2001年07月29日(日) |
小森洋一「英語で語る『日本文学』」を読んだ。 |
岩波新書「英語とわたし」から小森陽一のエッセイを読んだ。 収録二十三編の中からその「英語で語る『日本文学』」を選んだ理由は単純。「小森陽一、ニホン語に出会う」を読み、さらに「文体としての物語」と「漱石を読みなおす」などを拾い読みしたことがあるからだ。言動に悪いものを感じない。 日本文学について話す時、ほとんど英語を使っている。これが題名の意味である。日本文学を研究する者がその研究のことを語る時、英語を使う。一見矛盾するようだが、聞き手が日本人だけとは限らなければ、決して奇異ではない。ただ筆者はそういう外的条件以外に、日本語の時には問題を感じなかったことが英語に置き換える作業を通して曖昧だったことに気づかされ、明確になっていく。畢竟、厳密にならざるを得なくなるというような意味のことを言って、英語で日本文学を語る意義を積極的に認めている。 アメリカの大学でゼミの院生との議論が激すると、筆者が英語を使い、相手の院生が日本語でまくしたてるという話は面白い。今日は選挙の日だからじゃないが、国際化を連呼しながら実際はその逆の道を進んでいるような国の文学がそんなふうに語られ、研究されている。それは正しい国際化である。 文中に「限定された知的枠組でしかないということに自覚的になるべきだ」とあるが、「枠組」の中に自分がいることに気がつくのはほとんど困難だ、と全く関係ない感想をもってしまった。 以下、今日覗いた本。 「続・死ぬまでになすべきこと(やっぱり自分だけが頼りです)」角川書店文庫(式田和子) 「百人一首」講談社文庫(大岡信) 「父・こんなこと」新潮社文庫(幸田文) 「ティーターン」東京創元社推理文庫(ジョン・ヴァーリイ)(訳=深町眞理子) 「世界の秘密の扉」東京創元社推理文庫(ロバート・チャールズ・ウィルスン)(訳=公手成幸) 「始祖鳥記」小学館(飯嶋和一) 「本の雑誌」八月号 今日は「始祖鳥記」を半分は読むはずだった。読めず。
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