「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2005年07月11日(月) いつも自分・まず自分

 「赤ちゃん」 が育っていく様子を 「一般化した基準」 に合わせることは、赤ちゃんに対して 「大変失礼なこと」 ですね。 そういう私も過去には 「育児書」 を片手にして、自分の子どもを 「社会の基準」 に当てはめていた母親です。今では、「随分ひどい事をしたな」と思います。そして私がそうしてしまったのは、「基準から外れた自分を否定されてきた過去」の傷のせいだと分かります。

 私の場合は、「未熟児」で生まれましたから、赤ちゃんの頃の成長もゆっくりだったのだろうと思います。そして幼児期には頭から火傷を負いましたから、「私が育つ為のエネルギー」 は 一時的に 「やけどの傷を治すこと」 に注がれたのだろうと思います。 さらに私は 「子どもの心が安定していない場合」 は 「肉体的な成長は遅くなる」 とも思っています。 ですから余計に 「ゆっくり育ち」 になっていたとも思えます。  その私を 「困った子ども」 として見ていたのは、過去の 「社会の基準に私を沿わせようとした親達」 です。それ以前に 「丙午に生まれた私」 を一番先に 「困った人」 として見たのは 「私の父親」 だという事は明確です。

 私や「赤ちゃん」の事だけでなく現代の社会でも、「マイナスの常識や評価の中」 で 「困った人」 を作ることが多いですね。特に集団の中に居る時には、「社会の基準」 に沿わない人は 「困った人」 としてみなされますね。こちらも、 「基準から離れ自分として生きている人」 に対して 「大変失礼なこと」 ですね。 例えば 「不登校すること」 や 「ニート」 と言われている人々は、その方法で 「自分を伝えている」 はずなのに、社会の常識の中で評価され 「困った人」 だとされがちです。 でも、本当は違いますよね。私たちは、「ロボット」 ではありません。例えば常に浮かんでくる自分の感情には 「行きたい」 も 「行きたくない」 もどちらもあっていいはずです。もっと言うなら 「後で行く」や「何時間後に行く」 があってもいいのです。  皆それぞれ、「自分の気持ち・思い」 があっていいのです。 そして仮に 「行きたくない」 とするのなら、「行きたくない理由」 があることを、社会の大人は特に 「知ろうとする必要」 があるのです。 こうして考えると、「困った人」 を 「作っている社会」 と 「困った人とされている人々」と、「本当に困っているのはどちらだろう」 と、深い疑問が沸いてきます。

 仕事の帰り道、一人の看護師の女性が「Mamoちゃん辞めるの?私はMamoちゃんは心のある人だなぁと思って、いろんな話が出来ると思っていたのに寂しいなぁ」と言いました。私は少し黙ってから、「みんないつも自分を大切にすると良いよね。でも私はまずは自分から」 と小さく呟きました。彼女は 「そうだね、私もこれからは自分を一番大切にするんだっ」と言いました。  私も、「自分の気持ち」 があっていい。 「私」 はいつも 「自分の気持ちを大切」 にします。 

 私はいつも、 「自分」 から。


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