澤村幸明 - 2003年08月26日(火) 昨日まで四日間、新潟県六日町に合宿に行っていた。その合宿では、早朝から漢字テストやったり、百何人の前でフリートークしたり、バスケやったり、露天風呂入ったりといろいろとやった。それにしても、疲れた・・・。 話は変わるが現在、都市対抗野球が行われている。関東代表で日本通運が出場しているが、澤村幸明選手が日本通運の選手として出場している。 澤村選手を初めて見たのは、僕が中学三年の時に見た夏の甲子園決勝戦熊本工対松山商の試合である。澤村選手は当時一年生ながら六番・レフトで出場していた。2対3と松山商が1点リードして迎えた九回裏。熊本工の攻撃もすでに2アウト。バッターは澤村選手。4万8000人の大観衆は松山商の優勝をほぼ確信していた。松山商の投手・新田は渾身のストレートを投げ込んだ。澤村選手はフルスイング。ボールは綺麗な弧を描いてレフトスタンドに飛び込んだ。起死回生同点本塁打。土壇場でチームを救ったのは澤村選手の一振りだった。結局、延長11回に松山商は3点を入れ、熊本工は敗れたが、僕は澤村選手から強烈なインパクトを受けた。僕は澤村選手の熱烈なファンとなってしまった。 それ以降、澤村選手は二、三年生では甲子園出場を果たせなかった。卒業後の進路も確認できずにいた。しかし、二年前、僕が上京し大学に入学した時、信じられない出来事が起こった。 僕が入った大学の野球部に澤村選手が所属していたのだ。僕は学内新聞のサークルに入りスポーツを担当し、六大学リーグの取材などで澤村選手を取材することができた。大学一年生の時に初めて澤村選手にお会いした時の感動と緊張は今でも忘れることはできない。澤村選手が四年生の時に、僕は澤村選手を専属で取材させてもらい、この年の六大学リーグは非常に思い出に残っている。早大の和田から放った九回裏の起死回生同点本塁打はまるで甲子園決勝戦の再現を見ているかのようだった。秋のリーグ戦で澤村選手がベストナインに選ばれた時は自分のことのように嬉しかった。 大学卒業後、日本通運に進み、現在も野球を続けている。プロに行ける実力はあるので、社会人野球で実績を残せば数年後にはプロに進むと思う。 都市対抗野球で澤村選手が活躍することを願っている。 - 全員主役・甲子園 - 2003年08月08日(金) 夏の甲子園が開幕した。今大会はセンバツで活躍した横浜や遊学館、徳商、東洋大姫路などといった注目校が予選で破れ、波乱の予選となった。 今日は大会2日目。今治西対日大東北、倉敷工対駒大苫小牧の2試合が行われた。 今大会、マスコミが大きく取り上げているネタとして、今治西の曽我健太選手のことがある。曽我選手の左足は義足。その彼がサードを守り、打撃でも地方大会では5割を超える活躍。そして甲子園の切符を勝ち取った。 これらの事はマスコミがニュースとして伝える題材としては格好のネタである。しかし、最近のニュースを見ていると本当にうんざりさせられる。 この題材を伝えること自体に関しては、僕はなんとも思っていない。視聴者の興味をそそる話題だし、全国の足に障害を持った人たちにとっては励みになる話題である。しかし、報道のされ方を見ていると、これはちょっと過剰であり、ちょっと考えさせられる。 今治西が現地で練習を行っているグラウンドには、常に大勢の報道陣が押し寄せる。注目しているのはもちろん曽我選手の義足。他の選手達は野球以外のところで注目されている曽我選手に対して気配りしてしまうだろうし、何よりも練習に集中できていない。今は、甲子園での試合だけに集中したい選手達の心情を報道陣はこれっぽっちも考えていない。選手達は球児の前に、まだ世間を知らない一高校生なのだ。報道陣は選手達の心情をもう少し考えてあげるべきだ。 何よりも気の毒だったのは日大東北の選手達だ。彼らもこれまで日々、練習を重ね、福島大会を勝ち抜き、甲子園の切符を手に入れた。しかし、今日の今治西との試合。今治西は攻撃でチャンスを迎える。バッターは曽我選手。曽我選手の当たりは強烈なライナー。抜けると思われた打球をサードが飛びつきキャッチ。サードのファインプレーで日大東北はピンチを切り抜けた。しかし、そのサードの選手がファインプレーをしたにもかかわらず、カメラのアングルは曽我選手だけに向いているのである。こんな報道のされ方があっていいものだろうか。日大東北の選手もこれまで努力してきて、ついに立った夢の甲子園という舞台。その舞台をマスコミの勝手な都合で不平等に扱われている。日大東北の選手達にとってはたまったものではない。曽我選手自身もこの報道のされ方にいい気分をしているはずがない。 曽我選手をピックアップする報道。全高校球児を平等に扱う報道。マスコミはこの二つの報道を場面場面できちんと使い分け、責任を持って報道すべきである。 - 四国道中〜パート4〜 - 2003年08月06日(水) 8月6日(5日目) 7時起床。カプセル内のエアコンが効きすぎており、朝から体調を崩す。 軽く朝食をとり、今日の目的地・徳島商業に向かうことにした。 徳商は今年のセンバツでベスト4に入り、夏の県予選も有力視されていた。しかしまさかの予選敗退。平岡をもう一度甲子園で見たかったが。徳商出身では、中日の川上や明大の牛田がいるわけだが、僕の中で徳商はいい投手を生む学校というイメージがある。 徳島駅の地図で徳商の位置を確認し、コンビニでリポビタンDを買い、いざ出発。地図で見ると、結構近いように感じたが、実際歩いてみると1時間ちょいかかった。 10時半。徳商に到着。校舎敷地内を歩いていき、グラウンドに到着。グラウンドではサッカー部が練習試合をしていた。徳商がオレンジ色のユニフォーム。もう一方がどっかで見たことあるような水色のユニフォーム。やっぱりそうだ。相手は徳島市立高だ。徳商は今年の長崎インターハイに出場しており、結構強い。対する徳島市立は高校サッカーの名門校。かなり前になるが、四中工が全国制覇した第70回大会の冬の選手権での徳島市立が僕の中で強い印象に残っている。当時の徳島市立に吉成という選手がいたのだが、「和製・マラドーナ」と呼ばれるプレーを見せ、選手権で注目された。卒業後は筑波大に進み、その後の進路は不明だが、とにかくサッカーセンスの塊といった感じの選手として印象に残っている。何気に今日の練習試合は徳島県では最高レベルの試合ということだ。 その隣で、野球部が練習していた。徳商も3年生が抜け、新チームとしてスタートしていた。野球部の練習スペースは松山商と同じくらいの広さ。その横にピッチングブルペンがある。 それにしても、練習に参加している部員数が少ない。数えてみると15人しかいない。3年生が抜けたとはいえ、これは少なすぎる。休憩時間となり、僕の横で休憩していた部員の2年生富岡君にその辺りを聞いてみた。すると、現在の総部員数はこの15人で全員だという。今年、3年生が沢山いたのだが、その3年生が夏でごっそりと引退し、残ったのはこの15人だという。今年の徳商のセンバツに出場したメンバーを後々調べてみたら全て3年生だった。新チームは全く新しいメンバーとなったわけである。 富岡君に平岡についても聞いてみた。そしたら富岡君にうまくかわされた。そりゃそうだ。どこから来たか分からない帽子を深々と被った怪しい青年に平岡の進路を易々と言うわけがない。僕的にはぜひ六大学に来て欲しい。徳商から六大学に進むとなると、明大が有力だがこの際どの大学でもいいから六大学リーグでプレーして欲しい。神宮で投げる平岡を見てみたい。 徳商の部員は非常に礼儀正しかった。こんな僕なんかにもちゃんと挨拶してくれた。野球エリートの気質を感じさせない部員の雰囲気に本当に好感が持てた。高校球児たるもの、やはり謙虚な姿勢は大事な要素だなと感じた。この部員達に、この狭いグラウンドで野球をやらせるのはもったいない。もっと広いグラウンドで練習をさせる必要がある。今は15人しかいないからなんとかなっているが、3年生が沢山いた時期は一体どのような感じだったのかと考えると選手がかわいそうである。選手の能力に相応した環境設備は球界発展のためにも絶対条件である。そしたら徳商はさらに強くなるはずだ。そして、富岡君、来年の夏は絶対に甲子園に行けよ! 尽誠学園、松山商業、高知高、徳島商業。とりあえず、四国4県を代表する野球の名門校を訪問することができた。今回の旅の目的だった「なぜ四国の代表校は毎年強いのか」に対して、「これ!」といった答えは結局見つけることはできなかった。というかそれが当たり前なのである。四国の歴代の代表校について、大した研究もせずに、ありったけの知識でのぞんだ今回の四国一周の旅。自分の器が未熟なため、結局答えは出せなかった。 しかし、四国の強さについて、一つ言えることは「常にすぐ隣に全国トップレベルが存在する」ということだ。現在は明徳義塾、数年前は松山商業、さらに前では池田高校、といった具合に各年代で四国トップ=全国トップという公式が存在していたわけである。この公式の誕生した理由はおそらく、高校野球がスタートした時代まで遡ると思うのだが、四国の強豪校は常に全国トップレベルの物差しを他地方に比べ、明確に意識することが出来たのだろう。 来年、就職活動が無事に終われば夏休みは暇になる。その時にまた、ゆっくりと四国を旅してみたいと思っている。今回のこんな漠然としたテーマに答えっていう答えなんて、本当はないのかもしれないが、来年の今頃はもっと根拠に基づいた、説得性のある「答え」を出せるようになりたいと思っております。 - 四国道中〜パート3〜 - 2003年08月05日(火) 8月5日(4日目) 8時半起床。駅前のコンビニでサンドイッチを買い朝食をすませた。にしても、今日も太陽はカンカン照り。暑くなりそうだわ。 高知といえば、明徳義塾だが、明徳は高知の中でものすごい田舎にある。今夏の甲子園出場を決め、野球部は現在兵庫にいる。よって今回は明徳をパスして、高知高校に行くことにした。 高知高は明徳と並んで、高知県内における野球部の強豪校である。夏の出場は近年、明徳が独占しているが、センバツにはたまに出場している。 僕の通う大学の野球部で、去年までエースとして投げ、今年横浜ベイスターズに入団した土居龍太郎は高知高出身である。土居が高知高3年の夏の県予選決勝で明徳の寺本と繰り広げた壮絶な投手戦は、県の話題となった。もう一人、うちの大学の3年生で野球部に高知高出身の福山雄という投手がいる。彼もまた、高3の夏の県予選決勝で明徳に敗れている。高知高にとって、明徳は大きな壁として立ちはだかっているのである。 高知駅から電車で10分程行った旭駅が高知高の最寄り駅。歩いて数分の所にあるのでしばらく歩いた。しかし、複雑な道のため迷ってしまい、通りかかったおじさんに道を尋ねてみた。するとおじさんも高校付近に行くというので、高校まで案内してもらえることになった。高校まで歩く途中、おじさんに明徳や高知高の印象を聞いてみた。おじさんは明徳について、「県の代表として甲子園に出場したら応援してるけど、あまり愛着はわかないね。学校があまりにも田舎だし、明徳がどういう高校なのかっていうのがイメージできないし。でも、今年の夏も出場するから一応、応援するけど」とおっしゃった。高知高については、「わしは高知高が近所のとこに住んでるから、ずっと高知高を応援しとるよ」とおっしゃった。明徳の主力の大半は県外出身者。一方、高知高は県内出身者がほとんど。この辺りも高知県民の方々は多少意識してしまうのだろう。 高知高は中高一貫校。敷地内は中高が共用しているため、とても広かった。野球部のグラウンドもとても広い。部員もおそらく100人近くいるといった感じ。グラウンドの隣には別でピッチングブルペンが2ヶ所ある。大学の野球部並の設備だ。休憩中の2年生の野球部員に少し話しかけてみた。土居と福山について話したら興味を示してくれ、新チームについての話などをしてくれた。 練習設備は十分すぎるほど整っている高知高。あとは選手の努力次第だ。ちなみに今年の夏の県予選決勝も明徳に敗れた。「打倒明徳」を目指し、高知高野球部は今日も白球を追う。 ひまなので、高知市内をしばらく歩いた。高知城に行ったり、板垣退助像を拝んだり。 16時。高知を後にし、高速バスで徳島に向かった。18時半、徳島駅に到着。今夜もカプセルホテルに泊まることにした。ホテル内では、ゴキちゃんが頻繁に出没し、まいった。でもまあ、安いし、どうせ寝るだけだからいいかと思い、寝床に就いた。 - 四国道中〜パート2〜 - 2003年08月04日(月) 8月4日(3日目) 8時起床。準備をして宿舎を9時出発。今日も昨日に引き続きめちゃくちゃ暑い。コンビニで軽く朝食をとり、近くにあった道後公園を歩いた。 今日のテーマは松山商業を訪問すること。沢田監督にお会いし、96年に全国制覇した時の優勝盾をこの目で見たかったのだ。 先月、朝日新聞の「井上明の現代高校野球考」というコラムで沢田監督が取り上げられていた。そのコラムを読んで、ぜひお会いしたいと思った。 96年夏に松山商業は全国制覇した。その時の決勝戦・松山商対熊本工の試合はテレビで見ていた。当時僕は中学3年で塾の夏期講習をさぼって、この試合を見ていた。熊本工の澤村選手の奇跡の9回裏起死回生同点本塁打や、松山商のライトの信じられないようなバックフォームなど、非常に見応えのある試合だった。その試合を制し、獲得した優勝盾をこの目で見ておきたかった。 道後公園から30分程歩いた所に松山商はあった。正門から入り、校舎の正面玄関を入ったすぐ左手に歴代のトロフィー、盾、優勝旗がズラーと並んでいた。その中に96年の優勝盾があった。頂点を極めたチームだけが手にすることが出来るこの優勝盾。神秘的な雰囲気をその優勝盾からは感じられた。 グラウンドではすでに野球部は練習していた。僕が見に行った時間帯は走塁練習をしていた。尽誠学園とは対照的に松山商は他の運動部とグラウンドを共用しており、実質グラウンドの3分の1程度しか使えていない。これではバッティング練習など満足にすることはできないだろう。この環境の中でよく全国制覇するチームが生まれるものだなと思った。 指導者らしい人が2人おり、僕が見ていた場所からは顔が確認できなかったので、近くを通りかかった野球部員に沢田監督はどの方か聞いてみた。すると沢田監督はまだ学校に来ていないとのこと。つまり、松山商には監督、コーチを合わせ、指導者は3人いるのだ。 結局、僕がいる時間帯に沢田監督は現れなかった。非常に残念だが、近い将来、必ずお会いしたいと強く思った。 高校の野球部には、少なくとも2つのタイプが存在する。のびのびとプレーさせる監督、コーチがいるチームと、絶え間なく厳しい言葉を選手にあびせ、危機感を持たせながらプレーさせる監督、コーチがいるチーム。これは野球部に限ったことではないが、一概にどちらのタイプがいいとは言えない。僕が訪問した尽誠学園と松山商は共に後者のチームだった。選手達は常に危機感を持ってプレーしていた。やはり、そういったチームでないと全国で上位に行くことはできないのかというと、そうとも言い切れない。 僕の地元の三重では、三重海星高校がその2つのチームパターンを経験している。三重海星の湯浅監督は僕が中学生の頃までは、スパルタ監督として有名だった。たまに甲子園に出場するものの、目立った成績を残すことはできなかった。しかし、僕が高校一年の頃から、湯浅監督は指導方針を一新した。スパルタ指導をやめ、選手の自主性を重んじる方針に変えたのだ。するとその2年後、三重海星は甲子園でベスト8という成績を残した。やはり、どちらの指導方針が良い、とは言えないのである。要は、そのチームにとって、どちらの指導方針が良いのかを監督、コーチがきちんと見極めることが大切なのだろう。 14時過ぎに松山を出発し、高知に向かった。片道約5時間。高知駅に到着。さすがに疲れた。 駅前のカプセルホテルに泊まり、明日に備えた。 - 四国道中〜パート1〜 - 2003年08月03日(日) 夏休みを利用して、四国一周の旅に行ってきました。 今回の旅の一番の目的は「高校野球の四国代表校はなぜ強いのか」を探るということ。春夏と甲子園では毎年と言っていいほど四国代表校が上位進出をしている。そこで実際に自分で四国の強豪校に行ってみて、見て、聞いて、自分なりに強さの秘密を見つけれたらいいなという、無謀な試みに挑むことにした。 ・8月2、3日(1、2日目) 21時20分。東京駅八重洲中央口から倉敷・岡山駅行きの夜行バスに乗り、いざ岡山へ。席は二階の一番前の真ん中。前方の景色が丸見えで、ちょっとこわい。明日の7時過ぎに岡山に到着する。ひたすら爆睡。 7時15分。岡山駅に到着。岡山駅からマリンライナーで瀬戸大橋を渡り、いよいよ四国に上陸する。瀬戸大橋からの景色は絶景だった。 多度津に到着。まずは香川の尽誠学園に行くことにした。 10時30分。善通寺駅到着。駅から10分程歩いたところに尽誠学園があった。しかし、学校内を歩いても野球部の練習グラウンドは見当たらない。近くに野球部員が宿泊していると思われる寮があった。寮母さんらしき人がいたので、グラウンドはどこにあるのか聞いてみた。そしたら練習グラウンドはさらにここから10分程歩いたところにあるらしい。じゃあ、歩いて行くかと思った時、車で野球部のコーチの方が現れた。20代後半位の若いコーチだ。学校で用事を済ませ次第、もう一度グラウンドに戻るらしい。寮母が僕のことをコーチに紹介してくれ、僕を車でグラウンドまで案内してくれることになった。寮母、コーチ共に、とてもいい人だった。 車の中では、去年まで尽誠のエースだった井上の話をした。早大に入学し、1年生からバリバリ投げ、春季リーグ優勝に貢献した井上。コーチ曰く、「実力はあるけど、学業の方は苦労すると思いますわ」とのこと。無事に単位を取って、卒業してもらいたいものだ。 グラウンドに到着。学校から車で5分位の所だが、いきなりド田舎になったという印象。グラウンドは野球部専用グラウンド。とても広く、照明があり、スコアボード、観客席まである。さすが尽誠学園といったところ。この日はたまたま練習試合が行われていた。夏の予選で、丸亀高校に負けてしまい、早速新チームとしてスタートしていた。練習試合の相手は丸亀城西高校。尽誠は先制点を許したが、その後要所要所で得点を重ね、終わってみれば5−1の快勝。7,8,9回と登板した尽誠の投手が印象に残った。右の本格派投手で、おそらく140km/hは出ているストレート、キレのあるスライダーを武器にテンポよく投げていた。名前は分からなかったが、おそらく彼がエース格なのだと思う。練習試合のため、都合上、先発しなかったのだろう。 練習を見るつもりが、運良く、練習試合を見ることができ、得した気分だった。 コーチに現在のチーム事情を聞いたところ、近年、いい選手は集まらなくなってきているらしい。野球推薦で入ってくる選手というのは、PLや明徳に入れなくて、仕様がなく尽誠に入ってくる選手が大半らしい。四国地方の有力選手はほとんど、明徳や関西方面の強豪校に入学するとのこと。 しかし、尽誠学園は今でも高校球界の名門に変わりはない。この恵まれた練習環境の中で、伊良部や谷は才能を開花させたのかと思うと、納得できるという感じであった。 善通寺から松山へ移動した。17時15分到着。今夜はとりあえず松山に泊まることにする。松山駅近くに松山市営球場があったのでそこに向かった。松山の球場といえば今や「ぼっちゃんスタジアム」。地元の人と話をしたところ、ぼっちゃんスタジアムが出来たため、松山市営球場は近々取り壊されてしまうらしい。実際に見に行くと、数ヶ月の間なにも整備されておらず、グラウンド内には草がボウボウに生えていた。グラウンドも一種の生き物。整備されずにいるとこんな変わり果てた状態になってしまうのかと、寂しい思いがしてしまった。 松山市営球場を見た後、道後温泉方面にひたすら歩いた。その方面に今夜の宿舎となる「松山ユースホステル」がある。歩き始めて1時間。松山ユースホステルに到着。 明日は松山商業に訪問するつもりである。ぜひ、沢田監督にお会いしたいと思っている。 -
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