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TTTT。実を言うと。 - 2004年10月08日(金)


わたしたちはどうやって、友だちや周りのだいじなひとの言葉を、信じているのだろう。
なんだかよくわからなくなった。

言われたことを信じて、勝手に期待してそれが外れるなんてことは、少ないことではない。
いや、そうやって自分が傷ついたから、しっかり憶えていて、「少なくない」と思うのだろうか。

院試に合格したことがわかったとき、そのときの彼氏に「じゃあ今度お祝いだね」と言ってもらって、嬉しかった。
でもしばらく経ってもお祝いしてくれることはなく、それで業を煮やして「お祝いしてくれないの?」と言ってしまったことがある。本当のところ、そんなことを言うだけ馬鹿だとわかっていたし、そう言ったら、ただでさえ低い確率を自分で下げるのだということも、わかっていた。
それでも、返ってきた答えを聞いて、期待した自分は馬鹿みたいだなと思い、やるせなくなった。わかっていたことのはずなのに。

今年の初夏、最初に内定をもらったことを電話で伝えた友だちは二人だけだ。
一人はその電話口で、「じゃあ今度お祝いしないとね」と言った。
自身のweb日記でも、そのことに触れ、「こんどお祝いだな」と書いていた。
けれどその人はお祝いしてくれていないし、おそらく自分がそう言ったことを忘れているだろうと思う。
本当はそういうことがとても悲しい。

二人とも、そのときは本当にそう思って言ったのだろうと思う。
それは何となくわかる。
でも、しかし、だからこそ、その言葉が遂行されないことが、悲しいのだと思う。

やはり雄弁なのは行動である。
院試合格のときも、内定獲得のときも、直接連絡した数少ない友人のなかに、なっつが含まれる。
彼は二回ともその場で、じゃあ今日、暇ならご飯でも食べに行こう、お祝いしよう、と、そう言った。そして二回とも、ご飯を食べに行った。
こんな友だちのほうが珍しいというわたしは、一体これまでどんなふうに、だいじな人たちと接してきたのだろうか?




取れていなかった会話のログ。
記憶の中に、「そんなつもりじゃないんだけどね」「すまない」という文字が浮かんでくる。
このひとは、わたしの言葉が本気で出されたものかどうかを、容易く見破る。…これまでそう思ってきた。
けれど、もしかして、違うのではないか?
わたしにあのひとを責める資格があるのだろうか?
あのひとだって、わたしの言葉を信じたからこそ、傷ついて怒ったり、信じられないと言ってみたりするのではないだろうか?
最初から信じられないなら、「本気で言ってるようには思えない」などと言ったりは、しないのではないか?

わたしはできるだけのことをしたのに、こちらの希望は無視される、と言って、結果的にであっても偽善者のようになってしまうくらいなら、もうこちらからは頼らない、と少し思った。頼らなければ、期待が裏切られることもない。でもそれはどこか違うとも思っていた。

これからは、だいじなことは本気でしか言わない、と決めたのはそんなに昔のことではないのに、もう、よくわからなくなった。


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INDEX
past  will





Not one night
one single day
that I wouldn't give to you
So with all my might
in every way
I'll try to forget to you

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