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洋間を前にして、滴葉だけでなくヒヨリも緊張しているようだった。 ヒヨリが「ボクがやる」と言うので、何かを怖がっている様なヒヨリを少し心配しながらも、薬棚から取ってきた鍵を手のひらにのせた。 「開けるよ……」 がちゃり。 何のひっかかりも無く、すんなりと鍵は解かれた。 二人で顔を見合わせて、滴葉が小さくうなずく。銀色のドアノブに左手をかけ、ゆっくりと下に下ろす。 三年振りに開ける、自分が作られた人形工房。 ドアを開け切ったところで息を呑む。 すくむ足をむりやり前に出し、一歩中に踏み入る。 素足がたまった埃を宙に舞い上げた。 「あっ、吸っちゃだめ!」 ヒヨリが部屋の外から滴葉の腕を引っ張る。 「精密なものに埃は大敵! …出て。ボクが一通り掃除するから」 手を引かれたまま、滴葉の目は人形達を捉えていた。 「う……」 声にならない声が漏れる。 じりじりと後退りする滴葉を止めようと、ヒヨリも室内に入る。埃が舞い、ヒヨリも咳き込んだ。 涙の溜まった瞳で、室内の様子をざっと見渡す。 心臓が大きな音を立てて打ち、ヒヨリは部屋から飛び出したい衝動にかられた。 「滴葉、早く出て。……早く!」 滴葉は言われるままに洋間から押し出され、ヒヨリがドアを閉めた。 「ボク、掃除道具取ってくるね……」 階段を駆け下り、いつもの物入れを開ける。初めは使い勝手のよく分からなかった道具を手に取り、再び二階へと向かう。 深呼吸をして鼓動を鎮め、階段の最後の一段を上がった。
「……少し待っててね、できるだけ早く終わらせるから。滴葉はパソコンのマニュアル探してきて」 「それならそこに……パソコンデスクの上の棚に仕舞って有る」 「わかった。じゃあ、少し待っててね」 滴葉の緊張をほぐすように、にっこりと笑って洋間に入っていった。 ほどなくして雨戸を開ける音が響く。 滴葉は落ち着かない気分でしばらく廊下をうろうろした後、ドアの横の壁に背を付けて座り込んだ。膝を抱えて、ただひたすら待つ。
「遅い……」 人形師の帰りを待ち続けているのだから待つのはそんなに苦ではないと思ったが、これが予想以上に長く感じられる。 いつもの調子でもたもたと掃除しているかと思うと、余計に心配になる。 ……ヒヨリも何かにおびえている様子だった。 がちゃりと音を立ててようやくドアが開けられ、ヒヨリが服を真っ黒に汚して出てきた。 「掃除できたよ。マニュアルもちゃんと有った」 何冊かのマニュアルを抱えている。 「……まず服を着替えてくれないか。今、風呂を沸かしてくる」 ヒヨリが着ていたのは、昨日宿題と一緒に持ってきたきれいなカッターシャツだったので、滴葉はまずその汚れに愕然とした。 「あはは、いつもの滴葉だネ。よかった」 ヒヨリの方も、いつも通りの態度だ。中で多少馴れたのだろうか。
二十分程かけて風呂に湯を溜め、着替えと一緒に渋るヒヨリを脱衣所に押し込み、滴葉は縁側で埃だらけのマニュアルを拭いて広げてみた。 よくeスクールに登録できたなと今更ながら思うような、古いパソコンだ。 「お使いになる前に……」 文字を指でなぞりながら、声に出して読んでみる。 何も覚えていない。パソコンの使い方でさえもデリートしてしまっていた。 「セットアップぅ?」 突如、背後から声がした。振り向くとすぐ横にヒヨリの顔が有り、視線はマニュアルに注がれている。 「なっ、なんだよ……」 ヒヨリを風呂に入れてからまだそんなに経っていなかったので、心底驚いた。いつもは長風呂で、一度入ると一時間は出てこないのに。 「やっぱり配線からやるんだあ…。全部抜き取られてたから、まさかとは思ったけど。やだなー」 濡れた髪の毛をタオルで拭きながらぼやく。 ヒヨリがぼやくのも無理は無いだろう。今のパソコンを使い慣れているヒヨリにとっては不便なものに違いない。 「んー、まあいいや。見せて見せてー」 滴葉が持っていた基礎編というマニュアルを受け取り、隣に座り込んで熱心に読み始めた。 ぱらぱらとめくりながら、時々きちんと目を通す。実物を触りながらでないとはっきり分からないので、とりあえずの基礎だけを叩き込んでいるようだ。 小一時間経った頃、マニュアルは閉じられた。 「工房、行こ」 すくっと立ち上がり、アイスキャンディーを食べていた滴葉の腕を引っ張る。 「あ……ああ…」 うずく感情をおさえて、滴葉もゆっくりと立ち上がる。 くだらない話もせず、ただ黙って階段を上がり、そして再び洋間のドアが開けられた。 足がすくんで、一歩入った所で止まる。 ヒヨリはパソコンデスクの周辺をいじり始め、まもなく用意ができた。 「先刻色々探してみたら、何枚かディスク出てきたんだ。多分、どれかに情報を打ち込んであると思うから。……一枚づつ調べてみるね」 ヒヨリが振り返って、ディスクを何枚か見せる。滴葉はうなずいて、自分もデスクの横に立った。 一枚目を立ち上げてみる。 数秒のロードの後、文字の羅列が出てくる。 「……なんだろ、これ」 日付が打ってあり、数行の文章が書かれている。次にまた日付が打たれ、数行の文。これの繰り返しだ。 「これ……日記…かなあ」 マウスで画面をスクロールさせながら、時折止めて読んでみる。
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二年越しの苦労がようやく実った。ヒューマンタイプの人形が完成したのだ。しかし、当然のことながら人工頭脳はまだ未熟だ。これから成長するだろう。 名前はかねてから考えていた「滴葉」にした。
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滴葉は白が好きらしい。手首を修理している際、切り口をつないだ部分と首のふたを隠すために包帯を巻いたら、ひどく気に入っていた。あんまり喜ぶので包帯の巻き方を教えたら、すぐに覚えてあちこちに巻きだした。 今日、兄さんから電話があった。画面の向こうの兄さんはひどく不満そうだ。 ここの暮らしは気に入っている。もう三年になるが、一度として不満を持ったことは無い。親兄弟のことが気にならないと言ったら嘘になる。帰らないのも悪いと思う。
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今日、危うく故障しかけた。気温の上昇の所為で、腹部辺りに異常が出てしまったのだ。わたしの至らなさが原因だ。滴葉にはアイスキャンディーを食べさせることにしよう。ほんの気休め程度のことだけれど、何もしないよりはましだ。 滴葉はアイスキャンディーを気に入ったらしい。普段は何か特別なことが無い限り食事をしようとしないので、アイスキャンディーを食べてくれるだけでも喜ばしい。
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制作者であるわたしが言うのもなんだが、滴葉は本当にかしこくて良い子だ。 それにしても、どうやら自分が人形だと分かっているらしい。人間というエゴイズムの塊のような生き物のわたしが作ったのに、あの子は感謝してくれている。少々悪い気がする。 しかし、わたしはあの子を人形だとは思わない。
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定期検診の日だった。滴葉を連れて行くと、まわりの患者を見て心配していた。わたしのことをひどい病気なのかと訊いてきたのでそんなことはないと言ってしまった。逆効果。
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滴葉の十歳の誕生日。整備と修理をした。 今日、入院が決まった。この前受けた検診の結果が届いたのだ。滴葉を独り置いていくのはいくらなんでも心許ない。 しかし、今回きちんと入院しないと命の保証はできないとまで言われた。手術をすることもままならないという。 死にたくはない。
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「……滴葉…すごく大切にされてるんだね…」 お互い声をつまらせる。ようやく言葉を発したヒヨリに、滴葉は黙ってうなずいた。 日記を閉じて別ディスクの情報を開いている間、滴葉はゆっくりと室内を眺めてみた。 あの頃と変わりの無い部屋。 ここにこもって人形を作っていた後ろ姿が浮かび、少し安堵した。
「あっ、これだ。有った、有ったよ!」 滴葉の服を引っ張って、ヒヨリが興奮したように言う。スクロールバーをクリックしながら、真剣な表情で読み始めた。 一通りの情報を読み終わると最初のページに戻し、一度マウスを放す。 「始めよう」 「……ああ」 困惑しながらも、滴葉はうなずく。自分を作ってくれた大切な人が、生きようと頑張っているのだ。自分が壊れてしまうわけにはいかない。 「……自分の修理されてるところなんて、やっぱり見たくないよね。ごめんね、少し眠ってて」 ヒヨリは滴葉の首に手を伸ばし、彼の包帯を外す。 首筋のふたを開け、スイッチを切り替える。 滴葉の身体の力が抜け、まぶたが閉じられた。 膝が床につく寸前、ヒヨリが抱き止める。 力の無いヒヨリは一生懸命台の上に座らせた。 きれいに整頓された工具を一つづつ確かめ、パソコンと見比べる。 息を大きく一つ吐き、動かなくなった滴葉に向かい合う。 ヒヨリは、ゆっくりと整備にかかった。
眠ることさえ忘れて作業を続け、そしてそれは二日目の夜が明けるころ、終わりを迎えた。
首のスイッチを再び入れ直し、閉じる。 しばらくして、滴葉のまぶたがゆっくりと上がる。 頭が持ち上がる。 「……ヒヨリ…」 かすれる声で、滴葉がヒヨリを呼ぶ。 成功したのだ。 張り詰めていた緊張の糸が切れ、ヒヨリの目に涙が溜まった。 「滴葉ぁ……」 床にぺたんと座り込んで泣き出すヒヨリの頭を、滴葉が撫でてやる。 寝ていないのと気が抜けたのとで、ヒヨリは直に眠ってしまった。寝室にヒヨリを運んで布団を敷き、寝かせる。 動きの軽くなった身体を実感する。 ヒヨリの寝ている隣で、滴葉はいつも通り包帯を巻き始めた。
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