2001年08月16日(木) |
図書館に行きました!公害の歴史は? |
今日はレポートの資料あさりの為に愛知県立図書館に行って来ました。 図書館っていうのはあまり勉強には使いたくないなあというのが自論です。特に資料を探すなんてのは、いつやっても疲れます。しょうがないんですけどね。いつもため息をつきながらやっております。図書館は好きな本を好きなように、のほほんと、のんびりと過ごすものですよね☆ 今回は何個かレポートを抱えていまして、いつもより疲労が…。その中で少しだけ今日の成果をご紹介〜! 日本の公害はいつから始まったのでしょう?もちろん公害の定義はあいまいですし、公害と認識されなかった公害もあるとは思いますが、文献としては1630年頃に松前藩が宍道湖の埋没を恐れ、簸ノ川での鉄穴(かんな)流しを禁止した事例(『島根県史』8巻)が最古のようです。鉄穴流しについては下を!また、1640〜90年には赤沢銅山の鉱毒事件が発生したとあります(『広島衛生医事月報』)。 1630年といえば、将軍で言えば3代家光ですよ。絵踏なんてやっちゃってましたよ。こんな時代から公害は問題になっていたのですね。 なお今回の文章は、飯島伸子編著『改訂 公害・労災・職業病年表』を参考にしました。 ―――――――――――――――――――――――――――――――
鉄穴(かんな)流しによる土砂生産
かつて、たたら製鉄業が盛んだった時代がありました。たたらの原料の砂鉄は花崗岩類の風化土層を切り崩して水路に流し、比重選別によって採取されていました。この採取法を「鉄穴流し」と呼びます。その際、大量の廃砂を河川に流し込んだため、下流部では大量の土砂の供給によって急激に平野が増大してきています。このように、鉄穴流しは山地から平野まで、流域全体の地形環境に与えた影響が大きく、もし下流に湖があれば埋まってしまうわけです。
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