Memorandum
− メモランダム −
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2002年10月26日(土) |
フジの放送免許取り消し、朝日・毎日の発禁処分を望む |
子供をダシに使った北朝鮮の謀略放送(横田めぐみさんの娘のお涙頂戴三文芝居)を そのまま垂れ流したフジテレビ、及びその共犯の朝日新聞・毎日新聞には、 反吐が出そうなくらいの不快感を覚えた.。これは歴史的暴挙である。 国益のかかっているデリケートな問題を弄ぶ売国マスメディアには、何らかの処分が必要ではないのか?
政治宣伝に子供が使われる事は、ヒトラーの昔からよくある事だ。 「15歳の純真な少女」.であろうがなかろうが、あの国では立派な「革命戦士」である。 キム・ヘギョンは、金正日脚本・演出の猿芝居を喜んで演じているのである。 つまり、それが国家と党への忠節と信じるような教育を、産まれながらに擦りこまれて今日に 至っているという事だ。 そのような北朝鮮の謀略を垂れ流して視聴率欲しさのテレビ局、 売らんかなの商業新聞には、呆れてものが言えない。 こういう事では、メディア規制は必要だと思わざるを得ないのは、当然の認識だろう。
だが、日本国民は、マスメディアが侮蔑しているよりは、バカではない。 現に、フジテレビには抗議の電話やメールが刹倒したという。
これからも我々は、メディアへの執拗な監視を怠っては、ならない。
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石井紘基衆議院議員刺殺は右翼団体の男が逮捕された。 動機は、今のところ金銭トラブルが原因とされている。 だとしたら、バカの一つ覚えのように、 「民主主義への挑戦」等の空疎な決まり文句を並べた小泉・鳩山の責任は、どうなるのか?
政治家は言葉が命,である。
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チェチェン武装グループによるモスクワの劇場占拠事件は、 特殊部隊の強硬突入により決着した。 欧米には、「テロには決して妥協しない」という強い信念がある。 多少の犠牲者が出ても、結果において市民社会のシステムを守る事が重要なのである。 このへんが日本とは異なる点だ。
かつて(1977年)、日本では、ハイジャック事件を600万ドルもの身代金を支払って”解決”し、 世界中から嘲笑され人権感覚に不信を持たれた事がある。 時の首相は、「人命は地球より重い」なる迷言を吐いて自己正当化したが、 かのテロリストたちは後にローマなどで爆発事件を起し、外国人を死傷させている。 つまり、「日本人の人命は外国人より重い」ということになってしまったのである。
人権や人命は、それを守っているシステム(市民社会)が守られてこそ初めて成立する事を、 肝に銘じなければならない。
2002年10月25日(金) |
力なき正義は無意味である |
前回の『豊臣家の人々』に引き続き、司馬遼太郎の『関ヶ原』『城塞』(新潮文庫)を一気に読了した。 私はこれまで司馬の熱心な読み手ではなかった。 まあ、幕末・維新にはかねて興味を持っているので、 『竜馬がゆく』や『翔ぶが如く』『世に棲む日々』等々は読んでいたが、 戦国物を読んだのは『国盗り物語』以来だった。 『関ヶ原』はその名の通り、豊臣秀吉死去から関ヶ原の戦いに至る、 石田三成と徳川家康の丁々発止の戦いの記録である。
三成=西軍敗北の原因は、いろいろある。 秀吉一代で成り上がった豊臣体制の不備、或いは、三成の人的狭量・・・等々。 しかし結局は三成の分限が19万5千石足らずの小大名だった事だ。 一方の家康は250万石余りである。これでは勝負にならない。
また、『城塞』は関ヶ原以降、大坂の陣での豊臣氏滅亡に至る過程を描いている。 ここでも豊臣滅亡の原因は様々に考慮される。 家康の悪辣や、淀殿に支配された大坂方の無能etc。 しかしここでも所詮は「力」である。 例えば開戦直前まで大坂と関東(家康)の調整の狭間に立たされた片桐旦元(豊臣家家老)の苦悩は、 こう描かれている。
強弱でいえば、本来、外交などということも、これは強者のためにあるもので、 弱者の外交というものは本来成立しがたいものなのかもしれない.。(『城塞(上)』)
確かに家康は豊臣氏に無理難題を押し付けた。 その意味では豊臣氏に道理がある。 でも所詮、力なき者の道理は無力であり、そこで提唱される正義はひかれ者の小唄だ。 だから豊臣氏は滅ぶべくして滅びたし徳川氏は260年に及ぶ栄華を誇った。 これは今日のパワーポリティックスにも共通する教訓であろう。
歴史に「IF」はないのかもしれない。
2002年10月20日(日) |
司馬遼太郎『豊臣家の人々』(中公文庫・角川文庫) |
(久し振りに読書感想文を書きます)
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いきなり余談だが、完全滅亡した戦国武将・大名家というのはあまりない。 例えば信長の織田家は、別に本能寺の変で絶えたわけではなく、 信長の弟や子の家系が大名・旗本として江戸時代も存在している。 或いは早雲以来の後北条氏は、秀吉の小田原攻めで滅亡とよく書かれているが、 実は河内狭山1万石の大名で明治まで続いている。 また、関ヶ原の敗者である石田三成や大谷吉継の子孫も、藩士クラスでは残っている。 明智光秀ですらガラシャを通じて細川家に血が続いている。 完全滅亡して家系も血統も伝えていないのは、秀吉の豊臣家ぐらいのものかもしれない。
さてその豊臣家だが、この家が特異なのは、「豊臣」氏が「源平藤橘」と並ぶ賜姓 (天皇から賜った姓)であるという事である。 すなわち、俗に「氏素性」とは、「源平藤橘(プラス豊)」の5氏を指す。 例えば徳川家康の「徳川」とは俗姓であって、正式には「源家康」となる。 もっとも家康の場合、源氏でなければ征夷大将軍になれないので源氏を騙った、ニセ源氏なのだが、 うまく新田源氏の系図に結びつけて源氏を称する事ができたのだ。 でも秀吉の場合、百姓の出で源氏でも平氏でもない事は天下に歴然としているので、 「源平藤橘」以外の新姓として「豊臣」姓を賜る事で関白の地位に就いた次第である (従って本当は豊臣ではなく単に「豊」氏というのが正確なのかもしれない)。
その「豊臣家」はたった30年で消滅してしまった。 秀吉一代で成り上がり、秀吉一代で潰れたわけだ。 秀吉の子種が薄かった事が最大の理由だろう。 もし子沢山だったら、大坂の陣で滅亡しなかっただろうし、 そもそも関ヶ原で政権を徳川家に奪われる事もなかったに違いない。 ただ、尾張中村在のたかが足軽百姓のせがれの「猿」が、天下人・豊臣秀吉になりおせてしまった事は、 彼にまつわる人々の生き方をも変えた。 司馬遼太郎が『豊臣家の人々』で取り上げたのは、 血族や係累の少なかった秀吉の、それでも「一族縁者」と言える人たちの不思議な人生である。 「大和大納言」の異名で知られる秀吉の異父弟・秀長、 家康と政略結婚させられた妹・旭姫、 秀吉の養子になった甥の秀次、小早川秀秋、 同じく養子になった宇喜多秀家、 家康の実子ながら秀吉の人質から養子になった結城秀康、 正室・北の政所(おね) 側室・淀の殿(茶々)、 そして、その子(秀頼)....。 彼らに共通するのは、秀吉に降りまわされた自分たちの人生はいったい何だったのかという、 不可解な思いだ。
例えばただの百姓に過ぎなかった弥助は妻の兄(秀吉)が天下人になった事で、 その一族として俄に大名にされてしまった。 さらに秀吉に実子がなかったために自分の子がその後継者(関白秀次)になり しかもその秀次が謀反の汚名を着せられ殺戮される事で、 弥助自身も所領と官位を没収されもとの平人に戻されてしまう。 自分では何もしていないのにただ秀吉に翻弄された、めまぐるしい人生である。 司馬はそれをこう書いている。
「なんのことだ」 この弥助は、讃岐の配所でわが食い扶持を耕しつつ、日に何度もつぶやいた。 なんのことだったか、この実父もまた自分の一生の正体が理解できなかったにちがいない。
「なんのことだ」、 というのは、秀吉に関わった「豊臣家の人々」に共通する、 そしてこの連作小説のテーマだ。 と言って司馬はその張本人である秀吉を責めているのではなく、 彼の筆致には秀吉の「豊臣家」という、突然異変のように歴史上に勃興し、そして消えて行った、 奇妙な存在に対する限りない愛憐の情が窺える。 例えば家康より秀吉を司馬が好んでいる事は、『覇王の家』『関ヶ原』『城塞』での 家康と彼の「徳川家」への、悪意的とも言える描き方にも表れている。 近年(とくに司馬没後)、「司馬史観」などともてはやされて、司馬が一個の「歴史大家」であったかのような虚名に飾られいたる。 しかし彼は紛れもない小説家であり、そして詩操家であり、 かつまた、そのようにしてのみ評価されるべきであろう。 それはこの『豊臣家の人々』本文の、情感溢れる最後の一文でも明かである。
「… このようにしてこの家はほろんだ。 このように観じ去ってみれば、豊臣家の栄華は、 秀吉と天才が生んだひとひらの幻影であったとすら思える」 …。
2002年10月18日(金) |
連続ドラマ:拉致問題の行方 |
どんなに我々が「善意」の人であろうが・・・ 所詮、テレビのブラウン管越しの、民でしかない。 したがって、まるで「連続ドラマ」のように、 拉致被害者の一時帰国を見詰めるしか、ない。 ワイドショー的「感動猿芝居」の茶番に怒りを覚えたとしても、、、 インターネットの向こうでの、遠吠えだ。
例えば曽我ひとみさんが、当初の暗い表情から一転、 24年の時を超えて、まるで10代の少女の昔に返ったように 父親に首ったけになっている姿に、我々は涙する事は、できる。 或いは、蓮池兄さんが、兄弟の情愛に流される事なく、 北朝鮮の犯罪を直視する冷徹な姿勢を、心強く思ったりも、する。
でも、それだけだ。
一方で、横田めぐみさんのご両親ご夫妻の映像には、もう飽きた。 めぐみさんは、私と同世代だが… でも彼女の、拉致以降の過酷な人生を思い描く想像力が、私にはない。 一億国民が待っているのは 実は、いつ「敬愛する将軍様」の言葉が拉致被害者たちの口から出るのか? だったりも、する。
そんなもんだ。
さて明日は... どんなドラマの展開が見られるのかな?
2002年10月17日(木) |
戦前の日本は今の北朝鮮か?? |
北朝鮮による日本人拉致事件という国家犯罪、 そして、北朝鮮という恐怖政治の軍事独裁国家体制…。 この弁護しようのない事実に対して、 しかし、それを緩和し相対化しようとする言論が日本に存在している。 やれ、「戦前の日本による植民地支配」がどうの、 果ては、戦前の日本が今の北朝鮮の体制と同じようなものだったかのような トンデモ説を唱える者すらいる。 そもそも、今現在も進行中の国家犯罪や軍事独裁国家を 半世紀以上も昔の日本に対比させて相殺しようとする論理自体が論外だが、 それ以前に間違って欲しくないのは、戦前の日本への認識である。
まず、日本は朝鮮を「植民地支配」した事はないのである。 あれは「日韓併合」である。 つまり、例えば北海道が日本であるように、朝鮮も日本だったのだ。 法的な建て前上は内地も半島も平等だったのである。 勿論併合そのもの、そして「平等」の中身にも問題があるが、 少なくとも植民地支配とは実態が異る。
そして、戦前の日本は、今の北朝鮮と似ても似つかない。 戦前の日本ですら、当時の世界的水準から見れば十分に民主国家だったと言える。 そうでなければ、例えば「大正デモクラシーの時代」なんかが、あるわけない 不完全ながら「憲政の常道」による二大政党政治も存在し、 美濃部達吉の天皇機関説のような、国家体制論も自由だった。 この天皇機関説が弾圧されたのは昭和10年代になってからである。 また、戦争下において思想言論が統制される事は、何も日本に限った話ではない。
更に珍説なのは、今日の北朝鮮の在り方が、日本(の植民地支配)に責任があるかのような言説だ。 悪い事は、なんでも日本のせいらしい。 こういう事を言う人は、米ソ対立の歴史も知らないのだろうか。 「日本のせい」…だったら、東南アジア諸国が戦後、欧米から独立を果たし得たのは、 日本の「大東亜戦争」のおかげであると評価するのだろうか??
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