「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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| 2004年07月15日(木) |
空に浮かんだダイアモンド 海底 |
昨日の夕方、車を運転中の事、遠くに浮かんでいる雲の真ん中に何かが光っているのを見つけました。運転中なので凝視することが出来ませんが、「何なのぉ?!」と目をパチパチさせながらその光りを追い続けていました。
光りは真っ白くて分厚い雲の中でとても大きく輝いて見えたので、飛行機?とか雲のかけら?(そんなことは無いか・・・)とか、一人で想像をめぐらせていました。
飛行機にしては動きが無い・・じゃやっぱり雲のかけら?! 水蒸気? 目に見えるはずが無い・・。 どうして動かないの?
と・・・この独り言を時間にするとほんの2分くらいのことなのですが。
暫く走って道を曲がり、その光りを見る方角が変わったとたん・・な、なんとそれは私の眼に大きな飛行機として飛び込んできたのです。ホントに驚いてしまい、走る車の中で一人「何でぇ!」と声を上げた私です。
後になって、私の眼に光り輝いて見えたのは何故かを考えてみました。まったくの想像ですけど、私は東に向かって走っていて、後ろに出ていた太陽の光り(西日)が飛行機に反射して光って見えた。(太陽光線が飛行機に直撃していたの?)発見した時には飛行機はうーんと遠くを飛んでいて普通は見えないような距離であったのに、太陽光線の反射によりその姿が見えた、とかね。これを読んだ人は私の想像があっているのか教えて下さいな。
時計の後ろの歯車を見たことがありますか?昨晩時計の後ろに隠れている歯車を改めて眺めてみました。歯車は3つあり、そのどれもが微妙に、けれどしっかりとかみ合うように作られているのですね。そしてそのどれかが壊れてしまうと、私の時計は「時計としての機能」を果たさなくなるのですね。
人生を表現する時に「歯車が狂った」という表現を聞くことがあります。どこから歯車が狂ったのだろう、とか。私も過去にそんな言葉を使ったかもしれません。今は、私の人生を歯車に例えることは出来ません。それでも言うとするならば、私の人生の歯車は自分が生きたように動いているということですよね。軋みを持たず潤いを持ち、少しずつ確実に動いているのです。7:00
海へ行ってきました。海の底を水中眼鏡で見ているうちに又また海の底で寝てみたくなりました。 最初ゴツゴツして硬いように見えた海底の岩たちは、実際に身体を付けてみると、岩に藻が付いていてとても柔らかいと知りました。 海の底に身体を沈めると、水上の音が何も聞こえなくなります。ぷくぷくと小さな音、そしてずっと遠くのほうで水面を通る波のザーッという音が、本当にかすかに聞こえます。私はまるでずっと前から、今自分が寝ている海底で暮らしていたかのような感覚になり、そしてなんともいえない安らかな気持ちになりました。この気持ちはいったい何でしょう。プールの底で寝ている時も同じですが、本当に「水」の感触が私の肌にとても心地よく吸い付くのです。
海の水は塩水、私が間違って飲み込んでしまった海水も、自然に生まれた塩の力で、私の体の中をきれいにしてくれることでしょう。 水中で上を向いてみました。小さな気泡がいくつも浮かんでいてとても面白い。そして私が身体を沈めているその下には布団が敷かれているようにも思えました。 水中で小さなふぐが一匹泳いでいました。泳ぐ魚の背中に触れてみたくてひそかに追いかけていましたが、私は彼らを脅かしてしまったかもしれません。次回はそっと傍で見守るだけにしようかな。
私が自分自身の好奇心を満たそうとする時、自分の中にある年齢や性別の固定観念が大きな弊害になっている事を知りました。これらのものを取り除いていく為に過去のものを捨ててプラスの思考を使ってやってみると良いのですよね。私たちは、本当は年齢や性別に関係なくいろんな事をしてみても良いのですね。 私は過去に「女だから」という固定観念を植え付けられ、そして何時しか私自身も「女としての限られた領域」の中で生きることをしていたのです。 これからは、社会の中そして私自身の中で「男性の領域」と捉えられている事をやってみるのです。
そして少しでも前に進めると実際に「性別や年齢の問題」はまったく無意味な事を実感出来るのですね。そして自分の体の中で、自分が持つ性としての限界を感じたら、その時に考えていけば良いのですよね。何しろ体の自然な老化だけは、自然に生きる「いきもの」として、避けることは出来ないのだから。
女性が外見を飾る事は無意味だと知っていても、癒やせていない部分では社会と同じ事をしている私が居ます。
やってみるとわかる。何でもやってみると分かるのですね。私はこの頃、この言葉に心の底から納得するのです。過去のものの殆どは間違っていて、そして私たちの人生をとても生き辛いものにしていたのです。
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