2005年10月28日(金) |
だから太る、だから太らない――それは生きているからではなく暮らしているからだ |
生きることと暮らすことは違う――それが分かれば少しはマシになるのかも知れない。 Junさんの《思い付くままに》10月28日付。 1ヶ月半前の俺がそこに居る!! 気を付けろ、Junさん!! これは、警告だ!!
そして、ショウさんへ。 その人が太かろうが細かろうが、俺個人にとってはナンら関係も問題も無い。 近いけれど、ちょっと違う。 一番ダメなのは、思ったことを言わないこと。 不満に思っちゃダメ――そんなものは無い。 不満だろうがナンだろうが、それを思うこともまたショウさんならではの味でしょ。 それを知らしめるには、やはり表現するしかないわけで。
こんな言葉がある―― 《思考することと為すことは同じ、でも人間はこれを分けてしまう》と。 素直に表に出すってのは、そういうことなのだと思うのです。
その人が病んでようがボケてようが、意思の疎通が図られるならばそれで十分とさえ思う。 俺は、寂しがりなんでね。 その相手が減ることを、何よりも忌避したがるのよ。 死ぬな―― 死なれたら困る―― 何度言っても分からないバカも居る。 それを悪いことだとは思わない。 死なれて困るのは俺の勝手だからな。 生きるも死ぬも、好きにしてくれ。 その言動を左右する権利なんか、誰も持っていないンだから。
人間は、何1つとして理解できたことはない―― それがそうだと定義付ける = 決め付けることでしか世界を把握できない。 そンな言葉がある。 いたく至言だと思うね。 例えば、ごく当たり前に用いられている、長さの単位を振り返ればそれが分かる。 cmもkmも、その基準はメートルだ――それがミリでもナノでも同じこと。 ではメートルの基準は何か? メートル原器を持ち出されても、精密さが要求される現代では役に立たない。
取り敢えず定義づけても、それが果たして正確であるコトは誰にも分からない。 基準なんて、誰にも分からない。 人以外に決める生物は無いし、あらかじめ決まっててもそれを伝えてくれる存在も無い。 物理の世界ですら人の定義は曖昧だと言うのだから、精神や倫理の基準などなおさらだ。 周囲の判断など知ったことか。 どうせ、その基準もナンら正当な精神から来るものではないからな。 ‥‥と言っても、俺の持つ基準もまた同じことだけれど‥‥。
何を以って正しいとするか―― そンなことを考えることでさえ、それが正しい行為かどうかは分からない。 ただ確かなコトは、そンなことを考えるよりも卒論の方が重要だということだ。 うぉぉぉぉぉん、資料が見つからないよー!! きっちり仕事しやれ、各国政府および国連!!
最近、書きたいと思ったことを文章に出来ないなぁ‥‥。
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