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音のない声。

             byスイチ








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2004年07月22日(木) 『アナログ』1

遠い空の向こうの僕。
僕の『ありか』を きみと一緒に。


+プロローグ+

「よく覚えておくんだよ。お前は賢いからきっとできる。わたしが居なくても大丈夫だね?」
「嫌だ……行かないでよお」
 少年は青年の服を引っ張ったまま、涙を流し始めた。
「仕方がないんだ、絶対に帰ってくるから、な。ほら放してくれないか」
 少年が手を放すと、青年はやさしく頭を撫でてやる。やわらかな髪の毛は甘い香りがした。
「整備の知識はきちんとインプットしてあるから大丈夫だ。……そんな表情しないでくれ…。わたしが帰ってくるまでちゃんとやるんだ、分かったね。お前がここに居てくれないと、わたしは帰ってこられない気がするんだ」
「そんなこと言わないで……分かったから、ちゃんと帰ってきてよ」
「約束する」
 きめの細かい少年の手を取り、小指を絡める。

 青年は家を出た。
 
 少年は一晩泣き、涙を拭うと二階に駆け上がり洋間に閉じこもった。
 そして再び部屋の外に出ると、扉に大きな錠前を掛けた。

 これでいい。
 これでいい……。
 僕は。

「伽也……」


+1+

「……またきみか」
 滴葉(しずは)は年格好の似た彼の姿を一目見て、小さく溜息を漏らした。
「きみこそ、また縁側に座ってアイスキャンディーを食べてるんだね」
「僕が僕の家で何を食べようと勝手だろ。でも、何故きみは毎日まいにち人の家にやってくるんだ」
 手に持っていた溶けかけのアイスキャンディーが、ぽつんと土に小さな染みを作った。滴葉はよくアイスキャンディーを食べるわりに、いつもこうして大概を溶かしてしまうのだ。
「言っただろ、ボクはきみの兄弟なんだヨ。だから遊んでよオ、お兄ちゃん」
「……好きにすればいい」
 一言言い放って、滴葉はアイスキャンディーをくわえて目を閉じた。

 こうやって昨日も訪れて、滴葉にかまってくる。
 この少年が滴葉の弟だというのは嘘だ。少年はさわやかな表情をして嘘を吐く。

 晴れて滞在の許可を得た少年は、滴葉の隣に同じようにして腰掛け、足をぶらぶらとさせながら滴葉にかまう。
「今日も包帯だらけだね。なんで?」
 滴葉はいつも身体のあちこちに包帯を巻き付けていた。
 一番よく目を引くのは首で、他にも手首や腕や足にも白く目立っている。
「別に。僕の勝手だろう」
 滴葉は少年を一瞥して、再び溜息を漏らした。
「せっかくのきれいな白い肌なのに」
 少年が滴葉の頬に触れようと手を伸ばしたのを、迷惑そうに払う。ぱしっという乾いた音が、互いの耳に届いた。
「うるさいな」
 少年はきょとんと滴葉を眺める。滴葉は再び目を伏せることで、少年の視線から逃れようとした。
 アイスキャンディーが溶けて、指を伝う。
 しかしいつまで経っても少年の視線は滴葉に注がれたままで、とうとう滴葉はしびれをきらした。
「うっとうしい奴だな、いい加減にしてくれないか。毎日まいにちきみは何のためにこうしているんだ?夏休みの宿題が有るだろう」
「あんなの、夏休みの終わりにぱーっと終わらせればいいじゃないか」
「ぱーっと、ね……」
 今日何度目ともつかぬ溜息を吐いて、ようやく食べきったアイスキャンディーの棒を傍のゴミ箱に投げ入れながら立ち上がる。
「どこ行くの?」
「手、洗いに」
 振り返りもしない滴葉の背中を、少年は黙って見送った。
 滴葉は台所の蛇口をひねって、べとべとになってしまった手を洗う。

 人間は、不快の感情から発達していくのだという。
 それならあの少年を快く思えないのは、それ以上感情が発達しなかった所為だろうか。
 庭先で鳴き続ける油蝉も、毎日照り付けて気温を上げる太陽も、今の滴葉にとっては全て不快だった。
 いっそ、全部消えてしまって、何も無くなってしまえばいい。


「ねえねえ、ボクにも包帯巻かせてよ」
 滴葉が縁側に戻ろうとすると、少年が座敷の方に身を乗り出して明るく言い放った。
 滴葉は少年のわがままに溜息を吐き、包帯を取りに階段を上がる。棚からひと巻きの真っ白な伸縮性の包帯とハサミを取り、再び階下に向かう。
「ほら」
 数メートル離れたところから少年に向かって包帯を投げ、自分も元居たところに腰掛ける。
「ありがと」
 満面の笑みで受け取った少年は、さっそくぐるぐると辺り構わず広げ始めた。
「ねえ、早く巻かせてよ。きみの包帯、巻き代えるでしょ?」
 何メートルか伸ばした包帯の端を持って、少年が催促する。
「僕のを付け替えるつもりだったのか……。悪いけど僕は今朝代えたばかりなんだ。自分に巻いたらどうだ?」
「ボクに?」
 滴葉が声を出さずにうなずいて返事すると、少年は嬉しそうに右手で自分の左手に巻き始めた。
 しかしきつく巻こうとすると、するすると取れてしまう。
「……きみは包帯も満足に巻けないのか…」
 滴葉は呆れて少年の手から包帯を取り、めちゃくちゃに伸ばされた包帯を元通りに巻き取り始めた。
「ほら、手を出してみろ。僕が巻いてやるから」
 滴葉が包帯を巻き直すのを不思議そうに見ていた少年の表情が、ぱっと明るくなる。
「ほんと?」
 右手を滴葉に差し出して、自分の手首に包帯が巻かれるのを黙って見入っている。
 滴葉がいつも使っているのは肌触りの良い柔らかな包帯で、直接肌に触れてひんやりとした。

「包帯は巻いたまま使うんだ。こうやって上向きにして転がしながら巻けば、きれいに巻けるだろう。一周させたら少しずらして斜めにする。また一周させたら逆にずらして、バツになるようにするんだ」
「へー、上手だね」
「ほめる程のことじゃないだろ、誰にだってできることなんだから。……それに、人に巻く方が簡単なんだ」
 ふうん、と感心する少年の手を支えたままハサミを取ってぱつんと切り、巻き終わりを挟み込む。
「あんまり何周も巻かないんだね。もっとぐるぐる巻きにするのかと思った」
 少年は高く腕を上げて満足そうに眺める。
「怪我をしているわけでもないのに、たくさん巻いてもうっとうしいだけだろ」
「そっか」
 少年は包帯を巻いてもらったことが余程嬉しかったらしく、何度も滴葉と自分の腕とに視線を忙しく動かしている。
「満足したならもういいだろう、そろそろ帰ってくれないか」
「えーっ、まだ来たばっかりじゃない。ね、いいでしょお兄ちゃん」
「誰がお兄ちゃんだ、図々しいな。きみは僕なんかに構うほど暇をしているのか? だったら早く家に帰って宿題をすればいいだろう。出来ることは早めにやっておくものだ」
 少年は少しふくれて、ほんのわずかな沈黙の後言い返す。
「ボク、今宿題やってるもん。タイムマシンで未来からここに来て、昔の人の生活について調べてるんだもん」
「それなら、僕を調べても仕方ない。別のサンプルを探した方が、きっといい成績を付けてもらえるぞ」
 滴葉が負けずに言い返すと、少年は腕を組んで自信たっぷりに続ける。
「そんなことないよ、皆とおんなじことしたって全然駄目だね。何か人とは違った『切り札』が有った方がいいに決まってるんだ。ボクが課題でAをもらえたら、きみのおかげだからね」
「……勝手にしろ」
 それ以上うまく言い返す言葉が見付からず、結局最後は自分が引くことになる。
 それを分かっていながら、滴葉はどうしても少年を帰そうと逆に話を長引かせてしまうのだった。

 満足そうな少年を見ていると、何故かいつももどかしくなる。
 わがままで、とんでもなく嘘吐きで、それでもこんなに屈託無く笑っているのは何故だろう?
 自分と正反対のこの少年の存在を、滴葉は戸惑っていた。

「じゃあ、名前教えて。名前」
「……滴葉」
「シズハ? 漢字有るの?」
 滴葉は土に石ころで名前を書いて説明してやった。少年は納得した後、自分の名前だと言って“日和”と書いた。
「何て読むんだ、ヒヨリか?」
「ううん、ヒワ。でもヒヨリって呼びたかったら、そっちでもいいよ。ボク、大して自分の名前に愛着持ってないんだ」
「ヒワでいいだろ」
「嫌だ、やっぱりヒヨリって呼んでよ。滴葉が付けてくれた名前」
 読み違えただけで別に滴葉が付けた名前と云うわけでもなかったが、少年が駄々をこね続けるので結局ヒヨリと呼ぶことになった。


「滴葉の家、すごく静かだね。ボクが来る時いつも滴葉独りじゃない? 家族の人は?」
「何でそこまで言う必要が有るんだ。きみには関係ないだろ」
「ケチー」
 ふくれてみせてから、額の汗を手の甲で拭った。
 相変わらず太陽がじりじりと照り続け、縁側の板の温度も上がる。
 温かいどころではなく、不愉快なほど熱い。

「暑いー。何でこんなに暑いのかなあ」
 ヒヨリがぱたぱたと足を動かす。いつものわがままに、溜息が漏れる。
「……アイスキャンディーでも食べるか?」
「ほんと? いいの? 食べる食べるー。初めてだね、滴葉がそんなこと言うの」
 ヒヨリの言葉に返事をせずに台所に向かい、冷凍庫からアイスキャンディーを二本取り出す。
 確かに初めてだ。もう、ヒヨリのわがままにすっかり馴れてしまったのかもしれない。
「ありがとー。わーい、いちご味だ」
 ヒヨリは早速アイスキャンディーを開封してくわえた。
「やっぱりアイスは夏に食べるものだよネ。あーあ、ほんとになんでこんなに暑いんだろ」
 ヒヨリが額の汗を拭い、太陽がアイスキャンディーを溶かしていく。滴葉はいつものように結局あまり口に入れず、指や地面をべとべとにした。
「ねえ、いつもアイス食べてるけど、無くなったら買いに行くの?」
「当たり前だろう」
「だよね。じゃあ、冷凍庫の中どうなってんの? アイスいっぱい?」
 滴葉は黙ってうなずいた。
 実際、冷凍庫にはアイスキャンディーと氷しか入ってない。冷蔵庫にはある程度の物が入っている。
「ふうん、アイス、好きなんだね」
「……別に?」
 アイスキャンディーから口をはなして、ヒヨリと視線が合う。
 滴葉は首をかしげた。
 ヒヨリもそれに続いて心底不思議そうに首をかしげた。
「え? 好きなんじゃないの? なんで?」

 なんで?
 彼の素朴な疑問は滴葉を悩ませた。
 何故かと問われると、理由など無い、と答えるしかないのだと思う。
 そもそも何故自分がアイスキャンディーを食べているのか、分かっていないのだ。

「ボクはアイス好きだヨ。冷たくておいしいし」
 にっこりと笑いながら話すヒヨリとは対照的に、滴葉は黙り込んでしまった。
 またアイスキャンディーが溶けて、指を伝う。
「ボク、夏になると何も食べたくなくなるんだ。だからアイスとかよく食べるの。単純に夏バテなんだろうけどネ」
特に荒れた様子のないきれいな肌で、ヒヨリは再びにっこりと笑う。
「……僕も、似たようなものだ」
 絞り出すように、ようやくそれだけを言うことができた。
「ほんと? おんなじだね」
 先刻のように不思議がることなく、アイスキャンディーを食べ続ける。
 滴葉は動揺してしまって、少しも口に入れられないままでいた。

「ひとつ訊いていいか? きみが未来から来たというのなら、僕は未来ではどうなっている? まだ、ここに居るのか?」
「いきなり変なこと訊くね……。何か心配なことでも有るの?」
 ヒヨリはアイスキャンディーを食べる手を止めて、滴葉の顔を覗き込む。
「べ、別にそういうわけじゃ……」
「ふうん……まあいいけど。でもね、未来なんてどうなるかはっきりとは言えないよ。だって、ボクだって滴葉だって、自由な生き物なんだから。ボク等がどんな選択肢を選ぶかによって、未来なんてあっけなーく変わっちゃうものだよ。だから滴葉がここに居たいんなら、それなりのことをすればいいんだよ」
「別にここに居たいわけじゃ……」
 動揺したままで、声がうまく出てこない。耳障りな蝉の鳴き声に掻き消されてしまいそうなかすかな声で、滴葉はそれだけを言った。

 ここに居たいわけじゃない。しかし、ここを離れるのはためらわれた。
 自分にとって、やはりここは大切な場所に違いないから。
 この場所でただ、ただあの人の帰りを待ち続ける。

「うまくはぐらかすんじゃない。だいたいきみが言っても説得力がないぞ。僕は、未来ここに僕が居るのかを訊いたんだ」
 体勢を立て直すために、もう一度尋ねる。自分の意志がどうのこうのということから、どうしても話をそらせたかった。
「うーん、ほんとはね、ボクこの辺の人間じゃないんだ。だって考えてもみてよ、自分の住んでる土地の過去に行ったら、面倒が起こりそうだろ?」
 だからそんなことは分からない、と言いたいらしい。うまい屁理屈を返されてしまい、滴葉は再び黙るしかなかった。
 ヒヨリは、そうこうしている間にアイスキャンディーをすっかり食べてしまった。
「ごちそうさまー」
 明るく言い放ちぴょこんと縁側から下りると、その棒で地面に落書きを始める。
 ぐるぐるぐるぐると円を描く。

「ねえねえ、なんで球体は丸いのかなあ」
「丸くない球体なんかないだろう。丸くなければ、球体として成り立たない」
「そういう意味じゃないよお。たとえば地球だって月だって、丸いじゃない? それってさ、多分重力とか関係してると思うんだ」
 宙に大きな円を描くようにしてみせ、相槌を求めるように滴葉を見る。
「……よく分からないな」
 滴葉は苦笑いで肩をすくめてみせた。
 こんな話で思いもよらない滴葉の表情を見れたヒヨリは、嬉しそうににっこりと笑う。それを見て滴葉は慌てて咳払いをした。
「ボクね、“こころ”とか“やさしさ”とかそういうものって、きっと丸いと思うんだ。真ん中にさ、小さくても大切な核が有って、それに引き寄せられて集まってるの」
「そんな大層なものか? ……そんなもの、もろくて呆気ないだけだ」
 先程の表情はすっかり引っ込めてしまい、再び無表情で冷たく答える。
 ヒヨリは落書きに飽きてしまったのか、庭にぺたんと座り込んだ。
「服が汚れるぞ」
「いいの、洗えば落ちるんだから。服なんて身体を汚さないために有るだから、汚れて当たり前だよ」
 眉をひそめて笑う。
 滴葉は小さく溜息を吐いた。
 たかが洗濯なんかで苦労をしたくない滴葉はいつも服が汚れないように気を遣っているので、ヒヨリの意見にはうなずくことができなかった。
 些細な価値観でさえ食い違う。
 こんな自分と正反対の少年が何故構ってくるのか、滴葉には理解できない。

「ねえねえ滴葉。ボク、今日誕生日なんだ。……ひとつだけ、お願いきいて?」

 座り込んだまま手のひらを組み合わせて、滴葉を上目遣いに見る。
「なんで僕がそんなこと……」
「えー、お願い、ひとつだけ。今回だけだから」
「突然現れておいて突然言い出して、さらに次回が有ってたまるか」
「意地悪言ってないで、ね、ひとつだけだから」
「……なんだ」
「ボクのこと、少しの間ここにおいてくれない? ほんの少しだけだから……」
 いつものように笑いながら、でも少しだけ語尾が弱まる。
「……寝泊まりさせろってことか? 悪いが、うちにはろくな食料がないんだ」
「いいの。さっきも言ったでしょ、ボク、夏バテでろくに食べないって。なんなら、滴葉の分のごはんもボクが用意するから。ね、お願い」
 立ち上がって滴葉の前に立ち懇願を続けるヒヨリに負けて、溜息を漏らした。
「……勝手にしろ」

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