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ラヂオスターの悲劇
トマーシ
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2006年02月19日(日)
息を潜める

例えば階段という言葉を選ぶとしよう。例えの話
するとそれはいつも螺旋階段だ。天上に向かってか、ただの天井に向かってか、つまりそれは上り階段。僕の中でとか一般的にとか、まぁこの際度外視して。度外視したとして。あるいは度外視できたとして。作り話を作るとして、まぁやはり僕が階段を選ぶとしたらそれは螺旋階段。よく出来た話を作ろうとして階段を選ぶとしたら螺旋階段。他の人の考えることは分からない。でもとにかくそれは譲れない。何の観すぎだというのか?ひとつはっきりしているのは螺旋階段はとても未来的に見えることだ。この場合ニュアンスとしてはっきりさせたいのはレトロに未来的なところだ。つまり純粋に未来的。それが現在もう未来とは純粋に一致していないことがそれが最も未来と一致していた時分を明確にする。そういう濾過を濾すと、僕には純粋に見える。そう、その螺旋階段は古めかしい樫の木では出来ていない。アメリカンゴシックの小説に出てくるような螺旋階段とは全く無縁なのだ。SF映画の宇宙船に出てくるような螺旋階段。その驚くべき機能性がまだ十分に居住空間と一致していなかった頃の螺旋階段。勿論それは典型的なだけで、本質はもっと形而学的だけれどもその綺麗にパッケージングされた映画では誰もその階段を上る途中で立ち止まろうなどと思わなかったであろう代物だ。映画の主人公たちは優雅に螺旋階段を下りてくる。僕は、あるいは僕らはそれを好奇心から上り始める。それで、もうそろそろ潮時なんじゃないかとふと立ち止まってしまう。それからふと昔などを思い出したりする。あの階段のというのはつまりこの階段の先に何があるのだろう?あるいはあったのだろう?ところが映画ではそんな生活の匂いなど微塵も感じられない。さて、そのころは螺旋階段は確かに未来を主張したり象徴したりしていたかもしれないけれど、今では何を引き寄せようというのだろう。闇や沈黙はたいがい一緒にそういう問いを持ってくる