Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
デイビー・ジョーンズのロッカー
先週発売された原作10巻あとがきで、映画字幕翻訳の苦労が紹介されていました。 なかなか大変だろうとお察しいたします。
私は翻訳を仕事にしているわけではありませんが、業務の必要上から実務翻訳の夜間講座に3年通い、時々は建設分野の専門文献を訳す羽目に陥っております。 それでまぁこういう問題を論じるとどうも、私は実務翻訳モードで考えてしまう部分があって、その分ファンとしては見方が甘くなるきらいがあるんですが。
実務翻訳はとにかく「わかりやすく」がモットー。英文の中身を日本語でわかってもらうのが至上命令。そのためには手段を選ばない…とまでは言いませんが、長文を勝手に切り分けたり、多少の訳語を補ったりもします。 でも、文学翻訳というのは、そういうものではないと思うのですよね。 文学の場合、著者は注意深く単語を選び、文書を切り、英文のトーンを決めていきます。 翻訳文章も当然、このような著者の意図を留意した上で、似たような意味の日本語と、文章構成を探していかなければならないでしょう。 いずれにせよ翻訳者は黒子ですから、全面的に原文筆者に気をつかう作業になり、翻訳者の思いこみや推測に関しては極力慎重にならなければなりません。これは実務翻訳の場合も同じです。
映画の場合はどうなるのでしょう? やはり或る程度は監督の意図に留意し、気をつかった上で、字数制限をクリアしていかなければならないわけですから、これは本当に大変なお仕事だと推察します。 そのうえ、どうも翻訳環境はめぐまれていないらしく、十分な時間がとれない状況のよう。
2002年の夏頃でしたか、「ロード・オブ・ザ・リング」の第一作の字幕翻訳が大問題になっていた時に、英字新聞紙が日本の映画字幕翻訳の現状を問題視する記事を掲載していました。 製作期間が短く締め切りに追われる、という問題はある程度想像していましたが、一番驚いたのは、字幕翻訳者は映画のVTRを、映画会社の試写室しか見ることができないという事情でした。公開前の作品はVTRの持ち出しが制限されるらしいのです。
これはちょっとあまりに翻訳者が気の毒だと思いました。 同じ「Sorry」ひとつをとっても、状況によって「ごめん」にも「すまん」にも「悪かった」にもなりえます。そしてたぶん、最初に映画を製作した監督や、演じた役者さんはその「Sorry」に様々な意図や万感の思いをかけている筈。でも、一度見ただけで、翻訳者がその状況を完全に記憶することはなかなか難しいですから、やはり訳しながらもう一度見て確認したいのが人情ではないかと。
そんなことをつらつら考えながら…、「マスター・アンド・コマンダー」ですが、 海洋モノの字幕翻訳には二つの方法があると思うのです。 日本の観客に気をつかって訳す方法と、監督の意図により気をつかって訳す方法。 この作品、歴史考証の正確さにこだわったウィアー監督は、手かげんせず海洋専門用語オンパレードで攻めていらっしゃいます。 というわけで字幕翻訳の扱いは、このどちらを優先するかで決まってくるのではないかと。
昨年夏公開の「パイレーツ・オブ・カリビアン」は前者でしたね。 かなりの専門用語が、わかりやすい日本語に置き換わっていました。 日本の観客はおそらく、アメリカの観客以上に映画を理解できたのではないでしょうか?
「アラン海に行く」(徳間文庫から出ている海洋小説シリーズ)の著者デューイ・ラムディン氏がその後書きの中で、アメリカの読者はイギリスの読者と違って子供の頃から海洋小説に親しんでいないから基礎知識がない、アメリカ人向けの海洋小説はそのあたりに気をつかわなければならない、というような内容のことを書かれていたのですが、「パイレーツ」では、「hands before the mast(平水夫)」とか「club-hauled(捨て錨で回頭)」とか「be lost to Davy Jones Locker(海のもくずと消える)」とか、海の言葉がぽんぽん出てきます、果たして普通のアメリカ人、どこまでわかるものなのでしょうか。(( )内が日本語字幕の訳です。) 先の緊迫したシーンで、「え?デイビー・ジョーンズ(Davy Jones)って誰?」と思ったアメリカ人はきっといた筈。 そのあたりを考えると、一見娯楽作でご都合主義(なぜ2人で大型帆船が操船できるの?)に見えながら、英語版のセリフに関してはこの映画、結構アメリカ人観客には不親切、と言えそうです。
実務翻訳モードで割り切って考えると、映画の中の海洋専門用語って2種類あるのではないかと思うのです。 観客が意味をわかっていなければならない専門用語と、聞き流しても良い専門用語。 聞き流しても良いものは、ムリにわかりやすい日本語に訳す必要ないでしょう。ウィアー監督の意図通り、本来のバリバリの専門用語そのままで構わないと思います。艦が回頭するタイミングさえわかれば良いのであれば、「おもかじ」は「右(この時代は左?)に舵をきれ」ではなくても良いでしょう。 「おもかじ」の方が本物らしく聞こえますし、なにより本物に聞こえることがウィアー監督のねらいなのですから。
ただ、観客が意味がわかってないと困るもの、例えば「パイレーツ…」でウィル・ターナーが銃を自らの顎に当てて叫ぶ「I'll pull this trigger to be lost to Davy Jones Locker」みたいなものは、やはり日本語に訳出した方が良いのではと思います。 もっともあそこでデイビー・ジョーンズが誰か知らなくても、ウィルは銃を顎に当てているわけだから「(エリザベスを解放しなければ)死んでやる!」って言いたいんだってことはわかりますけどね。 デイビー・ジョーンズというのは、海底をうろついて溺れた水夫を見つけては自分の蔵に閉じこめてしまう人…と子供の頃に読んだ英国の海洋児童文学に書いてありました。余談ながら私にとってショックだったのは、このデイビー・ジョーンズの「蔵」の英語が「ロッカー」だったことなんですが。いやそのずっと私、デイビー・ジョーンズの蔵って、海底に日本の質屋さんの蔵みたいなものがあると信じてたので。 「海のもくずとなる」という字幕訳は上手いなぁと感心します。同じような日本の伝統的言い回しをはめこんでいるわけだから。
10巻のあとがきで言及されていた「艦尾マスト」って、冒頭のシーン?中程?終盤?どこでしょう? ぶっちゃげて言えば、マストが倒れたことだけが問題なら「ミズンマスト」でも良いと思うんですが、倒れたマストの位置が問題になるのなら「艦尾マスト」じゃないかと…と、こうスッパリ割り切ってしまう私は、やっぱり実務翻訳者で海洋小説ファン失格?
どちらかというと私が気にしているのは、「It works as a sea-anchor」というセリフの字幕です。 何処で登場するかは申しません。ねたばれになってしまいますから。でもこれ、結構重要な意味を持つ、観客にはしっかりわかっていてもらわないと誤解を招きかねないセリフなんです。 「海錨として作用する」では普通の人にはわかってもらえないと思います。 「このままでは転覆する」まで意訳してしまいたいところだけれど、そこまでやったらやりすぎでしょうか? 本職の方がこれをどのように訳されるのか、ちょっと楽しみです。
お知らせ:12月7日〜9日付けでケアンズ旅行記をupしました。海だらけではあるものの、個人的な旅行記で、「M&C」本編情報に関係のあるものではありません。いずれケアンズに行って映画を見てみたいとか、グレート・バリアリーフのクルーズ船に乗ってみたいと思っていらっしゃる方には多少なりと参考になるかもしれませんが。
2004年01月31日(土)
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