Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
バルト海とナポレオン戦争(2)1807年
さて1807年です。 コペンハーゲンの海戦からの6年間に、ヨーロッパ大陸の情勢は大きく変化していました。
オーストリア、プロシア、ロシアと言ったヨーロッパの大国は、イギリスとともに、対仏大同盟を結んでナポレオンのフランス軍に対抗しようとしますが、 アウテルリッツの戦い(1805)、イエナの戦い(1806)、と負け続け、1806年秋にフランス軍はついにプロシアの首都ベルリンに入城、都を負われたプロシア王は、都をケーニヒスブルグ(現カリーニングラード)に移し、フランスとプロシアの戦場は、ダンツィヒ(現グダニスク)等バルト海沿岸にも及んでいきました。
デンマークも、もはや中立とは言っておられず、イギリス対フランスの綱引きの矢面に立たされることに。 プロシア軍さえ撃破するナポレオン軍に抗するすべは、実際のところデンマークにはありませんでした。
しかしイギリスにとしては、このままデンマークのフランスへの降伏を許すことはできません。装備・人員とも優れたデンマーク海軍がまるごとフランス軍の手に落ちれば、1805年のトラファルガー海戦で徹底的に潰した筈のフランスの海軍力が、再び脅威となるのです。
アンソニー・フォレストの「バランス・オブ・デンジャー」は、この当時のヨーロッパ、とくに大陸の情勢を丹念に描いています。 主人公のジョン・バルクール・ジャスティスは、勅任艦長名簿に載りながら指揮艦を持たない、表向きは半額給の休職艦長ですが、実は海軍省の諜報機関の一員。母がフランス人で、子供時代にでブーローニュで育ったジャスティスは、ネイティブののフランス語を話し、十分フランス人として通ります。 この諜報機関は、商船保険の元締めロイド保険協会と密接に結びついて世界各国の情報を得ており、ジャスティスはロイドの連絡員を装って、1807年、ナポレオン占領下のオランダに潜入します。
そこで得た秘密文書から、デンマーク国内に、同国艦隊のフランスへの引渡しを手引きする者がいることに気づき、ジャスティスはこの陰謀を追って、アントワープからハンブルグに入ります。 ハンブルグはこの時期(1807年初夏)には既に、ライン連邦の一員としてフランスの支配地域でした。 フランスはデンマークの国境線に迫ります。
この時期のデンマークを描いたもう一つの作品が、アレクサンダー・ケントの「最後の勝利者」。 主人公のリチャード・ボライソー中将は、デンマークを“説得”すべく、外交特使のサー・チャールズ・インスキップとともに、コペンハーゲンを訪れます。 もっともインスキップいわく、「一方には約束の書面が、もう一方には威嚇の書面が入っている」特使なのですが、
一方、ハンブルグから国境を越えてデンマークへ潜入したジャスティスは、コペンハーゲンで様々なデンマーク人に接触します。 イギリス軍の攻撃を回避するため、妥協すべきだと考える者、この国の生き残りのため、フランスと手を結ぶ道を探る者、
当時のコペンハーゲンは、船乗りの誰もが認める、美しい海の都でした。 余談ですが、ダドリ・ポープのラミジシリーズの8巻「裏切りの証明」に、海の都談義というのが出てくるのですが、これによると、当時のヨーロッパで最も美しい海の都はベネチア、次がコペンハーゲンで、3位がリスボンなのだとか。
けれどもついに、業を煮やしたイギリス政府は、コペンハーゲンへの攻撃を決意、ギャンビア提督の艦隊とウェルズリー少将(後のウェリントン公)指揮下の陸軍3万がデンマークへ派遣されることになりました。 「最後の勝利者」では、ボライソー自身はギャンビア提督麾下の本隊に、トマス・ヘリックが陸軍派遣部隊の輸送船団護衛に当たることになります。
コペンハーゲンにイギリス軍侵攻が迫ります。この美しい街への攻撃を何とか回避しようと、ジャスティスはデンマーク国内で奔走しますが…、
「バランス・オブ・デンジャー」という小説の優れた点は、イギリス人の書いた小説でありながら、デンマーク側の視点・価値観、デンマーク側の登場人物がきちんと描かれていることでしょう。 かつては北欧の大国だったデンマーク、中立をかかげながら1801年のコペンハーゲン海戦で、強引にイギリスの武力で中立を踏みにじられた。 フランス、イギリスの圧倒的軍事力の前に、屈服を余儀なくされるであろう状況にありながら、なおかつデンマークという国とデンマーク人の誇りを守ろうとするデンマーク側の登場人物たち。 彼らと個人的には友情や信頼を築き上げ、彼らの立場をよく理解しながらも、イギリス海軍の軍人であり工作員である限り、敵対する立場をとらざるをえないジャスティスの、個人としての苦渋。
けれどもついに、イギリスはコペンハーゲン攻撃に踏み切ります。 ベネチアに告ぐ海の都と評されたコペンハーゲンは、沖合から次々と撃ち込まれた砲弾で炎上、市の北側には陸軍が上陸、直接攻撃を開始しました。 炎上するコペンハーゲンの街に戻ったジャスティスが見たのは、絶望的な状況の下それでも国の誇りを守ろうとするデンマーク人たちの姿でした。
1807年のコペンハーゲンを描いた作品は、「バランス・オブ・デンジャー」も「最後の勝利者」も、後味の悪い終わりになっています。 ジャスティスもボライソーも、この戦いを栄光とともに語られるものとは考えていない――もしデンマーク側が長期の攻囲戦に頑として抵抗をつづけるならば、緑色の尖塔が立ち並ぶあの美しい都市は廃墟と化してしまうだろう。それは不当なことに思える。デンマーク人は善良な人々で、ただ干渉されないことを望んでいるだけなのだ。だがほかに道はないのだ。それならそれで仕方があるまい。「最後の勝利者」
それがあの戦いに対する、当時のイギリス人たちの価値観であり、 そしてその戦いの結果、主人公たちは何の栄光もえられず、ただむ虚しさのみを知る。 …これが現代のイギリス人作家たちの、あの時代のイギリスへの評価なのだと思います。 この戦いを描く以上、栄光に満ちたハッピーエンドを描くことはできないのでしょう。
結局、デンマークはイギリスに降伏、デンマーク艦隊はイギリスへ引渡し、もしくは破壊されました。 身を守る術を失ったデンマークにはその後、フランスと同盟を結ぶよりほか道はなく、それはデンマークに更なる打撃をもたらします。 海外領土はイギリスに占領され、本国は海上封鎖を受けてノルウェーとの連絡も困難となり、その隙を突いたスウェーデンに、ノルウェーを奪われました。 一連のナポレオン戦争でデンマークは、艦隊も海上貿易もノルウェーの領土も、全てを失ってしまったのです。
アレクサンダー・ケントの「最後の勝利者」という題名は、この小説の最終章の最後のセリフから来ています。 「死神こそが最後の勝利者」 ヨーロッパの各地で途切れることなく戦争が続いた1807年、 この年の戦争によって獲得された領土の多くは、1815年のウィーン会議で無に帰しました。ケントの言う通り、死神のみが最後に笑う1807年だったのかもしれません。
2007年11月03日(土)
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