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氷砂糖

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腕時計と置時計
2001年06月20日(水)

今まで気付かなかったけれど、わたしは時計が好きであるらしい。腕時計もそうだし、置時計もそうだ。なんとなく、見ているだけでも楽しい。

腕時計は、バスや電車を使って通学するため、高校からつけ始めた。なんとなく大人になったような気がして、嬉しかった記憶がある。デパートで安いものを買ったのだけれど、黒や茶色の革ベルトが馴染む感じを、未だによく覚えている。文字盤は算用数字だったこともローマ数字だったこともあるが、デジタル式のは買ったことがない。パッと見て時間がぴんと来ないからだ。

今ある腕時計は社会人になって池袋のパルコで買った楕円の、リング状になる銀のブレスレットのようなもの、通販で買ったイタリア製の、青い革ベルトのもの、婚約時に夫とおそろいで買った銀と水色のルキア。ルキアは重いのとなくしたら困るのとであまり使用頻度は高くなかったのだが、最近は他のものが電池切れのため、こればかり使っている。

実用的かはわからないが、ペンダントウォッチや、キーホルダーウォッチももてたら楽しそうだ、と思う。時を刻み数を告げるアクセサリー。存在自体が賢そうでおしゃれな気がする。

家に置いてある時計は、実家から持ってきた金の小さな目覚ましのほかに、夫の持っていた黒の大き目のと小さ目の、それからUFOキャッチャーでとったMiffyのが色違いでふたつ、そしてDreamcastについていたものなど、いろいろだ。これも電池のなくなっているものもあるが、形や見た目が楽しいので置いたままだ。

他にもvideoやレンジやリモコンなどにデジタル式の時計表示があり、全部きっちり合っているわけではないが、時計に囲まれていて違和感や不快感はない。ミヒャエル・エンデの「モモ」に、時計だらけの挿絵があったように記憶しているが、ああいう絵も好きだ。

しかし時計の形や外見が好きだからといって、時を大事にしているか、というとそんなこともない。大好きなはずの腕時計も、急いでるときはきれいに忘れていたりする。腕時計をせずにでかけると、たまに自分が子どもに戻ったような気分になることがある。5時の音楽が鳴ったら帰ればよかったころの。ただそこまでいかなくても、今ではどこかしら時計や時刻表示はあるようだ。ないとき頼るのは携帯やPHSで、これらにはずいぶん助けられる。

時計を好きだったり、時計に感謝したりすることが多いのは、すぐに時間を忘れそうになるからかもしれない。現実に引き戻してくれる強い力に、わたしは頼っているのだろう。そうでもしないと、区切りや切り替えができないのだ。体や心や頭のリズムは、あまり一定に動かないし、自己流に数えていると、なにか非常にずれた1日を送ってしまうような気がする。



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