「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2005年04月12日(火) 「知」と「心」

 病院には時々「知的障害者」と言われている方が診察にいらっしゃいます。そのうちの一人の女性は32歳。彼女はいつも「カラスの歌」を「歌って」診察時間を過ごしています。けれど今日は様子が違っていました。女性は診察室の床に座りこみ、「いたいよ。いたいよ。ごめんなさい。たたいた。」と大きな声で叫ぶのでした。私は始め彼女の言葉に驚きましたが、その言葉の「意味」は容易に想像できました。そして私は女性の「声」のひとつひとつに丁寧に答えていきました。女性が「いたいよ」と言ったときは「いたかったね」。「ごめんなさい」と言ったときは「いいよ・だいじょうぶ」。「たたいたよ・ぶった」と言ったときは「いたいね・ごめんね」と繰り返しながら、私の「単調な言葉」が「今の同僚」に伝わるといいのだけどと考えていました。そうしているうちに同僚は「たたいたよ。たたいたよ。ごめんなさい」と言って自分の頭を床にぶつけ始めました。私は「小さな声」で「あたまがいたいね。ぶたれるといたいね」と言い続けました。女性は更に自分の拳骨で頭やほっぺたをたたいたり、自分で書き壊して傷になった腕を引っ掻きながら「いたいよ。たたいたよ。ごめんね」と言い続けました。女性の吐く息が私の頬にかかりました。私は女性の開いたままの唇と目を交互に見つめました。その視線は最後まで「遠くを見つめたまま」でした。
施設の付き添いさんは「いつもこうだから仕方が無いんです」と言い、彼女の動きを止めようとしました。医師は女性の混乱に困っているように見えました。
私は女性のそばで「知的障害者」という言葉の意味を考えていました。全く視線が定まらず一人では生きていかれない彼女が「いたいよ。たたいたよ。ごめんなさい」という言葉を繰り返しているのは何故なのか。女性に「知的障害者」という言葉を付けたのは誰なのか。仮に女性が「知的な障害」を持っているとするのなら、その女性の「知」に「障害」を与えたのは誰なのか。そしてもっと原点に返るのなら、女性の「人として」の「心」を「壊した」のは誰なのか。「社会」の中には「弱い」と言われている人々を更に「弱くする」要素が普段に組み込まれているのではないかとか、この「社会」こそが、人にあるほんの「小さな点」を「大きなマイナス」にしているのではないかとか。私は、今の「社会」は「間違っている」と「心」から思います。私はいつも「根底」を見つめ「一般社会」とは「違う生き方」をしていこうと強く思った出来事でした。


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