「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2004年06月06日(日) |
思考 優先順位 本当に大切なもの 現実の色 |
部屋が散らかっていて、やりかけていることが私の目の前に散乱しています。理由は、浮かんだ思考の全てをやろうとしているから。Aのことをして居る途中でBを思いつくと、Aを途中でやめてBをやり始め、Bに関連してCが浮かぶと今度はCをやり始め・・・。最も総体して心に関することなので大きくずれているわけではないのですが、時々 “ 本当にやりたいことがわからない自分 ” になってしまったり、 “ やりたいことが多すぎる自分 ” に混乱してしまうのです。私の頭に浮かんだ思考は全て私の思考なのですから、全てをやりたいことだけは確かなのですが、「じゃ一番やりたいことは何か?」と聞かれると、そこで又混乱してしまうのです。
自分のやりたいことが決められない。これは買い物に行って品物を決められないのと同じですよね。一つならすぐに選べる、だってそれしかないのだから。でもたくさんあると、多少は誰でも迷いはあるのでしょうが私達は過去、10回でも20回でも何個もの品物をどうして良いのか分からずに、結局は買い物が出来ないまま帰る事を繰り返していました。自分の欲しているものが分からないのです。ありゃ?ということは、今も同じ現象ですか?多くのことは出来ていない?・・・全部が中途半端のままで、出来ていません。そして今の私は別の人格の思考を全て私の思考として捉えていこうとしているところなのですが、そうすると上のような小さな混乱が起こるのです。
でも、浮かんでいる思考の中でも必要ないことって意外とあるのですね。私は一昨日ふと、「浮かんだ思考の中でも私が表に纏めて出せないということは、その時点では必要ない思考なのかもしれない」と感じました。そうすると、不必要な思考は却下しても良いということになります。そして必要なものを選択するのに、優先順位を考えればよいということになるのですね。では、今の私に必要なものは何かなぁ。と考えていても、どれも欠かせない、今すぐにする必要があるような、そんな錯覚に捕らわれます。よく考えよう。うーん。よく考える必要はは無いのだった。私Mamoがやりたいことを、優先順位と捉えていけば良いのだ。
複数人格の私も一つの人格の人も、常に何十何百という思考が浮かんでいているそうです。そして普通の人は意識に上る前に自分で優先順位を決める事が出来、それ以外のものは削除されるらしいのです。私の場合は別人格の思考として浮かんでいて、実際に浮かんだ思考の多くは、別の人格が行動化していました。その時々に自分たちが生き延びる方法として出来うる全ての事をしてきたのです。ですので現在でも、浮かんだ思考の全てがその時を生きるのには欠かせないような、そんな感覚を持ってしまうのです。
実際には人間は一度に一つのことしかやれないのです。それを無理にやろうとすると、乱暴な方法を選んでしまう。 私は本当は一つずつ丁寧にやって生きたいのです。
そうですね、やっていこう。きっと出来る。丁寧にやれないことが苦しいのだから、丁寧にやっていけば楽になる。
私は今日からやりたい事を二つに絞って生きていきます。でもその他の小さな欲求はどうすれば良いのかな。寝たいけど起きたいとか。食べたいけど出かけたいとか。
そっか。私Mamoがやりたい事を優先すれば良いのだった。
昨日ファシリテイター育成会に参加しました。ある方は「親をやめたい」と言っていました。 私は自分と子どもを救う為に、直接関わる親の役割から降りました。デモね、実際には一年前の私は、子どもを救うことまでは考えられていなかったようです。私は自分が苦しくて苦しくてたまらなかった、そして苦しいままの私では子どもを傷つけるだけなのだと言うことだけを理解していたにすぎません。そしてそれでも私が新たな傷をつけない事を選べたのだから、これで良いのですよね。
長い間、理想を追いかけて生きていました。本当にとてもとても長い間。大切にするべきものはそう多くは無いはず。私は私の今の生活を優先し、大切にしていけば良いのです。本当に大切なことは “ 私が今を生きている 自分を知っている ”ことです。 “ 自分の生き方を自分で知っている ” ことです。 私が見ているものだけが、私の人生の現実です。私以外の別人格の誰が見たものも、過去の辛さの中から見たものか、過去に思い描いた理想の世界でしかないのです。
ずっとずっと考え続けている私のテーマ “ 本当に大切なものは何だろう ”は、もう目の前に広がっているような気がします。7:49
一人で行動することの気持ちよさを知りました。一人を楽しむ中で見える現実の色は、私の眼にとても鮮明に移りました。 私が私として生き、現実を実感するとはこういうことのようです。いつも垣間見ていた景色を、これからは私が連続して見ることを意識してさえ居れば、私はいつも何処でも楽に生きて行けるのですね。 と言ってもこの感覚はなんと言いますか・・・書いてみると「私が見ているものが本物だ」になるのだけど、その感触は口で現すことが出来ません。ただ、ICの本には「私は私」だと書かれているので、この部分が今日の私と同じではないかと思います。 今日は雨が降っていました。雨粒は屋根の上で飛び跳ねていました。
いつも力を抜いて生きることが出来ればどれほど楽だろうと思います。そして今はそうなる為の作業をしている事を実感します。21:00
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