Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
タラの丘と1798年反乱〔Ireland 4〕
だいぶ間があいてしまいましたが、昨年秋のアイルランド報告です。 あともう1回「ダブリン城」の話がいずれupされる筈です。 気長にお待ちいただけると幸い。
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「タラの丘」は、ダブリンから北西に40kmほど行った丘陵地帯を言います。 「タラ」と聞くと誰もが思い出すのは、「風とともに去りぬ」のスカレーット・オハラの「タラへ帰ろう」というセリフですが、 あのタラはアメリカ・ジョージア州の地名。と言ってもこのタラと無関係ではなく、アイルランドからアメリカへ移民したスカーレットの父が、故郷にちなんで名付けたと聞きます。
スカーレットの父の例を引くまでもなく、現代においても「タラ」はアイルランド人の心の故郷、聖地と言って良いかもしれません。 現在この丘陵地帯を貫く4車線高速道路の建設計画が、大もめにもめていて。 いや確かに、たとえば奈良の明日香の甘樫の丘に登ったら、どーんと目の前に高速道路…っていうのは、私も嫌かも。
いきなり明日香の話を持ち出したのは、ちょっと感じ似てるんです。甘樫の丘とタラの丘、周囲の古墳地帯を一望できる丘であるところや、数多の神話伝説に彩られている地であるところ。 タラは、いにしえの上王が継承の儀式を行った地であり、1798年の反乱者が処刑された地であり、ダニエル・オコンネルが独立回復のための演説を行った地でもある。ゆえにアイルランド人の心の故郷となるのですが。
タラにはダブリンからバスツァーで行きました。午前中がタラ、午後がニューグレインジという日帰りツァー。 タラでは、最初に教会のようなところでガイドさんから説明を聞いてビデオを見て、それから丘の見学となる。 丘に行く木戸(今は鉄製の格子戸)は教会の墓地の横をぬけた裏手にあります。 墓地の間を歩いていくと、カァカァとカラスが、あまりにもタイミングよく鳴いてくれたりして、なんだかグラナダTVドラマのホームズみたいなおどろおどろしい雰囲気に。
アイルランドを舞台にしたO・R・メリングのファンタジー小説「妖精王の月」では、従姉妹同士のグウェンとフィンダファーが冒険心を起こして真夜中にタラの丘を訪れるのですが、こんな墓地の横を夜中に抜けていくなんて、主人公の少女たちはいったい何てことを考えるんだか、っていう勇気ある。私にはちょっとおっかなくって。 この木戸のかんぬきは、ちょっとはずしにくくて、小説の中でも少女たちは手こずるのですが、おぉ本当だ、実際このかんぬきをはずすにはちょっとコツがいる。 列の先頭にいた観光客がはずそうとして上手くいかず手こずっていたら、後から追いついてきたガイドさんが、するっとはずしてしまった。 手こずってた人がその手際をみて思わず、「魔法だ!(Magic!)」って叫んで、みんな笑ったんですけど、 でもそういう雰囲気だったのよ。薄どんよりと曇っていて墓地の横でカラスが鳴いて、魔法の一つも出ても全くおかしくないような。
こちらがタラのホステージ・マウンテン、直訳すると人質の丘?この丸い小山は古墳ですが、ここに人質を葬ったのではなく、この古墳の前で各地の王が人質をとりかわす儀式を行ったため、ホステージ・マウンテンと呼ばれているらしい。
ノルマン人の侵入を受ける前のアイルランドでは各地方毎に王がおり、その中の一人が選ばれて「上王」と呼ばれまとめ役となっていました。 各地方の王は定期的にこのタラの丘に集まり、「上王」を選定したり、互いの領地を侵さぬ証として人質をとりかわしたりしていました。
このあたりの歴史的背景は、実は、よくケルト系ファンタジー小説の舞台に用いられるのですが、最も有名なところでは、ロード・オブ・ザ・リング「指輪物語」など。 ミナス・ティリスの王となったアラゴルン改めエルスサールは「上王」の位にあります。その立場でローハンのエオメル王とか他の王たちを統べている…というとわかりやすいかと。
このタラの丘を聖地たらしめているもう一つの理由は、あの1798年叛乱です。 この地でも蜂起したアイルランド人と英国鎮圧軍の武力衝突があり、およそ500人が命を落としました。 ガイドさんの説明によれば、反乱軍が鎮圧され戦いが終わった後、アイルランド人の亡骸は放置されたままだったそうです。 英国軍を恐れ村人たちもこの丘には近づけなかったそうですが、3日後、英国人たちが完全に引き上げた後、近くの村の人たちが亡骸をすべてこの丘に埋葬し、目印としてこの白い石を建てた。英国の目をはばかるため、これ以上のものは建てられなかった。
20世紀になり、アイルランドが自治を回復して後、ようやくこの石碑が建てられました。
19世紀の独立運動の指導者ダニエル・オコンネルが、後に有名となる演説の地にこのタラを選んだのは、そのような歴史的経緯を考慮したからもあったでしょう。 膨大な数の人々が集まるに適したスペース、という実際的な意味もありました。 1843年にこの地で行われた演説には、この丘の全てを埋め尽くすほどの人々が、彼の声を聴くために集まったそうです。
「でも皆さん、考えてみてください。マイクの無い昔にこの広大な丘、とても全員にオコンネルの演説が聞こえたとは思いません。あの向こうの野原の端にいた人は、きっと伝言ゲームの末に演説内容を聞かされたことでしょう。きっと内容はかなり誇張されたものだったと思いますよ」 と冗句を言って話を聞くツァー客の笑いをとるガイドさん。 ちょっと自虐的なこの冗句が、ヨーロッパだなぁと思うのですが(日本やアジア各国ではありえないから)。
2007年02月25日(日)
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