キーワードは《煽り方ってのを見せてやる》のチャボです、どうも。 みなさん、こんばんは。
教職課程の全講義が終了。 あとは学部の講義で単位を落とさなければ、3月に教員免許がおりるワケだ。 商業科高校1種の免許状がナー。 ‥‥っても、最大の難点は《財務会計》。 取れるかナー‥‥? 大学は今学期から相対評価を導入するけれど、せめて平均以上に食い込めるかナー‥‥?
> 新聞読み日記 朝日新聞7月16日付け朝刊1面より。 省庁ごとの対策では成果が上がってないことから、政府一体での取り組みを講じるそうだ。 対策の拠点としては《自殺予防総合対策センター》を置き、 地域の行政機関やNPOと連携し、全国的ネットワークを構築するとか。 ってか、2010年までに自殺者数を22,000以下にするという目標があったんですね。 知らなかった‥‥‥‥。 まぁ、個人の問題である以上、これァ国では対策しようがないと思うけれど。
ちょっと定義付けてみようか。 死ぬってのは、健康上の理由のものだと俺は思っている。 老衰に限らず、生まれながらの病気や、成人習慣病や性病も含まれるだろ。 例えば、煙草は直接の死因にはならんだろ。 《煙草死》ナンて、聞いたことも無いし、新たに作ってもらいたくもない。 殺されたってのは、これ以外を指して言える。 交通事故とかだけじゃなくて、誘拐殺人事件なんかも含む‥‥もちろん自殺もね。
で、だ。 国をあげての政策がうまく機能しない理由は、自殺が個人の問題であるからだと思う。 自殺者数が増えているという事態は、確かに社会問題である。 けれども、人が自殺をする個々の事件は個人の問題に過ぎない。 これを履き違えているから、成果が上がらないんじゃないだろーか?
自殺を望む人は、自殺をする。 これを食い止め得るのは、国じゃない。 ましてや、俺でもない。 自殺を望む人の身近に居る人間だろ。 家族であったり、恋人であったり、教師であったり、友人であったり。
俺が国家を預かる立場にいたならば、自殺志願者に働きかけるような機関は作らない。 むしろ、国民1人1人に働きかけるね。 周囲の自殺志願者への接し方を説くセミナーなどを開く。 自由意志で投げ捨てられる命を守るのは、国家じゃない―― 《その命を取り囲む、貴様ら1人1人なんだ》と刷り込んでいくね。
自由権を憲法で認めている以上、本人に生き死にを国家として誘導するわけにはいかんだろ。 生きるも死ぬも、各人の自由にしてイイ。 自分の命なんだから、誰にも侵されてはならない最大の財産なんだから、 それを捨てる権利もまた個々人だけが持っているもんだろ。 国だろうが世界だろうが、とやかく口出ししちゃいけないだろ。
だから、その周囲の人間を口説くんだ。 自殺を願う人に自殺をさせないように、その周囲の人間を口説くんだよ。
Aが自殺したがってて、Bがそれを食い止めたがってて、 でもAが自殺しちまったら、Bも自殺しちまうかもしれないだろ。 だったら、Aへの接し方をBに指導して、Bに食い止めさせた方が効果的じゃないか。 少なくとも、Bまで自殺する可能性は大きく減るし。
そうだねぇ‥‥セミナー名は《対自殺志願者コミュニケーション術》とでもしようか。 《対》って字を入れるだけで、印象は随分変わるだろv
あ、そうそう。 俺のプランでは、教育の場でもこれを行なわせるよ。 中学生‥‥にはまだ早いかも知らんけど、高校では必修としようか。 なぜなら、これは現代の家庭教育の場ではできないだろからな。 少なくとも今の中高生の親の大半には、そうそう出来ないことだろし。 俺は、自国の国民を、その程度にしか信用してないぜっ。 文句は、今年の自殺者数が30,000を割ったときにでも聞こうか。
13面の関連記事では、自殺を《強制された死》と言える――としている。 ンなわけあるか。 気概さえあれば、どーにでもできるもんだ。 相談することを恥だと思っていても、それに耐える心の強ささえあれば、どーにでもなる。 つまり、さ‥‥‥‥見ている世界が小っちぇえンだよ。 まだ終わってないのに終わりにしてしまう――自殺ってのはそういうもんだろが。 人は1人じゃ生きられないと分かっているくせに、他人を頼ろうとせずに自殺する―― これが《バカ》以外のナンだって言うんだ?
《困ってる人を見たら助けろよー》って、道徳の時間に習ったはずだろ? 自分が《困っている人》ならば、周囲に助けさせたって構わないんだよ。 その程度の水準ならば、誰もが同じように教育されてるはずなんだから。
社会評論家の意見を見てると、社会が悪いと言ってるようにしか聞こえない。 社会が悪いのは、制度が悪いからじゃないだろが。 その制度を野放しにしてる人間の個々人が悪いんだろが。 ついでに言えば、これを改善するための機会としての選挙に参加しない人間も悪いだろが。
芹沢 俊介は《要・不要のメカニズム》という表現をしている。 元から人間は不要なんだよ―― そう知っていれば、要とされるように這い上がっていくだけだろ。 既に要とされる人間である――と、ド勘違いしてきたから、叩き落された気になるんだろ。 自分はドン底の人間である、という悲観的自覚を常に持ってなきゃダメだ。
《緊張度の高い社会は自分のことで精いっぱいで他人に構ってはいられない。自己責任の考え方もある。さらに自分が他人に救いの手を差し伸べなかった分、自分が苦しくなったときには助けて欲しいと声を上げられないという悪循環が起きている》(芹沢 俊介)
悲観的自覚を――とは書いたが、 度を越えた悲観が蔓延していることを、俺はここから読み取った。 今まで誰も助けていない自分が、どうして人に助けてもらえようか―― といった思考をみんな持っているってことだろ。 疑問に思うのは、その思考に《未来》が無いことだ。
今まで助けてこなかった、でも自分に助けが必要だ―― じゃあ取り敢えず今は助けてもらって、それからその恩を返すことにしよう――
そういう思考を、どうしてできないんだ!? 自分の中に過去と現在しかないからだろ!? 子どもを指して夢が無いとよく聞くけれど、 夢が無いのは、そう言ってる大人自身じゃないか。 自分自身の未来を描けていないンだろーよ。 今助けてもらって、立ち直って、それから助けを返す自分の姿をな。
‥‥俺? 助けられてばっかりだよ。 助けられた数に比べれば、助けた数なんかほぼゼロだ。 この借りを返すまで、死ねるワケが無いだろが!!
ぁー‥‥ちなみに。 《チャボの助けナンか要らんから》とか言って死んでも無駄だぞ。 地獄の底まで追いかけていって、キッチリ借りは返すからな。
だって、お節介人間ナンだもーんっv (カワイク
|