**In my heart of hearts**
心の奥のこころ


2012年11月30日(金)

昨日の満月の明るさに照らされながら、母のアパートから家路へと自転車を走らせる。雨が上がってからの割と暖かな気温の一日だった。久しぶりに顔を見せるというか、母の存在を感じておかなければと、辛うじて仕事帰りの時間を作る。休みの日に出かけていくことがおっくうだ。狭い部屋でどうしようもないだけだから。 花を買って仏壇のことを意識することがとりあえずの用事。いつもの巻きすしも買う。 弟のことは何も進展がないし、正月には帰らないというからには、帰ってきて欲しくない気分だ。心配しかさせる気はないんだろうか。 冷たいなと思うのは間違いか。何も与えられない自分のことをもう棚上げしてしまうのか・・。 甘いというか、気分屋というか、いい加減というか、私の癖はここにも顔を出してくるわけね。



2012年11月24日(土) 感謝の朝

3年前のことを思い出すと、毎日悩んでいたことがもう、少しぼやけて見える。 YouTube から穏やかな音楽を聴いているせいもあるのか、感動する心は感謝する心と同じようなものだなと感じながら、胸が切なくなって、少し涙が滲んでくるくらい。有り難くて、それは何に対してなのかはっきりしないようでもあるけれど、胸の奥から湧き上がってくるこの気持ちをここに書き留めておこうかと思う。 この気持ちがいつも 生きていく中での救いだったのだと気がつく。どんなに苦しいみじめさを味わおうともこの気持ちが心に訪れてきてくれたこと。これが全てなのかもしれない。 健康という恩寵を授けてくれて、体を自由に使わせてくれること。 感謝せずにいられようかと思う。 

最近のこの食欲は何だろう。消化もいいので、食べすぎたという弊害を感じたりもしないし、空腹感と満腹感もそれほどないままに、入るだけ食べようとする。そして腸はすっきしている。 左手が力が入るようになってきた。手首と指の関節に失くしていた滑液が戻ってきたかのようだ。体の不思議が働いているかのようだ。 思えば4年前くらいがピークの間接の激痛だった。それまでも長い期間に、両手首、両肩関節と苦痛を抱えていた。慣れっこの毎日にもまだ、若さでどうにか乗り切ってきた。 やっぱりさすがに50才の声を聞く頃には仕事も支障がでるくらいに悪化するし、耐え切れないしで本気で病院へいった。 最初に選んだ病院では、頼りなくて大きなところへ変えたのが正解のようで、優しい女医さんに当たって、救われたと思う。優しい応対と勇気付ける言葉は薬とともに、体の激痛をウソのように止めてくれた。 あれから3年が過ぎだけれど、もうあの頃のような痛みが舞い戻ってくることはないままだ。 病気に伴うようにして、意識の変化と環境の変化もついてきた。家族の歴史の変化もだ。 それは劇的なものであることも同じく。



2012年11月12日(月) 正直な感想

それほどの寒さにはまだ遠い感じの毎日で、季節らしい感傷もやってはこない。年取ったせいもあるのか、人恋しいメランコリーは感じる気力すらないといったほうがいいのかもしれない。仕事を変わってからは、嫌というほどに毎日が人との関わりで過ごすから、寂しいといっていられない気もする。有難すぎる事だなあ。 弟との関わりは進展しないものの、後退はさせないつもりなので、会いに行くまでのあの胸のつかえた苦しさからも開放されたという、私の歴史の中での新しいページなわけだ。 胸の奥のもどかしさや、やるせなさによって傷ついている時間はなくなった。 このことをまた弟へ伝えたい思いがしてきた。 いつかまとまってメールか手紙かドキュメントファイルかを作って送りたいと思いながらも、まだ集中できないで時間が過ぎる。 ただの日常の次元だけでは力がでないのだと、少し気がつく。新たに出会ったスピ系のサイトを読みながら今そう感じている。

今で言えば、たわいないけど、あの義信さんという患者さんがはっとするほどに父の面影にそっくりだから。今月になって転棟してきた80のおじいさま。名前を見るとどきっとするし。 意味ある偶然が現れたと感じるべきか。この今の私が悩んでいることをなぜかなぞるようにして起きる出来事。

プサン旅に始まった今月は あれよという間に半ばへと向かう。有り難いなとここでも思う。 来月のことはノストラダムス的に何事も起きずに生活時間は流れていくのだろうきっと。 きのうの夢・・水が、というか洪水を眺める怖い思いをした夢だったのを覚えている・・。 何を恐れているんだろう。本当の自分の姿がやっと分かりかけてきた事なのではないかな、もしかしたら。 無反省に自我を振りかざしていい気になって生きてきた事。だから、人との関係を一切築けなかったという、とんでもないことにやっと目が開かれて来たこと。周りの人たちが必死になって、教えようといつもしてきてくれたのに、逃げてばかり。今も同じことの繰り返し。一体いつまで、子供の気でいたいのか。 反省がないことを自分言動が示していることもにも少し怯えているかもしれない。



2012年11月10日(土) まだ続くのか

顔の輪郭と耳の形があまりによく似ていることに気がついたのは、その患者さんが散髪していたからだった。 今月に入ってから2階の病棟から移ってきた人。 息子さんと喧嘩して出て行けといわれて、追い出された形で認知症もあり、入院となったという人らしいけれど、話し方も柔和で若々しい、80歳のおじいさん。ジーパンはいたり、若い格好しているし、おじいさんというにはまだ若く見えるのに、そんな年齢とは驚く。 年も似ていれば、顔かたちも斜めから見るとはっとしてしまうくらいに父に似ていた。それだけでもなんて偶然だろうと思えるのに、名前を改めて見てみると、どうしてこんなことが・・。朝義と信子の一文字ずつがあるのだ。義信さんだった。
今月は父の誕生月でもある。 どこまで、不思議がおきたら気が澄むんだよ。



2012年11月09日(金) 岩国のおじいさまにお別れ

前回の日記を書いた日の夜に義理姉の父は逝去された。その日は夜勤だったので、連絡は翌朝、コーヒーを飲みに立ち寄ったスーパーの中のカフェ。  急いで母の元へ行き、打ち合わせする。次の日はちょうど休みになっていて、一緒に葬儀へ出る事になる。 朝早くから列車に乗り込み新幹線へまた乗る。まるで、涙雨のようにして、停車中の窓ガラスには行く筋も雨が流れ落ちていた。気持ちに沿うような天気なのは、見舞いに行った時もそうだった。 出棺の時だけには、土砂降りになった。 残されたお母さん。腰を悪くしていて、葬儀へでるのを嫌がり、家に一人残っているので、兄たち夫婦と、母との4人でそっちへ立ち寄って、話相手をする。 ずっと一緒に生きてきた人が、逝ってしまうには時間が早すぎただろう。まだまだ気丈なお父さんだったから。悪いと聞かされてから、2ヶ月も満たないうちの出来事だ。  山の峡谷を身近に眺める景色の自然に囲まれた土地で暮らしていきた義理姉の両親。 そんな中で、あの毅然とした気品のあるお父さんがとそれは仲良く暮らしておられたのだ。 まだ亡くなられたから、25日しか、経っていない。 思い出しては、悲しい気持ちになったりして、やるせないものがある。それに平行して、弟のことが、急に気持ちが引けている。 どうにかすると言った私の言葉は何だったんだろう。 どうしたかったんだろう。少し忘れている。 

旅に出て少しゆっくり、じっくり考えるはずだった。ところが、全然、目の前のどこへ行くか、何をたべるか、それだけで精一杯だったではないか。
逃げているのではないかと思わないでもなかった。実際そうだったという気がしている。帰ってきてから、夢見の悪さもとれた。 旅先でも一日目に妙にリアルで気味の悪い夢をみていた記憶がまだ残る。

韓国旅は自然の食べ物への食欲を思い出させてくれた。野菜で料理する意欲が出た。 まじめに食材を買い込む事からちゃんと始めた。

すごく空腹感を覚えるようになったのは、キムチとかの香辛料効果なのかな。どうも韓国料理効果のような気もしてきた。

昨日の夜はまた左の脇腹の痛さに閉口した。ネットで見てみても実際には何もならないことだけがわかる。自分の体のことは自分しかわからない。

早めに診てもらうというめずらしい選択をした私。 胃の撮影とまた高い血液検査、そして一週間分だという薬 これで7千円は安心料で消えた。腫瘍らしいものは認められないという事をしるための出費と思えば、高くもないだろう。


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