「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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自分の事も他者のことも分かったつもりになるのはやめよう。それぞれの心の奥底にあるものは、それ以上誰にも傷つけられないように、少しずつ少しずつ、自分の全身で目の前にあるものが安全であるか確認されながら、少しずつ表に表わされる。それ程も繊細に配慮された結果、私の目の前に落ちた悲しみの涙の意味を、私は分かった振りをすることはやめよう。おそらくは分かったつもりの錯覚すらも、優越感の元になるのだろう。
そして、私は自分の事は 「自分の感覚」 として知っている。 自分が過去に、どれほども長い間この苦しみを押し込めていて、どれほども苦しみ続けていて、そしてこれ以上は無いと思える安全な場所にのみ私の苦しみは表現された事を、私はいつも知っている。私が経験してきたことは全て、私の感覚が知っている。私が感覚で知ったものに、私は確信を持つ。だからこそ、いつも感覚を持ち生きられるようにしていこう。
私は今、私が何時生まれたかという事よりも、私が今どのように生き、そしてこれからどう生きていくのかを考えたくなっています。
誕生日月に入る前の7月31日、Mitsukoさんとの出会いをきっかけに自分が長い間抱えてきた「生」と「死」と「生」の問題に又ひとつ足を踏み入れることになりました。そして同じ日の午後、私の頭に浮かんだひとつの思考。
「生きよう、生きてみよう、生きてみようと思うんだけど、私は何をしていけばいいのかな」
隣で私の発言を聞いていた人は「あなたはずっと生きてきたし、今も生きてるよ」と言いました。 そうですね。私はずっと生きていた。そして今、上の言葉が私の中から沸き起こってくるのです。これまで生きていたのは、「自身の感覚を知らない作られた私」だったのでしょうか。そしてこれからは「あるがままの私」が生きていくということでしょうか。 私は感覚を持った 「私」 で生きることを選択したのかもしれません。
私の感覚が生きる事を決めたその日から、プラスの私のすぐ隣にいた「そんなことやって何になるの?」という思考はぴたりとなくなり、今は自分を・社会を否定した視線の私は何処にも見当たらないのです。そしてその思考と入れ替わるように、「どんな風に生きようか」と自分の人生を模索し、より傷を癒やそうとする思考が、私の感覚として湧き出てくるのを感じるのです。
過去には、常に正しいのは社会で、常に間違っているのは私だと感じていました。この頃は、私の中に 「何かが変な社会、何かが根本的に間違っている社会」 が見えます。仕事をしながら思うことのたいていは 「今の社会は何かが変だ」 という事です。6:57
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