Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
海に出るつもりじゃなかった
海の日の天声人語(7月19日の日記参照)をきっかけに、久しぶりにアーサー・ランサムの「海に出るつもりじゃなかった」を読みかえしました。 彼ら子供たちが「帆から教えられたもの」は何か?を見つけようと思ったのですが、大人の、親世代になって読み返して見ると、それ以上にいろいろなものが見えてきて面白かった …というより、年齢を重ねて、他の様々な本を読んで、子育てをしている友人たちや職場の同僚たちの話を聞く経験もあって、その上で児童文学に戻るというのは、なかなか良いものだと思いました。
「海に出るつもりじゃなかった」は、英国のアーサー・ランサムという作家が児童文学として書いた12冊のシリーズのうちの1冊で、1930年代初頭の英国東部の港町ハリッジと北海を舞台に、ウォーカー家の4人兄弟のひと夏の冒険を描いています。 長男のジョンは14〜5才、一才年下の長女スーザン、次女のティティが11〜2才で、次男のロジャが9才(実は正確に年齢がわかるのはロジャだけでなので、あとの兄弟たちは本文中や、通っている学校が初等教育か中等教育かから年齢を類推するのみです)。 彼らのお父さんであるテッド・ウォーカーは海軍中佐で、中国の基地(香港か?)に単身赴任していましたが、このたび本国のハリッジに転属になったため、四人兄弟とお母さんのメアリー、5才になる三女のブリジットは、この港町で暮らすためにやってきます。
そこで子供たちは鬼号というヨット(*)を持つジムという青年に出会い、「海に出ない。港内のみを帆走する」ことをお母さんに約束し、このヨットに乗せてもらえることになったのですが、陸に買い物に行ったジムが事故に遭って戻れなくなった間に、満潮と霧と錨を失ったことから、鬼号は潮に流され、海へと出てしまいます。 刻一刻と天候が悪化する中、子供たちは自分たちだけで、外洋(北海)での嵐や座礁の危険から、ヨットと自分たちを守られなければなりません。海に出るつもりでは全くなかったにもかかわらず。 (*注:鬼号のモデルとなったヨットの写真はこちら。このページについてはこのテキストの後半でもう一度くわしく)
子供たちには、北部の湖で昼間に鬼号よりはるかに小型のヨットで帆走した経験はありました。 ジョンだけは以前にお父さんとヨットで、英国南部のファルマス港(ここボライソーの舞台でもありますね)で、少しだけ海に出た経験があります。しかし、子供たちだけで嵐の夜に海に流されてしまうというのは初めての経験です。 彼らは持てる知識と経験を総動員して、知恵を出し合い、力をあわせて何とかこの状況をサバイバルしようと奮闘します。
私が初めてこの本を読んだのは小学校6年生、次女のティティと同い年くらいの時でした。 私には海の経験は全くありませんでしたから、同い年とはいっても彼らと一緒に対策を考えるだけの知識はなく、ただはらはらどきどきと、ページを繰っていたのを覚えています。 アーサー・ランサムの12冊のシリーズの中には、山登りやキャンプの話もあり、それなら当時の私でも多少の経験はありましたから、彼らと一緒に「どうしよう?」と考えることもできたのですが、海と帆船ばかりはどうにもならず、 …ちなみに余談ながら、私は当時、12冊のシリーズの中では「ツバメ号の伝書バト」がいちばん好きだったのですが、これはこの物語が山野を歩き回る話だったからのようです。これなら当時の私の経験値(子ども会で山のぼりとかハイキングとかよく行ってました)で、彼らと一緒についていけたから。
それから約20年が経過したにもかかわらず、私の海の経験値は、好天の相模湾でヨットに半日お客様で乗せてもらったのと、セイルトレーニングシップ「海星」の1日体験航海で東京湾にちょっと出ただけ。 でも、海洋小説に夢中になったおかげで、軽く50冊を超す読書(机上)航海体験はあり、英国に旅行した折にはハリッジにもファルマスにも行って、残念ながらヨットではなくホバークラフトだったけれどもドーバー(英国)〜オスタンデ(ベルギー)間の北海は海路で横断しました。 きっと実際にヨットに乗っていらっしゃる方でしたら、もっと見えてくるものが多いのでしょうけれど、机上大半の私の経験でも今この本を読むと、昔と違って様々な発見がありました。
今回一番の発見は、一言で言えば、親から子へ伝えられる「英国の海の伝統」、多くの海洋小説にも共通する英国民の血に流れる「海の文化」が見えたことでしょうか。
困った時に子供たちがまず考えたことは「お父さんだったら、お母さんだったらどうしたか?」でした。 周囲を浅瀬に囲まれた海に出てしまった以上、優先されるのは海の経験が豊かなお父さんの判断、ジョンはファルマスの海でお父さんと帆走した時のことを一生懸命思い出して、同じような行動をとろうとします。 浅瀬を避けるべく舵行速力を得るために帆を広げるのか、それとも何もせず流されるに任せるのか、海に出ないというお母さんとの約束を破ってしまった罪の意識に悩む姉スーザンに、ティティが言います。「ジョンの言うとおりにしましょうよ。お父さんも同じように言うと思うな、ほら、生死が問題になる場合、あらゆる規則は海に捨てられるってことよ。もちろん、今はまだ生死の問題じゃないけど、鬼号を浅瀬にぶつけたら、たちまちそうなるでしょ」 この「生死が問題になる場合、あらゆる規則は海に捨てられる」という判断は、全く正しいのだけれども、子供たちが親の価値判断や今まで見てきた行動を思い出して、自分たちでこの正しい結論にたどりつくところが、むかし自分が子供で読んでいた時には全然気づかなかったんですけど、今読むと凄いことだなと思うのです。
「雨より先に風が吹けば、すぐに再び出帆できる」 ロジャが思い出したのは、お父さんが教えてくれた海と天候を歌った古い詩でした。 霧の中で何回霧笛を鳴らしたら良いのかは、友達の叔父さん(海外経験の長い)と一緒に作ったお話の、経験豊かな老水夫から。 有形無形で語り継がれる親世代の経験が、知らず知らずのうちに子供たちの中に蓄積されていて、思いもよらぬ事態に陥った時に力になる。
そう言えば映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の中で、海賊船に追われて絶体絶命になった時に、エリザベスが突然、右舷の錨を使って急速方向転換する方法を思いつきますよね、「お姫さまのエリザベスがどうしてそんな事知っているの?」という突っ込みを入れた友人がいましたが、ランサムの子供たちの知識を思うとき、例え自身は船乗りではなくとも、子供の頃から父親の総督を訪ねてくる大人たち(船乗りが多いでしょう)の話を聞いていたエリザベスが、この方法を知っていても全く不思議はないと思うのです。
それは結論を急ぎすぎ…だと思われます? でも先日ご紹介した、9月のプロムス・ラストナイト・コンサートで、足を踏みならしながら海の唄を歌っている英国人たちを目のあたりにすると、この国では今も伝統が生きているんだなぁと、やはりつくづく思うので。
子供たちのヨットがオランダに近づいて異国の漁船団に囲まれた時に、ティティが「私たち嵐の海の中のリベンジ号のようになるわ」と嬉々として言うのですが、海洋小説ファンになって、リベンジ号がどういう船が知った時には、驚きました。 リベンジ号(*)ってスペイン艦隊の中で孤軍奮戦して、結局撃沈される艦なのですが、これは結構悲惨な話で、これを11〜2才の女の子が知っているというのも、エリザベス同様ある意味すごいと思います。 (*注:リベンジ号について詳しくは鐵太郎さんの「リベンジ号最後の海戦」の紹介ページをどうぞ。)
ともあれ、そういう形で受け継がれていく知恵とか技術とか文化とか。そのような海の伝統がある英国がうらやましいと思うと同時に、では日本では、下の世代に伝える有形無形の何かがあるのか…と。 母親から娘…というのは、日本料理の知恵などありますから、わかりやすいですけれど、彼らの海の文化に匹敵するようなものが果たして? 私の以前の上司(技術屋)は休みの日に息子さんとラジコンカー(プラモ?何年か前に流行りましたよね?玩具会社の主催するレース大会とかもあって)の改造にハマってましたが、技術立国モノづくり国家日本の将来を考えれば、意外とこんなものが、それに当たるのでしょうか?
ところで、この物語の舞台となった英国東部の港町ハリッジですが、2003年にハヤカワ文庫NVから出版されたダグラス・リーマンの海洋小説「輸送船団を死守せよ」がこのような一節から始まるのをご存じでしょうか?
英国の東海岸エセックス州にある小さな港ハリッジを昔から知っている人ならば、沿岸貿易船や大陸との間をときおり往復する渡船の避難所として、この港を思い出すこともあるだろう。だが、戦争が三年もつづいている今は、必要に迫られて重要な海軍基地となったこの港の、ひどく混雑して殷賑を極める光景のほかには、とても想像しにくいことも確かだ。それに、ストゥール川(スツア川)とオーウェル川の二つの川に抱かれたここは、速い流れと助けにならない潮のせいで、経験不足の者や自身過剰の者にとって、水先案内や横付が悪夢にもなりかねない港である。
私は戦後生まれの日本人なのに、机上…というか小説の世界では、「海に出るつもりじゃなかった」のおかげで、「戦前のハリッジをよく知る人」の一人です。 その上で、やはり小説の世界ではありますが、上記の小説に描かれた第二次大戦下のハリッジを知ると、その変容に胸の痛む思いをする一人でもあります。
ダグラス・リーマンは、ボライソー・シリーズの作者アレクサンダー・ケントの本名。 彼のデビュー作は帆船小説ではなく、第二次大戦時ハリッジの海軍基地に勤務していた自身の体験をもとにした海洋小説「燃える魚雷艇(The Prayer for the Ship)」(徳間文庫)でした。
リーマンは1923年生まれなので、おそらくは「海に出るつもりじゃなかった」のウォーカー家の次男ロジャと同い年なのだと思います。 この世代は、中等教育の最中に第二次大戦が勃発、高等教育をめざしていた少年たちも、その多くが大学に進学せずパブリックスクールまたはグラマースクール終了後に軍に志願し、候補生から士官になっていきました。
リーマンの父親は陸軍の技術士官でしたが、海が好きだったリーマン自身は卒業と同時に陸軍ではなく海軍を志願。 最初に訓練を受けたのは、ハリッジのショットリーにある訓練学校H.M.S.ガンジスでした。この学校の敷地内には、帆船のマストがそびえたっており、第二次大戦の時代においても新入生は訓練の一貫として、この昔ながらのマスト登りを行った…と、リーマンはそのエッセーに書いています(この経験は後にボライソーシリーズを描くのに役に立ったそうです)。 このマストがどのようなものだったかは、実はアーサー・ランサムの「海に出るつもりじゃなかった」のP.73のショットリーの挿絵で見ることができるのです。
当時のショットリーの航空写真については、Kmrさんのアーサー・ランサムに関するHP「We didn't mean to go to sea」で見ることができます。 ランサムが「海に出るつもりじゃなかった」を書いた前後の事情、この本については、このページに大変詳しい解説があります。 私も初めて知ったのですが、実はランサムは当時、ショットリーに暮らしていたのですね。
初めて英国を訪れた1988年に、私はハリッジに行きました。 ただし、ショットリーではなく、対岸のパーキンソン埠頭側のみなのですが。 この地を旅されたランサマイト(ランサム・ファンを言う)の方のホームページなどを読むと、ショットリーとピン・ミルには物語の舞台となったパブなどがまだ当時のままに残っているそうですが、私が旅した88年には、もちろんこのようなネット情報はなく、クリスティナ・ハーディメントの「Arthur Ransome and Captain Flint's Trunk」(ランサムの旅ガイド)の存在も知らず、当たり前ですがハリッジなんて「地球の歩き方」にも載っていなくって、ショットリーに行く方法がわからず。 仕方ないので原始的に、地図を見て、いちばん近くの鉄道駅(パーキストン埠頭側)まで鈍行列車で行き、そこから港の全景と対岸のショットリーを眺めて写真だけ撮ってくるというだけの旅行に終わりました。
それでもその時、埠頭に立って不思議な感慨におそわれました。 第二次大戦の終結、冷戦、そしてソ連の崩壊という歴史の流れの中で、北海の対岸の国(フランス、ドイツ)はもはや英国の脅威ではなく、北海に面したハリッジの海軍基地はその役目を終えていました。 1988年のハリッジ・パーキストン埠頭には「海軍埠頭跡」のプレートがあるだけで、軍艦の姿は全くなく、ショットリーの海軍学校も、上記木村さんのホームページによれば、現在は警察学校になっているとのこと。 私が目の前にした平和なハリッジ港は、ダグラス・リーマンの描いた戦時下のハリッジ(1940〜1945年)というより、アーサー・ランサムの描いた戦前のハリッジに近いのです。
対岸から見たショットリー(1988年)
ハリッジ港と灯船(まだあるんですね?)1988年
そう、灯船。 ダグラス・リーマンは、ハリッジを舞台にした第二次大戦の海洋小説を2作(「燃える魚雷艇」と「輸送船団を死守せよ」)書いていますが、後者の第一章では主人公の艦ハッカ号がハリッジを出航していく様子が描かれています。 それが…当然ですけど、かつてジョンが鬼号ではからずも海に出てしまったのと同じコースを通って行くのです。このシーン、ランサムのP.50の海図を見ながらお読みになると面白いとおもいます。 そして驚いたことには、この小説にもランサムでおなじみのコーク灯船が登場します。 激しい戦場となった北海なのに、灯船がまだ残っていたのですね。
実はこの灯船、最初はドイツ軍も沈めることを考えたようですが、沈めてしまうと自分たちも位置把握に難渋するという結論に至り、結局、両軍の攻撃対象からはずれたのだとか。…とリーマンの小説にありました。 この灯船のエピソードを読んだ時に、私は古なじみに20年ぶりに会ったような(おそらく最初に「海に…」を読んでから20年はたっていたと思いますので)感慨に襲われてしまいました。
そして、ふと思いました。 同じ感慨をきっと、大人になって戦場の海に出て行ったジョンもロジャも抱いただろうと。
「海に出るつもりじゃなかった」の最後で、ジョンは大人になったら船乗りになることを決意します。 「これから何年もたって、おとなになったとき、ぼくはじぶんの船をもって、ここよりひろい海に出ていくことだろう。」 ジョンの世代は、社会人になって2〜3年目に第二次大戦が勃発するめぐりあわせです。 彼がお父さんと同様、海軍に進んだのかそれとも商船の士官をめざしたかはわかりませんが、大戦中は予備役の商船士官も艦船の指揮をとっていました。 ジョンの年齢では終戦までにキャプテン(中型艦以上の艦長)にはなれないでしょうが、スキッパー(小型艇の艇長)になることは可能であり、現に「燃える魚雷艇」の主人公、ほぼジョンと同年のクライブ・ロイスは、物語の後半で艇長になり、自分の艇と乗組員に責任を持って、母港のハリッジから北海に出航していくことになります。 コーク灯船の脇を抜けて。
戦時中の彼らの話は一度、以前に海洋小説系掲示板で、話題に出たことがあり、その時にやはりランサムを読んでいらっしゃる方がこんなレスを書かれました。 「子供たちのお父さんウォーカー中佐は、きっと船団指揮官クラスになっているんでしょうね」 ランサムの物語は、平和な時代の子供たちの夏休みを描いたものですが、実際を考えると現実はこの通りで、やはり胸が痛みます。
ランサムの描いた子供たちには皆、実在のモデルがいたことは広く知られています。 モデルの子供たちはダグラス・リーマンと同じ時代を生きたことになりますが、ロジャのモデルであったロジャ・アルトゥニアン氏は長じて医師となり、戦後、アレルギー剤のインタールの発明者として世に知られ、立派に長生きされています。
実在のモデルがあるのは、子供たちだけではありません。「海に出るつもりじゃなかった」のヒロイン鬼号にも実在のモデルがありましたが、この船は現在、英国のアーサー・ランサム・ファンの方たちの手でよみがえり、ナンシイ・ブラケット号という名前で、現在もショットリーのピン・ミルに実在します。 この鬼号復活に際しては、日本のアーサー・ランサム・クラブの方も助力されたとか、 詳しくはCOOTさんのホームページをごらんください。
今回のテキスト作成にあたっては、Kmrさんの「The Country of their Own」 および、COOTさんの「アーサー・ランサムの世界」には大変お世話になりました。 2段落前の、ロジャ・アルトゥニアンのお話は、リンクをお願いした際にKmrさんから教えていただきました。 いろいろとありがとうございました。 テキスト作成に時間がかかり、upがすっかり遅くなってしまいましたこと、お詫びいたします。
また、リベンジ号のページをリンクさせていただいた鐵太郎NMRF会会長にも御礼を。 私どもはNMRF(N:なんとかして、M:みんなを、R:ランサム、F:ファンにする)会と称しまして、海洋小説系掲示板を舞台に地味に地道に、海洋小説ファンを児童文学の世界に勧誘しております。
ランサム?小学校の図書館にはあったけど読んでなかった…という海洋小説ファンの皆様> これを機会にぜひ。 大人の海洋小説ファンの方にはやはり「海に出るつもりじゃなかった」を第一におすすめしたいと思います。
2005年08月19日(金)
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