言ったよね。」
「うん。それは分かってる。でも、声が聞きたくて。」
「・・・・。」
「ねえ。怒ってる?」
「いや。怒ってないよ。」
「じゃあ、困ってる?」
「ううんと。少し。」
彼は正直だ。

「今、話できる?」
私は、ずるずると引き延ばしたがって、みっともない。

「少しなら。今日は、早く家に帰らなくちゃいけないから、少しだけだよ、ね。」
「うん。」

彼は、なだめるような優しい声。お願い。怒ってよ。

「ねえ。来週は、会える?」
私は、先の約束を欲しがる。

「来週・・・?うーん。どうかな。年度末で忙しいから。でも、多分。何とか時間作る。」
「その次の週は?」
「その次?うーん。どうかな。分からないや。クライアントとの打ち合わせが上手くいけば、会えるかも。」
「予約、入れたい。」
「いいよ。何とか頑張ってみるよ。」

ごめんね。どうしたんだろう。お酒に酔ってるわけでもないのに、馬鹿みたいにワガママ言ってる。

彼は、優しく言う。
「ずっと、我慢してくれてるもんな。分かってるよ。」
その一言で、急に涙が止まらない。

「どうしたの?」
「予約、全部要らないから、今日、会ってください。」
「どうして?何かあったの?」
「分からない。分からないけど。先の約束、全部なしでいいから、今日会ってください。」
「泣いてばっかりじゃ分からないよ。」

ごめんなさい。今日、どうしても。なんだか、私、おかしい。きっと、これも全部、春のせい。

彼は随分と長いこと、電話の向こうで黙っている。

それから、言う。
「いいよ・・・。何とかしてみる。待ってて。」

今回だけだよ、なんて釘を刺したりしないでいてくれる、大人の優しさ。

「ありがとう。」
そうして、私は、彼の来るのを待つ。彼の好きなお酒とか。軽くつまむものも用意して。

彼は、やって来る。

「ごめんね。」
私は、謝る。

「いいんだよ。わがまま言ってくれて嬉しかったんだ。こんな風にわがまま言うのって、なんだか珍しいなって思って、さ。」

私達は、すぐには抱き合わない。どうでもいいようなことをいつまでもおしゃべりしている。すぐ恋に飛び込むのは怖いと言わんばかりに、恋の周辺をぐるりぐるりと回る。他人が見たら、もどかしいような時間。

それから、彼は、そっと手を伸ばす。初めてのように。そうっと。

「ありがとう。大好き。」
いつもなら照れ臭くていえない言葉を、今日は、素直に。

そうして、何度も何度も、口づける。

--

朝、起きて、私は彼を送り出して。明るい朝。気持ちのいい朝。私も仕事場へと向かう。

キキーッ。

車の音は、私の耳をつんざいて。

--

そうして、今、私は運命に連れてこられて、天国から彼を眺めている。マシュマロのような雲の端っこから、足をプラプラさせて。みんなを見下ろしている。

ああ。お願い、泣かないで。

私の声は彼に届かないけれど。どうしましょう。まだ、天使になり立ての私は、彼のそばに飛んでいく術も知らないでオロオロと、空から眺めているだけ。

ねえ。私、素敵な天使になりました。

あなたの予約、全部先取りして、あの夜、あなたに抱かれたから。運命が何かを、鈴を振って知らせることがあるならば、それはあの夜。

だから、ねえ。泣かないで。そんな風に言ってみるけれど。きっと、彼の耳には、春の風の音にしか聞こえない。

桜の花びらで、彼の頬を撫でてみる。


2002年03月25日(月) だけど、彼は何にも分かってやしないのよ。お陰で、本物の精神科にかからなくちゃ生きていけなくなっちゃったの。

それは、突然の衝動のようでもあったし、前からずっと思っていたことのようでもあった。

医者にもらったまま溜めていた薬を一度に飲む。

結局、こうでもしなきゃ、あんたの心には何も届かない。それだけの事に気付くのに馬鹿みたいに時間が掛かった。

さようなら。

--

「ねえ。」
「んん・・・?」

ひどい悪臭が鼻を突く。頭が激しく痛む。

「どこ?ここ。」
私は、暗闇に向かって訊ねる。

「ここ?流れつく場所。」
「流れつく?」
「うん。いろんなもの。いらなくなったもの。」

要らなくなったもの。私の命。

「私も流れついちゃったってわけね。」
「そうみたいだね。」
「どうでもいいけど、あんた、すごく臭いわ。」
「ごめんよ。」

暗闇に目が慣れてきたので、目の前の相手に目を凝らす。ドロドロとした、醜い生き物。目だけがつぶらに光っている。

「どうやったら戻れるのかしら?」
「戻りたいの?」
「うん。ここにいるよりは、ずっとマシだと思うもん。」
「そう・・・、だよね。ここは暗くて、嫌な場所だよね。」
「あんたは?ここにいて平気?」
「僕、ここしか知らないもの。きっと、余所はずっと素敵なんだろうけれど。」
「とにかく、ここよりマシな場所に行きたいの。」
「じゃあ、僕と一緒に来てよ。」
「出られる場所、知ってるの?」
「うん。多分。」

彼は、びちゃびちゃと耳を覆いたくなるような音を立てて移動する。私は、仕方なく付いて行く。

「どこから逃げ出したの?」
醜い生き物は訊ねる。

「逃げ出した?」
「ここに来る人は、大概、逃げ出してくるんだよ。」
「ふうん。」
「あなたは?」
「私はねえ。そうねえ。つまんない男にうんざりしたの。すごくハンサムな男でね。テレビドラマに出て来る精神科医みたいにハンサムで、人をその気にさせるのがうまい人だったの。」
「精神科医?」
「うん。ニッコリ笑って『きみは素敵だよ。』なんてため息混じりに言われたら、本当に愛されてるなって思うの。真剣な表情で『分かるよ。』って言われたら、ああ、この人は本当に痛みが分かる人なんだなって思うの。だけど、彼は何にも分かってやしないのよ。お陰で、本物の精神科にかからなくちゃ生きていけなくなっちゃったの。」
「ふうん。」

ずるずる。びちゃびちゃ。

「あんたは?生まれてからずっとここに?」
「うん。他を知らない。」
「ここを出たいと思わない?」
「うーん・・・。どうかな。分からないや。でも、僕は、多分、ここで充分満足してるんだと思うよ。本当にもっと素敵なものがあるって分かってたら、行くかもしれないけどさ。きみの恋人だった人みたいに、『ここは素敵だよ。』ってにっこり笑う人について行ったら、すごく嫌な場所が待ってても困るもんね。」
「あんた、賢いのね。」
「僕は・・・。つまんない生き物さ。」

私は、少し、この醜い生き物が好きになった。

「ねえ。僕んち、寄ってく?」
「え?ええ・・・。」

そこは家とも呼べない代物で、今にも崩れそうなガレキの破片やら板っ切れやらで作られた場所。彼の体と同じような悪臭が満ちている。

「あんまりいい場所じゃないんだけどね。」
彼は、ひどく恥ずかしそうに、言う。

確かに、座るのすらためらわれるような場所だった。私は、頼むから、「お茶でも飲む?」なんて言わないで、と心で祈る。

もちろん、彼はそんなこと言わなかった。

「疲れたろう?」
「そうでもないよ。体はね。心のほうは、もう、ずっと疲れてるのかもしれないけど。」
「ねえ。僕の宝物、見る?」
「宝物?」
「僕、本当に悲しい時は、これを見るんだ。」

彼が取り出したのは、赤いガラスの破片。波に洗われたように角が削られて、彼の家の薄暗い明かりで柔らかく光って見えた。

なんだ、ただのガラスじゃない。

「これはね。僕が生まれてから見たものの中で一番きれいなものなんだ。これを見るとね、世の中って、こんな綺麗なものがもっと沢山あって、いつかそこに行けるだろうって。こんな醜い僕でさえ、いつかこんなものを沢山手にしても恥ずかしくない生き物になれるだろうって、勇気が湧くんだよ。」
「そう。」
「ねえ。それ、あげるよ。きみに。」
「駄目よ。あなたの宝物でしょう?」
「いいんだ。僕はもう充分眺めたから。こうやって目を閉じても、きらきらって光るところが思い出せるくらいに。だから、お願い。もらってよ。」
「そう?ありがとう。」

私は、なんだか泣きそうになって、そのガラス片を握り締める。醜いせいで、誰にも触ってもらえない、モンスター。

「そろそろ、行こうか?」
「うん。」

彼は、また、びちゃびちゃと音を立てて歩き始める。

「こんなに誰かと話をしたのは始めてだよ。」
「そうなの?」
「うん。いつも一人だから。」
「寂しかった?」
「どうかな。でも、生まれてからずっとこうだったから。」

薄暗い一本道をずっと歩き切ったところで、急に生き物は立ち止まる。

その先は本当の闇で。何も見えない。

「この先に飛び込むと、戻れるよ。」
「怖い。」
「大丈夫だよ。」
「あなたは?」
「僕?僕は、もとの場所に戻るだけ。」
「あの場所で、あなたはもう、宝物も無くて、それで大丈夫なの?」
「うん。」

もう、随分と暗いから、彼が瞳を閉じると闇に溶け込んで、彼の姿は見えなくなりそうだ。

「ねえ。目を開けてよ。」
私は、不安になって、言う。

「大丈夫だよ。ここにいるから。」
彼の声は随分と遠く思える。

「ねえ。一緒に行く?」
「行かない。僕は、ここにいるよ。」
「じゃ、私、行くね。」
「ねえ。お願いが・・・。」
「なあに?」
「ううん・・・、何でもない。」

私は、しばらく暗闇を見つめて。

それから、彼のいる場所を抱き締める。

ぐちゃっとも、ぬるっとも、つかない感触。

もう、彼の悪臭も気にならない。

「ありがとう。僕・・・。」
「いいのよ。」

私は、彼の顔に口づけて。

「また、会おうね。」
と、手を振って、それから、深い暗闇に向かって足を踏み出す。

私は、吸い込まれて行く。

--

「気が付かれました?」
看護婦が微笑む。

「ああ。私・・・。」
「大丈夫ですよ。もう少し、お休みになっててください。」

私は、目を閉じる。

あの悪臭ですら、恋しい。

ポケットに手を入れて、そこにあるガラス片を確かめる。

そうして、一片のガラスしか美しいものを知らないモンスターを、想う。


2002年03月24日(日) あれは、人魚が落としていったパンプスで、彼女は王子に見初められなかったせいで泡になって今頃消えてしまったのかもしれないな。

その人に目を奪われていたのは、彼女が派手に泣いていたから。

それから、素敵に美しい脚をしていたから。

顔をくしゃくしゃにして、こぼれる涙も隠さないで、鼻の頭を赤くして。あんまり泣くものだから、彼女はつまづいて転んでしまった。真珠色のパンプスが片方脱げて転がる。

あっ。

ふらふらと立ち上がった彼女は、パンプスが脱げたことにも気付かないように、ひょこひょこと歩きながら、雑踏の中に消えてしまった。

僕は、彼女の真珠色のパンプスを拾い上げる。

--

それからの日々、僕は、彼女を探す。美しい脚の記憶を頼りに。

あれは、人魚が落としていったパンプスで、彼女は王子に見初められなかったせいで泡になって今頃消えてしまったのかもしれないな。

そんな風に、もう、ほとんどあきらめた頃に、その脚に出会う。

「待って。」
僕は思わず大声を出す。

「誰?」
振り返る彼女。

「この前、靴を落としていっただろう?」
「ああ・・・。そうだったかしら。」
「うん。真珠色の。」
「そうだったかもしれない。」
「覚えてないの?」
「そうねえ。すごく悲しいことがあったの。」
「泣いてた。」
「泣いたことさえ覚えてないくらいに、悲しかったの。」
「僕の部屋においでよ。靴、渡すから。」
「いらないわ。捨てておいて。」

と言いながら、彼女は僕と一緒に歩き始める。

--

僕の腕の中で、彼女の美しい脚が魚のように跳ねる。

僕は、その感触を味わいながら、彼女の魅力について考える。

「あなたも、脚が好きなの?」
「え?」
「さっきから、脚ばっかり。」
「うん。好きだよ。」
「男の子はみんなそうね。顔は、ほら。私って十人並でしょう?だから、私のどこが好きって訊ねたら、多分、みんな脚を好きって言うのよね。」
「それは違うよ。」
「違わないわ。」
「きみの脚は、きみの顔や体に本当に似合ってる。だから素敵なんだよ。」
「顔は添え物ね。」
「そんな風に考えるのはよくないよ。きみより百倍も綺麗な子より、僕はきみの脚にぴったりなこの顔が大好きなんだ。」

僕の妙な言い訳に苦笑しながら、彼女は僕に口づけてくれる。

「あなたが言うとおりよ。あの日、泣いてたわ。」
「何かあったの?」
「男の人ってさあ。どうして、もう、愛してない女の子に対しても、好きじゃなくなったってちゃんと言ってくれないのかしら。もう、電話もして来ないくせに。他の人と手を繋いで歩いてたくせに。さんざん放っておいて、そのくせ、ちゃんと本当のことを言ってくれないの。もう、愛してないなら、愛してないって、そう言って欲しかったのに。」
「だから、泣いてたの?」
「うん。」
「男って、そういう生き物なんだよ。そんな生き物のために泣いたりすんなよ。」

僕も、そんな生き物だけど。こんな素敵な脚をした女の子をあっさり捨てられる男は信じられない。

僕は、真珠色のパンプスを彼女に渡す。今度はこれを履いて、僕のところに来ておくれ。

彼女はうなずく。

--

つまりは、彼女の脚は、彼女の素敵さの象徴で。それは、いつも、はっきりとした目印のように僕の前にあって、僕は、それを見るとため息をついてしまう。飽きるということがない。

彼女は、僕が脚にばかりに気を取られることが気に入らないようだけれど。

考えてもみてごらん。

こんなに素敵な目印がついている女の子は、そんなにいやしない。僕は、きみを絶対に見失わずに済む。

--

夜中に、彼女の携帯電話が鳴っている。

いつまでもいつまでも鳴っている。

彼女は、起き出して、電話に出る。

「やだ、切れちゃった。」

それから、彼女は携帯のディスプレイを随分と長いこと見つめていた。

そうして、大急ぎで服を着ると、バッグを取り上げて出て行く。

おい。待てよ。

彼女には、僕の声は聞こえない。

よっぽど急いでいたのだろう。玄関には、片方転がった、真珠色のパンプス。

--

僕は、またしても、脚を探す日々。

あれから、一年、二年。

いつまで経っても、その脚とは出会えない。

雑踏の中に、美しい脚はたくさんあるのに、それは全て探しているのとは違うのだ。もう、彼女はどこか遠くに行ってしまったのだろうか。それとも、愛らしい赤ちゃんを生んで、その脚は、愛する誰かを支える脚に変わってしまったのだろうか。

僕は、探すことをやめない。

ガラスのように脆い、愛を求める脚を。

あの脚でなきゃ、愛する価値がない。


2002年03月22日(金) 「さっきみたいに舐めてくれない?きみの舌、ざらざらしてて気持ちいいんだ。ぞくぞくするよ。」

私はまだ子猫で、お腹を空かせてみぃみぃ鳴いていた。

彼は私に微笑むと、抱き上げて、部屋に連れて帰ってくれた。
「腹空いてるんだな?」

私は、彼の広い肩に頭をもたせ掛けて気持ち良かった。

彼の部屋で、ミルクをもらい、体をきれいにしてもらって、私はゆっくりと眠った。飼い主の手によって遠く離れた場所に置き去りにされてから、誰かに優しくされたのは久しぶりだった。

目覚めると、彼は、大きな手で、私の小さな体を好きなように弄んだ。私は、まだほんの子供で、そんなことが嬉しかったりした。

そうして、私は、彼の部屋に住み付いた。

彼は、小動物とか、子供とかが好きな男だった。だが、女性に対してはどことなく冷淡な男で、浮気性だった。しょっちゅう、いろんな女が彼の部屋を訪れる。そんな時は、私は彼の部屋を追い出され、ソファの隅で眠る。彼は、それらの女性の誰とも長続きはしなかった。

私は、年を経て、成熟した猫になった。もう、春になると、私の体の中で暴れるものが、私を狂わせる。彼に下半身を預けて身悶えする。彼は、おもしろそうに私を眺めて、体をさすってくれる。

私は、ある決意をする。

--

私は、人間の姿になった。

ぐっすり眠っている彼の頬を、私は、四つん這いになって、舐める。

「ん?なに?」
「ねえ。起きてよ。」
「きみは?」
「猫よ。あなたに飼われている。」
「まさか。はは。」
「ねえ。抱いてよ。」
「いいけど。」
彼は、寝ぼけていたが、微笑んで、私の体を引き寄せて抱き締めてくれた。

「驚いたな。人間の姿になるなんて。」
「あなたが好きなんですもの。」
「ねえ。頼みがあるんだけど。」
「なんですの?」
「さっきみたいに舐めてくれない?きみの舌、ざらざらしてて気持ちいいんだ。ぞくぞくするよ。」
「分かったわ。」
私は、彼の望むように、彼の体を舐める。

「う〜ん・・・。」
彼は、気持ち良さそうに吐息を漏らす。

それから、彼は、私の上に乗ると私の耳たぶを優しく噛んでくれる。
「知らなかったなあ。きみにこういう特技があるとは。」

そうして、彼は、私の発情した下半身を満たしてくれる。

ゆっくりと。やさしく。初めての女の子を扱うように、丁寧に。

私の下半身は熱く、すっかり溶けてしまったのかと思うくらいに、どこからどこまでが肉体か感覚か区別がつかなくなっていた。とてつもなく長いような時間の間、緩やかに高まって行く。

私は、人間の声で悲鳴を。それは、随分と悲しそうに響いた。

そうして、一つの予感を掴んで。

穏やかな時間に満たされ、彼は満足そうに眠り、私は猫の姿に戻る。

--

私は、望み通り、彼の子供を得た。

彼は、あの夜のこと、覚えているのかいないのか。相変わらず、やさしくしてくれる。

出産の夜、私は、クローゼットの奥に引っ込み、彼から授かったいとおしい生命を生み出す。その瞬間、涙する。

まだ、目も開かないその命達を、私は守る。

どうしても欲しかったもの。愛する人と創り出した、命。

--

私と二匹の子猫達は、相変わらず幸福だった。

ある日、髪の長い、美しい人が訪れた。とても悲しそうな目をした人だった。

彼は、今までの女性と違い、彼女を大事にもてなした。私は気付く。彼女は彼の大切な人になるであろうこと。

私の胸は悲しみに潰れそうになる。

迷った挙句、私と子猫は彼の部屋を出る。

拾われてからずっと過ごした居心地のいい部屋を去るのはつらかったけれど。たまには、恋に身を焦がす猫がいてもいいでしょう。

--

子猫達は大人になり、私は、随分と老いた猫になった。

--

ある日、私は、彼女とばったり出会う。

「あら。」
彼女は、微笑んで手を伸ばす。

「私のこと、覚えてる?」

にゃー。

「そう、覚えてくれているの。ね、来ない?」
私は、うなずくように彼女を見て、彼女について行く。

彼女の部屋は、小さなアパートの一室で。

彼と結婚したのではなかったの?

「ねえ。結局、あれから私達別れたのよ。」
彼女は、私を膝に載せて、喉を優しく撫でてくれながら、言う。

「どうしてかしら。彼、あなたが出て行ってから、随分と寂しがってね。あんなに猫が好きな人とは思わなかった。違うのを飼いましょうって言っても、駄目だって。」

私は、意外な顔をして彼女を見上げる。

「あの子猫達、彼によく似てたわね。やんちゃなところ。茶色の目。女性にじゃれつくのが上手なところ。」

知ってたのね?私の恋。

「私も、せめて彼の子供を、と思った日がないでもなかったわ。でも、考えてもしょうがないこと。」

そうね。私だって、あの日、彼の部屋を出なければ。なんて、考えてもしょうがないこと。

「ありがとうね。つまんない話聞いてくれて。」

女同士の話なら、いつでも相手をするわ、と、私はしっぽをひとふりして、部屋を出る。


2002年03月21日(木) 私はその時、姉の身代わりとして彼に抱かれることを決めた。姉は、死んでなお、そのような存在だった。

それは、美しいカップルだった。

モデルのように美しい姉と、メイクアップアーティストの義兄。

彼らの恵まれた美貌と才能は、双子の天使のように彼ら自身を優しくしていた。

--

「ねえ。お兄さん。メイクしてよ。」
私は、姉夫婦が遊びに来ると、そう言う。

「いいよ。」
義兄は笑って、応じてくれる。

「じゃあ、お昼の材料、何か仕入れてくるわね。」
と、姉は私達を置いて買い物に行ってしまう。

「お姉さんほど美人じゃないけど、我慢してよね。」
「そんなことない。僕にとっては素敵な素材だ。メイクしたくなる顔だ。」
「それだけ手を加える余地があるってことよね。」
「可能性を秘めてるってことだよ。」
私達は笑い合う。

「きみのお姉さんは、最高だ。」
「知ってるわ。」
「僕は、彼女の顔にインスパイアされて、メイクをする。彼女の顔を見るたびに、何かに心打たれたように、いろんなものが溢れてくるんだ。だけど、どんな色を重ねても、僕は何か違うと感じてしまう。そうして、結局いじくった挙句に気づくんだ。素顔の彼女を超える化粧はできないって、ね。」
「ふうん・・・。妬けるわね。」
「さ。できたよ。」

鏡の中には、私が知らなかった自分がいる。
「すごいのね。私よりずっと私のこと、分かってるみたい。」

戻って来た姉が私の顔を見て微笑む。
「アキちゃん、すごく優しい顔。素敵よ。」

--

私と、姉夫婦のそんな幸福な日々は終わってしまった。

姉が信号無視の車に跳ねられてしまったから。

なんということだろう。なぜ、あんなに美しい人が、私より先に逝ってしまうのだろう。私は、どうしても、姉が死んでしまったことが受け入れられない。それは義兄も同じだった。目を見れば分かる。義兄の目は、いつも、姉の姿を探すようにさまよっていた。

--

ある夜。

義兄が、私の部屋に突然訪れた。

「どうしたの?」
「ごめんよ。こんな夜に。」
「いいけど。大丈夫?酔ってるのね。運転なんかしちゃ駄目じゃない。」
「頼みがある。」
「なに?私にできること?」
「彼女になってくれないか?」
「彼女って、お姉さんに?」
「ああ。」

義兄は、姉の着ていた服を取り出す。姉と私は、容姿は随分と違っていたけれど、体型はほぼ同じだった。

私は、うなずいた。

私は、義兄を男性として愛していたが、私はその時、姉の身代わりとして彼に抱かれることを決めた。姉は、死んでなお、そのような存在だった。私は姉の影として生きて来たのだから。

「化粧を。」
兄が、道具を並べる。

私は目を閉じる。

繊細な指が、私の顔をなぞり、長い時間が過ぎる。

「できた。」
目を開けると、そこには姉がいた。

「着替えて。」

私は、姉の服を着て、姉の好きだった香りをつける。

「おいで。やっと戻って来てくれたね。ハルカ。」

その時、私の体は、本当に姉のものだった。目の前の男の愛撫を、覚えている。男の指は私のあらゆる場所を知っていた。私も、男の体の特徴をほくろの位置までよく知っていて、唇でなぞる。

全てが終わって、化粧を落とすと、私は元の私の体を取り戻す。

「ありがとう。」
「ううん。私もお姉さんに会えたから。」

その日から、私と義兄の、歪んだ遊びが繰り返される。

私は、姉になって彼に抱かれる。

--

半年が過ぎた、夏の午後。

雷が鳴り響く不穏な天候の中、彼が、最初の日と同じように突然訪ねてくる。

「約束、今日だったかしら?」
「いや。違う。でも。いいかな。どうしても・・・。きみに会いたくて。」
「いいわよ。」

私は、いつものように椅子に掛け、化粧を待って目を閉じる。

「いや。今日は違うんだ。」
彼は、素顔の私に、いきなり口づける。

待って。

まだ、準備が。

私は、まだ、私のままで。目の前の男の愛撫に慣れていない。彼もぎこちなく、私の体を探す。

「ねえ。どうして?」
「分からない。」

だが、私も彼に応えて、気持ちが止められない。

外は、激しく雷が鳴っている。姉が、怒っているわ。私は、彼の勢いを体で受け止めながら、思った。

息遣い。触れる音。

雷は、夜更け過ぎに雨に変わった。私は、彼の腕でまどろみながら、姉が泣いている、と思った。

私は、一緒になって泣きながら、彼の腕の中で眠った。

--

雨は上がり、朝日がまぶしかった。

「いい天気だ。」
ブラインドを上げると、彼は、振り向いた。

私は、素顔を見られるのが恥ずかしくて、目を伏せた。

「きみをずっと愛していた。化粧でも隠し切れないきみの素顔をずっと。」
「私も。あなたを。ずっと・・・。」

許してくれたのね。

心の中で姉に話し掛ける。

あなたがいなければ私も彼と出会えなかったのよ。

窓の外で、木の葉の水滴が微笑み返すようにキラリと光った。


2002年03月20日(水) その目で見つめられると、みな、そこに映る醜い我が姿を恥じて逃げ出してしまうのだ。

彼は、森で唯一のユニコーンだった。

ユニコーンには友達がいない。森の動物達は彼を怖れて近寄らないのだ。真っ白な体に、黄金のタテガミ。水色の目は、あまりにも澄んでいて、その目で見つめられると、みな、そこに映る醜い我が姿を恥じて逃げ出してしまうのだ。

だから、ユニコーンはいつも一人だった。ユニコーンは、なぜ、みんなが自分を怖れるのか、分からないまま寂しい思いをしていた。

ある日、水を飲もうと川縁まで降りてゆくと、そこに美しい馬が水を飲んでいた。ユニコーンの気配に顔を上げるが、また、水を飲み始める。

ユニコーンは、おそるおそる声を掛けた。
「こんにちは。」

馬は顔を上げて、ユニコーンのほうを向いた。
「こんにちは。」
「きみ、僕が怖い?」
「どうして?」
「だって。みんな僕を怖がるよ。」
「怖くないわ。だってあなた、優しそうな声。」
「みんな僕を嫌うんだ。見た目がまずいらしい。」
「私ね。目が見えないの。」
「そう・・・。分からなかった。」
「だから、滅多に一人で出歩かないのよ。」
「友達になってくれる?」
「いいわよ。」
「僕を怖がらなかったの、きみが始めてだ。明日、また、ここに来たら会ってくれる?」
「ええ。」
「じゃ、また、明日。」

--

現われた美しい馬は、少し足を引きずっている。

「どうしたの?」
「ああ。私ね。目が見えないから、しょっちゅうあちこちにぶつかっちゃうのよ。みっともないでしょう?きっと、そのうちどこかで怪我をして動けなくなって死んじゃうんでしょうね。」
「そんなこと言わないでよ。」
「心配してくれるの?」
「うん。初めてできた友達だもの。だから。僕がきみの足になるから。死んじゃうなんて言わないで。」
「ありがとう。」

それから、ユニコーンは、体を寄せるようにして散歩する。

「こんなに遠くまで来たの、初めてよ。怖いくらい。大丈夫かしら。」
「大丈夫だよ。僕と一緒にいれば。ライオンすら、僕を見たら怖がるんだ。」
「そうなの?きっと、あなたとても恐ろしい姿をしているのね。」
「ああ。そうだよ。醜い角。邪悪な瞳。きみだって、僕を見れば身がすくむ。」
「ねえ。私の秘密、知りたい?」
「何?」
「あのね。私もなの。私も、お友達ができたの、初めてなの。」
「そう・・・。」
「だから、すごく嬉しい。」
「僕もだよ。」

それから、森では、ユニコーンと、美しい茶色の馬がいつも寄り添って歩いているのを、みなが見掛けるようになった。

--

「ねえ。」
盲目の馬は、ユニコーンの傍らに寄り添って、言う。

「なに?」
「思いきり、走り回りたいでしょう?」
「どうして、急に?」
「だって。私とじゃ、あなた思いきり走り回ることができないわ。」
「僕は、今のままで充分だ。」
「嫌なのよ。そういうの。あなた、時折走りたそうに、ひずめを鳴らしてるわ。分かるの。明日、走ってらっしゃいよ。私、あなたがすぐ戻って来られる場所で待ってるわ。」
「いいの?」
「うん。」
「じゃ、そうさせてもらうよ。」

それから、ユニコーンは、愛するパートナーに鼻をこすりつけて、彼女も嬉しそうに吐息を漏らして。二頭の声が混じる。

--

次の日、ユニコーンと、馬は、草原まで来た。

「ここで待ってるわ。」
「うん。じゃ。」

ユニコーンは、そうして風に乗る。もともと、羽のように軽やかに走ることができた。ああ。この感じ。なんて素晴らしい。ユニコーンはつい、遠くまで走り過ぎた。

それから、ふと気付くと、随分長い時間が経っていた。

ユニコーンは、慌ててもと来たところを戻り始めた。耳を澄ませる。彼女が僕を呼んでないだろうか?待ってておくれ。

馬は青ざめた顔で横たわっていた。

「どうしたの?」
「蛇・・・。」
「噛まれたの?」
「うん。」
「ああ。どうしよう。待っていて。」

ユニコーンは、近くの木に角を打ちつける。

「あなた、何しているの?」
「黙って。静かに。」

ユニコーンは、苦痛の呻き声を漏らして、その角のカケラを、愛する馬に口移しで飲ませる。

「僕の角は解毒作用があるんだ。」
「あなた、大丈夫?」
「大丈夫だよ。」

馬は、その角のカケラが効いてきたのだろうか。少しウトウトし始める。

「ねえ・・・。」
馬は、なぜか不安に駆られて、話し掛ける。

「ん?」
「あなたに会えて、良かった。」
「僕もだよ。」
「あなたの姿、見てみたいわ。」
「見ても嫌いにならない?」
「当たり前じゃない。」
「もう、黙って。」

馬は、そのまま、眠りに落ちる。

気が付くと、あたりは、少しずつ夕闇に包まれて。

ユニコーンは、どこ?

飛び起きる。

目が。

目が見えているわ。

それから、噛まれた足も治っている。

馬があたりを見まわすと、そこには目も醒めるほどの美しい白い馬が、もう、息を引き取ろうとしている。

「どうなさったの?」
「ユニコーンは、角がないと死んじゃうんだ。」
「待って。私、目が見えるようになったの。」
「僕の顔、見て。」
「ええ。見ているわ。」
「嫌い?」
「とんでもない、美しいわ。」

それから、馬は悲しみのあまり大声で森に向かっていななく。

森の動物達がやって来る。

動物達も、驚いて、周りを囲む。そうして、嘆く。

「ああ。死なないでおくれ。」
「私達、弱虫だった。本当は、あなたが好きだったのよ。」
口々に言う。

馬は、怒って彼らに言う。
「嘘吐き!嘘吐き!」

それから、泣きながらユニコーンに体をこすりつける。

ユニコーンは微笑んでいる。
「愛するきみ、泣かないで。僕の姿を見て。目をそらさないで。」

ユニコーンは、自分を見ていて欲しかった。それだけだった。


2002年03月19日(火) 「そうして、私のひざに乗って、媚びたように喉を鳴らしてごらん。」僕は、怒りのあまり、顔が真っ赤になる。

「ねえ。今度の日曜日は?」
「ん?ああ。会社の役員が来るから、ゴルフ。」
「また?」
「ああ。」

妻は、少し不貞腐れた顔になって、朝食の皿を片付ける。
「夜だって、いつも遅いじゃない。」
「しょうがないだろう。年度末なんだから、みんな忙しいんだ。」
「うん。」
「じゃ、行ってくるよ。」

妻の依存ぶりに、僕はイライラして家を出る。子供もいないのだし経済的にだって余裕はあるのだから、友達でも作って出掛けるとかすればいいのに。いつも陰気に僕を待ち構えているだけだ。

だいいち、いつもむくんだ顔をして、化粧もしないで。僕にもっとかまって欲しいなら、そのあたりからして気を付けるべきだろう。

「課長、おはようございます。」
受付の女の子が声を掛けてくる。

「ああ。おはよう。」
「課長、今日は、ネクタイのお色がよろしいですね。春らしくて。お顔の色が明るく見えますわ。」
「ありがとう。」

そうそう。妻などは、こういう気の利いた事の一つも言えないのだ。

それにしても。と、僕は憂鬱な気分で考える。何か妻の気を引くようなことでも考えよう。こう毎日まとわりつかれてはうんざりだ。

--

「ただいま。」
「あら。早いのね。」
妻は嬉しそうな顔をする。

「ああ。たまにはね。」
「それ、何?」
「これかい?」

僕は、手にしたバスケットを開ける。そこには、グリーンの目にシルバーの毛並みのオスの子猫。

「まあ、可愛い。」
「チンチラというのだよ。」
「どうなさったの?」
「友人に頼んでおいたんだ。きみがいつも寂しそうにしているから、猫でも飼ってみたらどうかと思ってね。」
「嬉しいわ。」

妻は、さそく小皿に牛乳を入れている。機嫌のよさそうな妻の姿に僕も安堵して、ネクタイをゆるめる。

--

その日から、妻は猫の世話に明け暮れるようになった。子猫は、みるみるうちに大きくなって、家の中をのしのしと歩き回る。

おい。お前、うちの主のつもりか。

と、悪態を付きそうになるが、そこは思いとどまる。大体、僕の思惑通り、妻は猫の世話に専念するようになった。もう、僕の帰宅が遅いとか、休日も一緒にいられないとか、愚痴をこぼすこともなくなった。

僕は、朝、受付の女の子に声を掛ける。
「きみの口紅の色、きれいだね。春の新色?」
「わあ。よくご存知ですね。」
「ところで、今日食事でもしない?」
「いいんですか?」
「ああ。」

--

それにしても、なんなのだ。最近の女の子は。僕は、受付の子を一人誘ったつもりなのに、友達を二人も連れて来やがった。
「ごめんなさいね。課長、お友達もいいですか?」
「ああ。いいよ。」

僕は、しょうがないとあきらめて、驚くほどの量を飲み食いする女の子達の相手もそこそこに、早い時間に切り上げた。

「じゃ、僕、明日、早朝から会議だからもう帰るよ。」
「ごちそうさまでしたあ。」

--

帰宅すると、妻はキッチンに見当たらない。おかしいな、と、ベッドルームに行くと、そこに妻がなまめかしい下着姿でいた。僕が入って行くと、驚いたように飛び起きて、
「おかえりなさい。随分と早かったじゃない。」
と、言った。

「ああ。今日は付き合いが早めにお開きになったんだ。」
「そうなの。じゃ、お食事いいわね。私、先に休むわ。」
妻は、それだけ言うとベッドに向き直った。薄暗い部屋に、猫の目が赤く光った。

僕は、妙な気分でベッドルームを出る。あの格好で、猫と一緒にいたのか。なんだ。あの下着は。腹立たしいような、それでいて、妻の下着姿に妙に煽られたような、落ちつかない気分で風呂に入る。

だが、今更、どう言えばいいのだ。妻を放っておいたのは、僕だ。僕のことを放っておいてくれと言ったのも、僕自身だ。

僕は、妻の妙に白い肢体を思い出す。そういえば、かなりダイエットしたのだろうか。最近、きれいになった。

ベッドルームに入ると、もう妻は寝入っている。猫が、妻の腕の中にいる。

--

それからだ。

妻によく注意を払えば、妻が前より見違えるように綺麗になったと気付く。

どういうことだ?猫のせいか?馬鹿な。

妻は、まず、僕の朝食を用意する前に、猫の朝ご飯を用意し、暇さえあればその長い毛並みを念入りにブラッシングしている。

僕はおもしろくない。

男は、妻の興味関心が自分より他に行くと面白くない生き物なのだ。

「コーヒーいれてくれないかな。」
僕はわざと大声をあげる。

「ちょっと待って。」
「駄目だ。待てない。もう、待てない。一体なんだ。猫のほうが主人より大事か。」
「あら。あなた何言ってるの?この子、あなたが連れて来たのでしょう?夫の贈り物を大事にして、どこが悪いって言うの?」
「それでも、人間より猫のほうを大事にするなんて、絶対おかしい。」
「ふうん。そう?妻に興味のない男より、甘えてくる猫のほうが数倍可愛いのは当然じゃなくって?」
「許さん。」
「あなた、嫉妬してるのね。」
「まさか。」
「いいえ。猫に嫉妬してるんだわ。ああ。おかしい。」
「うるさい。」
「そんなに言うなら、あなたも猫になってしまえばいい。そうして、私のひざに乗って、媚びたように喉を鳴らしてごらん。」

僕は、怒りのあまり、顔が真っ赤になる。そのくせ、朝から綺麗に化粧した妻の、棘を含んだ言葉に、僕は欲情する。ああ。猫になって、その細い指で体を掻き乱して欲しい。長いこと忘れていた、指。

僕がそう思った瞬間。

ニャー。

僕は猫になってしまった。

妻は、あらあらという顔をして、僕を見た。

それからくるりと背を向けると、受話器を取った。
「ねえ。時間が取れそうなの。会える?ええ。そう。じゃあ。」

受話器を置くと、妻は、化粧を直して僕に見向きもせずに出て行ってしまった。

振り返ると、そこには妻が可愛がっていた猫が、新参者に向かって、フーッと唸り声をあげている。

おい。まてよ。

本当の敵は、僕じゃない。


2002年03月18日(月) 僕には分かる。ママはもう戻って来ない。ありったけの蝶の羽を集めて、飛んで行ってしまった。

僕は、小さなアパートで、ママとおじいちゃんの三人で暮らしていた。

ママは昼間はくたびれた顔でぼんやりと過ごし、夜になると、綺麗なドレスに着替えて丁寧にお化粧をして、出掛けて行く。僕は、ママがお化粧しているところを見るのが好きだ。息をつめて眉を描くところ。半開きの口に紅が塗られていくところ。化粧を終えたママは、別人のように活き活きとした顔になり、身のこなしも優雅になる。化粧を終えたらママは出掛けてしまうと分かっていて、僕は、ママが美しく装う姿に見惚れている。

「じゃ、行ってくるから。夜誰か来ても入れちゃだめよ。」

僕はうなずく。

僕は、長い夜をおじいちゃんと過ごす。僕はおじいちゃんが嫌いだ。半分呆けているようで、何か話し掛けられても言っている意味がよく分からないし、とにかくおじいちゃんには腹が立ってしょうがないのだ。

おじいちゃんは、目がよく見えないので、虫眼鏡を持って新聞や本を読む。おじいちゃんは、活字を読むのが大好きだ。暇があれば、虫眼鏡を新聞に近付けてかがみこんで、シワだらけの唇を動かしている。おじいちゃん、意味分かってるんだろうか?

僕は、外で一人で遊ぶのが好きだ。蝶を捕まえて羽をちぎったり、勝手に持ち出したおじいちゃんの虫眼鏡で羽をむしった後の蝶を燃やしたり。

ふと気付いて顔を上げると、おじいちゃんが僕を背後から眺めていたりして、そんな時は、なんだか腹が立って、虫眼鏡を放り出すとおじいちゃんが追い掛けてこられないほど遠くに走って行ってみたりする。

--

一度だけ、ママがいない時、男の人が訪ねて来た。優しそうな人だった。僕が小学校から帰って来ると、その人がニコニコと座っていて、おじいちゃんは相変わらず、お客さんの相手もせずに新聞を読んでいた。

「僕、何年生?」
「2年。」
「ほう。そうか、大きいなあ。」
「ママのお客さん?」
「そうだよ。待たせてもらってる。」

僕は、うなずいて、おじさんの持って来てくれたおせんべいを食べ始めた。

玄関で音がした。

ママはいきなり怒ったような顔で部屋に入って来て叫んだ。

「あんたっ。なんでこんなところまで来たのよ。あれだけ来ないでって言ったのに。」
「きみに連絡が取れなくて。店に聞いて・・・。」
「来ないでったら来ないで。」
「結婚の・・・。返事を聞かせて欲しかった。きみに会いたかった。」
「とにかく、出てってよ。」

ママは、おじさんに飛びついて、殴り始めた。

おじさんは、慌てて部屋を飛び出して行った。

「二度と来んなっ。」
ドアのところで大声で怒鳴ったママは、泣いていた。化粧もせず、乱れた髪で泣いていた。

僕は、あのおじさんがママと結婚するならいいのに、と思って見ていたが、ママはおじいちゃんと僕に、「あの男、二度と部屋にあげないでよ。」と言い捨てて、布団に潜り込んでしまった。

--

僕は、おじいちゃんが嫌いだ。おじいちゃんの虫眼鏡も大嫌いだ。

どうして、僕はこんなにおじいちゃんが嫌いなんだろう。

僕は、おじいちゃんの虫眼鏡を持って外に出る。

外で、蟻が行列を作っている。僕は、日光を集めて、蟻の行く手をさえぎる。それから、アパートの傍らに刈りとって山にしてある乾いた草を焦がしたりして、遊んでいた。

ママが呼んでる。おやつだ。

僕は、そこに虫眼鏡を放り出して、家に戻った。

ママが夕飯の支度だけしていつものように出掛けた後で、異変に気付く。妙な匂いが充満している。

「じいちゃん、火事だっ!」
僕は、おじいちゃんの手を取って、外に走り出る。

アパートの階下が燃えている。

僕達は何とか逃げ出し、アパートが燃えて行く様子をぼんやりと眺めていた。

「じいちゃん・・・。」

その時ようやく、おじいちゃんの虫眼鏡を思い出す。

--

結局、火事は、呆けたおじいちゃんがうっかり起こしたことになって、おじいちゃんは施設に入ることになった。

僕は、どうしてもおじいちゃんの。顔を見ることができない。

おじいちゃんは、ニコニコとして、僕の頭にそっと手を載せると、それからタクシーに乗って行ってしまった。

僕とママは、ママのお姉さんという人のところに転がり込んだ。

残ったママのドレスは、火事があった日着ていた一枚になってしまった。ママは、それを着て、綺麗にお化粧している。それからバッグを持つと、何も言わずに立ちあがって出て行った。

僕には分かる。ママはもう戻って来ない。ありったけの蝶の羽を集めて、飛んで行ってしまった。

僕は、そっと、ポケットに手を入れ、焼け跡から捜し出したおじいちゃんの虫眼鏡の残骸を取り出す。

おじいちゃんは、もう、虫眼鏡がないから新聞を読めない。羽をむしられた蝶のように、そこにいるしかない。

そして、僕も・・・。


2002年03月16日(土) 「ねえ、今、さあ。私とキスしたい?」「おねーさんと?」「うん。」「どうかなあ。あ、いや、したい。」

失恋の痛みを抱えて、僕は自転車で日本列島を回る。人に理由を言えば失笑されるようなことであっても、僕は、一人になっていろいろと考えたかった。

道行く車から声が掛かる。
「頑張れよー。」

たまたま立ち寄ったうどん屋で、おばちゃんがオニギリをおまけしてくれる。
「大学生?うちの息子と一緒だわ。今年の休みは帰って来なかったけどねえ。」

そうやって人々と出会う度に、僕は、持参したノートに、何か足跡を残してもらう。僕が迷い、何かを探そうとした旅の痕跡を形にして持って帰るために。

--

その場所に着いたのは、もうかなり遅い時間。大きな国立公園の中の休息所に腰を下し、僕は、コンビニで買って来たお茶を飲み、弁当を開ける。春先の強い風は向かい風だったため、今日はあまり進まなかった上にひどく疲れていた。

食べ終わると、ランタンの明かりでノートを読み返す。どんなにたくさんの人と出会って痕跡を残してもらっても、離れてしまえばひどく孤独だ。

休息所にいきなり人が入って来たので、僕はものすごく驚く。
「っわ。びっくりしたー。」

女性だった。僕より、少し年上だろうか。ジーンズにトレーナーを着て。
「ごめんね。びっくりさせた?」
「だって、人が来るとは思わなかったから。」
「明かりが見えたから。あなたラッキーだったね。この休息所、いつもは夜になると鍵が掛かっちゃうのよ。変な人が居付いちゃうと困るから。」
「ふうん。」
「今日、ここで寝るの?」
「うん。つーか、おねーさん、大丈夫なの?知らない男がいるとこいきなり来て、平気なの?」
「うん。」
「変なの。」
「なんとなく、大丈夫かなって思ったのよ。」
「俺が男前だから?」
「かもねえ。」
彼女は笑い、それから僕のノートを取り上げると読み始めた。

「会う人みんなに書いてもらってんだ。おねーさんも後で書いてよ。」
「あとでね。」
「俺、大学生なんだ。」
「自分探しの旅?」
「あはは。そんなもんじゃねーって。失恋したから傷心旅行だよ。」
「ふうん。失恋かあ。どしたの?ふられちゃったの?」
「うん。何が原因か、今でも分からないんだ。」
「急に?」
「どうかな。でも、その後すぐ別のヤツとひっついたみたいだから。」
「ふうん。」

彼女は、黙ってノートを読む。

僕は、黙ってランタンの明かりを見つめる。

「キス・・・、かなあ。」
僕は、ちょっと勇気を出して言ってみる。どうせ、行きずりの仲だ。恋愛相談みたいなのも悪くなかろう。

「キス?」
「うん。キス、しなかったからかなあ。」
「そうなの?」
「かもね。そういうの、なかなかできなかったから。どういうタイミングでしていいか分からなかったし。そもそも、して欲しかったのかどうかも分からなかったし。だから、手ぐらいは繋いだんだけど、その先はできなかったんだ。」
「したかったの?キス。」
「そりゃ、もちろん。」
「なのに出来なかったんだ。」
「うん。なんでかなあ。今思えば、わざわざ彼女のほうからきっかけを用意してくれてたみたいなのに、そういうのに気付かないふりしちゃって。だって、初めてなんだよ。どうしていいか分からなかったんだよ。」

彼女は、ふふ、と笑って言った。
「ねえ、今、さあ。私とキスしたい?」
「おねーさんと?」
「うん。」
「どうかなあ。あ、いや、したい。」
「じゃ、する?」
「いいの?」
「いいよ。」

彼女のほうから、僕のそばに座り直してくれて、僕達は、そっと手を繋いだ。

それから、彼女が僕のほうを向いて目を閉じたので、僕は、そっと、彼女の肩を抱いて口づけた。

体の奥が震えて、唇を離しても、もう一度つけたくて、僕達は何度もキスをした。

不思議だ。

僕は、あんなに別れた女の子のことを思っていた筈なのに、今目の前にいる女性に恋しているような気分だ。会ったばかりなのに。すれ違って行くだけの人なのに。

ようやく体を離した僕らは、お互いに吐息をついて、照れ笑いを浮かべる。

「どうだった?」
彼女が聞く。

「うん。素敵だった。ありがとう。」

彼女は微笑んで。
「ねえ。今したいと思ったら、今するのが正解だよね。キス。次はもう会えなくなるかもしれないなら尚更。」
「そうなのかな。」
「今、会って、今言葉を交わして、今触れ合って。そうしないと、その時はもうすぐどこかに行っちゃうものだから。」
「怖いの?」
「そうかも。いつも後悔するの。手遅れだって思うの。なんであの時声を掛けて好きだって言わなかったんだろうって。そういうの、もう嫌なの。」
「もう一回しようよ。」

僕は、今度は自分から体を寄せて、彼女に口づける。長い長い時間、そのまま動かなかった。

「もう、行くね。」
彼女は、体を離すと言った。

「うん。」
「今夜はありがとう。」
「また会えるかな?」
「多分、ね。」

僕は、寝袋に入って、ノート書いてもらえば良かったなあ、と思いながら眠りに就いた。すごくいい気分だった。

--

朝早く誰かに揺り動かされて、僕は飛び起きる。
「警察の者ですが。」
「何ですか?」
「このあたりで、自殺があったんですよ。女性なんですが。最後に見掛けた人を探してるんです。」

僕は嫌な予感がして、警察官と一緒に病院に行った。

僕は、一目みて、それから目を閉じて言う。
「この人、昨夜僕と一緒にいました。」

なんてことだ。

長い時間、警察の人に知っているだけの事を話して、僕は解放された。

今日は、朝からひどく疲れた、と思った。

それから、自転車を押して、僕は歩きながら泣いた。昨日会っただけの人のために。

僕は、生まれて初めてのキスを。彼女は、人生最後のキスを。

昨日交わした。

そのことは、僕の胸に生涯残るだろう。

ノートにいくら書いてもらっても、これほどには残らないだろう恋と切なさを、僕は知った。

だから、今。
キスをしたいと思ったら、今。

彼女の声を思い出す。

分かるよ。


2002年03月15日(金) ああ。だが、これだけは言える。僕は妻を愛している。そうでなきゃ、こんなに傷付くものか。

僕は、小さな村のはずれで美しい妻と二人で暮らしていた。

妻は僕をとてもとても愛していたし、僕も妻をとてもとても愛していたのだが、僕達夫婦の間にはいさかいが絶えなかった。若い夫婦にありがちなことなのだろうが、些細なことでもお互いをとことんまで追い詰め、傷付け合うのだ。

僕は、そんな夜は、くさくさして家を後にし、一晩中、居酒屋で飲み明かす。そうして、夜明け、ベッドの中で頬に涙の跡をつけたまま眠っている妻を見ては胸を痛める。どうして素直に「愛しているよ。」と言えないのだろう。その一言を引き出すために妻はいつも僕に挑みかかり、ずたずたに傷付く。僕は、傷付いた妻を見て、更に傷付く。

若さゆえだろうか。

ああ。だが、これだけは言える。僕は妻を愛している。そうでなきゃ、こんなに傷付くものか。

--

その日も、僕は猟に出た。

朝から派手な喧嘩をして、妻にキスもせずに家を飛び出した。

気分とは裏腹に体のほうは調子良く、僕は思う存分猟を楽しんだ。銃声の響きが、心を弾ませる。

澄み切った空に、猟犬の声が響いた。

僕が仕留めたその鳥は、フクロウだった。フクロウ?と思って顔をあげた時、そこに怒りに震える魔女がいた。

「私の可愛いフクロウを殺したね。」

魔女は、僕にさっと手をかざすと、
「十年間、犬でいるが良い。」
と、恐ろしい声で言って、姿を消してしまった。

ちょっと待ってくれ。

僕は、叫んだ。

その声は、もう、犬のそれだった。なんということだ。僕は、本当に犬になってしまった。

--

ようやく我が家に辿り着いた時、泣き腫らした目の妻が僕を出迎えた。

「あんた、どこの犬?」
妻は、それでも僕を気に入ったのか、家に入れて体を洗ってくれた。

「ねえ。あんた、猟犬ね?あの人を知らない?猟に行ったきり、三日も帰って来ないの。他の女のところに行っても、一晩丸々空けることなんてなかったのに。」

僕は、何とか自分が夫であることを伝えようとするが、妻は気付かない。

「あたしが悪かったのかしら。あんなに怒ったりしたから。」

ワンワンワン。

「うるさい犬ね。私、頭痛いの。そっちの奥に毛布を敷いておいたから、そこで寝てちょうだい。」

妻は、布団に潜りこんだ。

眠れないのだろう。吐息と寝返りの音が一晩中。

--

妻の寂しい繰り言を聞きながら、僕は、僕なりに妻を支えて寄り添った。

そうして、十年。

明日。僕は、犬から人間に戻ることができる。僕は、朝からウキウキしていた。

それから、いつものように妻をベッドに迎えに行き、餌をねだる。

僕は、その日、妻の様子がどこかおかしいことに気付いた。いつものように瞳に宿る悲しみの色も苦しみの色も見えず、どこか遠くを見つめていた。

クウン。

「ああ。ごめんね。ぼんやりしてたわ。」

僕の餌を、いつもより多めに盛ると、妻は微笑んで僕に言った。

「ねえ。私ね。ようやく分かったの。十年待って。待って待って、待ち続けて。それで、ね。あの人のこと。あの人への愛。それは、ずっと憎しみや怒りに支えられて来たんだって分かった。あの人が帰って来たら、どんな風に責めてやろう。とか、そんなことばっかり考えて。でもね。そういうの、間違ってるって分かったの。私、初めて怒りから解放されたの。そうしたら、不思議ねえ。あの人を待つ理由ももうなくなってしまったのよ。」

妻は、ゆっくり立ち上がり、納屋からロープを持って来た。

何をするの?ワンワン。

「ねえ。村の人が、あんたの面倒は見てくれるわ。ごめんね。あんたのお陰で、私、随分幸せだったよ。」

ねえ。行かないで。もう一日だけ。待ってくれよ。

だが、犬の声は届かない。

ガタン。

椅子を蹴る音が響いた。

僕は、激しく鳴いた。誰か来てくれよ。僕は、目の前にぶら下がる彼女の体の前で飛び跳ねて、狂ったように鳴いていた。

--

村の人が訪れた時、僕は人間の姿で、ぼんやりとそこに座りこんでた。

僕は、記憶を失って十年。それから家に戻ったところで妻の自殺に立ち合った不幸な男ということで、村中から親切にされた。

僕は、半分狂った男を演じ、もう半分は本当に狂ってしまった。

時折、身の回りの世話をしに村人が訪れてくれる以外は僕は、その家でぼんやりと座りこんだまま、動かない。だが、危害を加えるわけではないので、村の子供達も、時折遊びに来る。そうして、親に叱られただの、学校でこんなことがあっただの、僕に話しかけてくれる。

ある日、子犬を連れた少女が、僕の元を訪ねて来た。

「今度、越して来たの。」
明るく微笑む少女は、亡くなった妻にそっくりの、亜麻色の髪。

「おじさん、一人?」
「ああ。」
「寂しくない?」
「どうかなあ。」
「私、犬飼ってるの。」
「可愛い犬だ。」

少女は、くるりとこっちを向いて、声をひそめて言う。
「ねえ。犬って、人間に飼われて幸福だと思う?」
「どうかな。僕には分からないなあ。」

だが、僕に関して言えば、犬だった十年が、人生で一番幸せな日々だった。

風を切って走ったり、妻が部屋に入って来た時その匂いを肺いっぱい吸い込んだり。なにより、誰かを好きな時は、思いきり尻尾を振って。

かつて犬だったことがあり、その後人間になった者なら、誰でもそうなんじゃないかな。

微笑む僕を見て安心したのか、「行こう。」と、子犬に声を掛けて、少女は外に飛び出して行った。


2002年03月14日(木) 彼は、私の服を脱がすと、少し乱暴に髪の毛をひっぱって、私の体を荒々しく扱うのだ。私が悲鳴をあげるくらい。

彼ほど頭のイカれた男は、他にいないと思っていた。そんな男の相手ができるのは私しかいないとも思っていた。もちろん、恋愛中って、みんなそんな風に思うものかもしれない。

彼は、いつも車で私を迎えに来てくれて、私が彼の車の助手席に乗り込むと、彼はすぐさまズボンのジッパーをおろして、
「咥えろ。」
と言うから、私は、彼の言いなりに、頭を沈める。

彼は、片手で運転しながら私の頭を撫で、いろいろとささやいて褒めてくれる。

そんなわけで、私は、彼といる時は、一度も外の景色を見なかった。彼と一緒にいる記憶には、いつだって季節の記憶はなかった。

彼は、最初から私のことを好色な女のように取り扱っていたし、私はとまどいながらも、それは嫌ではなかったので必死で応えようとした。つまり、そんな男は珍しいのだ。滅多にいないのだ。女の好色さを本気で褒めることのできる男は実際のところそんなにいなくて、それは才能と言っても良かった。

三十歳を目前にしてそんな男に出会ってしまったら、もう、それは運命と思って落ちて行くしかないのだ。運命の導くまま、その暗い場所へ。

--

彼は、私が派遣社員として行った会社にいた。独身で。とりわけハンサムというわけでもないし、小柄だが、その筋肉質の体はいつもエネルギーに溢れているように見えた。

彼が、すれ違いざまに私に電話番号を書いたメモを渡して来たのは、最初に会ってから間がない頃、すぐだった。

「電話して。」
と、笑った。

私は、
「え?」
と、答えて、とまどっている間に、もう、彼は行ってしまった。

最初は放っておこうかと思っていたのに、そのメモの番号に電話をしてしまったのは、彼に対する興味がおさえられなかったから。

「絶対電話くれないと思ってたよ。どうしたの?」
と、彼があんまり嬉しそうな声を出すのに、私は
「どうしてって・・・。退屈だったから。」
と、そっけなく答えるしかできなかった。

車で迎えに来てくれた彼は、ジーンズ姿だった。私の格好をしげしげと眺め、
「一応、きみがもっとお上品な格好してたら困るから、スーツも用意してたんだぜ。」
と、笑った。

それから、たくさん食べて、たくさん飲んで。

彼が、「外、歩こうか。」と行った。

私は、うなずいて。

手をつないだ。

夏の夜で、星がきれいだった。それが、最初で最後の、彼との季節の記憶だったように思う。

--

彼が離婚して、よそに子供がいることを知ったのは、彼と付き合い初めて三ヶ月くらい経った頃だろうか。彼は、その頃には、私と会っている時、いつも自分の部屋で飲むようになっていた。飲み過ぎるようになっていた。私は、それをハラハラして見ていた。

「なかなか言えなくてさあ。」
と、彼は、過去のことを切り出した。

「なんだ、そんなこと?」
私は、笑った。だって、そんなこと、私は全然気にしなかった。むしろ、彼が、一人の男としての悲しみを抱えて生きていることに安堵したくらいだった。

「こんな俺でもいいか?」
私はうなずいた。

「そうか。いいか。」
彼は、嬉しそうに私を抱き締めた。

「なあ、俺達、運命によって結ばれてんだろうなあ。俺、こんなに相性のいい女って初めてだよ。」
「ねえ。一つ聞いてもいい?」
「ああ。なんだ?」
「どうして離婚したの?」
「うるさい。」

途端に、頬に痛みが走った。

え?

と思った。

「それは、俺と前の女房の問題だ。お前が口を挟むな。」

そうして、彼は、私の服を脱がすと、少し乱暴に髪の毛をひっぱって、私の体を荒々しく扱うのだ。私が悲鳴をあげるくらい。

ぐったりした私に、彼は言った。
「もう、あんなこと言うなよ。お前がお利口にしたら、俺は精一杯愛してやるから。」

それから、
「どこにも行くなよ。」
と、私を抱き締めて、泣いたのだ。

きっと、彼は、最初からどこかおかしかった。

私は、そんな彼を受け入れて生きて行くしかなかった。

こんな男に出会ってしまったら、私は、どうやって彼から逃れられようか。

彼は、少しずつ私を手荒に扱うようになっていたし、唐突に怒るようにもなっていた。だが、どこか狂ったその愛撫から、私はもう逃れられない。

そうやって、私達は、苦しんで苦しんで愛し合った。

それなのに、終わりは唐突にやってくる。

--

「娘が、今度小学校に上がるんだ。」
「ああ。離婚して、奥さんが引き取ってるんでしょう?」
「それで、妻から連絡があった。片親じゃ可哀想だから、よりを戻してくれって。」
「どういうこと?」
「今までのこと、謝るからって。」
「私はどうなるの?」
「あいつ、男がいたんだよなあ。」
「そんな人のところに、戻るの?」

彼は聞いていなかった。

奥さんを失った苦しみからあんなに私を求めたくせに、今、もう、娘のいる生活を夢見ている。

「俺、酒やめるよ。」
「勝手にすれば。」

私は、彼の前で泣くことだけはすまいと、必死にこらえて外に出た。

空気は、まだ冷たかった。

春のせいだ。と思った。

季節も見ずに愛し合ったのに、春のせいで何もかもが終わった。

それから、彼の車のフロントガラスに口紅で「バカ」と書いて、携帯電話を川に投げ捨てた。

狂った季節の終わりだった。


2002年03月13日(水) 私は、本当は猫なんか欲しくなかった。だけど、夫を喜ばせるために、嬉しそうなふりをした。

「いってらっしゃい。」
私は、玄関まで夫を見送る。

「ああ。行ってくるよ。今日も遅くなるからさ、先に寝てていいよ。無理しなくていいから。」
「ええ。でも、なるべく早く帰って来てね。」
私は、今日も一日「ソレ」と向かい合うのが憂鬱で、いっそ行かないでと言いそうになるのを抑えて、笑顔で手を振る。

夫が仕事に行ってしまうと、私は、財布を握って車に乗り込み、少し離れたコンビニでお菓子をたくさん買い込み、急いで家に戻る。そうして、テレビの奥様番組を見ながら、買って来たお菓子を、次々に口に入れる。買っただけ、ありったけ。

もう、喉元まで食べたものが押し上げて来そうになったところで、水を飲んで。

私は、トイレに駆け込んで、食べたものを全部吐く。

今日は随分と楽に吐くことができた。きれいに吐くことが。簡単な時は、するするっと吐くことができるけど、うまくいかない時は指を入れて吐く。これは少し苦しい。私は、儀式を終え、安堵して部屋に戻り、部屋中に散らかったお菓子のパッケージを拾い集めて掃除する。

この儀式は、毎日ニ時間はかかる。面倒だと思いながらも、食べずにはいられないし、食べたら食べたで太るのが怖くて吐きたくて落ち着かない。だから、毎日の儀式。

やっと儀式を終えた私を、「ソレ」が部屋のすみからじっと見ている。

--

男は、仕事を終えると女の部屋に向かった。

「約束通り、来ましたよ。」
「やだ、本当に来てくれたの?」
「あたりまえだろう。」
「まだ、結婚して半年しか経ってないのに、よその女の誘いに乗っちゃうなんて。私、結婚を考えちゃうわ。」
「そうそう。きみは、結婚なんかしないほうがいいよ。」

女は、グラスを二つ並べる。
「今日は、ゆっくりしてってくれるの?」
「ああ。」
「嬉しいわ。」

女は、本当に嬉しそうに笑った。

男はネクタイをゆるめながら、自分はなんでこんなところでぐずぐずしているのだろう、と考える。あれだけ言っても、どうせ妻は起きて待っているに違いない。分かっていて、帰りたくないからこうやって寄り道をしてしまう。

「ねえ。ワイン開ける?」
女は、男の首に手を回してくる。いい匂いがする。

「さきにきみを味わおう。」
男は、女の首に口づける。

「せっかちねえ・・・。」
女は、吐息をもらす。

帰りたくないのは「ソレ」が待っているから。

男は、考えないようにしようと、女の細い腰に手を回す。こんなにいい女を差し置いて、なんで結婚なんかしたんだろう。あの時は、結婚という言葉の魔法に掛かっただけなのだ。男ですら、一時の熱に浮かされることはある。

--

男が帰宅すると、妻は、相変わらずぼんやりした顔で、テレビから流れる海外のテレビショッピングを眺めている。

「おかえりなさい。」
「先に寝ててくれたら良かったのに。」
「ご飯は?」
「食べて来た。」
「じゃ、お風呂になさる?」
「ああ。」

妻が起きて待っていることにむしろ苛立ちながら、男は浴室に入る。「ソレ」は、浴室の隅で、じっと男を見つめている。

--

「きみにプレゼントがあるんだ。」
夫が、言う。

「あら。何かしら。」

夫が差し出したものは、小さな子猫。震えている。

「可愛いわねえ。これどうしたの?」
「会社の同僚がくれたんだ。実は、前から頼んであったんだよ。きみが昼間一人じゃ寂しいだろうからね。」
「嬉しいわ。」
「気に入ってくれた?」
「ええ。」

私は、本当は猫なんか欲しくなかった。だけど、夫を喜ばせるために、嬉しそうなふりをした。

「明日、早速、猫のものなんか買ってくるわね。」
「ああ。そうするといい。」

翌朝、私は猫の世話をしているふりをして、夫を起こさなかった。

起きてきた夫は、私が猫を可愛がっている様子を見て、満足そうに微笑んだ。

「あら。あなた、おはよう。ごめんなさいね。騒がしくて。」
「いいんだよ。」
「この子ねえ、キャットフードとか、食べないのよ。」
「猫も、好みってものがあるんだろう。」

私は子猫を抱いて、夫を玄関まで見送りに出た。

「早く帰って来てね。」
「ああ。」
「いってらっしゃい。」

--

夫が出て行ったのを見計らって子猫を床に放り出すと、私は、いつもの儀式を行うために財布を握る。

「待っててね。」

私は、いつものようにお菓子をたくさん買い込み、帰宅する。子猫のことなど忘れて、私は食べられるたけ、口にものを積め込む。

どうも落ち着かない。ああ。猫がこっちを見ているんだ。

「あっち、行きなさい。」
私は、イライラして、猫にお菓子の箱を投げ付ける。

まったく、なんて猫だろう。私を監視してるみたいだ。

私は、猫に見られるのが嫌で、トイレに鍵を掛けて、吐く。

トイレのドアを開けると、そこに猫。

「また、あんたなの?」
私は、カッとなって、猫の首を強い力で握った。

「あんたが悪いのよ。」
猫は、ぎゅうっと音を立てて、動かなくなる。

それをソファの上に放り出して、それから、部屋を掃除する気力もなく、私は、眠る。なんだか、とても疲れているようだ。一日家にいるだけなのに。

何時間眠っていただろう。もうすっかり夜だ。

電話が鳴っている。

そばに、猫の死体が転がっている。お菓子のパッケージも散乱している。今、ここに夫が帰って来てくれたら、もうずっと何かが間違っていることをちゃんと言える筈なのに、夫は帰って来ない。

「可哀想に。お腹が空いてたのね。」
私は動かない猫に、つぶやく。

電話が鳴っている。

今日も遅くなる、というのだろうか。

相変わらず「ソレ」が部屋の隅から私を見ている。結婚の憂鬱という名の「ソレ」が。


2002年03月12日(火) きみ、子供だろう?そんな鼻にかかった声出しちゃ、まるでそこいらの素敵なお姉さんみたいに思えちゃうよ。

付き合って間がない彼はどこかおかしなところがあって、それは嫌な風におかしいというよりは、私はそんなところが大好きなのだった。まだ、どんな風に甘えればいいか、どんな風に素直になればいいか、分かってない時期の、そんなお話。

私は、寂しくて、彼に会いたくて、電話をした。

電話の向こうで、彼は「どうしたの?」と訊ねた。

私は、寂しいと言うと、彼に手の内を見せるように思えて、ちゃんと言えなかった。
「今、何してたの?」
「僕?飯食って、くつろいでた。きみは?」
「退屈してたの。だからね、何かお話を聞かせてよ。」
「お話?」
「うん。どんなのでもいいわ。」

彼は、少し電話口の向こうで考えていた。
「分かった。じゃ、テレフォンセックスをしよう。どう?」
「え?ヤだよ。」

私は、以前、付き合っていた相手のテレフォンセックスに一回だけ立ち合ったことがある。その時は、最初から最後まで、相手が一人で何かつぶやき続け、私はこっちで困惑して受話器を握っていただけだった。

「いいからさ。やったこと、ない?」
「あるけど・・・。」
「じゃ、目をつぶって。」

私は目をつぶった。

「僕の言うことを想像して。ここは森だよ。」
「森?」
「うん。少々薄暗い森。」
「怖いわね。」
「きみは、赤い頭巾をかぶっている。手には、ワインとビスケットの入ったカゴ。小さいけれど、勇敢な女の子だ。」
「それって、赤頭巾ちゃん?」
「きみはお婆さんのところにそれを持って行くのに、森を通り抜けていかなくちゃならない。」
「ねえってば。」

私は、もしかしてこれはテレフォンセックスじゃなくて、私が最初にねだったお話のほうなのかなと思った。

彼は私にかまわず、続けた。
「薄暗い森の中は、大きな一本道を間違えずに歩いて行けばいいだけだ。赤頭巾は、不安だったけど、勇気を出して歩いて行った。だがふと気付くと、後ろからはぁはぁと何やら息が聞こえる。」
「おおかみ?」
「ううん。クマだった。後ろを振り向くと、クマがいた。大きな体のクマ。どう?」
「怖いわ。」
「クマは、慌てて言った。僕は何もしやしないよ、大丈夫さ。ただ、一緒に歩きたいだけだよ、って。どうする?」
「一緒に行くわ。」
「じゃ、一緒に行こう。」
「クマは言った。そのカゴ、何が入ってるの?」
「お婆さんのところに持って行く品よ。」
「ちょっと、そこいらに座って休憩しない?」
「駄目よ。先を急ぐもの。」
「だけど、その時、薄暗い森がほとんど真っ暗になって、雷が鳴ったかと思うと、雨が降り始めた。」
「やだっ。」
「クマは、こっちだよ、こっちに雨宿りする場所があるよと、きみの手を引っ張った。」
「怖いわ。」
「大丈夫、僕がついてるからね。と、その洞穴に入った時は、もう、最初に歩いていた一本道からは随分逸れてしまった。」
「服がビショビショね。」
「きみ、濡れた服脱いで乾かすといいよ。と、クマはタオルを差し出した。」
「ねえ。何でクマがタオルなんか持ってるのよ。」
「そのほうが気持ちいいだろう?そこはクマの家だったんだよ。さ、服、脱いじゃいなよ。」
「ねえ。何か変なことする?」
「まさか。きみ、子供だろう?」
「分かったわ。」

私は服を脱いだ。ああ。もちろん、想像の中で。

脱ぎ終わると、クマは、ファサッと、大きな、よく乾いたタオルを肩から掛けて包み込んでくれた。

「ねえ。ここで一人で住んでいるの?」
「うん。お嫁さんが欲しいのだけれど、まだ出会えないんだ。」
「素敵なおうちね。」
「そうさ。大概のものは揃ってる。あとは、お嫁さんだけ。」
「ふふ。よっぽどお嫁さんが欲しいのね。」

私は笑った。クマは、暖かいミルクの入ったカップを持って来てそばに置くと、タオルの上から私をそっと抱いて、肩を撫でた。

「ねえ、私が大人になるまで待っててくれる?」
「それで?」
「私がお嫁さんになってあげるわ。」
「まさか。きみが?僕は、クマだぜ。分かってんの?」
「うん。でも、なんかいいなって。こういうの。」
「そんな風に期待させないでよね。僕は、寂しがり屋のクマだから本気にしちゃうよ。」

クマは、濡れた鼻を私の耳に押し付けた。

「ねえ・・・。」
「駄目だって。きみ、子供だろう?そんな鼻にかかった声出しちゃ、まるでそこいらの素敵なお姉さんみたいに思えちゃうよ。」

私は、黙ってクマの膝で揺れていた。ゆらゆら。

耳元で、クマが素敵な話を聞かせてくれる。春になって、小さな花の蜜を味わうこととか。魚だって、生臭いのが嫌いだったら火を使って料理するから、また遊びにおいでよとか。

そんな話をゆらゆら。

--

「どうだった?」
「え?」
「テレフォンセックス。そんなに悪くなかっただろう?」
「・・・・。」
「怒っちゃった?」
「ううん・・・。あの、ね。」
「なに?」
「今からあなたのところ、行ってもいい?」
「いいけど。」
「あったかいミルクをいれてくれる?」
「いいよ。それから、きみは子供じゃないから、いっぱいいろんなこと、しよう。」

私達は、クスクス笑い合う。

彼は、まったく不思議な恋人だ。私は、見事にその気にさせられて。

「待ってて。すぐ行く。」
素直に言えた。


2002年03月11日(月) 雑踏の中に、彼女を見かけた。春色のニットを羽織った彼女。うつむいた顔は泣いているように見えた。

部屋を激しくノックする音がする。

女の子は、面倒臭そうに僕のトレーナーを羽織り、玄関に向かう。

「ねえ、お客さんよ。」
「僕に?」
「うん。」
女の子は、あくびを一つして、またベッドに潜り込んでしまう。

そこにいた女性は、グレーのスーツを着込み、顎で切り揃えたボブの髪。知らない女だった。
「ヤマノイさんですね?」
と、問い掛けてきた。

「ええ。そうですが?」
「奥様に頼まれて来ました。」

やっぱり・・・。
「はあ・・・。」
「ゆっくりお話できる場所、あります?」
「じゃ、ちょっと出ましょう。このマンション出たところに、すぐ喫茶店がありますから。」

--

「で?」
「今日は奥様の代理人ということで参りました。」
「こんなところまで追い掛けてくるなんて思わなかったな。どうして分かったの?」
「私、私立探偵のようなこともしていますから。」
「まいったな。」
「単刀直入に用件を言います。別れて欲しいそうです。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。」

僕は、慌てる。なぜだろう。妻は決して僕と離婚するなどとは言わない女かと思っていた。今までだって、似たようなことは何度かあったが、そのたびに、「あなたの病気みたいなものよね。」とため息をついただけで終わっていたのに。

「奥様から伝言です。読みます。『今まであなたに振り回されてばかりだったけど、それは間違いと気付きました。これからは、自分で自分の幸せを掴もうと思います。さようなら。』
以上です。」

僕は、混乱して、どう答えていいか分からない。

「あんたの差し金か。あんただろう。彼女に離婚を勧めたのは。」
「まさか。」
「ちょっと待ってくれよ。僕は、別れたくない。そう伝えてくれ。」
「今日で何日目ですか?」
「は?」
「今日で、家を空けられてから何日ですか?」
「さあ。知らない。」
「二十三日目です。奥様は、連絡もなしに帰って来ないあなたを待ってたんですよ。」
「ああ。だが。離婚はしたくない。どうしたらいいだろう?」
「ゆっくり考えてください。また、明日伺います。」
「ちょっと待ってよ。」
「それから、私の連絡先。何かありましたら、いつでも電話してください。」

僕は、彼女が伝票を持ってレジに向かうのをぼんやり眺めていた。ここのコーヒー代も経費だろうか、とか、彼女の脚はなんて綺麗なんだろう、とか、そんなどうでもいいことを考えていた。

手元には何の肩書きも刷られていない、名刺が一枚。

--

次の日は、仕事帰りに彼女と会った。

「そんなに簡単には決められないよ。」
「でも、奥様は急いでおられます。」
「きみ、結婚してるの?」
「私のことは関係ありません。」
「結婚してたら分かるだろう?結婚は、一日や二日で解消できるもんじゃない。」
「私は、ただ、奥様に頼まれて事を進めているだけです。」
「酒でも飲まない?」
「私は飲みませんけど、ヤマノイさんが欲しいなら、どうぞ。」
「じゃ、ビールでも飲もうかな。」

別に、彼女や妻を困らせようというつもりはないが、本当にどうしていいか分からないのだ。
「僕は、どうしたいのだろう?」
彼女に聞いてみる。

「分かりませんわ。」
「僕は、いずれ妻のところに戻りたいと思ってる。」
「それは、恋なんですの?」
「恋?どうだろう。」

恋とはまた、ひどく甘ったるい言葉だ。

「探偵さんなんだから、僕の気持ちを推理してよ。」
僕は、笑った。

「また、明日来ます。」
彼女は、席を立つ。

--

僕は、そうやってのらりくらりと逃げ回った挙句、ついに、離婚届に判を押した。

「これで、きみもようやく依頼主に顔が立つというわけだ。」
「これから、どうしますの?あの女性と結婚なさるの?」
「まさか。結婚を考えるような女じゃないよ。もう、あそこは出るよ。狭いところだけど、部屋を借りた。」
「残念な結果ですわね。」
「残念?」
「ええ。」
「どうせ、これが仕事だろう?」
「ですけれど、結婚が駄目になるなんて悲しいですわ。」

彼女が伝票を取り上げようとする手首を、慌てて僕は掴む。

彼女は、驚いて僕を見る。

「いろいろ迷惑掛けたし。今日は僕が払うよ。」
「すみません。」

もう、彼女と会うことはない。

僕は、彼女の後ろ姿を見送った。

--

空っぽの日曜日。

僕は、ぼんやりと、ショウウィンドウを見て回る。雑踏の中に、彼女を見かけた。グレーのスーツじゃなくて、春色のニットを羽織った彼女。うつむいた顔は泣いているように見えた。

泣くような女性じゃない筈なのに。

僕は、声を掛けようとして、ためらう。

もう、会う理由はない。

--

部屋で、彼女の名刺をいじくった挙句、僕は電話をする。

「はい。」
彼女の声。

「僕だけど。ヤマノイ。」
「ああ。」
「今日、きみを見掛けた。」
「そうですか。」
「きみに依頼があるのだけれど。」
「なんでしょう?」
「恋の依頼。」
「そういったことは・・・。」
「頼むよ。ひどく入り組んでいて、どうしていいか分からない。この前みたいに力を貸してよ。」
「明日、伺います。」

--

彼女は、もう、グレーのスーツは着ない。

「僕の依頼。聞いてくれるんだろうか?」
「今回はご自分で解決なさったほうがいいですね。私が手を貸すことじゃありませんわ。」
「残念だな。」
「ねえ。凶悪犯罪者が無罪放免になったら八割の確率で同じ犯罪を繰り返すって、ご存知でした?」
彼女は、少し意地悪く微笑む。

「それ、僕のこと?」
そうだ。僕は、代償を払わず、人の心を略奪して踏みにじって来た。

「もう行きますわ。」
「待ってよ。手がかりは?手がかりだけでも。」
「あの日の涙。」

彼女は、伝票を僕の前に押し出すと、立ち上がる。

いつか、僕はそれを探し当てることはできるだろうか。

僕は、手錠を掛けられたくて泣きたい気分だった。


2002年03月10日(日) 女の子の体をどう取り扱っていいか分からないように動くから、私は余計に溢れ出す声が抑えられないのだった。

騒がしいからゆっくり話ができるところに行こうよ。と、私から言った。彼は、うなずいて、私の背に軽く手を回して店を出た。

「私の部屋に来る?」
と、訊ねた。

「いいの?」
と、その美しい青年は言った。

「うん。」
私は、彼なら構わないと思った。

彼は、私の話を聞きたいと思ってくれているようだったし、彼ほど美しい顔立ちの人は、普通、人の話を聞きたいなんて思わない筈だから、私は彼に興味を持った。

「散らかってるけどさ。」
部屋に入ると、私は少し照れて言った。

「いい部屋だね。落ちつくよ。」
「あ。お茶いれるね。コーヒー?紅茶?」
「僕、いいや。水、ある?」
「あるよ。」

私は、グラスを二つとペットボトルを抱えて、彼の横に座った。

それから取り留めのない話をして。

彼は、そっと私の肩に手を回して来た。

私は、彼の顔を見つめるのだが、その顔には欲望が浮かんでいるのかどうか、よく分からない。ただ、彼の目は妙に悲しそうで、その美貌と似合わない。

ゆっくりと彼の体重がかかるのを感じながら、私は訊ねる。

「ねえ。どうしてそんなに悲しそうなの?」
「まだ、馴染んでないからだよ。僕が、僕に。」

それから、彼は私の唇をふさいで、その指は、私の服の下にそっと潜り込んでくるのだが、困ったことに、私は全然彼の欲望に応えられない。彼も、すぐにそれに気付き、困惑したように手を引っ込める。

「ごめんね。今日、私、疲れてんのかな。駄目みたい。」
「気にしないで。」
「ねえ。何かが違うのよ。どっか変なの。あなたのどこかが。それが気になって、抱かれることに没頭できないの。」

彼は、私を見て不安げに訊ねた。
「分かるの?」
「え?何が?」
「僕のこと。おかしい。そんなの、初めてだよ。きみが初めて。」
「だから、何が?」
「僕のこと、嫌いにならないでよ。」
「分かってるって。」

彼は、背中に手を回すと、ジッパーを下す仕草をした。

「むこう向いててよ。」
「うん。」

もそもそと音がして、「いいよ。」という声が聞こえたから振り向くと、そこには醜い生き物がいた。毛むくじゃらで、ただれた皮膚。体のあちこちにあるかさぶた。

そばには、脱ぎ捨てられた、美しい「皮」。

「まったく、きみには分かっちゃったんだね。ひどい姿だろう。」
と、彼は悲しげに言った。

私は、首を振って、彼の体に触れた。彼は確かに醜かったが、彼の姿と彼の瞳はよく似合っていて、それは、隠しようもなく彼そのものだったから、私はなぜか感動したのだった。

彼は、私の反応を気にしながら、私の体に手を回した。

私の下半身から欲望がジワッと滲み出て来て、私は深いため息をついた。

彼は、私の表情に安心したように、私の体を多少乱暴に抱きかかえると、ベッドの上で、私の体を点検し始めたから、私は余計に我慢できなくなる。

「ほくろが、いい。」
彼は、私の背中に口づけながら、つぶやいた。

「ほくろだけ?」
と、私はくすくす笑った。

背後から口づけられても、彼の体を覆う毛が私をくすぐって、それが妙に興奮を掻き立てる。彼の指はごつごつして太く、女の子の体をどう取り扱っていいか分からないように動くから、私は余計に溢れ出す声が抑えられないのだった。

そうやって私達は、ごく自然に抱き合って、お互いの高まりを伝え合った。

明け方になって、うとうとする私から体を離すと、彼は、ゴソゴソと、また、彼の皮を身につけ始めた。

「どうして?」
寝ぼけた声で私は訊ねた。
「そのままでずっと素敵なのに。」

「そんなことないって知ってる癖に。人は、もっと分かり易くて美しいものを求めるんだ。僕は、ずっと美しくなかったから、よく泣いていた。でも、泣いていては大人になれない。」

彼は、それから、私の頬に口づける。私は眠たくて目を開けていられなかったのだが、その美しい皮膚の向こうに本当の彼がいて、その彼が口づけてくれたのだと思うと、安心できるのだった。

ぱたん。

ドアが閉まった。

私は、深い眠りに落ちた。

--

もう、彼とは二度と会えない。あの店にも。雑踏の中にも。あの美しい皮膚からのぞく悲しい瞳を見れば、私にはすぐ分かると思って、探すのだけれど。

もう、彼とは会えない。

それから。

私は、時折、そっと自分の皮膚に手を触れる。

どんなに隠しても、その揺れるものが他人から見透かされて馬鹿にされてやしないかと、皮膚を撫でる。

私も、こんなもの脱いで抱き合えば良かった。


2002年03月08日(金) あの夜、彼に抱きかかえられて、彼女の豊かな黒髪が彼の顔へと流れ落ち、初めて交わした口づけと。

もう、そろそろね。でも、まだ少し時間がある。

彼女は独り言のようにつぶやく。

最後の時は、あなたにとって随分と長かったでしょう。でも、それも、これまでの時間に比べればほんの一瞬。

彼女は、優しい目を向けて、ゆっくりとひとつひとつを思い出すように話し掛ける。

--

知っているでしょう?

私は、幼い頃、裕福な家庭に生まれ、何不自由なく暮らしていた。とてもわがままに育っていたの。癇癪持ちで、物事が思うようになったら、怒って暴れて。本当に嫌な子供だった。それでも、私の両親は金持ちだったし、私は美貌に恵まれていたから、みんな私の言いなりになっていた。あの頃は、世の中が何でも思い通りに動くと信じていたの。

友達と呼べる存在は、今まで一人もいなかった。せめて、心を打ち明けて語り合える友達の一人もいれば、今頃何かが変わってたかもしれないのに。

でもね。私は、すばらしい伴侶を得ることができたの。

ええ。私には過ぎた素晴らしい人が、私の夫となってくれた。彼と出会って、私は初めて、人を愛するということを知ったの。彼は、辛抱強く、跳ねっかえりの私を愛してくれた。彼から、根気や、忍耐というものも教えてもらった。

私は、結婚して、双子の赤ちゃんを生んだの。けれど、私自身、まだ子供だったから、子育ての始めの頃は、赤ちゃんと一緒に泣いてばかりだった。世話は、周囲の者に任せて、私は逃げてばかりいたわ。なんて厄介で、訳の分からない生き物、ってね。

でも、ね。彼は、そんな私と赤ちゃん達を心配して、仕事を早めに切り上げては、私達のそばにいるようにしてくれていた。

たとえば、赤ちゃんが夕方になると、なぜだかぐずぐずと泣くでしょう?私は、それだけで苛立って、耳を塞いでしゃがみ込んでいたの。だって、ミルクもあげた。おむつも替えた。じゃ、何だって言うのよ?ってね。そうしたら、彼がやって来て。赤ちゃんより先に私を抱き起こして、それから、「ちゃんと聞いてごらん。」って言ってくれるの。「僕らのベイビーは、眠たくなって不安がっているよ。」って。「目も見えなくて、大好きな人の匂いもしなくて。それなのに、暗闇が待っていたら、誰だって不安だろう。」って。

私も、不安だったのね。いつも、彼に付いて回った。

私の愛らしい双子。男の子のカイの優しい茶色の目は、彼そっくり。女の子のケイの黒くてきりっとした眉は私そっくり。二人とも、本当に元気で、思いやりがあって。二人を膝に載せて絵本を読んだ時のこと、今でも思い出すの。今頃どうしているかしら。カイは、医者になるために大学に行ったと聞いたわ。きっと、父親の勇気とやさしさを受け継いで立派な医者になったことでしょう。ケイは、渡米して、向こうの研究者と一緒になると聞いたけれど、今頃は可愛い子供をたくさん産んでいるかもね。

ねえ。

私は、たくさんの素晴らしいものに恵まれて、幸せだったのよ。本当に。

あなたに会うまでは。

あの日、あなたに会った。知ってるの。あなたがどうして私に興味を持ったか。何もかも手に入れた幸福そうな人妻が気に入らなかったのでしょう?壊したいと思ったのでしょう?

結局、あなたの思い通りになったわね。

私は、何もかも失った。ありあまる財産も。優しい微笑みも。無邪気な笑い声も。

全部全部、失くしたの。

ねえ。それを、「お前が勝手について来たのだろう。」なんて言わないわよね。あなた知ってて。私の気持ちを知ってて、それを利用しようとした。私が逃げようとすると、巧みな言葉で私の気持ちを揺さぶった。どちらの罪が重かった、なんて、誰に言えるかしら。私達は、お互いを傷付け合い、お互いを決して離そうとしなかった。

でも、こんなこと、言って聞かせるのも、もう最後ね。

喪失の過程は随分と長かった。

ようやく、終わりにできるの。初めて、私は私の運命を自分で決めるの。

--

白髪の老婆は、たとえようもなく優しい目で、ベッドに横たわった老人を見つめる。

老人は、震える両手を合わせ何かを懇願しているようにも見えたが、その唇はカサカサに乾き、声を出す元気もないようだった。

「そろそろよ。」
老婆は、微笑み、老人の手をそっと撫でる。

老婆は、手にした錠剤を口に含む。それを見た老人は、観念したように、目を閉じる。

老婆は、ゆっくりと身をかがめる。

最後の。

優しい夫と、愛らしい子供達を家に残して、彼女が彼の元へと走った、あの夜。あの夜、彼に抱きかかえられて、彼女の豊かな黒髪が彼の顔へと流れ落ち、初めて交わした口づけと。

老婆の顔が、老人の顔へと、重なる。

「変わらないでしょう?あの夜と。」
老婆も目を閉じる。恋だけが、変わらぬ炎の色で、まぶたの裏で燃えている。

さあ、行きましょう。唯一、手元に残ったものを胸に。


2002年03月07日(木) 彼は、やさしい。ずぶずぶと私の全てを受け入れて甘やかす。拒絶するかと思ったのに、やさしく口づけてくれた。

なぜ、好きなの?

と、我が身に問う。

なぜ、あの人でなければいけないの?

と。

答えはいつまでも出ない。多分、答が出ないくらい、好き。やさしいから好きとか、顔が好みだから好きとか、そんな風に理由が分かるから好きな人は沢山いるけど、多分、彼のことを好きな理由はどこからどこまでと言えないほど。

理由を考えている時間すら、甘い。

--

「じゃあ、次はミホちゃんと踊ろうかな。」
と、結婚式の二次会でスローな音楽に変わった時、新しく兄となった人が私の手を取った。

「行ってらっしゃいよ。」
姉が微笑んだ。

姉は、私が姉の急な結婚に驚き腹を立てていたのを気にしていたのだ。

「うん・・・。」
しぶしぶと立ち上がると、義兄は本当に嬉しそうに笑った。

「許して欲しいんだ。僕とお姉さんのこと。」
「分かってるよ。私がとやかく言うことじゃないんでしょう。」

いい歳をして、すねている自分が恥ずかしかった。

「月並みな言い方だけど、妻と妹が一度に出来て本当に嬉しいんだ。これからは、お兄さんとしていろいろ相談してもらえると嬉しいよ。」
と、彼は微笑んだ。

曲が終わると、彼はごく自然なしぐさで私の手を口元に引き寄せ、唇をつけた。
「ありがとう。嬉しかったよ。」

私は、はっとして手を引っ込めると、誰か見ていたんじゃないかと姉達のほうに目をやった。そうして、誰も気付いてないのに安心して、席に戻った。

「おめでとう。」
私は、その時初めて、笑顔で姉を祝福することができた。

--

今思えば、私は、姉が結婚すると言い出した時から危険を感じていたのだ。あの冷静な姉が、一刻も早くと結婚を急いだ時から。姉を狂わせた何かを、危惧していたのだ。

私は、仕事の相談と称して義兄と過ごすようになった。姉が彼の帰りを待っているのを気に留めつつも、彼と話をしているのが楽しかった。とりとめのない話。なのに、楽しくて楽しくて、しょうがなかった。

随分と飲んでしまった夜、初めて、彼に体を預けて
「帰りたくない。」
と、駄々をこねた。

「しょうがない子だね。」
彼は、やさしい。ずぶずぶと私の全てを受け入れて甘やかす。

拒絶するかと思ったのに、やさしく口づけてくれた。新婚さんのくせに、と、心の中でつぶやいてみるが、彼に手を引かれて、もう私は、チークダンスの時と同じように彼に体を委ねて心地良い。

危険なのは、彼のやさしさ。

「悪い子だ。僕をこんな風にして。」

それはそっくり、私の台詞。

彼の手つきには、荒々しいところがまるでない。それはそれで、悲しいのだった。私を支配しようとしない。私になにものをも誇示しようとしない。ただ、受け入れるだけの愛。

--

義兄と姉に子供が生まれた時、私は人知れず涙を流した。

「嘘吐き。」
とつぶやいてみるが、本当は分かっている。彼は嘘はついていなかった。

姉のことも愛していると言いながら、私を抱いていた。それでもいいからと、足を踏み入れたのは、私の意思。

一年が過ぎて行く。

いっそ、私を拒んでくれたらと恨みながらも、月日が流れる。

--

いつものように抱き合った後。

「娘の誕生日だから。」
と、いつもよりずっと早い時間に私のアパートの前に車を停める。

雨が降り始めている。

いつになく、ぐずぐずしている私。

「どうしたの?」
彼は、少し困ったように、私に訊ねる。

雨が随分と激しくなった。ワイパーを動かさないでいると、まるで雨のカーテンがひかれたように、私と彼は、この夜、二人ぼっちのような気がした。

そう。ここから出たくない。ずっと二人でいたい。でないと、あなたは自分からは私の手を取ってはくれない。

今、姉も、姪も、私にとってはただの障害物でしかなかった。

「何でもない。後で、プレゼント持ってうかがうわ。」
私は、急いで車を降りる。

そう。あとで、プレゼント。

私と、あなたに、プレゼント。

優しい姉と愛らしい姪に、柔らかいヌイグルミじゃなくて、するどい刃物のプレゼント。


2002年03月06日(水) あなたのきらめく瞳を私の元に少しでも長く留めておくためなら、私は何でもしよう。何でも投げ出そう。

「全部やり直してちょうだい。」
私は、ため息をついて、報告書を全部投げ返す。

目の前の男性社員は、怯えたように私の顔をうかがいながら部屋を出る。

最近の人って、いつもこんな調子なのかしら。などと、思う。私の言い方の問題なのか。歯向かってくるような、手応えのある社員はいない。

そろそろ、アルバイトの子の面接の時間だと、立ち上がる。これだけはどんなに忙しくても自分ですることにしている。店頭に立つアルバイトの子は、私の目で選別する。私の店がここまでお客様の評判を得て来たのも、それが大きな要因だと思っている。

今日は、少しはまともな子が来ているかしら?

--

その女の子を見た時、なんとも言えない気分にとらわれた。

嫉妬のような、羨望のような、渦巻く感情。

耳元で切りそろえられシャギーの入った髪の間で、揺れるタイプのピアス。細く白い脚。よく見れば、眉が濃く、意志の強さを感じさせる顔に、綺麗に塗られたマスカラとグロス。その、はかなさを感じさせるメイキャップに、触れたくなる。

彼女の声が響き、また、私の脳の奥がざわめく。

ハスキーな声が、彼女の少女めいた容姿を中性的なものにしていた。

「採用」の印をつけ、履歴書を傍らによけると、後は、彼女の声に聞き入っていた。

同性にこんな奇妙な感情を抱いたのは、初めてだ。誰かを見た目で愛したことなど、初めてだった。男なら、好みの外見をした女を手に入れたいと思うことだろう。私は、むしろ、「彼女自身になりたい。」と切望した。その容姿に嫉妬と羨望を抱いた。

--

「すごい。社長さんと一緒に飲めるなんて。」
彼女は、はしゃぐ。

「でも、どうして私なんかと?」
彼女は不思議そうに聞いてくる。

「たまには、あなたみたいな子とおしゃべりするのもいいかしらと思って。あなたがた、お店でじかにお客様と接しているでしょう?」
「ええ。でも、夢見たい。社長さんなんか、雲の上の人だと思ってたから。」
「初めて東京に出て来た頃は、ちょうどあなたくらいだったわ。あの時の気持ち、今でも忘れたくないの。」
「私、社長みたいになりたいです。女性でも、やりたいことやって、いろんなものを手に入れたいの。」
「そう。」

さっきから、ピアスの揺れる耳たぶに手を伸ばしたくて、どうしようもない。相当酔ってしまったのかしら。私は、ただ、彼女の声をニコニコと聞きながら、彼女の髪をそっと掻き分ける。

彼女は、輝く黒目がちな目を私に向けて、くすぐったそうに笑う。私は、胸がドキドキしている。

その時、携帯が鳴る。

恋人からの電話だ。

私は、携帯の電源を切って、バッグの奥に仕舞い込む。

--

「最近、会ってくれないんだね。」
恋人は、恨みがましい口調で私を責める。

「ええ。忙しくて。」
「誰か他に?」
「いいえ。」
「嘘だ。誰か他にきみの興味を引くような奴が現われたんだな。きみの秘書をしてたから、よく分かるんだ。ぼんやりとする時間が増えて、意味もなく嬉しそうにしている。」
「でも、本当にそんなんじゃないのよ。」
「いいよ。少し会わないでおこう。所詮、僕はきみの退屈しのぎだったんだろうから。」
「そんな・・・。」

彼は、部屋を出て行く。

私は、ぼんやりと見送って、でも、不思議となんの感慨も湧かない。心は、あの子の事を想っている。

--

「ねえ。社長。」
「なに?」

彼女は、猫のように狡猾な瞳で、私の胸に頭を預けている。

「お店に出す商品の企画、私にもやらせてくれないかなあ。」
「まだ無理よ。」
「ねえ。お願い。」

彼女は、鼻にかかったような声で、私の耳元に唇を寄せてくる。

彼女は知っている。私が、彼女の言いなりにならずにはいられないことを。知っていて容赦しない、若さと美しさの特権。

困ったわ。

私は、最近、彼女の要求がエスカレートしてくるのに困惑しながらも、どこかでそれを楽しんでいる。

中年の男が、若い女性の願望を満たしてやろうとしてみっともなく翻弄されている姿を時折見かけるが、今の私はまさにそれだろう。野心のある愛人は、この上なくいとおしい。なぜって。満たすべき願望を剥き出しにして見せてくれるから。相手に望むものがある限りは、私に満たす力がある限りは、私は相手にとって意味を持つと信じていられるから。

ねえ。何でも言ってちょうだい。私にできることならば。あなたを自分のものにしたいとは言わない。ただ、あなたのきらめく瞳を私の元に少しでも長く留めておくためなら、私は何でもしよう。何でも投げ出そう。

彼女の柔らかい体を、少し痛いくらいに抱き締める。

「んん・・・。」
彼女は、眉をしかめる。

「いいわよ。来週から、企画室に入れるようにしてあげる。」

周囲が何を言おうと構わない。私は、自分が抱えるありったけの願望を満たすためだけに、今までしゃにむに働いて来た。

今、私は、子猫が隠し持った爪で傷付けられることを望んで、我が身を捧げている。

誰かに思いきり傷付けられたい恋もある。


2002年03月05日(火) 僕のことなど、むしろ嫌っているのではないかと思わせるその声の冷たさに、身悶えしたくなる。

僕は、城で、氷の姫にお仕えしていた。

その冷たさは名高く、国全体を怖れさせていた。彼女の怒りの一瞥は、相手をも凍らせてしまうと。

僕は、そんな氷のように冷たい −ではなくて、まさに氷の− 姫に恋をしていた。彼女にお仕えすることは、この上のない喜び。寒さでチカチカと痛む手も、僕には恋の痛み。心地良い。分かってはいるのだ。僕は、姫に愛されないことで、ますます姫を愛する。叶わぬ恋だからこそ、叶えてみせようと躍起になる。

今日も、姫は、退屈のあまり吐息を吐き、そのせいで部屋全体が凍りつく。僕は、身を震わせながら、凍り付いてしまわないように注意深く姫のお世話をする。

「ねえ。」
姫が、決して僕を見つめない目で話し掛ける。

「はい、なんでしょう?」
「人間って、愚かねえ。何にでも心を揺らし、自ら苦しい想いを手にして。これほど馬鹿らしいことはないと思うわ。」
「おっしゃる通りです。」

でも、それこそが、日々の理由。誰にも動かされない、固い固い心で、あなたは何を理由に生きて行けるのですか?

やがて、姫は、同じように冷たい氷の王子とでも結婚するのだろうか。そこに何か芽生えるものはあるのだろうか?僕は身震いする。その、透き通ったきらめく指に口づけたら、僕の唇が凍るだろうか。それとも、僕の熱情が、あなたの一部でも溶ろかせることができるのかしら。

--

頼まれた用事を済ませに、久しぶりに村に行く。

僕に恋する村娘が駆け寄って来る。

「やあ。元気かい?」
「ええ。あなたは?」
「元気さ。」
「こんなに、しもやけが。ちょっと待っていて。」

彼女は、エプロンのポケットから、薬草で作った軟膏を取り出す。それを丹念に僕の指に擦り込むながら、頬を紅潮させる。

「あなた、一生あの姫の傍にお仕えするの?」
「ああ。それが僕の使命だよ。」
「いつか、あなた凍え死んでしまうわ。今まで、姫の息をかけられただけで、何人もの人が凍りついて死んでしまった。私、心配だわ。」
「大丈夫さ。」

僕は、大丈夫なのだ。それは、僕の体が、姫への想いで燃え盛っているから。

僕は、僕の指に軟膏を擦り込む、優しい手を見る。指と指が触れ合う時、そこに何かがが生まれる。けれども、僕にとってそれは恋ではない。僕の炎を燃えあがらせるのは、冷たい氷だけなのだ。

僕は、城のほうに目をやる。

チカリ。

陽射しに反射して、氷がまたたいたように見えた。

「帰らなくては。」
僕は、手を引っ込める。

「もう?次は、いついらっしゃるの?」
「さあ。分からない。なんせ、僕は姫のお相手で忙しい。」

僕は、大急ぎで城に帰る。まったく、こんなに長い時間城を空けたのは始めてだ。姫は不自由していないだろうか。誰かが僕の変わりに姫のそばで、僕程に熱い想いでお世話していないだろうか。

姫は、窓から外を眺めていた。
「おかえり。」

僕は、その冷たさに、ブルッと体を震わせる。僕のことなど、むしろ嫌っているのではないかと思わせるその声の冷たさに、身悶えしたくなる。

だが、僕はチラリと思う。姫は、窓から村のほうを見ていたのではないだろうか。

「遅くなりまして。」
「いいのよ。たまにはあなたも、血の通う人間と話がしたいでしょう。」
姫は、こちらに向き直る。

「ねえ。教えてくれないかしら?」

姫が、そんな風に僕に語りかけるのは初めてだ。

「私が答えられることでしたら。」
「ねえ。どんな風にすれば、そんなに弱々しい心を持ったまま、生きていけるの?そんなに無防備に、傷付きやすく生きていたら、あっという間に殺されてしまうのではないですか?」
「殺される、と言いますと?」
「誰かの心ない言葉や、我が身の恋に。」
「恐れ入りますが、姫、人はそんなに弱いものではありません。柔らかいのと弱いのは違うのですよ。柔らかく、その辛いものにも心を添わせて行くことができれば、決して殺されたりはしないのです。」
「本当に?」

姫の透明な目が、太陽の陽射しで溶け始め、涙を溜めているように見えた。

「どうなさったのですか?何が悲しいのですか?」
僕は驚いて駆け寄る。

「分からない。氷の姫と呼ばれて怖れられていた私が。生まれてから一度も、誰かに心を動かされたことのない私が。」

ピシリッ。

音を立てて、姫のこめかみがひび割れる。

「どうしたのでしょう。あなたがいないと、私の氷が私の心を刺してくるのです。」

ピシッ。ピシッ。

「もう言わないで。」
僕は泣きながら、崩れて行く姫の体を抱き止める。

その手の中で、溶け落ちて行く、体。

僕は、水溜まりの中にひざまづく。

その不動と思っていた強さは、一瞬にして溶けゆく、脆いものだった。

僕の涙が一滴落ちると、水溜まりが太陽の光を受けて幸福そうにきらめいた。


2002年03月04日(月) 電話の主は、分かっている。彼女からだ。休日は会えないから、寂しいから。お願い、合図だけさせて。

僕は、河原で石を積み上げていた。

石が崩れたら。そうしたら、後ろで微笑んでいる筈の母さんと手を繋いで、うちへ帰ろう。そう思っているのに、なぜかそんな時に限って石は崩れないから、僕はいつまでもいつまでも石を積み上げていなくてはいけないのだ。泣きそうになりながら、僕は石を積む。

--

子供の姿をした僕は手を伸ばしてそれを崩そうとして。その瞬間、目が覚めた。

休日の昼、ソファでいつのまにか眠っていた。

変だな。と思った。実際の僕の母は、そんな優しい女性ではなかったのに。

電話が鳴ったのだ。ワンコールで切れる、その電話。それで目が覚めた。

テレビを見ていた妻は、ふん、と鼻を慣らしてのっそりと立ち上がった。

電話の主は、分かっている。彼女からだ。休日は会えないから、寂しいから。お願い、合図だけさせて。あなたを想っていると知らせることを許してちょうだい。と、すがるように僕に言うから、僕は嫌とは言えず、あの時黙ってうなずいてしまった。底のない沼にズルズルと足を踏み入れて、どうにも足を抜けないでいるうちに、もう随分と深みにはまって行ったのだ。

いっそ、拒絶してくれたらいいのに。ずるい男と、言葉を投げ付けてくれたらいいのに。いくら僕が彼女との約束をすっぽかそうが、黙って彼女は部屋で待っているのだ。

「おい。」
僕は、妻に呼び掛ける。返事はない。

洗濯機のあるほうで、何やら物音がする。

いけない。妻を呼ばなくては、と思いながら、僕の言葉は喉の奥に貼りついたように、出て来ない。

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小学生の頃、一人っ子の僕は、母を随分と憎んでいた。母は気性の激しい女性で、時折、庭で竹竿で僕をぶったりしていた。僕は、ひーひーと泣いて。ごめんなさい、ごめんなさい。と泣いていた。

そんな母と僕の姿を、父は黙って眺めていた。

父は無力だ。僕は、父を憎んだ。

外に出て働いているのは父さんなのに、どうして母さんばかりが家庭の中で僕らを支配しているのだろう。

僕は、無力な父を憎み、無力な自分を憎んだ。

そんな父が、母に新しい洗濯機を買って来た。当時は、まだ、すすぎと脱水が二層に分かれている洗濯機だった。母は大層喜んでいた。

あの日。

僕は、庭で遊んでいると、背後で洗濯機がすすぎの終了を知らせるブザーが鳴った。母が洗濯機の傍に寄る足音を聞いていた。途端に、何やらゴトゴトと音がして、「ぎゃっ。」という悲鳴が聞こえた。

僕は、振り向きかけた。洗濯機からにょっきりと足が突き出しているのを見た気がした。僕は、慌てて、庭に向き直り、黙って石を積み上げる遊びに戻った。

母は戻って来なかった。警察が来て、僕にも随分といろいろと尋ねたが、僕は知らない、と言い張った。他にどう答えようがあるというのか。結局、どこかに失踪したことになり、僕は、子供のいない優しい叔母にもらわれて行った。しょっちゅううちに訪ねて来ては、僕にお菓子やら絵本をくれた、叔母。その叔母が来るたびに、母はひどく不機嫌になったものだった。

父は、僕が叔母に手を引かれて行くのを、ぼんやりと抜け殻のように見送っていた。

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あの頃、僕がさんざん憎んだ父の姿と、今の僕がどう違うというのだろう。妻は、雌牛のように太り、僕に不満を述べ立てる。僕は、妻に何かを言う気力はとっくの昔に捨ててしまった。子供がいないのがせめてもの救いだ。

今、脱水まで終えた筈の洗濯機が、急にゴトゴトと、妙な音を立て始めている。

僕は、その音が止むまで、ソファを立ち上がることができない。

それでも、僕は、何が起こっているか、まるで目の前で起こっていることのように鮮明に浮かべることができる。

洗濯物が渦を巻いて誘っている。そこに手を伸ばした途端、洗濯機が妻の体を巻き込んで行き、血飛沫が飛び散る様を。

音が止み、静かになった。

僕は、おそるおそる洗濯機を見に行く。そこには、何事もなかったように、洗濯機がポツリと置かれている。そっと覗くと、空っぽだ。

妻は、どこに行ったのだろう?

「おい。」
呼んでみるが、返事はない。

玄関には、妻の愛用のサンダルが転がっている。

「おーい。」
やっぱり返事はない。

電話が、また、ワンコール鳴って、切れる。


2002年03月03日(日) 手を無理矢理振りほどき、僕は侵入する。僕の怒りを帯びた欲望が、彼女の体を更に傷付けた。

その彼女を、妹と呼ぶにはあまりにも切なく欲していた。

近所に住む、一つ下の女の子。大学に上がる頃には、その感情はもう「恋」と呼んでいいものだった。

ショートカットに、そばかす。化粧気のない、白い素肌。

僕が社会人になった時、妹を失う覚悟で、僕は彼女に恋心を告白した。

「いいよ。」
随分と長い沈黙の後、彼女は微笑んだ。

「いいの?僕で?」
「うん。嬉しい。」
その笑顔は、本物だった。

僕は手を伸ばすと、指でそっと彼女の頬に触れた。その瞬間、彼女はわずかに顔をそらす。

「ごめん。」
僕は、慌てた。

「違うの。私のせい。」

生まれたての恋人同士はお互いに戸惑っていた。

それが始まりだった。苦しみの。

--

彼女は、どうしても肉体の触れ合いを受け入れることができなかった。泣いている彼女を抱き締めることはできる。夕暮れの街を手を繋いで歩くことはできる。だけど、僕の指が、彼女の奥を探ろうとすると、途端に彼女は身をこわばらせて苦悩に顔を歪めるのだった。

その事について、僕らは何時間も話し合い解決方法を探った。幼い頃、彼女の心に傷を残すような出来事があったのか?もしかしたら、本当は僕を好きではないのではないか?だが、どれも答えはNO。

いつも一緒だった。

周囲も認める恋だった。

お似合いの一対だった。

だが、こんなにも苦しんでいる僕らがいた。

体が欲望に燃える時、彼女を恨み、嫉妬に苦しんだ。彼女を遠ざけることもあった。そんな僕に、彼女は何度も泣いてしがみついてきた。僕らは夜の数を数えて過ごした。

「ねえ。他に好きな人、作っていいんだよ。」
いつもの話し合いに疲れて、彼女がそんなことを言う日もあった。

でも、そんなことは無理。きみとの歳月だけが、今や僕にとって意味のあるものだったから。

--

その出来事が起こるまでは、それでも、まだ、僕らは優しい恋人同士だった。

夜、携帯の電話が突然鳴った。

「ねえ。お願い。助けて。今すぐ。」
彼女の泣きじゃくる声に、僕は慌てて部屋を飛び出した。

彼女の部屋に着いた時、なぜか鍵は閉まっていて、僕は合鍵で部屋を開けた。

「いるの?」
返事は、ない。ただ、彼女がすすり泣く声が響く。

「どうしたの?」
不安にかられた僕の前に現われた彼女は、乱れた髪。剥き出しの腕と脚。頼りなげに巻いた毛布。

「ごめんね。」
「誰にされたの?」
「会社の男の子。送って来てくれたの。すぐ帰ってもらおうと思ったけど。無理矢理入って来て。それからはよく覚えてないの。」
「馬鹿な・・・。」

彼女の、略奪者に奪われた体は、そこに血を流して震えていた。

その血の赤を見た時、何かが噴き出してしまった。それは怒り。

僕は、泣いた彼女の傷口に手を伸ばし、そこに更に指を差し込む。彼女が自分を隠して覆った手を無理矢理振りほどき、僕は侵入する。僕の怒りを帯びた欲望が、彼女の体を更に傷付けた。

抵抗することもできない彼女の青ざめた顔は途方もなく美しい。そうだ。僕はずっと腹を立てていたのだ。彼女にではなく、運命に。

--

彼女は、短かった髪を伸ばし始めた。化粧をするようになった。もう、彼女の何かが壊れてしまった。僕が壊してしまったのだ。

彼女は、酒を飲んで、客の相手をする。

僕は、少し離れたテーブルで、毎夜、酒を煽る。

「ねえ。いい加減にしときなさいよ。」
ママが、僕に口先だけの忠告する。

「あと一杯だけ。」
「しょうがないわねえ。」

高価なスーツに身を包んだ日焼けした男が立ち上がるのを見送った後、彼女は、そっとママのほうに目配せをして、店の奥に入って行く。

今夜はあの男が相手か。

「あたしも一杯いただくわ。」
ママが、見るに見かねて、僕の傍に腰を下ろす。ママだけが僕らの事情を知っていて、こんなストーカーまがいの男にも優しくしてくれる。

今日も随分酔ってしまった。
「ねえ。ママ。こんなこと言うと、彼女嫌がるだろうけど。もしさ。僕に何かあって、こうやって彼女を見ててやれなくなった、ママ、彼女のこと頼むよ。」

「何言ってんのよ。」
あきれたように、ママは笑う。

「あの子も、そう言うのよ。ママ、私に何かあったらあの人のこと見ててあげてって。嫌ねえ。あんた達のほうがずっと若いのに。何かあるなら、私が一番でしょうに。」
ママは、わざとふてくされた顔で、グラスを煽る。

つまらない家族ゲームを演じているような気分で、僕はそこに座っている。

僕と彼女が本当に兄妹だったらどんなに良かったか。

いや。僕らは本当に呪われた兄妹なのかもしれない。愛し合ってはいけない一対を、神様は、なぜこうやって巡り合わせてしまったのだろうと、今夜も出ない答を求めて、問い続ける。


2002年03月01日(金) 「でも、うらやましいわ。仕事も、恋も。あなたみたいに格好良くできれば、どんなに良かったかしら。」

「久しぶりね。」
と微笑んだ彼女は、長身に、春らしく明るい色の光沢のあるハーフ丈のトレンチコート。ため息が出るほどに、格好いい。一緒にいるのが恥ずかしくなるほどだ。

「相変わらず、素敵ね。」
誉めながら、私は奥様風の野暮ったいコートを脱いで、中庭の見える料亭の一室に腰を落ち着ける。

「ありがとう。あなたも、すっかり落ち着いて。幸せそうよ。」
「私は、全然。私も、あなたみたいに手に職を持って、好きな道を歩めば良かったわ。」
「で?何?相談したいことって。」

彼女がパリから一時帰国するという話を聞いて、無理に時間を取ってもらったのだ。

私は思い切って、言う。
「私ね、夫に捨てられたのよ。」
「そう・・・。」
「気が付いたら、夫には愛人がいて。」
「ひどい話ね。」
「随分と時間が掛かったけれど、ようやく離婚が成立したところなの。あちらさんは早く別れたがっていたけど、なんせ、十年以上専業主婦やってたでしょう?とにかく、私が一人で食べて行く目処が立つまで待ってって。」
「全然知らなかったわ。」
「よくある話よ。あなたなんかに聞かせるのも恥ずかしいくらい。」
「そんなこと、ないのに。」
「でも、今度のことでよく分かったわ。私、本当に夫に頼りきって生きてたんだなって。部屋一つ借りるにも、すぐに行動が起こせなかったの。」

運ばれた料理に箸をつけようとして、その指がブルブルと震えていることに気付く。

「久しぶりだわ。ここの料理。」
彼女は、そんな私に気付かぬふりをして。

「あなたは?まだ日本に帰って来ないの?」
吹っ切れていたつもりでも、自分の身に起きたことをしゃべっていると、涙が出そうになるのに慌てて、話題を変える。

「私?ええ。もう、ずっとあっちにいようと思って。」
「そうなの?もったいない。あなたほどの腕とセンスがあれば、こちらでお店を出しても、充分やっていけるのに。」
「マコトがね。あっちにいるから。ずっとそばにいて欲しいって。今回の帰国だってね。早く帰っておいでって。」
「あら。ごちそうさま。」

ふふ、と、彼女は笑って。

私は、ようやく料理に箸をつける。
「でも、うらやましいわ。仕事も、恋も。あなたみたいに格好良くできれば、どんなに良かったかしら。」
「あら。そうは言うけど、大変なのよ。パリで日本人が認めてもらうのだって。」
「マコトさんっていう素敵なパートナーさんがいてくれるのって心強いわよね。」
「ええ。そうね。ほんと、そう。」

彼女は、中庭に目をやる。釣られて、私も。陽射しだけ見ていると、本当に春が訪れたように暖かい。

「ごめんなさいね。午後の便で、あっちに戻るの。もう行かなくては。あなたはもう少しゆっくりしてって。」
「ええ。今日は本当にありがとう。」
「また、電話して。あなたのこと、心配なの。」
「うん。」

私は、友人に話しができただけでも随分と気持ちが落ち着いたのを感じながら、彼女の後ろ姿を見送る。

--

彼女を見送ったまま、どれくらい時間が経ったのだろうか。

「熱いお茶、お持ちしますね。」
という女将の声に、我に返る。

「ああ。すみません、長居して。」
「いいんですよ。ごゆっくりなさってください。お連れ様から承っておりますから。」
「彼女、よくここに来るの?」
「そうですねえ。久しぶりですね。以前は、よく。マコト様とかいう、お連れ様と一緒に。マコト様がお亡くなりになるまでは、お二人で本当によくご利用いただいたんですよ。」

亡くなった?

どういうこと?

なぜ、嘘を?

少し、混乱して。

ねえ。水臭いじゃない。どうして、私には言ってくれなかったの?長いことパリにいて、あなたのプライドはそんなに高くなってしまったの?

恨み言の一つ二つ、つぶやいてみる。

「ご存知なかったんですね?」
女将は、私の表情に気付く。

「ええ。恥ずかしいことにね。それでいて、友人気取りだったの。」
「許して差し上げてくださいな。今日は久しぶりにいらしてくださって、私共、ほっとしたんですよ。あの頃、もう日本に帰りたい、って随分泣き言をおっしゃって、お酒が過ぎて、ということがあったものですから。」
「そうだったの・・・。」

私は、今日の彼女を思い出す。

そう言えば彼女の顔には、異国で暮らす決意と、恋する人を思う優しい表情だけが浮かんでいた。

「私って、馬鹿ねえ。人をうらやんだり、恨んだり。そんなのばっかり。」

外に出ると思ったより空気が柔らかく、それに引き換え、手にしたコートは随分と重苦しいものだった。

帰りにスプリングコートを買って帰ろう。

そう思い立って、歩き出す。


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