本と編集と文章と
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本日発売のモーニングに、弘兼憲史とかわぐちかいじの対談が載っている。マンガのコマ割というのは、不思議なものだと思っていたが、マンガ家は、映画のカメラ割から盗むものらしい。 そういえば、小説でも絵が浮かぶ小説とそうでないものがある。 それも特別にそういう描写に文字数を費やしているわけでもないのに、情景がふっと浮かぶような小説は、読んでいて得した気持ちになる。 たぶん映画化もされやすいだろう。 そういう視点で小説を研究してみても面白いことがわかりそうだ。
2001年05月28日(月) |
ジャーナリストはよく吠える犬かよ |
週刊新潮の中吊りを見たら、特集で「テレビの寄生虫」という言葉でくくって、みのもんたから筑紫哲也まで、テレビの人気キャスターをあげつらう企画をやっている。 あげつらうのは、週刊誌の仕事だから別にいいけれども、テレビで仕事をしている人間がテレビの寄生虫なら、出版界で仕事をしていたら、出版の寄生虫だろう。 それなら、寄生虫同士もっと仲良くしたらどうか。 自分のことには口をつぐんで、相手だけを吸血住虫か拝金主義者のごとくに言うのは、彼らが日の当たる世界で大金を稼いでいることに対するひ がみ、やっかみと取られても仕方がないだろう。 しかも、新潮には、櫻井よし子が連載を持っているが、当然のことながら、彼女の名前は特集には出てくるはずもないのである。 子どもでも指摘できるような矛盾を平気でほっかむりして平然としているセンスは気にかかる。 見出しセンス、という言葉は昔からある。とにかく扇情的で興味をそそればいい、というのはよくわかる理屈だが、このあまりにも見え透いた、ただ自分の品性の低さだけを暴露するようなひねりとも言えないようなひねり方は、どうにかならないものか。 近年、マスコミの言葉というものは、ますます無責任に、軽薄になっているが、天下の文芸出版社、新潮社の出版物なら、もう少し、言葉に重みや思いの深さがあってもいいと思うのである。 ジャーナリストとはただよく吠えるだけの犬なのか。 あれだけの大見出しであるから、もはやこの退廃は、末端のライター、編集者のものではなく、編集長クラスの年齢に及んでいると見られるのである。
『チーズがうーたら』という本を出した扶桑社が、『バターがどうたら』というパロディ本に対して、「表紙が似ている」という理由で、差し止め請求を出したらしい。 たしかに実害も出ているのかもしれないが、出版界もシャレのわからない世界になってきた。
「ぶっせん」(週刊モーニング連載の仏教坊主ストーリーギャグマンガ)の単行本の発売日は、ずっと仏滅だ。 こういう密やかなギャグは好きだ。
たぶん同じモーニング誌で、マンガ家たちが集まって、新古書店に反対する声明を出していたが、こちらはなんかハズしている。 気持ちはわかるが、それは金の話でしょという感じ。 こちとらは、ブックオフの恩恵には預かっているが、マンガ雑誌からは一度も仕事が来たことがない。 何の義理もない。 だいたい、まだマンガ雑誌がつぶれるという話も、単行本が出なくなるという話も聞いたことがない。 今までが儲けすぎでしょう。 何百万部突破とかよく騒いでいるじゃないですか。
仮にこれでマンガが不採算な職業になったとしても、マンガを書くやつも読むやつもいなくならない。 儲けが減ることがいやな人間は安心して廃業しろい。
その点、土田世紀は偉い。とっくの昔に、「編集王」の特別編で、新古書店の影響は、マンガの本質には何の関わりもない、と宣言してしまっている。マンガとしてはつまらない作品だったけど、土田世紀の精神は未だ熱いね。
2001年05月21日(月) |
編集者とライター ライターと作家 |
編集者とライターをしていると自己紹介をすることが多いが、こういうとき、じつはぼくは少し恥ずかしい、と感じている。 というのは、編集者といえばキャッチャーのようなもの、ライターといえばピッチャーのようなものだからだ。 野球の選手だという点でいえば、両者は共通しているが、その職能としてはおおいに違う。 つまり、一流のレベルでは、この2つの職業は両立しないのだ。 少年野球では、ピッチャーとキャッチャー両方できます、ということがあるだろうが、プロ野球には存在しえないということである。 で、ぼくはどちらかといえば、ライターなのだと思う。ピッチャーの能力を使ってキャッチャーもやっているようなものだ。それが強みになる場合もあるが、ロスも多い。 そろそろ編集的な仕事からは足を洗って、物書き専業になるべきかもしれない。 あるいは物書きになりたいといっても、編集で寄り道した分、変な癖がついてしまっていた、ということになるかもしれない。
同じ物書きといっても、ライターと作家、の間にも、また大きな溝がある。 でも、そのことは、業界内のことであり、一般にはあまり認識されていない。ホーリーマウンテンの文章道場に送られて来た文章は、95パーセントが小説だった。世間の人は、文章といえば小説だと思っている。 ライターになりたい、といって、小説の原稿を持ってくる人がいたりする。思わず言葉に詰まる。 これは大きな勘違いだ。こういう言葉の感覚の鈍い人は作家にもライターにもなれない。 ビートルズに「ペーパーバックライター」という歌があるように、英語ではひょっとすると、作家のことをライターというかもしれないが、日本語ではライターと作家は全然違う。 原理的に言うと、ライターは基本的に無名で、商業的な要請によって、ノンフィクションを書き、作家は基本的に署名で、自らの内的な欲求によって、フィクションを書く。 世の中で流通している文章の半分以上は、無署名かそれに近い仕事であることを物書き志望者はよく見てほしい。 ライターの仕事は一種の「実用品」であるので、仕事はたくさんあるといえばある。 一方、作家の書く小説は「作品」であるので自由に書けるが、それが商品性を帯びるのは、なみたいていのことではない。そして、商品性を帯びる以前の「作品」は、妄想の固まりのようなものであり、ただのゴミである。しかし、作品が商品として認められると、作家は突然、金の卵を生む鶏となる。
つまりヒエラルキー的にいうと、作家志望よりは仕事をしている分だけライターが偉いが、売れる作家はライターよりずっと偉い、ということになる。
ただし、作家の中でもジャンルのはっきりした小説、ジュニア小説、ゲームノベル、ファンタジー、ポルノ小説、SM小説などは、固定した読者層がいて、実用的な消費物といえないこともない。実際、ライターが小遣い稼ぎでやっても書けるような作品が大部分である。推理小説やSFも本来このようなジャンル小説であるが、いまや非常に作家も読者も高度化している。要は志の問題であるのだろう。
…というくらいの地図は、物書き志望の皆さんは頭の中にしまっておいたほうがいいだろう。
ぼくも近いうちに、ちょっと集中できる環境を作って、小説を書こう。面白いのが書けるような気はずっとしているのだが…
中吊りで見たら、『リプレイ』s.グリムウッドがマンガになったようだ。 『リプレイJ』となっていたから舞台を日本に移しているのだろう。 どうせなら原作を離れてしちゃめちゃをやってもらったほうが楽しい。
『リプレイ』(角川文庫)は、読書家に聞くと、みんな読んでる傑作長編。 同じ人生をなぜか何回も生きる男が何をするかと言う物語だ。 彼は20年ほどの年数が経つと、レコードの針飛びのように、また振り出しに戻ってしまう。
アイデアは単純だけど、細部が生き生きとしている。 最初のリプレイで、男は株で大儲けする。 だって、これから起きる世の中のできごとをよく知っているわけだから。 生活の心配がなくなった男が次に何をするか、というあたりが、説得力があって、けっこう面白い。
この作家は、僕の知る限り、もう一冊くらいしか翻訳されていない。 じつは、この本しか面白くないのかもしれない。 そういう感じのする本である。
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