本と編集と文章と
DiaryINDEX|past|will
2001年06月21日(木) |
遅ればせながらS・キング |
妻は俺にスティーブン・キングを読ませようと前から狙っていた。 俺は流行作家というのは、虫が好かない。 とくに、S・キングみたいな青虫野郎は。 口から糸を吐くみたいにつるつるつるつる小説を書きやがる。 あの分厚い本を見るだけで反吐が出る。 しかし、今回、妻が放ってきた刺客は短編だった。 『刑務所の中のリタ・ヘイワース』。映画『ショーシャンクの空に』の原作である。 よろしい受けて立とうではないか。 S・キングがどれくらいの器か、俺が測ってやる。 と、思って通勤電車で読み始めたら、止まらなくなって、といっても途中酒を飲んだり中断はあるのだが、結局、夜中の3時までかかって読了してしまう。 くそ、こいつは、青虫でも巨大青虫だ。おまけに毛まで生えてやがる。 ……って、そいつはつまり毛虫じゅねえか。 と気づいたときにはすでにキングの術中にはまっている。 毛虫のくせに猫なで声をだしやがって。 大甘の甘ちゃんのくせに、必要にして十分なビターは利かせてある。 そういう余裕こいた感じが嫌いなんだよ。 危なく感動するところだったじゃないか。 …あるいはすでに少しはしているかもしれないが。 これで、あの糞分厚い著作の読者がまた増えるなんて思うなよ、スティーブ。 俺はリチャード・スタークの『悪党パーカー』みたいな薄い本が好きなんだ。 お前の本なんか重すぎる。目方は重すぎるのに、夢中になると、ポテトチップスみたいにあとをひいて、いつのまにか読み終わっているというのがお前の自慢だろ。 ディズニーランドばりのページターナーってわけだ。 ふん、その手に乗るもんか。 この決着はいずれつけてやる。 妻が傑作と太鼓判を押した作品だけを、時間をかけてじわじわと読み潰してやる。 ただし、北方謙三と吉川英治と金庸を読み終わった後でな。 お前のランクなんてそんなものだ。 図書館で借りるんだから間違っても印税が入るなんて思うなよ。 それだけわかったら、今日のところは許してやらあ。
2001年06月18日(月) |
北方謙三『水滸伝1 曙光の章』 |
この作品には、吉川英治『水滸伝』を超えたのではないか、という評がある。 吉川英治を僕は作家の王様として仰いでいるので、なにぃと思った。 つまり吉川英治を超えた、とは小説に許される最高の評価なのだ。 僕にとってはね。 ぜひチェックしたいと思っていた。 それでなくても『水滸伝』は好きなのだ。 そして、読んでみたら……
すごい! いいぞ! これだ! 血湧き肉踊る男の物語だ。
北方謙三は、じつは今まで1冊も読んでいない。 現代日本を舞台にした「男」の物語なんて読みたかねえや。 と思っていた。 おかげでじつに贅沢な出会いを果たしたぜ。
中国の歴史の中なら男たちは、激しい抑圧に耐えて、不屈の闘志を見せる。 そして、兄弟より熱い契りの同志たち。 水滸伝の中にでてくる108人の英雄。 彼ら一人一人の性格や人生がていねいに書き分けられていくと、もともと骨太な物語が奇跡的な生命力を持って、現代の我々の前に浮上する…
と、別に帯のコピーを書いているわけではない。 とにかく面白かったのだ。
では、吉川英治との勝負は?
…残念でした。僕は吉川版『水滸伝』を読んでいないのでした。 今度読みます。
そして、この小説の最大の欠点は…、まだ完結していないこと! 最後まで読むには、たぶんまだ最低7.8年はかかるのだ。
あーあ。早く次が読みたいよう。
今度は北方版『三国志』でも読むか。
ほんとにうまい米は、それだけで食べてもうまいという。 文章にも同じことが言えて、いい文章というのは、刺激的な内容や、重要な情報などを含まなくても読む楽しみを与えてくれる。 そういう正直で素朴な文の力というものがある。 それは誰でもが持っているはずであるが、人の文章を模倣しようとしたり、画一的な教育を受けてしまうと消えてしまう。自分の内発的なものより、既成概念に依存しようとしたとたんに消えてしまうのだ。
しかし、読者は文章を味で読んでいるとは限らない。 ベストセラー作家でもマズい人はいる。 童門冬二、この人の文の味は激マズである。 時代・歴史小説を読み慣れた人は、げっというだろう。 僕は辛くて1ページ読めない。 それもそのはず、口述筆記なのである。 それでも売れてしまうのだからいい、と本人は多寡をくくっているのだろう。 この人の本を立ち読みして、僕のいうことがわからない人がいたら、それは文章の味覚ということがきっとずっとわからない人であろう。
あと、落合信彦。この人の文章は整形に失敗したドブスのようだ。 文は一貫性がなく、いろんなライターがよってたかって書いているフシがある。 文庫本を次々立ち読みしてみたまえ。 みんな違う味がするから。 それぞれがタフでマッチョなイメージを目指しているが、全体にレベルは高くない。 これで売れているのだから、大したものだと思う。
SFでも、ファンタジーでも、あるいは童話や民話お伽話などに含まれるいかなる荒唐無稽な物語にも、人間がリアリティを感じる物語には、人類の過去か未来において、限りなく真実に近く実現される(された)場面があるのではないか。
田口ランディの「モザイク」を読んでいる。今までの2作はラストまで一気に読んだが、この作品は中断することが多い。本人が書く環境に、さまざまな雑音が入ったようだ。ランディは、自分の原稿を何度も読み直して推敲するタイプではない。むしろ、一過性のライブに近い感覚で書いている。 そういう意味では、この作品はもっと安定した環境で書かれたなら、よりすぐれた作品になる可能性を秘めていたと感じられる。 しかし、そのこと以上に感じるのは、ランディによって、日本の現代文学が人間の存在の本質を認識しようとする衝動の最前線に復帰したということだ。
科学が個別のテクノロジーに自己解体していく時代には、科学は「人間とは何か」という問いとその答の「断片」をまき散らすだけで、それらを統合する力を失っている。 これは文学のチャンスなのだ。 現代という時代に、文学の可能性はあまりに低く見積もられている。 文学は人間を再定義するレースの先頭ランナーに十分になりうるポジションにいる。 ランディがそのことを果敢に証明している。
文章という文章に深くダイブし、その本質をとらえることに長けた私ではあるが、技術系文章にはまるきり入り込めないばかりか、手ひどく門前払いを喰わされる。 そもそも、コンピュータの「ヘルプ」という項目に自分が知りたいことが入っていた試しがない。いったい、これは誰が誰をヘルプするのであるのか。 私が文章を読むときは、書いた人間の意図というものを読みとろうとするのであるが、技術系の文章には意図がない。ただ、カテゴリ別の箱に、文章という名のがらくたを分類して詰め込んであるだけで、初心者はどういう疑問を持ちやすいだろうとか、こういう点がわかりにくいのではないかとか、読者側から見るとどのように見えるか、というポイントに、全く書き手の精神の触手が伸びていないのだ。 この世界では、Aという言葉の意味を知りたいと思ってトレースしていくと、まだ未定義のBという言葉にぶつかったり、Bを追っていくとまたAに戻ったり、国語の世界では許されていない反則技が無造作かつ頻繁に炸裂する。 しかし、ここから何事かを読みとる人が多いので、私としても、あるいは自分の能力のなさを責めるべきなのかと、非難しきれない部分があるのである。 考えるにこれらの文章には、意味はないのである。意味はハード自体にある。言葉は意味の糞に過ぎない。技術系の文章から何かを読みとるとは、糞から動物の健康状態を知るような作業ではないかと、私は邪推する。 こういう文章を読んでいると、奥歯は食いしばられて、ぎしぎし言うし、肩には異様に力が入りバリバリに凝ってきて、頭はヒートアップしたまま、ぐるぐると空回りして、とてもイライラする。 疲れるからやめたいのであるが、喉元過ぎるとまた忘れて、自分にもわかるのではないかと読んでみたりする。その結果また疲れるのである。
ちょっと前の朝日新聞にランディの記事が載っていたのだが、その紹介プロフィールがおかしかった。 「メールマガジンを創刊し、主筆をつとめる」とかって書いてあるんだよね。 きっとこれを書いた人はメルマガというものを見たことがないのだろうなあ。 個人マガジンで主筆と言われてもなあ。 間違いとは言えないが、やっぱりこの感覚はちょっとヘンだ。 でも、社内では誰も指摘しなかったんだろうな。
|