居酒屋レベルでの学校論 - 2003年10月16日(木) サークルの後輩つながりで微妙に知り合いの人の日記に、「学歴社会は基本的には良い」と書いてあるのを見た。これだけ読むとなにそれって感じかも知れないけれど、わたしも彼の意見に基本的には賛成。 というのは、彼の言っているのは学校の本質にあるものについてだからだ。学歴と言うと違ってきてしまうのだが、小学校・中学校に限定して考えたらどうだろう。人より優れた才能がなくても、勉強は、頑張ればある程度までは必ずできるようになる。義務教育を行なう学校で高いレベルでの教育がなされれば、誰にでも、求めるものを得られる可能性が出てくるということだ。もちろん、東京大学に入ったから幸せな生活が送れるかと言うと、それはまた別問題になるけれど。あくまで可能性の話として。 彼は、勉強しただけ得をする社会があったら、それは本当に平等な社会なのではないか?ということを書いている。そうかもしれない。 学校は、その成立過程において、本来その意味を持っていたと言えるだろう。 貧しくてもお金持ちでも、みんなが同じことを高いレベルで習得できれば、優秀な人材が増え、国は富んでいくことができるからだ。 けれど次第に学校は国民を統制する場となり、戦後(これを先生は「つい最近」と言っていた)になるまで、エリートつまり国を引っ張っていく人のための教育を行なう場所と、そんなエリートの言うことを頭から信じる人々のための教育の場所とに、学校は分かれていた。どの学校にいるかということそれ自体が、特権を持っていることの表れだったということ。 だから戦後の義務教育学校は、再び、誰もが同じことを学び、国民全体が一定レベルの知力を身につけるように考えられた。そして今問題になっているのは、この「一定レベル」をどこに置くか?ということなのだ。 いわゆる「学力」が低下すると危機感をおぼえている人の中には、「社会の平等性が失われてしまう」と言う人もいる。 義務教育レベルであまり多くのことを教えないとしたら、現状では、上位校に行きたいと思うならばお金をかけて勉強しなければならず、そのお金が出せない人は不利な状況に立たされてしまうからだ。 わたしは、学校は現代社会に適応するための訓練場所としての機能を保持していると考えている。学校が、現代社会でよりよく生きるためにはどうあればよいかを学ぶ場所であるなら、そこで教えられる「国民共通の学力」として期待するものは、ある程度高いほうがよいのではないかと考える。 だから、お金をかけずに学べる場所で、多くのことが学べるような状況を作ってあげることは必要ではないかと思う。社会の平等性の一端は学校システムによって担われるべきである。わたしが、いわゆる「学力」が下がるのをなぜ問題だと思っているかというと、それは結果的に日本の国力を下げることにつながるからだ。知力の高い人は、少ないよりは、多いほうがいいではないか。 何も気にせず何も調べず一気に書いても、これだけの分量になってしまうことにびっくり。 でも、学力という単語にはカギ括弧をつけたり、「いわゆる」をつけるのを忘れないあたりが、既に入り込んでしまっている証拠なのだろう。 それでも、こんな程度は議論ができるレベルではなく、勉強すればするほど、自由にものを言えなくなることがちょっと悲しいです。考えを言うのに制限がつくこと、必ず反論がくることに敏感になりすぎてしまう。 そして多面的に見すぎてしまうので、一般の人と教育の話はしたくないというのが本音。みんな観念論で語ってくるのに、こっちは理論武装してしまう。 でも今日は書いてみたくなったんです。中途半端なのは勘弁してください。 ちなみに、「学校とはどういう場所か?」を観念的に考えるのは「教育哲学」に入ります。哲学って別にペスタロッチとかカントとかばっかりやってるわけじゃないんだよね。 でも「学校システムそのもの」について考えようとすると、うちの大学で言えば「教育行政」とか「教育実践」、「カリキュラム」が該当分野になります。 結局、ある程度のオールマイティーな知識と、ある程度以上の専門知識が必要です。 でも、いろんな意味で「いい学校」を作りたいという気持ちは、研究者ならみんな一緒のはず。それなのに、学閥や立場に左右されて思うことが言えないのは、本当に、くだらないと思う。 -
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