HOME ≪ 前日へ 航海日誌一覧 最新の日誌 翌日へ ≫

Ship


Sail ho!
Tohko HAYAMA
ご連絡は下記へ
郵便船

  



Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
マルタ(4)戦没者墓地と海事博物館

さて海洋小説関係のマルタのみどころは幾つかありますが、海事博物館も戦争博物館も近代と現代は一緒に展示されているので、時代ごとではなくスポットごとにご紹介しようと思います。

まず最初に訪れたのはカルカーラの戦没者墓地。ここにはフィリップ・マカッチャンの「突破!マルタ島封鎖網」のあとがきで訳者の佐和誠氏が紹介された旧日本海軍の戦没者記念碑があるところ。これは第二次世界大戦の戦没者ではなく第一次大戦で英国の同盟軍であった日本がマルタ島に派遣した駆逐艦「榊」の戦没者を弔ったもの。

まぁその私はナポレオン戦争時代の帆船小説の英国人に惹かれてここまで来たわけですが、こんな地球の反対側にひっそり眠る日本人のお墓があると聞けば、お参りにいかないのは罰当たりというもので、海事博物館に行く前に行ってまいりました。

戦没者墓地と海事博物館はバレッタから見るとグランド・ハーバーの対岸、前回話題となったドックヤード・クリーク、カルカーラ・クリークのほど近くにあります。
戦没者墓地へは、4系統のカルカーラ行きバスに乗って、ヴィットリオーザのバスターミナルを過ぎ、左手に教会のある角を曲がったら天井の紐を引っ張って降りる合図のブザーを鳴らします。
バスは次の角の停留所で止まり、道なりに左へ曲がっていってしまいますが、正面にはちょっと細いがそのまま真っ直ぐ行く道があるのでそれを進んでいって右手の長い塀が切れたところです。

門を入ると圧倒されるのは、広大な墓地に並ぶ白い墓標の数々、手前はほとんど第二次大戦期のもの。かなりの数に及ぶが墓石は1人一基ではなく3〜4人が一緒に葬られている、その数に圧倒されて思わず手をあわせてしまいます。
墓地の奥へ進むにつれて年代が古くなり、旧日本海軍の記念碑があるのは一番奥手。静かで、鳥のさえずりと色とりどりの花がとても美しい墓地。この安らかさが少しでも彼らの慰めになれば良いのだけれども。

【第一次大戦時の日本海軍戦没者墓地】



第二次大戦時にマルタは多大な犠牲を払いました。
地中海の只中にポツンと一つだけ取り残された英国(連合国)の基地の島、地中海の北側フランス、ギリシアは枢軸国に占領され、目と鼻の先にはイタリア領のシチリア島が位置する。
連日のように爆撃機の襲来があり、1940年6月11日、イタリア参戦の翌日に初空襲を受けたこの島は、1944年8月28日までの2,357時間に3,340回の空襲を受けた。全島に投下された爆弾総量は1,600トン。世界一爆撃の激しかった島としてギネスブックにのっているのだそうです。

戦没者墓地は、とにかく墓石の数に圧倒されます。
この島の防衛戦で亡くなった方、空襲などに巻き込まれた島民の方の総数がどれほどになるのかわかりませんが、この墓地を訪れると、どんな記録より小説より、この墓石の数が事実の重みとしてのしかかってくるのです。

【第二次大戦時の集合墓石】翼は空軍関係者


これら空軍関係者の墓石は、おそらくは迎撃に上がって帰らなかった方、空襲の犠牲となった方々のものなのでしょう。下の鷲マークは被占領地ポーランドからの志願兵。


さて、翌日に訪れたのがヴィットリオーザの海事博物館。ドックヤード・クリーク沿いの聖アンジェロ砦側の岸壁に位置します。

【海事博物館入口】左手はドックヤード・クリーク。



博物館の入口にはマルタの海事史がエドウィン・ガレア氏の美しい水彩画で紹介されています。
1898年のナポレオン占領から始まって、最後の一枚は1989年、マルサシェロック湾に浮かぶU.S.S.Belknapとソビエト連邦の巡洋艦Slava。この艦上でブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長の会談が行われ戦後の冷戦に終止符が打たれたことから、戦後の東西二大陣営時代を「ヤルタ(会談1945)からマルタへ」と言ったりするのですよね。

海事博物館には船の模型が多い。

アレトゥーサ号、クリミヤ戦争のオデッサ攻撃で活躍した1849年の42門フリゲート艦、この時代になると艦尾楼がないのがよくわかります。
駆逐艦モホーク号、1941年地中海で撃沈された。これは元乗組員の生存者トマス・オレル氏が作り上げ寄贈したもの。木製だがとても細かいところまで丹念に作り上げてあります。
かつて自分が勤務しそしておそらくは多くの仲間とともに沈んだのであろう艦を、オレル氏がどういう思いで作り上げていったのかと考えると胸を打たれます。

【ヒベルニア号の艦首像】


ヒベルニアは1804年ポーツマスで建造された110門の一等級艦。長く地中海艦隊の旗艦でその役目を終えたあとはマルタのシンボルとして1902年まで聖アンジェロ砦の下に錨をおろしていた。

この傍らに、ヒベルニア号の艦上で開かれた1893年7月のヴィクトリア号、カンパーダウン号衝突事件の軍法会議の版画絵というのがあったのですが、ヒベルニア号の大キャビンで14人の提督と艦長が机を囲んでいる図、これが非常にせせこましい。
提督方の肩はくっつかんばかりで、これじゃぁあの金の肩章がぶつかってしまうでしょう。
ふつう会議室でこういう余裕のない椅子の並べかたはしないと思うのだけれども、考えてみればポーツマスで見たネルソンのヴィクトリー号の大キャビンにしてからが決して広くはなかった、こんなところに14人もの、それもあの仰々しい正装の人間が集まればせせこましいのは当たり前。

軍法会議のシーンというのは、この同じグランドハーバーで行われたキーンに対するものとか、ラミジとか他にもいろいろ小説にはよく出てきますが、
読んでいるとこう…広々としたテーブルの向こうに偉そうな提督が座っていて、で有罪か無罪かを決する剣が、唯一つ乗っているというような、日本の法廷のような光景を今まで想像していたので、こんなせせこましいものだなんて、ちょっとイメージこわれた…というか。


2007年06月03日(日)