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長男が「菅野琥白・自衛隊生活」と言うお話を書いていました。第1章から第4章まで書いていました。なかなか面白かったです。第4章がとても面白く、自衛隊の休日はトレーニングジムでトレーニングをし家に帰るとエアガンでピストルの練習をする。お風呂も健康のため1時間入る。食べる物は肉、米、野菜がメインで、身体のためにお菓子や甘い物は食べません。と書いてありました。これって私の事じゃないか?と思いました。いつか長男も私のような生活をする人になるのかな?と思います。
本日は第52回全日本空手道選手権大会が武蔵の森スポーツプラザにて行われました。出場者48名、試合後の握手なし、ベスト8から抽選による組合せなど、初めてな事だらけの大会でした。私も支部からも、またいつか必ずこの舞台に選手を立たせて見せます。
今日は2020極真祭が武蔵の森スポーツプラザにて行われました。私の運営する東京城南京浜支部からは10名が出場しました。開会式では出場者全員がマスク姿と言うとても異様な光景でした。いろいろな事と戦い試合場に立った選手の皆さんと選手が試合場に立つサポートをして頂いたご父兄様には尊敬と感謝の念を抱いております。スタッフとして試合場の運営に協力してくれた十川先輩、松村さんには本当に感謝しています。私の長男と次男も試合に出場しました。次男はとても緊張していたようで試合場の開始線まで歩いている姿がおかしいぐらいでした。試合後に次男は「全然動けなかった。今まで稽古を舐めていた。」と言っていたそうです。長男は少年部の仲間がみんな負けてしまい、自分が最後だから頑張ろうと意気込んで試合に臨んだようです。結果は負けてしまいましたが一生懸命戦っていました。長男はよほど悔しかったらしく試合後に泣いていたそうです。試合で負けて泣いたのは初めてだと思います。長男もやっとスタートラインに立ちました。この悔しさを力に変えて頑張って欲しいと思います。
明日は遂に極真祭です。今年最初で最期の大きな大会となります。東京城南京浜支部からは、廣田高志、水岡翼、菅駿斗、安西昊晴、今野讓、菅野琥白、安西愛琉、馮瞭、菅野真白が出場します。みんな世の中が、歴史に残るだろうという大変な中を頑張って来ました。ある意味で言えば、いつかこの時代の事を思い出す時に、今回の試合に向けて頑張った事や、極真祭で試合をした事を思い出すのではないかなと思います。いろんな意味で最強の9人です。自分の持っている全てを出し尽くして戦って欲しいと思います。
昨日は私の病院の診察が長引いてしまいました。そのために稽古の指導に間に合わず、妻に雑色道場のスタジオを開けてもらい、駿斗に見本と号令をお願いし、稽古を進めてもらいました。稽古を見ていた妻から、みんな本当に一生懸命稽古していたと聞きました。道場生のみんなには、私事で指導に間に合わず本当に申し訳なく思います。またご父兄様にはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。それを踏まえて書かせて頂きますが、今回の出来事から子供達の成長を頼もしく思いました。4年生の駿斗、讓、琥白がしっかり成長してくれたこと本当に嬉しく思います。先生がいなくても子供達が協力しあってしっかり稽古を進めてくれたことを本当に嬉しく思いますし感謝しています。
本日、病院で右膝のMRIとCTを撮り、それを見ながら医師から右膝の状態の診断と説明を受けました。その結果、やはり手術を受ける事を決断しました。ですが診断の結果は不幸中の幸いで最悪の状態ではありませんでした。ですが、この状態で騙し騙しやっていたら、膝の状態はどんどん悪化して取り返しのつかない最悪の状態になってしまう可能性があります。そうなったら私の生き甲斐である空手の稽古も指導も全力で出来なくなってしまいます。だからここで手術をする決断をしました。自分の残りの人生を全力で生き切るために、自分の身体を使いきるために、自分の命を燃やし尽くすために、右膝の手術を決断しました。手術は3日程度の入院で済む事と1ヶ月程度で少しずつ運動が出来るようになるとの事なので、道場生やご父兄様や極真会館の関係者にはご迷惑をおかけしますが、それを最低限で済ませられる時期に手術と入院を済ませられると思います。手術は来年の1月14日に決めました。その時期なら今年の行事を終え、来年の冬合宿を終え、来年の審査会前には、元通りとまでは行かないまでも元気に稽古も出来て、来年の行事にも支障が出ないと思います。とはいえ多くの方々にご迷惑をおかけしてしまう事を本当に心苦しく思います。道場生、ご父兄様、どうかご協力をお願い致します。
廣田さん、昊晴、愛琉、瞭は今日が試合前の最後の稽古でした。激しい稽古はもう充分やったので、今日はあまり激しい稽古はしませんでした。あとは試合まで心と身体をしっかり整え、絶好調で試合に臨んで欲しいと思います。
長男が「ゼルダの伝説」をやっているのを見ていました。上手に操作するのでビックリしました。私もこのゲームは好きなので少しやってみましたが、全然上手く操作出来ませんでした。何回かやったのですが、楽しくなってしまい、2〜3時間やってしまいました。やはりハマってしまいそうなので、もう止めることにしました。子供は遊びの天才だと思います。好きな事や楽しい事はどんどん上手になって行きます。それを勉強や習い事に生かせないかな?と少し思いましたが、まあ私もそれは出来なかったので、無理なのだろうと諦めています。
休みの日は思いっきり遊ぶ、思いっきり羽目を外して遊ぶ、と言うのが私の信条です。なので私も子供達と一緒に童心に帰って一緒に遊びます。この幸せな時間を思いっきり楽しまなかったら死ぬ時に絶対後悔すると思うからです。
2020極真祭に向けて出場選手達は頑張って稽古しています。みんな目標を持って稽古しているせいか?どんどん力を付けているように感じます。東京城南京浜支部からの出場選手は、廣田高志、水岡翼、安西昊晴、菅駿斗、今野讓、菅野琥白、安西愛琉、馮瞭、菅野真白の9名です。この世界中が後に歴史に残るような大変な時に、試合に出た事は凄い事だと思います。またこの大変な中、ご理解頂き、子供達を試合に出して頂いたご父兄様には本当に感謝しています。みんな本当に頑張って稽古して来ました。試合では思いっきり闘って欲しいと思います。私に取っても一生忘れない大会になりそうです。
私は「己に克つ」と言う言葉が好きです。自分の人生のテーマであり、私の道場のキャッチコピーにもしています。己に克つとはどういう事か?どんな時に己と戦うのか?それは極限の状態で自分の心がどう動くか?そしてどんな行動を起こすか?です。その極限の状態で自分の本当の本性が現れます。それは見たくなかった自分の本性であったりします。でもそれを見なければ何も始まりません。そして自分の極限の状態に向き合って初めて自分の本質を見極める事が出来ます。自分を極限の状態に追い込む事が出来ない人は自分の本質を見極める事が出来ません。そしてその極限の状態を何度も経験すれば、その極限の状態の中で自分の弱い心に負けず、自分の身体を凌駕するような事が出来るようになります。その時の人間は本当に強いです。どんな困難にもどんな恐怖にもどんな苦痛にもどんなアクシデントにも負けない人間になる事が出来ます。
「少林寺への道」を長男と次男も見たそうです。とても真剣に見ていたそうです。私にも見た感想を話して来ました。この映画は私が子供の頃に見た、たくさんのカンフー映画の中でも上位に入る作品なので、息子達もきっと好きになるだろうとは思っていましたが、やはりでした。血は争えないものです。私はこの映画の音楽もとても良いです。
右の膝がいよいよ悪くなっている事は以前に日記でも書きましたが、大きな病院で診察をしMRIとCTを取り、診察を受けて、必要なら手術を受ける決断をしました。今年は本当に頑張って来ました。ここ2年半は本当に空手にかけて来ました。型競技の全日本で優勝し、セミコンタクトルール全国交流大会でも準優勝しました。新しく始めた事にも一区切りになるような結果も残しました。極真会館の技術委員にもなり型の改訂にも微力ですが、いろいろと提案をさせて頂きました。毎年正月には総本部の冬合宿に参加して20kmマラソンも毎年入賞したり頑張って来ました。この数年の努力に悔いはありません。だからこそここで一区切りをつけたいと思います。私は今、47歳です。空手道の研究、極真会館の技術委員の仕事、演武のプロジェクトチームの仕事とやらなければいけない事はたくさんあります。そして残りの空手人生をしっかり頑張るために、自分の身体としっかり向き合い悪い所をしっかり治したいと思います。今、やってしまえば、来年の今頃にはもう今より良い状態に進化出来ると思います。1度はいろんな事が滞ってしまうと思います。でもこの先20年を頑張るために勇気を出して決断したいと思います。その時には、道場生、ご父兄様には、多少のご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。皆様におかけするご迷惑が最小限になるよう努めますので、その時にはご理解とご協力をお願いしたいと思います。
長男が学校でお友達に叩かれたそうです。長男はそれに対して何もやり返さなかったようで、それを見ていたもう1人のお友達が長男に「コハク君は空手をやっていて強いんだからやり返したらイイじゃん」と言ったそうです。長男は「それは絶対やっちゃダメだって先生に言われてるから、出来ないんだよね」と言ったそうです。それが本当にやり返さなかったのか?やり返せなかったけどそう言ったのか?それはその場にいた訳ではありませんから分かりません。でもそう自分をしっかりと納得させられるなら、それが本当であれ嘘であれ、それで良いと私は思います。自分の中でしっかり納得出来ているならば、心にストレスは残りませんし、それで誰の心も身体も傷付かずに済むのなら、それは最高の事の終わらせ方だと思います。空手をやってる事で戦わずに、自分の心と身体を守る事が出来ることが、相手の心と身体を傷付けない事が、そしてその結果に自分が心から納得を出来る事が「空手に先手なし」の精神だと思います。
最近、「少林寺」「少林寺への道」など中国のカンフー映画を見ています。面白い事に空手の型の中にある動きが少林寺拳法の動きの中にたくさん出て来ます。こんなに似てる動きがたくさんあるなんて、やはり偶然とは思えないと感じました。やはり空手のルーツを知るには中国拳法や少林寺拳法を調べるべきなのかも知れません。まだまだ勉強する事がたくさんありそうです。
私の運営する極真会館東京城南京浜支部の第14回型競技支部内交流試合と第5回I.K.Oセミコンタクトルール組手競技支部内交流試合が行われました。回を重ねる毎にレベルが上がって来ています。あまり試合に積極的ではなかった生徒が型競技やセミコンタクトルールの試合が出来た事で稽古に励み、試合に参加してくれた事が嬉しいです。これからも生徒達が力を発揮できる場をどんどん作って行きたいと思います。
中村文則の「逃亡者」を読んでいます。まだ3分の1ほどしか読んでいませんが、とてもおもしろく読めています。この作者の作品はどれもとても面白いです。作者の作品で私が特に好きな作品は「教団X」です。この作品を読んだ事で私の考え方、は少し変わったと思います。
私が運営する東京城南京浜支部蒲田道場は、私が21歳から29歳まで通っていた旧城南支部の蒲田道場の近くにあります。なのでその頃と同じ道を歩いて道場に行きます。大森道場で稽古をした生徒達と一緒に電車で蒲田まで移動し、蒲田駅からみんなで歩いてスタジオまで行きます。そこを子供達と歩いているといろんな事を思い出します。呑川の橋を渡る時、あまりに身体が怠くて、稽古を休みたくて、その橋から川に飛び込もうかな?と思った事や、その道を先輩達と一緒に歩いた事やみんなでご飯を食べた事やみんなでお酒を飲んだ事やみんなで銭湯に行った事など、思い出したらキリがないほど、いろいろ思い出します。そして、いろんな人のおかげで私は今こうして生徒達とこの道を歩けています。本当に本当に感謝、感謝です。
私の師匠が「型をやらなければ空手じゃない」と仰っていました。今、私はその意味が良く分かります。空手道にとって型が大切な事は「空手は型にはじまり型に終わる」と言う言葉がよく表しています。でも今は型をやらない道場なども多々存在しています。その人達が何故そうするのか?私も分からないわけではありません。何故なら私もその道を通って今があるからです。私も20代の頃は何故、型をやるのだろうと言う疑問を持ちました。その頃の私は試合で勝つ事だけを目指していました。気が付いている人は気が付いていると思いますが、型のなかにある技を洗い出したら、試合のなかで使いやすい技はほとんど出て来ません。逆に言えば試合で使う可能性が無い技や動きばかりだと言っても良いかも知れません。では型は何故大切なのか?試合で勝つ事を目標にしている人にも型をやる利点はたくさんあります。先ずは、様々な身体の使い方を学べること、様々な足さばきを学べること、動くときの重心の移動を学べること、左右の均等に動く事で左右のバランスを学べること、動作と呼吸を合わせる事で動く時や技を出す時の正しい呼吸方を学べること、様々な方向に様々な足さばきで素早く動き、様々な技を素早く出す事でバランスや重心の移動や力の強弱や正しい呼吸の使い方を学べば自然と自分の身体が居付かない状態を学ぶ事が出来ます。私の浅い知識の中でも試合で勝つ事を目標にしている人でも型から学べる事は、これだけの事が出てきます。でも本当に大切なのはここからです。もうここまで読んで気付いている方もいるかも知れませんが、空手道の型は、空手の試合が始まるずっとずっとずっと以前からあったものです。という事は、型は試合で使う技術のために作られたものではありません。自分の命を守る為に戦う事を想定し、一対一だけではなく、多人数や様々な状況を想定して作られた身体の使い方や技の使い方を集めた物が型です。その他にも型を行う中で、呼吸方で自分の内面や気を鍛えたり、自分の持っている力を瞬間的に爆発させる方法を学ぶ事が出来ます。また型を一心不乱に行う中で、心の使い方や、心を高めることが出来るので、型は動く禅にもなります。型をやらなければ本当にもったいないです。たった一人の人間が一生を賭けたとしても経験出来る事はたかが知れています。長い長い歴史の中で、先人たちが次の世代、次の世代と受け継ぐ中で、長を取り短を捨てて、今に伝え遺してくれた物が型です。その先人達の素晴らしい財産を学ばせていただけるのが型です。だからそこに敬意を表して稽古しなければいけません。昔から兵法には三つの戒めがあります。一つは「疑廬(ぎりょ)」先人の教えに対して軽率な疑いを抱かないこと、一つは「懈怠(けだい)」不断の努力を重ね修行を怠らないこと、一つは「慢心(まんしん)」上達してもけっして奢りや自惚れの気持ちを持たないこと、だそうです。その三つの戒めを忘れず型の稽古に励む事が大切です。私も今、一生懸命に型を稽古しています。その中で本当に型の素晴らしさに気が付いている毎日です。型に含まれている技法の無限の変化に驚かされます。私達がどれだけいろんな事を経験しどれだけの技を編み出しても、おそらく全く新しい技という事はあり得ないだろうと思います。それだけの物が型の中にはあります。うちの道場は型を稽古しないなどと言う言葉を目にすると本当にもったいないなと思いますし、その道場に入門した生徒は本当に運が悪かったな可哀想だなと思います。
私は「観空大(カンクウダイ)」と言う型が好きです。この型は全空連の指定型で松濤館の型なのですが、全空連の講習会で習った型でした。この観空大という型は、中国の武官である公相君(コウソウクン)から沖縄に伝えられたという説もあります。カンクウダイをクーシャンクーと言う流派もあります。琉球の唐手を日本に伝え空手とした松濤館の船越義珍先生もこの観空大を好んで演武されたようです。挙動数の多い長い型で、とても激しい型なので、体力が必要な型です。松濤館の先生もこの観空大を何歳になっても演武出来るよう稽古をしていると話されていました。私もこの型が1番好きで、ほぼ毎日この型を行うようにしています。そして糸洲安恒先生が中学生の体育の科目に空手を入れる為に、この観空大を元に作った型が平安一から平安五だと言われています。なので平安一から五をしっかり稽古すれば観空大が出来るようになり、また観空大を稽古する事で平安一から五の見直しも出来たりします。この型は手を合わせて上に上げ満月を描くような動きから始まるのですが、この手を合わせて上に上げ掌の間から空を観る動きから型の名称も「観空大」となったそうです。この手を合わせて空を観て満月を描くような動きは、円満に事を収めると言う心を表していると言われています。「空手に先手なし」の心構えが出ているのだと思います。
常に新しい事をインプットして行きたいと思います。でもインプットした事が直ぐに役に立つか?と言えば、それはそうではない事もたくさんあります。でもインプットした事を何年か自分の中で寝かせておいたものが後に役に立つ事もけっこうあります。歳をとればとるほど、新しい事をインプットするのが難しくなり面倒になりますが、数年後の自分のためにそれを怠らないようにしたいと思います、
今から6年前くらいに、私の道場生だった子達4名が私に会いに道場に来てくれました。その子達ももう大学生になっていたり、働いていたりでした。その頃は私の道場には国際親善大会や東日本大会で入賞する選手も育っていました。その事をその子達に話すと「私達の時はみんな関東大会に出てもみんな一回戦負けだったのに、今の子達は凄いね」と言いました。私はその子達に「みんなが頑張って試合に出てくれたから、それが伝統となり、東京城南京浜支部の道場生は試合に出るようになったんだよ。みんなが頑張った事が今に繋がっているんだよ。だからみんなには本当にありがとうと思っているよ」と話しました。私の道場に入門した道場生の一人一人の力が、私の道場で汗を流して稽古をした道場生一人一人のおかげで今があると思っています。本当に感謝しています。私はいつでも道場で道着を着て稽古しています。いつでも道場に帰って来て欲しいと思います。いつでも道場に会いに来て欲しいと思います。菅野先生はいつでも待っています。
「アントニオ猪木・世界闘魂秘録」を読みました。この本を読んで本当に凄い人だと改めて思いました。あの人を魅了するカリスマ性は激動の人生の中で培った物なのだと思いました。苦労は勝ってでもした方が人間が大きくなり、人間味が出るんだろうと思うし、人間に魅力が出るんだろうと思います。私も、これからの人生を生きて行くうえで本当に勉強になる本でした。1番感動した一文だけ書いておきたいと思います。「恥をかけ。馬鹿になれ。そうすれば、自ずと道は開ける。それがどんなに険しい茨の道であっても、まずは一歩を踏み出すことだ。小さな一歩で、未来は大きく変わる。」
仕事にしろ習い事にしろ辞める時に、辞め方と言うものはとても大切だと思います。しっかりと挨拶をして辞めないと、その時に関わった人達と堂々と会う事が出来なくなってしまいます。自分の行いで世の中を狭くしてしまいます。辞める理由も出来るならばしっかりと伝えた方が良いと思います。その時には、それを言った事で少し嫌な思いもするかもしれませんが、後に頑張っていれば、辞めた事を判ってもらえる日も来ると思います。ですが上手くしのぐような事を言ったり、嘘をついてしまうと、世の中は狭いですし、自分では上手くしのいだと思っても、意外に周りはその嘘を見抜いています。もしくは後に見抜かれてしまいます。そして自分の信用を失ってしまうことになります。私はこういう事はしっかりやって来ました。怖くても1人でそこに行ってケジメをつけて辞めました。中には半殺しにされた事もあります。目も見てもらえなかった事もあります。でも辞めた後にその人達と再会して笑って話せる時を作りました。ちゃんとケジメをつければ、全て良い思い出になり、新たな世界に堂々と飛び出して行けます。
長男の可愛げのないところが私は大好きです。次男の可愛げのあるところが私は大好きです。たぶん親というものは、そういうものなのだと思います。何がどうなろうとも自分の子供もいうものはとても可愛いものです。その子供達を可愛いと思う気持が私の原動力です。
琉球拳法空手術の達人である本部朝基の言葉で印象に残ったものを書きます。「すべては自然であり、変化である」「構えは心の中にあって、外にはない」「夫婦手は唐手の欠かすことの出来ない定めて、日常生活の中でも−例えば酒を注ぐとき、盃を持つとき橋をとるとき等々−拳法修業者はこの定めを守るようにし、夫婦手の定めを自ら身につけるようにしなければならない」(夫婦手とは左右の手の連動で、攻め手、防ぎ手が左右呼応して連動すること)「唐手は先手である」「本当のところはやってみなくては判らない」(形や形式的な組手ばかりやっていると、実際には何の役にもたたない架空のお遊びになる。実戦を通して、はじめて利き技が判り、無駄な技を知る。という意味だそうです)「ナイファンチの形の足腰の在り方が、唐手の基本である」「ナイファンチの形を左右、いずれに捻ったものが実戦での足立で、ナイファンチの形は左右、いずれかに捻って考えた場合、いちいちの動作に含まれるいろいろな意味が判ってくる」空手道修業のヒントになる言葉がたくさんあります。
膝を悪くした事で自分を見つめ直す事が出来ています。自分の生き方ややりたい事や稽古方法や夢や目標などなどいろんな事を考えています。自分が良い時には意外に自分を見つめ直したり、自分を変えると言う作業が出来ていなかったりします。だからある意味で言えば悪い時こそ自分を見つめ直したり自分を変えるチャンスの時だと思います。この膝の怪我で私は大きく成長出来る気がしています。
剣道には、昔から「恐・驚・疑・惑」の四つの戒めがあるそうです。一刀流の(切落)とは「恐れ、おののき、疑う、惑う」の四つの欲を切り落とす捨て身の技だそうです。柳生新陰流の(合撃)は相手の全人格を認め、相手を活かす活人剣ですが、そのためには、自分に自我があってはならず、自分を捨てて技を出さなくてはいけないそうです。そこから技を考えると、捨て身になり、無心となって技を出す事が大切なのだと思います。自我を捨てて無心になるという事は、自然と一体化するという事で、言ってみれば天地と一心になるという事なのだと思います。天地と一心になって技を出す。言うのは簡単ですが、やるのはなかなか難しいと思います。この境地に辿り着いた人は本当にいるのか?私はそれを見ていないので分かりません。そして自分は果たしてその境地に辿り着くことが出来るのか?それも全然分かりません。それでもそれを目指して稽古していきたいと思います。いつか誰かはそこに辿り着く事が出来るのではないか?と思っています。
「空手に先手なし」と言う言葉はとても有名です。空手をやっいる人なら誰でも1度は聞いた言葉だと思います。そして沖縄から始まる多くの空手家達がこの言葉を大切にしてきました。特に船越義珍先生はこの言葉とこの教えをとても大切にしたそうです。大山倍達総裁は「空手に先手あり、しかれども私闘なし」と仰られています。琉球拳法空手術の達人である本部朝基は実戦時には「空手は先手である」と言ったそうです。自分から人と争いを起こすなどは言語道断です。また今ある自分の全てをかけて戦いを避けなければならないと思います。戦うと言う事は誰かが傷つき誰かが悲しむ事なので、戦うという事に勝者はいないと言う事になります。だから戦わないために自分の身に付けた全てをかけて本当の勝利者になりなさいと言う事なのだと思います。戦わないために常に戦いを意識して稽古しなければならないと思います。そして常に自分に厳しく誠実に生活しなければならないのだと思います。ですがもし戦いを避けられないのならば、その時にはやはり先先の先を取る気持で戦わなければならないのだと思います。
今日はとても嬉しい事がありました。雑色道場生の北村優翔と冨樫圭斗の二十歳になるお祝いに呼んでもらいました。二人とも久しぶりに会いましたが、しっかりと立って挨拶をしたり、私が座るまで立っていてくれたり、座ってもしっかり正座をしていたり、両手で飲み物を注いだり受けたりとしっかり人に対して気遣いが出来る人間に成長していました。二人ともどんな世界で生きていく事になっても先輩に気に入られ、同輩と仲良くし、後輩に慕われて、人から愛されて重宝されると思います。二人の両親の教育の素晴らしさに感動しました。これからも二人とは一緒に飲んだりする機会もあると思います。二人の未来がとても楽しみです。
kanno
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