「静かな大地」を遠く離れて
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題:138話 鹿の道 人の道18 画:ハンコ 話:ほぼ十年ほどのうちに狼は一頭もいなくなってしまいました
赤木駿介『日本競馬を創った男 エドウィン・ダンの生涯』(集英社文庫) を未読の方は、副読本としてお読みになることを再度オススメします。 「開拓使はストリキニーネという舶来の毒を配って…」というくだりを 実感をもって読めるエピソードが描かれています。
「“害獣”は文明国の恥であるから絶滅させよ」と本気で主張する学者が いる時代があったし、いまだって「生物多様性の保全」なんて難しい理屈に 賛同しなければ「野蛮」な人間だと思われかねない、自然に優しくするのが 良識ある人間のとるべき態度だ、という基本思想が刷り込まれていればこそ、 自分の子供が歩く通学路にヒグマが出没するかもしれない土地で暮らしても “害獣”を絶滅せよという声は聞こえてこない。 「春熊駆除」という施策が行政の「公共事業」として行われていたのは、 ほんの少し前の話だったりはするわけだが。
さらに「経済合理性」の圧力には勝てない。 あらゆる家畜も競走馬も「経済動物」である。 人の都合の集積である「経済合理性」で生かされもし、殺されもする。 ヒグマだって生かそうと思えば広大な森を保全、復活させればできる。 そのコストを一体このご時世で誰が払うか、というと誰も払いはしない。 むしろどうにかして公共事業のひとつも誘致して開発しなければ人が死ぬ。 ヒグマがいない地球、ヒグマがいない北海道は寂しいな、では払えない額。 不可逆的に失われる「遠い自然」の値段はプライスレスなはずなのだが、 この価値をエコノミーの中に「回収」することは極めて難しい。
エコノミーの原義、オイコノモスとは、すなわち共同体の理法。 いわゆる先住民族のオイコノモスの中にヒグマの生死の循環までも容れた 「経済理論」はあっただろう。 しかしそれを取り戻すことは、少なくとも気合いだけでは無理だ。 すでに絶滅した、させた種だって沢山ある。 その業は背負わざるをえないだろう。
半村良御大の作品の中に『寒河江伝説』とその続編『人間狩り』がある。 これは確か世界の家畜に突如病原体が蔓延して、食用に出来なくなると いう状況を背景に、日本の東北に出来た独立自治区を描いたSFだった。 その自治区の戦略武器は、安全な食用技術の独占と先端医療技術では なかったかと記憶している。
ヒトと動物の関係もまた、過去から未来に渡って安定的なものではない。
2001年10月30日(火) |
もう一度『武揚伝』のススメ |
題:137話 鹿の道 人の道17 画:体温計 話:世の中は大きく変わっている。もう私の時代ではない。
今夜は、宗方乾へのトリビュート、もう一度『武揚伝』のススメであります。 http://www.d1.dion.ne.jp/~daddy_jo/newpage16.htm 作者の佐々木譲さんご自身による熱い「武揚伝ノート」も是非ご参照あれ♪
日本史上、未曾有の変革期であった幕末に、己の「負け方」をとことん追求した男たちがいた。 その筆頭が、新政府に恭順することを潔しとせず、北海道に独立政府を建てようとした男、榎本武揚である。
いま、日本は「一億総負け組」の時代の波に呑み込まれている。 高度経済成長期、バブル期、そしてIT革命…、ひとたび「勝ち組」の地位を得た者もまた、次の波で「負け組」の仲間入りをする。ひたすらに「勝ち組」を目指してきた日本人にとって、いま求められるのは負け方の美学ではないだろうか?「勝ち組」になることが唯一絶対の価値なのか、一人一人がその問い直しを迫られている時代。武揚は、幕末にあって既にそれを先取りしていた。
伊能忠敬の高弟を父に持ち、天文地理に関心を持ちながら幼少期を過ごした武揚は、昌平坂学問所で官学であった 儒学を学ぶも飽きたらず、蘭学に関心を寄せるようになる。日本を揺るがす一大事件、ペリー来航を迎えたのは17歳、最も多感な時期であった。武揚は箱館奉行・堀織部正の従者として政情穏やかならざる蝦夷地を巡察し、アメリカで教育を受けた漂流者・ジョン万次郎について英語を学びはじめる。20歳の時、長崎海軍伝習所に入学し、蒸気機関学、造船学、物理、化学等を修める。26歳の時、幕府留学生としてオランダに派遣され、4年間の滞欧を経て、造船技術と卓越した国際知識、そして同じオランダ留学組のかけがえのない友人たちを得る。
幕府がオランダに注文した軍艦開陽丸を回航して帰国。時あたかも1867年、戊辰戦争前夜の日本に戻り、直ちに即戦力として幕府海軍の事実上の司令官を任される。戊辰戦争では、大阪城での軍議の席で強硬に抗戦を主張するも最高司令官・徳川慶喜に容れられず。この席で新撰組副長・土方歳三と出会い、お互いを認め合う。 慶喜の恭順後、艦隊を率いて当時、蝦夷ガ島と呼ばれた北海道に脱出。オランダ語、英語、フランス語に堪能だった武揚は、江戸脱出から五稜郭での降伏まで、ものごとの節目節目で声明を発表して、そのつど自らの信念や政策を明らかにし、欧米列強を相手に巧みな外交戦術を展開する。開陽丸を旗艦とする幕府海軍を楯にして、国際的に重要な津軽海峡を押さえ、北海道の豊富な資源に拠って、明治新政府と拮抗するというビジョンを掲げ、日本史上初めての選挙によって北海道政権の総裁に選ばれる。武揚を支えたのは、長崎海軍伝習所やオランダ留学時代の友人たち、そして土方歳三をはじめ新政府に抵抗する男たちだった。
緊迫する津軽海峡を挟んで新政府軍と対峙する生まれたての「北海道共和国」は、当時日本最強最大を誇る戦闘艦であった開陽丸の不運な海難事故を転機に、一気に形成が不利にある。それを挽回するため、土方らが起死回生の反撃を試みるも、作戦は失敗。貴重な戦力を消耗しながら、新政府軍の物量作戦に耐え、五稜郭に拠って壮絶な籠城戦を繰り広げる。「勝ち組」に異を唱え、義を通し、理想の旗を高く掲げた共和国の夢は潰えた。
もし武揚が描いたグランドデザインに基づいて近代日本が作られていたなら、いま声高に「構造改革」が叫ばれる必要すらなかったのではないか。そう思わせる男が幕末にいた。国際的な知識と外交センス、合理的思考を重んじ技術を愛するスペシャリスト、一本気な江戸っ子気質、仲間たちに担がれる人望の持ち主。 この物語は、現在の日本人に大きな勇気と生き方のヒントを与える幕末スペクタクル巨編である。
題:136話 鹿の道 人の道16 画:墨 話:目前には仕事が限りなくあります
「遠別」(とうべつ)。これが三郎の“ユートピア”=楽土の地名。 もちろん僕は「遠別」に比定される場所を通ったことがある、何度も。 新冠、静内、三石、浦河、様似、襟裳…。特に静内と浦河はよく行った。 あのあたりの集落はどこもこうした開拓の物語を持っているのだろう。 内地の古い土地と違って、いつ誰がどういう経緯で集落を拓いたのか、 町史などを繙けば、すぐに知ることができる。
僕は、あらぬ場所の地図を部屋の壁に貼るのが好きで、以前住んでいた部屋 にはアラスカの地図と沖縄県の地図と北海道の地図(<それも逆さまに)を 貼っていた。書店で最近国際情勢絡みのせいか目に付く『西南アジア』の 地図も気になっている。ギリシアとかオランダとか旧知の土地も楽しかろう。 この「静かな大地を遠く離れて」をお読みの方で『静かな大地』を真面目に 読んでいらっしゃる方は、是非北海道地図をお求めになることをオススメする。 ま、そんな人がいるのか、というのが最近の疑問だったりするわけですが(^^;
きちんと測量して、仕切られた空間を推し広げてゆくこと、地図的欲望こそが いつか触れた17世紀オランダに発する、奇妙でローカルな風土病のようなもの が地球上を覆い始め、しまいには日高の東静内の川の畔で三郎とシトナさんが “国見”をしながらチャランケをする、という光景を生み出しているわけです。 そして三郎のような生真面目で有為な青年を駆り立てて行くのです。
おかげで「目前には仕事が限りなくあります」という状況が地球のそこここに あふれかえる。かくして僕は“暖炉と大型犬”から遠いところにいる…、 ん?、なんか違うか(笑) まぁ、いいや、勤労意欲のなさを世界構造のせいにして眠ろう♪
「地図的欲望」の延長上に地政学的な世界像があり、それは軍事学的目線に つながっている、とそういうわけです。 ニュースは見てないけど、ここで事の成り行きは見てる、という偏り方もよし。 http://www.kamiura.com/new.html
2001年10月28日(日) |
ケイト・シュガックに逢いたい |
題:135話 鹿の道 人の道15 画:石鹸 話:わしらは暮らしを変えたいとは思っていない。
雨の日曜日。休日の遅いブランチ。ルヴァン@カリスマ・パン屋(<(^^;)に 併設されたルシャレという小さな店で美味しいパンを食べるのがささやかな快楽。 正しい“プチ生活主義”にハマる現代人だし(笑) もちろん将来は“ワタシ感覚の小物たち”に囲まれた雑貨屋さん風のインテリアで “コダワリの食材”を持ち寄ってホームパーティーとかしたい。…ウソです♪
実際は朝、家を飛び出し際にカゴメ野菜ジュースを飲むくらいが関の山(;_:) そういえば常用薬の件、どーもです(私信>教えてくれた方)。 最近サプリメントもろもろ研究中。絶対“飲み合わせ”悪いに違いない(^^; どうせ不自然な暮らしなら心ゆくまでトコトン…、 でもアムス行ったからってアッチ方面はなしね(爆) 今日の夕食はレストランでギリシア料理を食べたので幸福でした。 ああ、またアテネ行きたい。そのうち服を買いに行かなきゃ。
職場でも最近、マイカップでコーヒーじゃなくてお茶を飲んでます。 コーヒーは、やはりネルドリップ系の店で、ご主人がポタポタ入れたのが飲みたい。 で、仏製の“星の王子さま”柄カップで、ほうじ茶とかハーブティーとか フレーバー系の紅茶とか、ウコン茶とかいろいろ揃えて飲んでます。 先日直属じゃない上司にゴーヤー茶のティーバッグをあげて感謝された(^^; そういえばアイヌの人たちが飲んでたというエゾウコギ湯を平気で飲んだ男だし、 ラプサンスーチョン@正露丸風味の紅茶も大好きなくらいだから、かなりのもんかも。 二度しか会ったことがないけど“生涯の友”と勝手に思っている方からお土産に いただいたアラスカのブルーベリーティーもそろそろ寒くなって来るし飲み頃かも。
ダイエット7UPがお好きなアリュート系の女探偵が活躍するアラスカ探偵小説の ケイト・シュガック・シリーズの続刊をハヤカワ書房さんが出してくれない。 ディナ・スタベノウという女性作家の作品で、邦訳は既に6冊出てるんだけれど、 原書はもう10冊になっているらしい。 だいたいこのシリーズ、ミステリー・ファン向けに出してもマイナーなご当地もの にしか見えなくて、ちっとも受けなかったのだろう。 ちがうのだ。このケイト・シュガック・シリーズは、アラスカ好き、星野道夫好きに こそ愛読されるべきシリーズなのだ。 彼の本を読んでいてシリアとジニーの小屋でお茶を飲みながら話している空気に 自分も浸ってみたい…と思わない人はいないだろう。それがヴァーチャル体験できる。
魅力はケイトの生活描写、っていうか食べ物描写ですな。 その点ではちっともストイックではない、われらがケイト、カリブーのバーガーが ストーブで焼ける描写なんて絶品です。 加えて人物描写。キャラクター・ショウなんですよ、このシリーズ。 道夫さんの本を読んでいて、なんでこんなにキャラ立ちのいい人物が多いんだろう? と邪な読み方をしてしまう向きも多いかもしれないが(<ホントか?(^^;) 「アラスカってそうなのかもしれない」と思わせる、ラブリーなキャラがいっぱい。 そのへんは「型」を踏襲するというか、作者自身ファンジン気質の書き手なのかも。 やっぱり小説は理屈じゃなく“キャラ萌え”できるかどうか、が勝負です(笑)
中でもハズせないのが、よく狼と間違えられるハスキー混血の相棒マット嬢でしょう。 寒い広大な土地と大型犬、パチパチ燃える暖炉、カリブーのバーガー(笑)
『白い殺意』『雪解けの銃弾』『秘めやかな海霧』『死を抱く氷原』『燃えつきた森』 『白銀の葬列』まで邦訳出てる。けど続刊は無理そう。 各作品解説はやめとこう。最近アラスカの油田に関心ある向きは『死を抱く氷原』必読。 アラスカ在住のディナ・スタベノウさん自身の公式HPあり。インタビューとかもある。 http://www.stabenow.com/
もはやあきらめて原書で読む英語力をつけるしかないのだろーか? 実は7冊目にあたるはずの本は去年ワシントンDCのダレス国際空港だったかで 買ってあるのです。サブタイトルは“BREAKUP”。うーむ、読みたい。 どうせなら1巻目から原書で読み直すのが英語力的には得策かも。 せっかく西東始先生とここをきっかけにしておつきあいもあるのだから、 原書を読まなきゃとも思うのですが、時間の初期投資がなかなか難しいなり(;_:) 最近また講義もHPも精力的な西東さんのHPは、こちら。勉強になります。 http://www.obihiro.ac.jp/~engliths/index.html あ、そうそう、まさに先住民族アリュートの女探偵ものなんて、西東さんの授業の教材 にぴったりではないでしょうか?(<とまた煽ってみる 笑)
題:134話 鹿の道 人の道14 画:ナイフ 話:そのとおり。昔のことだ。今はもっと悪い。
由良さん、三郎VSシトナさんの迫真のダイアローグに叙述を切り替えるなんて なかなか手練れの書き手です。ノンフィクション・ライターとしては一線を越えて 三郎の主観にも入っているあたり、須賀敦子さんばり。さぁ、もっと頑張って〜♪ …と登場人物に声援を送る読者(^^;
三 郎「青森のすぐ隣が別の国では困る」 シトナ「わしらは困らなかったかもしれない」 などという、ひどく本質的なチャランケもなされる。 読んでいて、つい逆の国境のウチナーのことを考えてみたりする。 いきなり切通理作さん@『宮崎駿の<世界>』著者のサイトより、引用。 http://www.gont.net/risaku/index_hitokoto.shtml
「月刊ドラマ」誌に、9月末まで放映していた『ちゅらさん』の評を書きました。 あのドラマが放映されていた末期から、同時多発テロが起き、日本はアメリカの 同盟国という名の属国として、普段は沖縄に押し付けて忘れている緊迫感をある 程度共有するようになったのではないかと思います。それと、社会問題は一切関係 がない癒しの場としての『ちゅらさん』の全国放送というのはなにか表裏の関係に あったような気がします。
あの本の著者たる方、きっと雑誌の制限枚数では書き足りなかったことでしょう(笑) ぜひ何かの媒体で、思う存分書かれた「ちゅらさん」論&オキナワ論を読みたいです(^^) 切通さんといえば、以前オキナワへの修学旅行キャンセル問題についても書いてらした。 「新世紀へようこそ」でも触れられていた問題。せっかく『ちゅらさん』効果で観光客も 増えていたのに、なんともなぁ、と思っていたところ。 休暇があったらキャンセルした学生達の替わりに僕が行きたい(<単に行きたいだけか)
で、「のどうたの貴公子」嵯峨治彦氏は今、オキナワ・ツアー中だって。いいなぁ♪ http://www.mmjp.or.jp/booxbox/nodo/treport/0110/index.html
こちらの旅レポートの中に、修学旅行を自粛しなかった学校もある、との記述。 ぽん田中さん、この間は逢えなかったけど、また今度。食べ過ぎに注意してね(^^) 「オキナワとモンゴルは隣り合っている」というナゾの持論を展開したいところだが、 なんだかタルバガンのオキナワ・ツアーのことを想うと口惜しく&空しくなってきた(笑) 先日も仕事関係の人の携帯に電話したらオクマ・ビーチでヴァカンス中だったし(^^; せいぜい僕は新宿の「やんばる」でスバを食べてるのが精一杯(;_:) 「絶対グレてやるからよー」(<恵達@山田孝之風に)
2001年10月26日(金) |
陰謀史観、ユーラシア、のどうた |
題:133話 鹿の道 人の道13 画:鉛筆 話:アイヌモシリというのは、アイヌの地、静かで平和な人間の地
昨夜「陰謀史観」などと物騒な言葉を持ち出したら「新世紀へようこそ」 の話題も陰謀史観だったり。明日の「見解篇」を心して読むべし。 「陰謀史観」という言葉にもニュアンスの幅があって、国際謀略小説的 な穿った世界情勢解説の類がそう呼ばれることもある。これにハマると いくつかの諜報機関などが「歴史」を作っているかのように思えてくる。 何せもっともらしいので、いかにも“事情通”ぶれるのが特徴。 栗本慎一郎師の「第2の真珠湾説」なぞ“これぞ陰謀史観”というもの(^^; http://www.homopants.com/column/index.html もう少し精緻かつ、ねちっこくやると副島隆彦氏の「ぼやき」風になる。 http://soejima.to/index.html
「陰謀史観」と言って通常連想するのはいわゆる「トンデモ」系というか ある特定の民族が世界経済を裏から牛耳っていて…みたいなやつ。 某U野正美先生なんかも是非緊急出版で本を出してほしいものである(笑) こちらの「陰謀史観」は、どんどん広がっていくと「妄想史観」へと つながっていくもので、長山靖生『偽史冒険世界』(ちくま文庫)に症例 が面白く、かつ真摯に分析されてます。以前、義経=ジンギスカン説の話 の時に紹介した本。その視野には当然オウムも入っていたりするわけね。
『極秘捜査』からの引っ張りもあってか、『お笑い日本の防衛戦略』という テリー伊藤氏の最新刊に手が出た。青山繁晴氏との対談本(飛鳥新社)。 『ドカベン』でも読む時のような釘付け感と快楽がある(笑) もう少し真面目には篠田節子『弥勒』(講談社文庫)が気分かもしれない。 あと田口ランディ氏の『ぐるぐる日記』(筑摩書房)を読んでたら、 神社マニアぶりやニュー・エイジ的なネタへの強靱かつ軽快なスタンスの 取り方を含めて意外と僕と近い人かもしれない、と今さら思ったりする。 http://journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=78055 ついに「のどうた」に、しかもトゥバのホーメイに直でアプローチしてたり。
かそけき音の世界。「のどうた」が近年になって世の中に溢れつつあるのには 需要=受容する側による「癒されたい!」願望という本来マトはずれな要素も あるのだろうけど、まずは「陰謀史観」風あるいは地政学的に説明するならば 90年代初頭の東西冷戦終結により“産地”の中央ユーラシアが“解禁”に なったという要因もあったのではないかと思われる。高名な物理学者にして 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』で有名なリチャード・ファインマンが 晩年に行きたくても行きたくても行けなかったのが、当時ソ連の中の共和国 だったトゥバである。その経緯は『ファインマンさん最後の冒険』に詳しい。 この本の影響度は大きい。
http://www.mmjp.or.jp/booxbox/nodo/throat-homeJ.html 知人の嵯峨治彦さんは宇宙物理学徒だったのだが、今や立派な旅音楽師の日々 を送っておられるようで、僕は秘かに、時に公然と彼を「のどうたの貴公子」 と呼んで、その「ノマディックかつノーブル」な暮らしぶりに憧れている(^^) 彼がユニットを組んでいる等々力さんという方も、たしか生化学か何か理系 の難しい学問をやられている方だったりする。しかも二人ともエラい男前。 ユニット名は「タルバガン」。 http://www.booxbox.com/tarbagan21/index.html
よく知られるモンゴルのホーミーだけでなく、さまざまな民族がそれぞれの 唱法を持っていて、それを総称する日本語として「のどうた」と呼称するのが ポリティカリィ・コレクトな姿勢というもの、なのだろう(^^; ノンフィクションでサッカー(フットボール)と旧ユーゴスラビアの政治史を 結びつけて書くジャンルめいたものがあるけれど「のどうたノンフィクション」 というのも、そのうちアリかもしれない、もう少し認知度が上がれば。 さらにカルチュアラル・スタディーズ系学問では、どう把捉できるのか、なんて 興味も持ってみたりして。きっとマイナー過ぎて手つかずなんだろうけどね。 ベーリング海の東のモンゴロイドに、のどうたは在ったりするのか、とかも(^^)
ちなみにトゥバもスターリンの陰謀で酷い目にあった歴史を持っている。 でも人口に比して“歌うたい”濃度の濃いこと!しかも「民謡」は現在進行形 で生きているというから、何やらオキナワを思わせるではないか♪ ちなみに1998年にトゥバで開催されたコンテストに乗り込んだタルバガン は、外国人部門で優勝、総合でも2位という輝かしい記録を残している。
地球上で戦火が止むことはない。でも人は歌いつづけるのだ。
先日来マイ・ブームの外間隆史『St.Bika』ライナーノートから引用。
1998年から2000年にかけて、『サンビカ』と題し た物語を書いた。ある作曲家がノエという失語症の 少女の体内に宿る旋律を基につくった音楽をたった 一度だけ世界に向けて放送するラジオ局があったと いう話。サム・シェパードが『モーテル・クロニク ルズ』の中で書いた男のように、僕もまた「ラジオ の国」が空のどこかに在るのではないかという想い を抱いた幼い記憶を持つ。イヤフォンをつうじて 魔法の音声に夢中だった僕は、しかし「何かべつの もの」を受信していたのかもしれなかった。 この音楽作品『サンビカ』は、“歌う生命体”への 賛美を込めてつくった。 我が家の「裏庭」への帰還を済ませ、「生と死の波 打ち際」へ出掛けて行けばそこに視えてくる世界は 美しく、かつて受信していたはずの「何か別のもの」 が、ようやく澄んだ音声を伴って体内から聴こえて くることに気づいたのである。
“St.Bika”と“Radio St.Bika”の2枚組CDに なっていて、後者は架空のラジオ・プログラムという設定なのがなかなかニクい。 イラクの地上戦の時も、コソヴォの空爆の時も、ウィーンの大聖堂で、祈るでも 考えこむでもなくボンヤリと戦争のことを考えていた。 今回はトウキョウに居て、『St.Bika』を聴いている。
天空に架かる、不可視なる“美”の大伽藍の下、 そこをアイヌの人々は「人間の静かな大地」、アイヌモシリと呼ぶ。
時勢の推移に思うところがあって沈黙していた、わけではない。 例によって単に無精なだけ。日々は淡々と過ぎているようでもあり、 大波に呑まれているようでもあるような奇妙な感覚のなかで進む。 時間だけは経つのだなぁ、いろんなことを呑み込んで。
最近気にしているのは90年代半ば。それも阪神大震災ではなくてオウム事件。 村上春樹の『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』は刊行時に読んだ。 前者は地下鉄サリン事件の被害者側、後者は信者側へのインタビューに基づく。 それともまったく別角度からのアプローチの傑作ノンフィクションが、 *麻生幾『極秘捜査 政府・警察・自衛隊の対オウム事件ファイル』(文春文庫) 叙述は、いきなり亀戸の教団ビルの異臭騒ぎからはじまる。1993年のこと。 あのとき彼らが実験して、トウキョウの空にばらまいていたのが、炭疽菌だ。 霞ヶ関での「化学兵器無差別テロ」の背後では、生物兵器も準備されていた。 あの大騒動の年の日本人の胃袋は、世界水準からみても未曾有の凶悪事件さえ 「消費」しつくしたのだ。そして自慢の「忘却装置」をフル稼働させた。 サリン事件の直接の被害者の方を除けば、「オウム」は遠い過去の“ネタ”で しかないという、なんとも凄まじい状況。 『極秘捜査』は警察や自衛隊の側から見た、あの事件を克明かつ劇的に描く。 事態がいかにギリギリの恐怖と隣り合わせだったか、空恐ろしくなる内容だ。 「消費」し尽くしてしまっていいような小ネタではない。 アイロニカルに言えば、グローバル・スタンダードに照らしても充分通用する、 「どこに出しても恥ずかしくない」凶悪なテロだ。 日本赤軍とオウム真理教を出した戦後日本こそ、テロの超先進国なのだ。
先週末、ずいぶん久しぶりに山梨県を訪れる機会を得て、僕が特急「あずさ」 で読んでいたのが『極秘捜査』の文庫版だった(^^; 爽やかに晴れた秋の休日に何も悪夢のような事件を思い出さずとも良いのだが 挙げ句の果てに甲府の町を散歩しつつ、丘の上の木立の中でも読み耽った。 本として面白いのだ。著者は後に北朝鮮の工作員が出てくるような小説を書く ようになっただけあって、ノンフィクションなんだけどドラマタイズが巧くて 読ませる。警察官や自衛隊員も「プロジェクトX」に出したいようなキャラが 何人も出てくる。殊に築地の聖路加病院の医師と看護婦には感動させられる。
人間の心の働きの中に、無差別殺戮を起こす因子もあれば、プロとして他者の 命を救うため全力を尽くす因子もある。 平然と空爆を決行する者もあれば、民間の支援団体で医療に携わる者もいる。 奇々怪々、面妖この上ない陰謀史観めいたところで事態は動いているのかも。
*「萬晩報」10月12日 http://www.yorozubp.com/0110/011012.htm テキサスを舞台にちょうど同じ時期に「飛行機」と「石油」と「ブッシュ家」と 「ビンラディン家」と「死」のキーワードが存在していたことは事実のよう だ。 父親のブッシュ元大統領は、元CIA長官だった。何が起こっていても不 思議 ではない。しかし、真実は永久に公開されないだろう。
そして、13年後にすべてのキーワードが再び蘇ることになる。 (以上、引用) これが「事実」ならば、あの世界を震撼させたテロは、壮大な私怨ということか。 あな、おそろし…。
*中村哲『アフガニスタンの診療所から』(ちくまプリマーブックス) このヨーロッパ近代文明の傲慢さ、自分の「普遍性」への信仰が、少なくとも アフガニスタンで遺憾なく猛威をふるったのである。自己の文明や価値観の 内省はされなかった。それが自明の理であるかのごとく、解放や啓蒙という 代物をふりかざして、中央アジア世界の最後の砦を無残にうちくだこうとした。 そのさまは、非情な戦車のキャタピラが可憐な野草を蹂躙していくのにも似ていた。 (以上、引用)
「現場」から積み上げて、事の本質を突き詰めると、ここに至る。 この地球上で進行している事態に対して、どこにも出口がないような徒労感。 僕自身は、今回の事態の推移に対しては、それすらもほとんど感じていない、 と思っていた。「世界の色調が変わる」ほどのシンクロの仕方は1995年には あったけれど、今回はむしろ「退屈」さえしている、と。 どうも自分に訴えてくるものがないのだ、百家争鳴の言説の中にも。 積極的に探してもいなかったせいもあるだろうが、やっとそういう文章を読めた。
*日野啓三「新たなマンハッタン風景を」 (『ふたつの千年紀の狭間で 11』) 発売中の新刊雑誌の掲載文章でもあるし、引用は差し控えます。というか、一部 引用して「論調」が伝わるような質の文章ではない、見事なまでの渾身の一文。 ベトナム戦争を報道する新聞記者だった日野氏が、その後80年代の日野啓三と いう特異な小説家となり、そして近年の視点から見えるこの世界を書いている。 「新たなマンハッタン風景を」という表題への着地の仕方もとても納得が行く。 徹頭徹尾、日野啓三さんらしいのが頼もしい。小説家の力というのは凄いものだ。
時に僕が先週末、山梨を訪れたのは、オウムについて考え込むためではなくて 星野道夫の記憶と向かい合うためだった。 5年経って、生前お会いすることもなかったミチオさんと、初めてちゃんと交感 することができた気がする。「きっと僕は話せたに違いない」と去年の暮れに 高知で思ったのだけれど、今回は言ってみれば「逢えなかったのだなぁ」という 切ない実感が痛いまでに迫ってきた。丸5年分、それも自分の5年間の生の歳月 の重みも加わって…。本の中の人ではなく話せば応えてくれたはずの一人の人。
8月8日生まれの三郎は今、“風のような物語”の只中に居る。
18日(木) 題:125話 鹿の道 人の道5 画:硝子の瓶 話:アイヌというのは気高い人々である
19日(金) 題:126話 鹿の道 人の道6 画:眼鏡 話:二人はこれから開くべき土地を探し始めました
20日(土) 題:127話 鹿の道 人の道7 画:虫眼鏡 話:三郎さんは最初から野の人、山の人でした
21日(日) 題:128話 鹿の道 人の道8 画:御守り 話:山へ行けば間違いは命に関わります
22日(月) 題:129話 鹿の道 人の道9 画:缶詰 話:鹿を減らしたのは和人の鉄砲ではないか
23日(火) 題:130話 鹿の道 人の道10 画:缶切り 話:シトナさんは夏の山も知っている珍しい猟師でした
24日 題:131話 鹿の道 人の道11 画:活字 話:こちらの言葉で言えばまことに「ゆるくない」
25日 題:132話 鹿の道 人の道12 画:注射針 話:「こういうところが欲しかったのだ」
題:124話 鹿の道 人の道4 画:腕時計 話:バードさんは力に満ちた立派な方でした
きちんと脈絡をつけて書くのは骨が折れる。とめどなく連想が働くのだ。 イザベラ・バード『日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫、平凡社ライブラリー) はいつか読まなきゃ、と思って久しい本。北海道の部分を走り読みした程度。 なので今日の“バードさん”は「そう来ましたか」という感じ。 ただ由良さんの“綴り方”の文体も叙述も極めてフツーなので一寸心配になる。 “バードさん”を出すにしても、情報整理に便利使いするようだとよろしくない。 『すば新』の「ジャーナリスト」の章のような姑息さを感じてしまう(<失敬(^^;) 叙述は情報整理ではない。由良さんには須賀敦子さん並みに頑張って欲しい(笑)
…なんて言ってまた作家を恫喝する読者と化していますが、懐かしい『すば新』、 久しぶりに繙いてみると当時の時事ネタが、もう時間の波に埋もれつつあるのを 感じて面白い。僕が予測したとおり、有吉佐和子『複合汚染』じゃないけれど、 リアルタイムもさることながら、暫く経ってからも“読みごろ”かもしれない。
ヴィクトリア時代を生きた英国婦人イザベラ・バードに関しては、名前をまんま 検索エンジンにかけるだけで結構な知識を手に入れることが出来るので、ぜひ。 僕の関心は“バードさん”の力の背後に広がるもの、大英帝国の力です。
ピーター・パン、アリス、ナルニア、ロビンソン、みんなイギリス人だと 言いましたけど、イギリス人っていうのは、たぶんここ数百年の世界中で 一番海外へ出た人達ですね。外へ出て、植民地を作って、悪い言葉で言えば、 いろんな物を収奪して本国へ送って栄えた、一番うまくやった人達でしょ。
…以上は『子どもが見つけた本』(熊本子どもの本の研究会)所収の講演、 「世界はどこまで広いか」からの引用。 さらに『明るい旅情』(新潮文庫)所収の「イギリスを出た人々」からも少々。
鍵はこの「世界」という言葉だ。イギリス人はある時期に地球全体を知的に 把握した。「世界」というものを認識した。これは産業革命にもまさる 大きな業績である。ぼくが今イギリス文化に対して感じている恩義の多くは この分野に属するものだ。
英国という本丸。アメリカ東海岸だ、オランダだ、と「補助線」をいろいろ 引いて遊んできたが、日が沈むことなき世界帝国イギリスこそ最大の「敵」だ。 オランダが世界史上初めて手にした「近代」という流通経済のヘゲモニーを 度重なる戦争で奪取し、その後アメリカに手を噛まれたりしながらも世界帝国 を長い間支配してきた大英帝国、それこそが、“バードさん”の故国だ。
“木靴と風車とチューリップの小国・オランダ”イメージ程ではないにせよ、 今や英国もまたずいぶんと牙を隠している。“19世紀の魔物”の癖に(笑) “紅茶と紳士趣味とピーター・ラビットの国”のイメージ。 でも英国が地球上でやったことは今のアメリカなんて青臭いと思えるくらい エゲツなくて徹底した世界支配だったのではなかったか? いまホットなアフガニスタンにもパレスティナにも「前科」を持っている。 近代の日本などは、極東における大英帝国の「利権」に過ぎなかったりする。 幕末の薩摩や長州の「密航留学生」らがクーデタを起こして政権を担い、 以後大英帝国の没落まで“パックス・ブリタニカの優等生”の途を邁進した。
とにもかくにも“英国という病”を対象化するのは、とても難しい。 なぜなら我々が世界を認識し、生きている基盤自体が“英国製”なのだから。 例によって、高山宏『ふたつの世紀末』(青土社)を熱烈に推しておこう。 “知的すれっからし”になれる(笑) ダイジェスト的には『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ)がある。 真面目に勉強するなら、エドワード・サイードからという線もあります。
で、“英国という本丸”を見据えて、オランダやアメリカの前のミレニアム 年越しの観光旅行の行き先がアイルランドだった、というわけです(^^) ジョナサン・スウィフトばりの鍛え方で対峙しないと英国は対象化できない、 そう思いつつ気分はU2とエンヤで、アラン島行って喜んでましたけど(^^; なんにせよ、アメリカさんのグローバリズムどころじゃない胃袋と支配力の 強靱な大英帝国の所業こそ、洗い直さなければならない最大の宿題です。 絵に描いたような英国趣味嫌いじゃないんですけどね、厄介なことに(笑)
…今夜は「新世紀へようこそ」のカミカゼ・アタックの話にも反応したいと 思っているのだけれど、また際限なく広がりそうなので明日以降にします。 以下に気になっていることを、二つだけ。
サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』の邦訳者、五十嵐一筑波大学助教授が 何者かによって大学構内で殺害されたのは、湾岸戦争の年のことでした。 イスラム原理主義過激派の犯行が疑われますが、その後も続報を聞いた記憶 がありません。ネットで検索してみても、すっかり過去の事件のようです。 イラン国家がラシュディ氏の“処刑”指令を撤回したのは、つい2年前。 イギリスとイランとの「手打ち」によるものだったやに記憶しています。 日本国内でのテロ行為への不安が蔓延する現在、何だか心に懸かる…。
その湾岸戦争の前からずっと日本の若い世代に「戦争とは?」「命とは?」 という骨太なメッセージを熱く放ち続けた舞台演劇作品がありました。 今井雅之・作・演出・主演『THE WINDS OF GOD』。 日本国内で何度となく上演され、NYやロンドンやハワイ公演も行われた この作品、今年のツアー沖縄公演を以てその歴史に終止符が打たれました。 ご承知の通り、太平洋戦争末期、特攻隊の兵舎を主な舞台とする作品です。 登場人物の若者たちは、物語の後半、それぞれの葛藤を抱えながら次々に 「特攻」して果てて行きます。「悠久の大義」のために…。
海外公演のカーテンコールと同じ言葉で締めたいと言って、今井さんは 最後に叫びました、一音節ずつ、訴えかけるように、 「No more war!」 僕が最後に観た舞台は7月21日、ここでも少し触れました。 そして最終公演の沖縄、最後の「特攻」、最後の「No more war!」が きっと叫ばれたであろう日付は、9月9日。 アメリカ時間で「あの日」の前日のことでした。
こうしたタイミングを「歴史の皮肉」ではなく、真摯に受け止めること。 国際政治は魔物の論理で進む。そこに居るのも人間である。
#またまた新規参入の新書市場、光文社新書のキラー・コンテンツは 他社も惚れ惚れしそうな田中宇『タリバン』。売れそうですねぇ。 まだ冒頭しか読んでないけど、まず大略の地政学的事情から入っていて 非常にわかりやすい。タイトルから思わせる急拵えではなさそうだ。
ふぅー、明日の日本舞踊の鑑賞中に居眠りしないように寝なきゃな。 でもここまで「濃い」話のモードに入ってしまうと眠れないのよね(^^;
題:123話 鹿の道 人の道3 画:牛乳のフタ 話:あの方はもう山を跨いで行かれた
なんだかフェルメールの絵の題名みたいですな、「手記を書く女」。 御大の『真昼のプリニウス』(中公文庫)にも江戸時代の浅間山噴火を 体験した女性の手記が出てきます。圧倒的な事象に遭遇した人の言葉。 「自然」なるもの、普段は古来のアミニスティックな片思いを受け入れ 優しい貌を見せてくれている「外部」、それがひとたび大規模な天災の 際には荒々しいエッジを剥き出しにする。それをも擬人化した神の意志 の顕現と見るのか、もはやそのようなものを超越した度し難いエッジと 対峙するしかないのか、ギリギリの一線。世界認識への意志と心意気。
僕は今だって頼子さんが好きだ♪ 豪雨の中をゴアテックスに身を包んで歩く彼女のイメージにイカれた。 ギリギリのところで「自然」とのエッジと対峙しようとする意志、姿。 たった一人で腐海を飛び回り、その謎を解こうとするナウシカみたい。 ずいぶん前に自分のことを「門田(モンデン)君みたいだ」と言って 「どうしてそんな風に言うの?」と窘められたことがある(^^; かといって壮吾さんもアナクロなカッコつけ野郎にしか見えないという 女性読者による評判も聞いたのでまた違う芸風を模索している(?笑)
文学の言葉とサイエンスの言葉、それは本来同じもののはずだった。 また宮澤賢治の名前を出すまでもなく。もっと言えば経済と科学と文学 は密接不可分。高山宏『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ) や巽孝之『アメリカ文学史のキーワード』(講談社現代新書)を参照。 上記は過去の経緯を知るために有用な本。では科学の現在と私たちの 世界認識との間を架橋してくれる仕事はないものか? 80年代には日野啓三さんの仕事なんかを頼りにしていたのだけれど。 港千尋『自然 まだ見ぬ記憶へ』(NTT出版)が、やや近い感覚かも。 あと寮美千子さんという小説家の今後の仕事に、とても期待している。
由良さんには自分の身体で感じる北海道の風の中に三郎伯父の面影を しっかり見出して欲しいものだ。決して先に類型的な予断を持たずに。 ものを書く、とは能う限りそういう姿勢で臨むべき行為だと思うから。 結論よりも過程、そして世界に向かって、すっと立つ姿勢が大事です。 …と登場人物にあれこれと語りかける読者(笑)
私信ひとりごと:西東始先生へ きっと公開講座のレジュメはHPにアップされるんですよね?(^^) 「ガーディアン」のサイード文の試訳と論旨の箇条書きだけでも是非! そのうち講談社選書メチエあたりで「中島敦とスティーブンソン」系 の本を書いて下さることを、勝手に大いに期待していますね〜♪
森の生活の話。ソローハットくらいの狭さの部屋に住み始めて 一年あまりになる。バブル後そしてポスト1995クライシス の空白域のようなトウキョウに住みなすことに興味が持てずに、 居心地の良い場所さがしすらあきらめてしまって、既に久しい。
Y々木公園の“ほとり”に在る部屋は“都市の台風の眼”とでも 言おうか、近辺の人口密度が低くて時に怖いほど静かな場所だ。 93年夏に、北海道へ去る以前に住んでいた芝浦に通じるかも。 80年代の日野啓三さんの小説を好んで読んでいたくらいだし、 ある種、無機的な都市の風景そのものは、好ましく感じていた。
あのころはまだ「ウォーター・フロント」のスポットで夜遊び するのが勤勉な若者の範であったようで、それとは無縁に近所を 散歩していた僕などは、かなりの変わり者だっただろうと思う。 時は移りかわって今の若い衆のライフスタイルを象徴するのは、 どうやらカフェと自転車みたいだったりする。隔世の感あり。 しかも何故か今の僕の生活圏とキレイに重なっていたりする(^^;
日野啓三氏ではなく、保坂和志氏の作品くらいに“日常の強度” みたいなものが僕にあればいいのだけれど、そうもいかない。 毎日通勤電車の群衆にもまれて、スクランブル交差点を我先に 歩く中に混じれば、ある種の「匿名の中の共同性」すなわち、 「いやぁ大変ですな、お互い。ま、何とか頑張りましょうや」 みたいな拠り所に縋るだけの免罪符が得られるのかもしれない。 何も起こらなくても「行きて帰る」だけで「ひと仕事」の一日。
“都市の台風の眼”の暮らしは自分が望んだとおりに不安定で 「旅の延長」のような気分だ。ずっと、どこも帰る場所はない。 自分の心が寄りかかる対象もなければ、対抗する対象もない。 言葉の原義としてのユートピアすなわち“どこにもない場所” としての「北海道」からの亡命者のように、いまここにいる。 いや、精神の地図の上で、ここを「北海道」にも「アラスカ」 にもしようとしているのかもしれない。ヴァーチャルな地図。
「文明」という業病を抱えた人類、 「文化」と「文明」の違い、 システム、ディケイド論の射程距離、記憶、歴史、 終末論…。 富の過剰と偏在があって、それを差配する王がいる、そういう 「文明」の原初的な形を今の地球に透かし見るならば、米軍 それ自体が最大の財であり「文明」そのものではなかったか? あれを育て、支えるために経済が循環してきたのではないか?
アメリカが「文明」という巨大なシステムに掴まれだしたのは 19世紀の半ばだったのではないかと思う。南北戦争に至る道。 その少し前に「森の生活」をしてみたのが、H・D・ソロー。 彼が感じた「文明」の気配なんて、その後の100年に起きた 変化を考えれば穏やかなものだったともいえるかもしれない。
肥大化した官僚組織のような軍や、その合わせ鏡のように退屈 な麻薬マフィアまがいのゲリラ稼業より、もっと絢爛たる過剰、 歴史に残るような馬鹿げた構築、そういう蕩尽の仕方が見たい。 みんなそれぞれの「事情」や「立場」の奴隷にしか見えない。 いまの地球を統べる王たちは、野暮で官僚的で退屈な連中だ。
昭和史の舞台になった練兵場の砂塵を、進駐軍のカマボコ屋根 の建物が建ち並ぶワシントン・ハイツを、東京オリンピックの 選手村を遠く幻視しながら、今は沢山の樹のそばで眠るだけ。 人の手で植えられた樹々も、何十年か経つと立派に繁るものだ。 異なる時間の尺度、ヴァーチャルな地図を意識して生きること。
“ここではないどこか”は、いまここにある。
#10月3日づけ「新世紀へようこそ 010文明について」 に反応しようとしたつもりなのですが、いつものように そこはかとなく論旨が見えないまま通り過ぎてしまいました(^^; 新聞休刊日の徒然なるままに、 BGMは今夜も「St.Bika」です♪
題:122話 鹿の道 人の道2 画:煙草 話:父は自分の人生以上に兄の人生を愛していたのかもしれない
晴れた休日。また散歩しているうちに神社を二つ回ってしまった、 中禅寺敦子みたいな格好をした女の子と一緒に。(<わかるかな?笑) 薄暗い劇場で仮構の物語を観て過ごすよりも“正しい”日曜日か。 ジャン・アレジのラスト・ラン、あれはあれで彼らしいリザルトか、 F1日本GP視聴のあと、今夜も外間さんの『St.Bika』、 音がこんなにリリカルにきこえるなんて耳の悪い僕には特別なこと。 結構わかりやすいアザトさの部分も含めて好き。支持します(^^)
…なんかね、ジャン・アレジを見ていて「人生を愛する」ということ について想うところがあった、というかとても感慨深かったのです。 僕はずっと彼のレースを見てきた。一度はドイツまで観に出かけた。 リザルトも欲しかっただろう、でもいつも走りの快楽主義者だった、 そういうアレジが大好きだった。美意識に殉ずる者、永遠なれ♪
なぜか妙にフツーな↑日記風な今夜、テーマなしの箇条書きにて。
長女は敦子(あつこ)ちゃんだそうです、読み仮名までついてる(^^; 年齢はわかりませんが、彼女の子供の世代はもう御大に届きますな。
『マリコ/マリキータ』(文春文庫)所収の「梯子の森と滑空する兄」 という短編にも見られた、行動する兄/観ている弟という構図は、 なにか御大の中にあるものなのだろうか?
お父さんが語っていたのは1936年からみて二十六年前だそうです。 ということは、1910年…ちょうどハレー彗星が来た年じゃん?! よしよし、しつこい読者はまだあきらめないぞー(笑)
今後どんな時制の“ひねり”で読者をアッ!と驚愕させてくれるのか、 大いに期待させてもらいましょう。
2001年10月13日(土) |
過去の効用、あるいは美意識に殉ずる者たち |
題:121話 鹿の道 人の道1 画:賽子 話:結局、何だったんでしょうね、と由良が言った
章がわり。昭和十一年春、雪解け前の帯広へと時間は跳ぶ。 どういうわけで軍都・旭川ではなく帯広にいるのかは未詳。 三郎の“Life”の謎を由良が読み解く、探偵物語は続く。 残された者が去りし者の遺志の在処を忖度する、黒澤明の 「生きる」のような形式ではじまった章。 「鹿の道 人の道」という表題は、深いものを期待させる。
「なぜああなったか」、過去の出来事を執拗に、かつ共感を もって知り、そして想い、考え続けること。その想像力。 畢竟それが現在の他者を想う力にも成りうるのではないか? 過去とつきあわなければ、自分の視点の危うさにも思い至る ことができない。そう、頼りになる対話相手は過去だけだ。
記録 記憶 美意識に殉ずる者
宇宙の流れの中で、人は何を以て、何ゆえに、何を残すのか? そんな想いに囚われるような、いくつかの結節点たち。
*Live:Aguri〜太鼓とうたと馬頭琴のコンサートツアー 10月10日、六本木スイート・ベイジルにて。 『古代日本のことばで「宇宙の循環の原理を知り天と一体に 巡ること」=”あぐり”に由来』するという名前のユニット。 馬頭琴と口琴などを担当する「喉歌の貴公子」嵯峨治彦氏の 参加するライブに久しぶりに駆けつけることができた。 http://www.mmjp.or.jp/booxbox/nodo/throat-homeJ.html
*画集:『門坂流作品集 風力の学派』(ぎょうせい社) 名前も音も色も形も生まれる前、世界には流れだけが在った、 なんて言ってみたくなるような、知覚の秘密に触れるような、 なぜか懐かしいという感情も喚起させる形象を蒐集した画集。 http://www.pci.co.jp/~moriwaki/ryu/
*CD:外間隆史「St.Bika」(GEMMATIKA Records) とあるオトモダチに「好きだと思う」と薦められたアルバム。 驚いた。これは僕が作りたかった表現形式、聴きたかった音! 遅くなったけどちゃんと僕のもとに届いてくれてありがとう♪ 架空のラジオ・プログラム“サンビカ”うむ、参りました(^^; http://www.mars.dti.ne.jp/~tanig/rev_html/sotoma_takafumi.html
*F1GP:ジャン・アレジの13年に渡るレース・キャリア 明日の鈴鹿がラスト・ランになってしまうF1ドライバーの ジャン・アレジ。彼を観るためにずっとF1を観戦してきた。 美意識に殉ずる者、アレジの走りは永遠に記憶に残るだろう。
こんなに各者各様の個性に惹かれる気分を、貫いているのは…? 「流線型に突っ走るスペシャル・ゴージャス・ハッピーな未来」 …とでも言ってごまかそうかな(笑) 久しぶりにBBS「時風茶房」のノリで書いてみました(^^; なんかここ最近キレイキレイな芸風に傾いている感じなので、 そろそろ反動でメッチャしょうもないこと書きたくなりそう(爆) G−Whoマニアの方は乞うご期待!(<ウソ)
2001年10月12日(金) |
未来圏からの風を継ぐ者 |
題:120話 札幌官園農業現術生徒30 画:蝋燭 話:万事は自然の掟の中にある。これに従えば栄え、背けば廃る。
♪暮れなずむ町の光と影の中、去りゆくあなたへ贈る言葉〜というわけで、 明治十年に十五歳の三郎君に後世の花巻のある教師からの言葉を勝手に(笑)
諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか
以上、『未来圏からの風』からの孫引きコーナーでございましたぁー♪ このあいだの「成層圏の宮澤賢治」で“オトナのための宮澤賢治への導入” というリストを挙げましたが、別段の反応は今のところありません。 好きな人は好き、苦手な人は苦手、というだけの孤独な惑星なのですね、 宮澤賢治って。でも、そういう問題ではない、と言いたかったわけです。 多面体というか万華鏡みたいな人だから、好き組も苦手組もそれぞれに 人々はケンジという現象に映し出された「自己」を見ているのではないか、 と仮説すると妙に納得が行く気がする。そりゃ好きと苦手に両極化するわ(^^; このあいだのリストは、その解毒剤、憑き物落としとして作られています。
『未来圏からの風』(PARCO出版)という僕がとても好きな本に導かれて、 ボストンへの飛行機に乗り、紅葉&黄葉のニューイングランドを旅したのは ちょうど一年前。最近その旅行のことについて、しきりに思い出します。 街の家並みは、今年もハロウィンの飾りつけでいっぱいなのでしょうか? 今日は、去年の旅の最後の日から一年目に当たります。
アラスカでもネパールでもバリ島でもなく、ニューイングランドへ行って、 リン・マーギュリス博士の講義を受ける気分で、著書の邦訳を読んだのは とても楽しい体験でした。それもアメリカで育まれた対自然観の舞台である ウォールデンポンド(ソロー『森の生活』)やナンタケット島(メルヴィル 『白鯨』)を巡りながら。そして究極の人工都市・ワシントンDCの滞在。 リン・マーギュリス博士の所説を読みながら、昨日触れた巽孝之氏の仕事 の知見を適用すれば、21世紀的世界観へのヒントさえ得られそうです。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」として 一体どんな世界が構想できるだろう?「共生」という言葉を道徳的価値観 とか美意識から解き放って、一旦ニュートラルな科学の言葉に戻してみる、 そして考えてみること。十九世紀の後半よりも事はややこしくなっている。 でも悪くはなっていない、取り返しの着かないことにはなっていない、と ひとまず考えてみること。
若いアメリカから吹いて来る清新な風、ジョン万次郎も感じただろう未来圏 からの風、それを三郎は今、その身いっぱいに受けて全力疾走しています。
“来年”十六歳になるという彼の誕生日は…、八月八日。
題:119話 札幌官園農業現術生徒29 画:注射器 話:現術生徒としてこの官園で学ぶ日々もまもなく終わる
明治十年も十二月十五日まで来ました。
三郎君はもう少し札幌に留まって、開拓使で仕事をすることを 企てているようです。「文明」が面白くて仕方がないようです。 明治国家、薩摩帝国の異常とも言える肩入れによる北海道特需も そう長くは続かない、という歴史を知っていると切ないですな。 #再三ご紹介している『日本競馬を創った男』を副読本に是非♪
いま三郎君の眼に映っている“未来”は、きっと訪れない。 でも彼ならきっと知恵を使って、周囲を魅了して、よく働いて、 魅力的な“未来”を垣間見せてくれることだろう。 もしかしたらエドウィン・ダンその人とも出会うかもしれない、 このあとの展開で。ダンにとっての北海道もまた夢のキャンバス と言うにふさわしい魅力的な土地だった。
未来はいま、私たちの視線の彼方にある。 近代の立ち上がりの頃の若者たちような“野心”は持ちにくい かもしれないけれど、生きていくのは他の誰でもない、自分だ。 心地よくて具体的なヴィジョン、それを持つことが大事。 そのために今日なにができるか?
人生の持ち時間は少ない。
2001年10月10日(水) |
進化論、千年王国、新書魂 |
題:118話 札幌官園農業現術生徒28 画:ロザリオ 話:天の日や月などはいかにして造るのであろうか
レトリックとして聞いてもらいたい。 「アメリカ」というのは、あれ自体がひとつの巨大なカルト運動体だと 思って対処したほうが、他国は身を誤らないのではあるまいか?
この珍奇な対米観は、栗本慎一郎『幻想としての経済』(青土社)所収の 「失われた千年王国とアメリカ 日米経済摩擦と文化のパラダイム」を 少年の日に読んで以来、僕の中に巣くっている。 「ハ〜イ!」と一見にこやかなヤンキーの振る舞いの裏には「他者」が 理解できない、怖くて仕方がない、だからとりあえず敵意がないことを わかりやすい態度で示しておかなければ、という心理があるというのだ。 そして自己ないし自己の属する集団の「幻想」を限りなく追求すること に対する関心が強い。それを邪魔する「他者」に対しては断固団結する。 友人にすれば頼もしい限りだが、うっかり「敵」にしたくないタイプだ。
そういう基本属性を呑み込んで、過剰な期待や逆に反感を抱くことなく、 友人としてつきあうなり、戦争するなりしたほうが、見誤らずに済む。 怖いのは、誰かの無知による誤解から、米国の出方を見誤ることによる 不測の事態、不幸な出来事の拡大だろう。半世紀前の日米関係のように。
民主主義の家元、グローバル・スタンダードの卸問屋、資本主義の覇者 なるがゆえに、敗戦国日本は特にアメリカへの劣位コンプレックスが 作動して、彼の国の美点と欠点を冷静に見切ることが難しいのだろう。 だからこそ、文化人類学者がどこかの「未開社会」を研究するみたいに アメリカの無意識と行動様式、多様で変わりゆく内実を知る努力が要る。
この巨大な運動体が生まれた歴史的必然と未来は、地球上に生きる者に とって他人事ではないのだ。
ただのSF批評家ではない「超米文学者」巽孝之氏の“新書3部作”は、 “アメリカ”にも“文学”にも興味がなくても、われわれが生きている “現在”と“未来”に関心がある向きには必読、かつ滅法おもしろい。 「わかった気になれる」新書魂も、サービス満点で詰め込まれている♪ *『恐竜のアメリカ』(ちくま新書) *『アメリカ文学史のキーワード』(講談社現代新書) *『「2001年宇宙の旅」講義』(平凡社新書)
三冊を通じて実感できることは自然科学的な観念や発見、テクノロジー と時代の政治経済あるいは社会的な事件との間にある強い連関である。 もしかしたら「地動説」よりも「進化論」のインパクトと意味のほうが 大きかったのかもしれない。そしてそれは現在も続いている問題である。
自然科学を解する作家には、いっぱい良い仕事をする義務がある(笑)
題:117話 札幌官園農業現術生徒27 画:釣り針 話:志郎よ、今はそちらも一面の雪であろう
静内の雪景色を映像で見るなら「優駿」を見ればよい。 いまの静内の生産牧場の生活の雰囲気を味わうならば、 ゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミンUP』(小学館)を 何度か薦めてきた。牧場で働いてみたいという若い人にも。 実際僕が浦河町で懇意にしていた牧場には、内地から来た 若い衆が結構いた。よく関西弁も聞こえてきたくらいだ。 ニュージーランドやアイルランドなどから来た人々もいる。 のっぴきならない閉塞の中にいて、馬や草に囲まれて身体 を動かしながら明け暮れを過ごしてみたいならば、日高に 行ってみるというのはアリだと思う。
北海道に住んで何がいいって、雪に尽きる。 より精確には、雪の季節と緑の季節が交互に巡るということ。 それはもう同じ場所とは思えないくらいに変わる。
雪が積もれば、もう緑の季節は来ないような気がする。 緑が萌え立つ頃には、雪の季節なんて想像もできない。
余所から北の国に移住した身体は、その変化を納得できない。 でも、いくつかの季節が巡るころ、ふと空気の中に何か 次の季節の匂いが混じるのに気がつくようになる。 緑の世界の背後に雪景色を、一面の雪に重ねて草の海を、 感じることが出来るようになる。 場所に生きているのではなく時間の波の上に生きている感覚。
一年前のコロンブス・デー、紅葉のニューイングランドにいた。 あそこもそんな国だった。トウキョウも紅葉の季節が近い。
2001年10月08日(月) |
非原理主義者の惰弱な日常 |
題:116話 札幌官園農業現術生徒26 画:コルク 話:酒もおなごも何がおもしろいのか
「酒もおなごも」嫌いではない。 革命の大義とかも快感を与えてくれそうだけれど、幕末の人物の中で 誰になりたいかと問われれば、坂本龍馬でも榎本武揚でもなく高杉晋作を選ぶ。 遊び好きで女性にもモテて自分勝手で、でも手がつけられない行動力がある。 で、一番美味しいところを持っていって、さっさと病気で死ぬ(笑)
現世の愉楽ではなく、火のような熱情を以て、死と来世を想う人々もいる。 日本現代史にも「原理主義者」が力を持った局面がある。つい昭和の話。 「法華教原理主義者」とか「神道原理主義者」とでも呼びうる人々。 総体として彼らのテロルの与えた恐怖が及ぼした力は、日本近代を動かした。 どちらかといえば、否、明らかに暗く血生臭い方へ。
それはここ150年くらいの地上の歴史の中でもなかなかに目立つ行動 だったのかもしれない、日本の多くの人々が思うよりはずっと。 それ故にこそ渦中の人物オサマ・ビン・ラディン氏は、 しきりに現代史上の日本国へと秋波めいたものを送る。 なにしろアメリカ帝国の原爆二発を受けた国なのだ。 地球上を覆っているアメリカニズムに対して最大の“否”を突きつけた 「功績」は日本に与えられる、というわけだ。
「買い被り」だと思うけどね。 日本はアメリカさんの“お目こぼし”の範囲で、真似っこのショボい帝国ごっこ をやっていたに過ぎないし、「まぁ満州は“お目こぼし”してやるか」という アメリカさんのシグナルを頭に血が上って読み違えて、パールハーバーに「奇襲」 をかけてしまったという程度の国だったのだろう。
…なんてことは後知恵ならば、いくらでも言えるのだ。 いま国家政策として、何をどうするのがベストなのか、ベターなのか、 ちゃんと精確に世界が何でどう動いているのかを知った上で実行すること、 国家という単位じゃなくてもNPOでも企業でも個人でもいい、 それが出来るのかどうかということが肝要だ。 日本に比べて立場は違うが、英国やEUのそれぞれの対応の老獪なこと。 中長期的にどうかはそれこそわからないが、少なくともそう見える。 なんてことを思いつつ、また満州や南洋関係の本を読んでみたり。 もちろんカフェーでケーキとか食べながらね。惰弱なり(^^;
最近の「新世紀へようこそ」のサブタイトルを下に。
004 根元的矛盾 005 意図と偶然 006 「ディア・ヨーコ」 007 フィクションと現実 008 報復の対象 009 殴られた 010 文明について 011 自衛ということ 012 再軍備 013 途上国びいき 014 『騎馬の民』 015 テレビという武器
僕が時勢や「新世紀へようこそ」について言及しないのは、 自分が知らないこと、わからないことが多すぎるからだ。 それは時事情報に関して、というわけではない。 ヒトの生態、世界を動かすもの、その仕組み、 そういうベーシックな部分についてもっと考えないことには 目の前に映るものに対して自意識で反応して空回りするだけだろう。 ウェブをウロつくとイヤでも目に付く時勢を巡るコトバの中で、 僕がわりと“頼りにしている”のは下記の二つのサイト。 *「ツキモトユタカの癇癪日記」 http://www.diary.ne.jp/user/19481/ *「副島隆彦の今日のぼやき」 http://soejima.to/
題:115話 札幌官園農業現術生徒25 画:王冠 話:麦の方はビヤと呼び、葡萄の方はワインという
三郎のように「酒というものがわからない」とは言えなくなって久しい。 頻度も量も極少ないのだが、酒の種類と味はずいぶんと覚えた。 酒の魔力に酩酊しているときの時間の流れ方、というものがある。 夢にも遠い過去の記憶にも似ている。それが心地よくて、また飲む。 ショウガナイネ、マッタク。
*チェーホフ作、岩松了・演出「三人姉妹」(シアターコクーン) なんだってこの物騒なご時世に芝居見物ばかりしているのか、という週末。 かつてサラエボで「ゴドー」を上演したという故事もあるし、演劇は力を生む。 かといって滑稽な芸術至上主義は、滅ぼされる兵営で良い和歌を詠んで、 その治世の正統性を保持しようとするような言霊主義的転倒を呼ぶ。 ま、本当に「有効」なのなら呪術でも念力でも良いのだけれど(^^;
にわか観劇者なので演劇には全然詳しくないのだけれど、 チェーホフの登場人物の特徴なのかロシアのインテリゲンチャの物言いなのか、 やけに「あと30年もすれば人間は」とか「200年や300年後の未来には」 とかいうセリフが耳に着く。チェーホフ自身の生きた時代からみれば遥か未来を 我々はすでに生きているわけで、そういうセリフは妙に生々しいタイムカプセル のように役者たちの肉体を通して自分の中に響き始める。
ひるがえって自分は今、300年先の未来には…という思考を持つことがあるか? そしてそういう時間スパンと同時に語られる、“崇高なる精神の勝利”とか、 “人類の革新”みたいなものを、おぼろげにでも信じられるか? 現在の自分たちの営みを300年後の人たちがどう見るか、という視点で ものを考えることがあるだろうか?
時間感覚の持ち方、それと世界像。そこには不可分の密接な関係がある。 生まれて生きて死んでいく。有限の肉体を共に、他の誰でもない自己として。 ある時間を過ごすということは、他の時間を生きる可能性を喪うことでもある。
つらつらと、そんなことを想いながら舞台の上のイリーナ役・緒川たまき嬢を ウットリと「鑑賞」していたら、登場人物達の形而上的な会話が過ぎて行った。 どうやら彼女に酩酊して、違う時間に入り込んでいたらしい(爆)
題:114話 札幌官園農業現術生徒24 画:プラグ 話:見聞が広まり、知らぬものを食えるのが嬉しい
世界、そして未来に向かって見開かれた新鮮な眼差し。 若者の旺盛な食欲、知識欲。 それを好もしいものと感じられるかどうか。
無力で無名だが、ありあまる体力と意欲を持つ人もいる。 人生に“未来”の時間が多くは残されていない人もいる。
久しぶりに本業が完全オフだったので、芝居のハシゴをした。 *TEAM発砲B-ZIN「ゴメンバー・デ・ショー」(新宿スペースゼロ) 戦隊もののコスプレめいていて意外にオーソドックスでウェルメイドな 作風が特徴の発砲だが、今回は旧作の続編的な作品。 往年のジャッキー・チェン映画みたいな、夢はあるけど弱い男の成長物語。 キャラメルボックスが果たしつつある、キャストの世代交代あるいは 世代交錯に挑戦しているようで、若手が真ん中に来ている。 そのせいか発砲にしては…精彩を欠く感は否めなかったかな。 まだまだ「そんなムチャすんの?」「サービスしすぎ」という発砲の真髄を 観ていたい…というのは、望んではイケナイことなのでしょうか? キャラ立ちが良くて魅力のある役者さんが揃っている劇団なだけに、 バラ売りの客演とかより劇団として弾けて欲しいな、と願っています。
*泪目銀座「LOVER SOUL」(シアター・トップス) 早晩だれもが名前を知ることになるであろう劇作家、福島三郎さんの ナミギン新作です。前に紀伊国屋ホールで観た時、客席の空気にそういう “大ブレイク前夜”感を感じた。今回はトップスと地方でロングラン形式。 やっぱり舞台を観るならそこそこの大きさのハコのほうが熱が伝わるしね。 でもなんか贅沢でした。この達者なメンバーならコクーンくらいの大きさ だって同じ熱気で客席を包めるだろう、という感じ。 言ってみれば“病棟シチュエイション幽霊コメディー”なんだけど、 「生と死」の描かれ方があまりに優しくて切なくて秀逸でした。 ナミギンのBBSを見てみたら僕の見た回は、特に客席が熱かったらしい。 前半の笑いのシーンの反応が大きいほど、後半の“泣き”も深い、という 演劇の法則をそのまま立証したような夜だったのかもしれない。 飛び込みで入った1列目の前の補助席、役者さんとぶつかりそうな距離感。 それにしても、渡辺いっけいさんってスゴイです、やはり。 僕の贔屓の柴山智加嬢がヒロイン、女優として幸せな良い仕事してます(^^) こちらはまだしばらくやってるので、ぜひオススメしたいお芝居です♪
時勢の推移に感じるところがあって沈黙しているわけではない。 単に物理的に多忙であったり、無精で怠け者だったりしただけ(^^;
ともあれ、三郎君は元気に学んでいるようで何よりだ。 世界を新鮮に捉えている彼の目を羨んではなるまい。 現在の僕にだって、同じように“見ること”は可能なはず。 諦念の彼方に強い光と影のコントラストに彩られたリアルがある。 生きていよう、愛しい者たちと。だらしない時間を重ねても。
BGVは、Coccoのシングル・クリップ集DVDね♪ で、遅ればせのマイ・ブームは意外にも「ちゅらさん」(笑)
では、ここしばらくの「静かな大地」への一言コメント集。
10月2日 題:110話 札幌官園農業現術生徒20 画:鋲 話:では私らが北海道をオランダと成そう
もしもし?榎本武揚公に触れるのはいいけれど、 お話の運びが『武揚伝』のサマリーではありますまいか(^^; 三郎少年を“夢を継ぐもの”とするエピソード。 やはり『武揚伝』は第一級の副読本、書評が読みたいです。 同時に面白く『武揚伝』を読んだけど現在の日本と結ぶ線が 見えない方は「静かな大地」を読みつづけてみませう(^^)
10月3日 題:111話 札幌官園農業現術生徒21 画:靴ベラ 話:最初にベーマー先生が歌われた
軍歌、労働歌、革命歌。詞、メロディー、声。 未来にもバリケードの中で高らかに声を合わせて 革命歌を歌ったりすることはないだろうけど、 路上で歌う若い衆の声に足を止めることはある。 歌の持つ共同性の力。観念と身体と他者を媒介するもの。 『言語とフェティシズム』の故・丸山圭三郎先生は、 ソシュールの研究者であり、カラオケの名人でもあった。
「じゃ、歌っちゃおっかねぇ♪」(古波蔵恵文)
10月4日 題:112話 札幌官園農業現術生徒22 画:釘 話:薩摩征伐に五十名も出征したとはまっこと驚き
明治10年という時代。西南戦争の意味。日本の北と南。 北海道開拓のグランドデザインを決める明治政府は、 ほとんど「薩摩帝国」そのものでもある。 近代の自家中毒ともいうべき内戦の多大なコストを思うとき、 穏健な公武合体路線による改革の途はありえなかったか、 というシミュレーションが必要だろう。 “19世紀の魔物”、英国が許さなかったのだろうか? パレスティナ/イスラエルにも、アフガニスタンの現状にも 長いスパンで「責任」を持つ“世界史的いらんことしぃ”。 うーむ、やはり「異貌の英国史」が欲しいところか(^^;
10月5日 題:113話 札幌官園農業現術生徒23 画:栓抜き 話:“ポッコーン”の作り方
相変わらず「作り方」系の好きな作家さんです♪ “人生のエピキュリアン”ですしね、僕に言わせれば(笑)
それこそが最大最強の抵抗の拠点たりうるのだ、というのが 「楽園は可能だ」とウソぶく“なりゆき主義”者の持論かも。
とても真似できませんな(^^;
2001年10月01日(月) |
人生のエピキュリアンをめざして |
題:109話 札幌官園農業現術生徒19 画:クリップ 話:ここでは芋の種類もまた英語で覚える
あぁ、寝てない食べてない…のに、F1アメリカGP見ちゃった(^^; 明日も早いというのに。珍しく派手なオーバーテイキングが何度も 見られる、なかなか面白いレースだった、リザルトはともかく。
近現代史のリテラシー能力の話のついでに英語のことを書いたけど、 結構真面目に「英語力」の有用性を感じさせられている。 これだけ時間が無くて意志薄弱な人間だと、メソッドの技術革新が 進んでも単純に労力を「投資」する原資がない状態(^^;
さて、本日登場の“ベーマー先生”、いきなりエドウィン・ダンの 親友だったりします(^^) 『日本競馬を創った男』も必読度上昇か?
「移民文学」を志す“在沖縄北海道移民の末裔”作家さんの今後の 猛プッシュに期待♪(<勝手にいろいろ決めつけてみる 笑) では、掲載間隔がわからない「あらすじ」を↓引用。 そーか、14歳だったか、と毎度ながら年代ばかり気にする奴(^^;
≪あらすじ≫由良は淡路島から北海道の静 内に入植した伯父三郎や父親志郎の歩みを調 べている。秋山五郎からは、アイヌと仲よく したのが兄弟の苦労の始まりだったと聞く。 姉からは父の遺品にあった、古い手紙が送ら れてきた。西洋の思想や技術に初めて出合っ た体験を、14歳の三郎がつづっていた。
そして、ついに、ついに、明日は榎本武揚の話だよぉ、 どうなるかねぇ、おばぁも楽しみサァ♪(<抜けないらしい 笑)
『武揚伝』の書評より前に実作で触れることになるとは愉快なり♪ 明治10年だと榎本公はまだサンクトペテルブルグにいるころかな。 色川大吉の名著『日本の歴史21 近代国家の出発』(中公文庫)の 冒頭に明治11年、内乱の余塵燻る極東日本を目指してシベリアを 東へ急ぐ榎本の、印象的な叙述がありましたね。 なにげに明治のことって、もっともっと知りたくなってくる。 ひとまず星新一『明治・父・アメリカ』(新潮文庫)からはじまる 一連の作品をオススメ再度。 あとは僕の知識は荒俣御大の『帝都物語』ですからねぇ(^^; 山田風太郎先生の明治ものも、少ししか読んでなかったので着手 したいと思いつつ、はや幾年…という感じ。もっと時間が欲しい。 人生の持ち時間は増えないけど、使い方は自由。 自分が後悔しないように、精一杯ムダなことに費やしたいものだ。 日頃よく内的独白している「今日やらないことは一生やれない」、 “兆し”のようなものでも今日の一日の内に種を蒔いておけたら その萌芽がちゃんと後で実りをもたらす。 これぞ無計画人間の行きあたりばったり人生を正当化する屁理屈、 これでどこまで逃げ切れるか、やってみようか。 「人生のエピキュリアン」能力の向上をめざして♪
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