坐骨神経痛&腰痛(BeBe)
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2003年03月31日(月) 会社を休んだ

N病院でのブロックをやめて、症状は悪くなっている気がする。
これを機会に赤本のCDを何度か聞き直した。目標設定が出来ていない事や、潜在意識への介入の部分が出来ていない事を再認識した。
このことがどうしても、出来ないのだと改めて感じた。

昨日は休日で、昼間は何も出来ず時間だけが過ぎてゆき、少しでも睡眠時間を多く
取りたいと思って早くに眠剤を飲んで横になった。ところが、2時頃に目が覚めて、身体がだるくて風邪引きの様な状態になって(風邪の症状はない)、朝方には、もう身体がだるくて全く動かす気力が出ない。





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それで、結局会社を休んだ。なんどが仕事の事で問い合わせの電話があり、目が覚めたがそれ以外は夕刻まで横になったままで一日が過ぎた。
これもTMSなのか?
どんどんと精神病になって行く気がしている。「もうどうにでもなればいい」と心の中で言っているのを必死になって抵抗している、そんな気持ちになる。

TMSの掲示板での意見については、みんな分かる。分かっていても身体も気持ちも動いて行かない、動こうとするのを拒絶している様な気がする。


2003年03月23日(日) 気がかりな事を減らす

ストレスリスト(腹立ちノート)に挑戦した物の、これは向き不向きがあるというので中止する事にした。
今日は朝から身体を動かす事にした。家中の片付けと掃除をする事にした。
子供の部屋が一番ゴミだらけで、生半可な状態じゃなかった。ゴミを部屋から取り除き、掃除機でゴミをなくしてぞうきんがけをした。窓ガラスもサッシも汚れがひどくて、ぞうきんはすぐに真っ黒になる。
床掃除も一度では済まない。廊下もした。
その間中、脚は痺れと痛みが繰り返す様に襲ってきた。今より悪くなるなら、それも仕方がない、そうなったらなった時に考える。脚がつりそうになった時は、そんな事を考えた。
ストレスも無意識の物が対象だから、書き出したり、考えて意識するようになったら、無意識じゃない。これは理屈に合わないな、なんて事も考えた。
明日は、多少の筋肉痛くらいは出るかも知れない。





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長男と次男が使っていた部屋だったけれど、長男が家を出たので次男は一人で使える事を喜んでいた。掃除をしながら、長男の物を部屋からなくして行く事に複雑な気持ちを持っていた。「これで、いよいよホントにいなくなるのだ」そんな感情と思う。


2003年03月20日(木) 影響を受けやすい・・・・・

TMSの掲示板を見る日が日課になっていた。症状は決して良くない。
ずっと書き込みをしていた「腰痛の広場」へも投稿をしていて、意見を聞いていた。「アドラー心理学」という事が出てきたので、突然奇妙な会話が出てきたと感じた。わけはわかないけれど、TMSの治療に関連する図書なのだと思ったら発注をしてしまっていた。





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仕事も何となく谷間になっていて、上司が異動で交代する事になっていた。長期間抱えておくような仕事もなく、単発の仕事が多かった。


2003年03月18日(火) 我流ストレスリスト(腹立ちノート)

ブロックへの期待を打ち切って、TMS治療プログラムのストレスリストに取り組み始めた。それは、やり方が分からないから我流で、兎に角、腹が立ったりイライラする度に書き留めた。なるべく感情のままに言葉で表現した。
それは、声に出しては言えないだろうと思いつつ書いた。
いくらでも出てくる。終わりがないくらいに出てきた。





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圧痛点の刺激と血流については、鍼治療も同じと加茂先生が言っていた。受け取りが違っていなければ。
この日は、以前行っていた鍼灸院。残念ながらTMSとは無縁の様子ですけれど、某ラグビー部やそれ以外でも患者さんは多いと聞いていた。
治療が終わった直後は脚の痺れもとれて効果があるように感じる。それは、うつぶせになって小一時間寝ているから?わからない。

このあと続けて仕事をした事が良くなかった。途中で痛みが出てきて、少し後悔気味。。。。。


2003年03月14日(金) ブロックへのあきらめ

N病院での診察。これまでの経緯や現在の症状などを自分なりに、どうするのか考えていた。TMSの本を再読する事もした。前回のブロックから約2週間、この間で考えは「ブロックはしないで様子をみる」この考えが強くなっていた。
診察は数分の会話で終わった。





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分厚くなったカルテをパラパラとめくりながら、医師も困っていた様子だった。
「原因がわからない」「注射はどうする?」繰り返し、同じ事を聞いてくるだけだった。症状の事には触れず、眠剤だけは欲しい事を伝えた。この不眠だけは、まだ、どうする事も出来なかった。


2003年03月13日(木) 夏樹静子「椅子がこわい」を読み終えて

TMSの掲示板に書き込んだ。
私の坐骨神経痛(腰痛?)が同じく心身症とすれば、疾病逃避という言葉が印象として強く残った。
症状が一番強く入院も覚悟した時期(昨年の2月)、きっと気がつかない内にその時に抱えていた仕事から本当は逃げ出したかったのだ。
重要な経営判断を求める仕事で1年近く一人で奮闘していた。と、自分では思っていた。一人で抱えて放置する事も出来ず最低でも『ここまでは自分の手でしておけば何とかなる』という気持ちで、仕事から逃げ出す口実にしてした事になる。
そして、その事を自分で認める事が出来ないから『入院』を決断したのだとおもう。
その方が周囲に対して言い訳に出来るから。。。。。
退院をした時は、それなりに回復をしたと思ったし、完治するのはムリでもガマン出来る程度で、再発時に対処方法が分かっていれば良いじゃないか。主治医もそう言った事を思い出す。
しかし、入院中に進めていた仕事が思わぬ方向へ進んでいたことがわかり、軌道修正するために再び闘いが始まり、痛みの症状も再発した。その後も、入院するたび(短期間)に疾病逃避だった気がする。
いまでも、その仕事が続いているから心の中にいつも、この事が居座り続けている。
普段の仕事で、この事に触れるたびに逃げ出した事を思い出させる。





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最後の「葬式」か「入院」かの選択で、自分当てはめても意味は無いれど、、、、、どちらも選択する事が出来ない。
私は私なりの解決方法を見つけるしかないのだと思った。
<絶食療法>
空腹と退屈に耐えるだけと思っていたけれど違った。糖質をとらない事で・・・・脳が素直に受け要るようになる。
この後半部分も印象が強かった。


2003年03月07日(金) 混乱気味

TMSの事を再挑戦し出してから、どうしても心身症というこころの問題を考えてしまう日が多くなっている。

今日は突然痛みが出て来て、深呼吸をしたり、気持ちを落ち着かせるために考えたり、結局何も出来ずに痛みが落ち着くのを耐えていた。
単なる酸欠なんだから何も心配はいらない。そう必死で繰り返してつぶやいていた。
イライラする事もある、腹が立つ事もある、話をするのもイヤなヤツもいる。
そんな事は避けてばかりは出来ないし、こちらの思い通りばかりにもならない事は
分かっている。きっと、それを受け止める事が出来ない自分自身に苛立ちと腹立たしさを覚えている様な気がした。

一番許せないのは、自分自身の気持ちなのだ。





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「わかりました」とか「そうですね」なんて、納得の出来ない事に対してその場しのぎのように受け答えをする事が出来ない。出来ないのに、そうしなければならない場面が出てくる。
すると、心の葛藤でパニックになってしまう事がある。
せめてなじんで来た痛みが、同じ場所で同じ痛みの感覚なら耐えるすべも覚え始めたのに、そんな事まで考えるようになる。
身体の異常で発生している痛みじゃないはずなのに、悔しくて痛みの出ている脚を叩いて、叩いて憎くなる。

普通に歩いて大丈夫と思うようにして、意識して普通に歩くようにしていた。それまでは、無意識に右足に力を入れて歩く癖がついていた。だから、これは筋肉痛なんだろうか?
そうじゃない。
どうして痛みを表現すればいいんだろう。とか、どうすれば痛みが出るのだろうか、とか、誰かに説明する方法ばかり考えていた。

薬のせいか、最近、記憶が突然途切れる事がある。歳のせいと言うほどの歳じゃないはず。
数分前に自分が何をしていたのか、思い出せない。
普段身近にいる人の名前が、どうしても思い出せない。顔もどの場所にいる人なのかは分かっているのに。
朝、目が覚めて、まだ少し早いかなと思ってぼんやりしていると、気がついて時計を見ると随分と時間が過ぎていて、その間のことを思い出せないのです。そんなとき、とてもこわくなる。
眠剤を飲んで効き目が出ている時のふらつきや、薬が残っている時の独特の眠気がいつまでも残っている日がある。不安材料ばかり探す癖がついているのだろうか?

昨日、突然のようにK部長がやってきて、今月一杯で元の会社へ戻る事になったと言ってきた。親会社から出向で来ていて、いつも戻りたいとばかり言っていたから希望が叶ったのだろうと思う。いくら、イヤな場所でも帰るところがある人は強い。
ここで頑張るしかないものから見れば、そんな風に考えてしまう。T常務も似たような事をいつも言っているし、その前任者も結局は銀行の斡旋で転職して役員になって出て言った。周囲には、そんな人たちが大勢いる。

人は人、自分は自分、人と比べても何にもならないと教えてくれた人がいる。
○○しゃんが贈ってくれた言葉を思い出している。


2003年03月05日(水) 雑多なこと、子供の事

今日の無気力は一体何でなんだろう。
座骨神経痛がひどく痛んでいたわけでもないのに。
坐骨神経痛は症状で病名ではない、では私は何なのだろう?赤本でも白本でも、腰痛と表紙に出ているけれど、座骨神経痛とは出ていない。
腰痛でも肩こりでも病名じゃないですよね、なのにどうして座骨神経痛は登場してこないのですか?読むと、内容には出てくるけれど・・・・・。

こんな事はどっちでも良いんだけれど、痛みのせいで気力が出てこないように思っていた。けれど、決してそうじゃない。人には伝えにくいけれど、「なんだか元気がないじゃないか」と声をかけられた。その時は、自分では何事もなく仕事をしていたつもりなのに、どことなく普段と違っていたのでしょうね。
**** 無気力なのです ****

ただ、それがなぜなのか?分からない。
振り返って、ノートを見ると毎日毎日、痛みはどうだった。とか、こうすればいたいとか、痛みをどう表現すれば伝えられるのか、そんな事ばかり書いていた。
特に、入院を決めたその日から克明に状況や気持ちを書き留めていた。それは、きっと病院ではガマン出来るとか良くなっている気がするとか言うと、治療が止まってしまうから。TMSの治療プログラムは、それと反対な様な気がしてきた。





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TMSの治療が心にあるのだとすれば、常に疑問を感じるたびに「それが罠だ」と言います。頭痛が出たり、耳鳴りがしたりすると、それは罠だと言うのは「禁煙をした時の反論にとてもよく似ている」と感じた。
ニコチンの悪戯と自律神経の防御規制と違うのだろうか?

左足の痛みの状態が、また変化をしてきています。「あれっ」っと感じたとき。子供の事、仕事の事、納得が出来るまで頑張ってきたものを「諦め」に変化が出て
来たのだろうか。
「諦め」と「受け入れる」微妙な差がある。いくら頑張っても自力ではどうにもならない事は、「あきらめる」しか無い。
それが「投げやり」になると無気力になるような気がした。
無気力になると毎日が苦痛になる。
ここ数日、役員に新任される人に振り回されているから、余計にやりきれない。


2003年03月03日(月) 脚の具合と心の変化

今日は、いろんな事があってそのたびに脚の痛みの状態が違っていた。

朝一番から、社長から呼び出しがあり1時間位しか準備時間が無く、その準備に追われていた。その最中に、あいつ(K取締役)から電話で予定を通告してきた。私の都合が悪い事を伝えていたのに、ムシされていた。
とりあえず、社長の方が先立ったので焦っていた。部下があれやこれやと言ってくるが、全て後回し、電話もかかってくるが居留守。
バタバタしていたけれど、社長の用事が済んだのは、もう11:30頃になっていた。この間も痛みは変化をしていた。
痛い時、冷たく感じる時、深呼吸をして整える余裕もなく待たせていた事を、依頼をして指示をしてあわてて12:00頃に会社を出た。





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病院で根ブロックを予約していた時間が迫っていたので、急いで病院へ向かった。
移動中に考えていたのは治療の事とTMSのことだった。TMSの掲示板の内容は、既に見ていたので「どうしよう」と悩んでいた。あれこれと考えると、その気持ちの変化と痛みが同調するような感じがした。
闘っているのだろうか・・・・、と思った。

ギリギリでレントゲン室の前に着いた。
10分ほどで声をかけられて、レントゲン台の上に横たわる。この日は、はじめからO医師だった。狙いは、4番と3番。
初めてすぐに強烈に痛みが脚を襲う、レントゲンの撮影、薬の注入とわずかの時間が異常に長く感じた。薬で麻痺した脚の状態になってホッとする。
次に始めた3番はダメみたいだった。
この時は、ブロックの痛みとの闘いしか頭には無かった。約20分くらいで済んだ。1ヶ月ぶりに味わった強烈なブロックの
痛みと麻酔の麻痺で脚を動かす事は出来なかった。
その後、2時間ほど外来の診察室でストレッチャーの上で横になっていた。

この時も、痛みの変化とTMSの事を考えていた。考えていたはずなのに、幾度が寝てしまっていた。痛みの事も、仕事の事も、TMSのことも何も覚えていない状態があった。
15分か20分くらいの時間だと思う。そんな事の繰り返しで2時間くらいが過ぎた。
ようやく、何とか脚に感覚が戻って、外来も閉まる時間なので帰る事にした。

帰ろうとして携帯を見ると珍しく長男から電話がかかっていた。
子供の中で、この子だけが自分事を私に言う事を、いつも遠慮するので寂しく感じていた。どうして、欲しいものやして欲しい事を言わないのだろうと普段から思っていた。
そんな子も、いよいよ大学生になろうとしている。
電話の内容は下宿先に荷物を運ぶのを手伝って欲しいと言ってきた。
治療を受けたその日は、ぐったりとしていたのでいつもは、ただただ横になっているだけだった。この日もそうしたかったけれど、「いいよ、行ったる」そう言って電話を切った。

夜もだいぶ遅くなったけれど、荷物を車に積み込み車の運転に着いた。
地図を見て行き先を聞くくらいの、簡単な会話だけだった。この子はそれなりに、自分の事を考えて自分の道を進みはじめたのだろうか。
そんな風に考えると、正直な所、寂しさがこみ上げてきた。最後まで、こんな感じで親離れをしようとしている。声に出すと泣けてきそうなので、黙って運転をしていた。時折、足の先が痛む。

これは、きっと気持ちの持ち方がいけないんだ、そんな事を考えて深呼吸をして、気持ちを整えていた。
帰る時も、子供が車を見送っている姿がバックミラーに見えた。どうして、そんなに急いで生きようとするんだ。もっと、家にいてもまだ未成年なんだから急ぐ事無いじゃないか。
この子は中学・高校と大きな問題は起こさなかったけれど、何もなく優等生でも無かったからいろいろとあった。どんな気持ちで、車を見つめていたんだろう?
そんな気持ちでとても寂しかった。

今日はいろんな事があり、そのたびに脚の痛みとその時の気持ちの変化を考えていた。考えながら、考える事を投げ出したいのを必死で耐えていた気がする。その時の素直な気持ちを言えずにごまかすように平然と装う様にしていた気がする。

楽しい事を考えなければ、気持ちと裏腹に自分の気持ちは鬱に入っている気がする。
明日は朝から勤務で泊まり勤務、とっても気が重い。
この事は、TMSの掲示板に書き込んだ。


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