嫌悪感の、見えない理由。 - 2005年02月15日(火) 自分が、誰かだいじな人のことをどう思っているか、どう考えているか、そして自分はどうしたいのかを、その相手に向かってきちんと言わなければならないときというのは、確かに存在する。ものすごくだいじな相手なら、なおさらきちんと言わなければならない。 でもそれは、やはりここぞというタイミングでなければ、本当の、じゅうぶんな力はもたない。 逆に、タイミングを誤って放たれた言葉の周りには、何か負の雰囲気を纏ったものが、漂ってしまう。 タイミングを誤っている時点で、純粋な気持ちではなくなってしまっている。 他人の出した言葉を見て、そう思ってしまった。 なにか気持ち悪い、と。どうしてこんな言葉がここに出てくるのだろう、と。 でもそれは、自分にも言えることだ。 彼女を責めるのなら、それと同じかそれ以上、わたしは自分を責める必要がある。 自分はこれまで、そういう「気持ち悪い」言葉を、いくつ出してきたのだろう。 ここに書くぶんにはまだいい。 いや、本当はよくないのだけれど…でも今は、まだ、いい。きちんとわかるまで、何かを決めてはいけないから。 誰かのことが大事だとか信じてるとかそういうことを、間違ったところで口にしてしまうのは、本当にそのひとのことを大事に思っているのではないような気がする。 そう口にすることで、自分は相手を大事に思っているんだと思い込みたいだけで、本当は相手よりも自分を大事にしているだけのような、そんな気がしてしまう。 ただ、本人としては、間違いなく、相手を大事に思っている。そのつもりだ。 そしてたぶんそこに、大きなヒントが在る。 わざわざ信じてって 自分から言わなきゃ 人を裏切ることもないのに わざわざ信じてなんて 自分から言わなくても 信じてもらえるのが 格好良いでしょう でも無理だね 君は嘘吐きだもの 槇原敬之「迷わない羊」より。 アルバム「太陽」に入っている曲だから、この曲を初めて聴いたのは学部二年の冬、4年前だ。わかるような、わからないような感じだったのを憶えている。言葉として、言っていることは理解できた、けれど感覚としては理解できなかった。 今なら、感覚としても理解できていると思う。 ただ、自分が誰に対してもそうせずにいられているかという問いに対しては、答えることができない。 今でも誰かを、「気持ち悪い」言葉で、縛り付けていないだろうか? -
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