セクサロイドは眠らない
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2004年10月29日(金) |
泣くのも、ぼんやりするのも。ただ、ハンカチを胸に当てて、あの人の名前を呼ぶことも。誰にも気兼ねがない。 |
「急なんだけど、今度の土曜日の夜、空いてる?」 娘の絵里が電話してくる。
「空いてるけど。何?お父さんは出張だからいないわよ。」 「うん。いいよ。お母さんだけで。」 「だから。何の用なの?」 「あのね。紹介したい人がいるの。」 「ああ・・・。そう・・・。」
娘も年頃である。そんな日が来るだろうことは予想していたけれど、やはり気持ちが泡立つ。 「お食事、用意しなくちゃね。何がいいかしら。お寿司?」 「うちで何か作りましょうよ。私、手伝うわ。お鍋か何かでいいんじゃない?」
受話器を置き、三日も先のことなのに急にせわしない気持ちになる。
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「はじめまして。中川といいます。」 「大学のゼミの先輩なの。」
娘から紹介されたのは、とても感じのよい青年だった。髪も茶に染まっていないし、着ている服も手入れが行き届いているようだ。 「突然で申し訳ありません。」 「いいんですよ。さ。上がってください。」 「では、失礼します。」
台所で娘にそっと訊ねる。 「ねえ。やっぱり、お父さんがいる時が良かったのじゃないかしら?」 「いいのよ。お父さん、いつだっていないんだから。」 「お酒は?ビールがいい?」 「ああ。適当にするから。お母さんは座っててよ。」
私は、鍋をはさんで、会ったばかりの青年と向かい合わせに座ることになった。 「あの・・・。」 「はい。」 「ごめんなさい。主人が留守にしてまして。」 「いや。謝るのは僕のほうです。なんだか留守を狙ったみたいで。」 「そんな・・・。」
緊張して会話が途切れがちになる。娘が戻って来るのが果てしなく長く感じられた。
「お待たせー。さ。乾杯しよ。お母さんも、今日はビールよね。」 「じゃあ、少しだけ。」
娘が入ると、途端に場がスムーズに流れるようになり、ホッとする。そして、アルコールが入るにつれ、思ったよりずっと楽しんでいる自分がいた。
片付けも、青年は一緒にやらせてくれと言う。 「あら。男の人に、そんなこと。」 「いいんですよ。僕だってご馳走になったんだから、片付けるのは当たり前です。」
最近では、台所に立つのも苦にならない青年がいるのだと感心した。
その時、電話が鳴る。娘への電話だ。久々にこちらに帰って来るのを知った娘の友達だった。
私と中川は台所で二人きりになった。気を遣って話し掛けてくれる青年の、その肌の綺麗なこと、睫毛の長いことが、なぜか緊張を誘う。
「あらっ。いやだ。」 私は、ぼんやりしていたのだろうか。
皿を落として割ってしまった。
「大丈夫ですか?」 青年が、破片を拾う私のそばにしゃがむ。
「大丈夫です。ごめんなさい。うっかりして。」 「危ないです。僕がやります。」
痛みが走り、血が流れる。咄嗟に、青年が差し出したハンカチで指がくるまれる。
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指が熱くて、一晩中眠れなかった。
それがどんな感情か、考えると怖ろしくて。
貧血を起こした私を抱きかかえてソファまで連れて行ってくれた時の、彼の胸の感触が忘れられなくて。
娘に気付かれなかったかしら。娘の恋人に心を乱された私の変化に。ああ。知られていませんように。娘にも。そしてあの青年にも。
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それは、まさに病だった。
美しい青年の、あの声。あの指。あの眼差し。
いつか、この気持ちがふとしたはずみで溢れ出して、誰かに知れてしまったらどうしよう。それは恐怖でもあった。
街で似たような青年を見るだけで、鼓動が激しくなり、汗が噴出すのだ。
次第に私は塞ぎこむようになり、そして、ついにある日、倒れてしまった。
目を開けると、不機嫌そうな夫がいた。 「特にどこも悪くないと医者は言ってたぞ。」 「ええ。どうしちゃったのかしら。」 「まったく。何もないのなら、仕事に戻るぞ。」 「ええ。」
立ち去ろうとする夫に、私は慌てて声を掛けた。 「あの・・・。」 「なんだ?」 「絵里には言わないでくださいね。心配するから。」 「ああ。分かった。」
絵里が知れば、あの青年が知ってしまう。それが怖かった。二人で見舞いに来ることにでもなったら、こんどこそ私は泣き出してしまうだろう。なんて意気地がないのだろう。
誰にも知られたくない心を押し隠すのは、もう限界だった。
私は、退院すると、離婚届をもらいに行った。
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五十にもなって、突然狂ったように家を飛び出した私。娘が泣いて電話して来た。
「ごめんなさいね。」 「どうしてよ?お母さん、何があったの?」 「何も・・・。何もないの。」 「だったら、戻って来てよ。お父さん、あれからすっかり元気なくしてるし。」 「ごめんね。」 「お母さんったら。ねえ。」 「・・・。ごめんなさい。」
受話器を置く。
愚かな私。誰からも許されなくていい。ただ、一瞬の指の触れ合いだけが、今の心の支えだった。
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一人はいい。
泣くのも、ぼんやりするのも。ただ、ハンカチを胸に当てて、あの人の名前を呼ぶことも。誰にも気兼ねがない。
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誰も訪ねて来ない筈の部屋に、ある日、思いがけない来訪者。
「中川さん・・・。」 「探しましたよ。」 「あの。お帰りになって。」 「駄目です。今日は、どうしてもお願いがあって来たんです。」
私は仕方なく、彼を部屋に通す。
「結婚したいんです。絵里さんと。」 「あら・・・。まあ・・・。おめでとう。」 何て間の抜けた返事だろう。
「ですから、お願いがあるんです。結婚式に出てください。それだけでいいんです。何があったか知らないですけど。絵里も、随分と沈んでしまってます。」 「出たくないわ。」 「無理なお願いとは分かってます。ですが。あなたに祝福されたいんです。」
なぜ。私があなたの結婚を祝福しなくてはいけないの?こんなに苦しんでいるこの私が。
「お願いです。」 中川が頭を下げる。
「やめてちょうだい。ねえ。やめてよ。」 突然、涙が溢れ出す。
一旦、溢れた涙は止まらなくなって、次から次から頬を伝う。そのうち、私は声を出して泣いていた。子供みたいにわーわーと声を出して。
「あの。話していただけませんか?」 「無理ですわ。」 「誰にも言わない。」 「お願い。ひどい話よ。一生、あなたに軽蔑されてしまうわ。」 「軽蔑なんかしません。絵里をあんなに立派に育てたあなたに。」
私はまた泣きたくなった。 「お願いよ。もう、苦しめないで。」 「僕が、ですか?」 「ええ。あなたよ。あなたが何もかも悪いの。」 「・・・。」 「あなたは、絵里の恋人ですもの。そんな人を愛してしまったなんて。」
ああ。なんてこと。誰にも言えない秘密だったのに。遂に言ってしまった。
恥ずかしさのあまり、余計に涙が出て来る。
彼は、そばに来て私を抱き寄せた。 「泣かないでください。」
そこには、欲しくてたまらない胸があった。私は、ただ、抱かれて泣きじゃくる。
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いつの間にか眠ってしまったようだ。
夢の中には絵里がいた。まだ、幼い絵里。小さな絵里が、私の膝の上でおしゃべりしている。 「ねえ。ママ。天国っていうのは、地獄があるから、天国があるんだよ。」 「あら。どうして?」 「あのね。とっても辛いことがあった後だと、天国が見えてくるの。あのね。暑い夏にお外から帰って来たパパが言うでしょう?エアコンが気持ちよくて、天国だって。」 「本当にそうねえ。」 「ママは?今、天国?地獄?」 「さあ。どっちかしら。きっと、どっちもよ。」 「どっちも?変なのお。」 「天国だけど、地獄なの。地獄だけど、天国なの。」
私は、そこで目を覚ます。
「大丈夫ですか?」 「ええ。私、眠ってたのね。」 「お疲れだったんでしょう。少し痩せたみたいだ。」 「そうね。最近、あまり眠れなくて。」 「僕のことだったんですね。」 「ええ。恥ずかしい話だわ。死んでしまいたいぐらい。」 「死なないでください。」 「でも。あなたは私を愛さないわ。」 「愛します。絵里の母親として、尊敬し、愛します。それでは駄目ですか?」 「分からないの。」 「初めて、絵里の家に誘われてからずっと夢見ていた。あなたと家族になること。素敵なお母さんに育てられたと思いました。」 「あなたに正しくない感情を抱いてしまいました。誰にも言えないぐらいひどい感情。」 「僕には教えてくれましたよね。」 「ええ。忘れてちょうだい。」 「忘れません。あなたの感情を、僕が忘れたら、あなた一人で苦しむことになるから。」 「馬鹿な女でしょう?あなたにだけは軽蔑されたくなかったの。」 「そんなこと・・・。人を好きになるのは、素晴らしいことです。」 「軽蔑・・・、しないの?」 「ええ。」 「ありがとう。」 「布団に横になるといいです。今夜はついてますから。」
布団の中で私は再び眠りについた。そばに彼がいることの安らぎが、眠りを誘う。
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朝、起きた時には彼はいなかった。
私の中で、何かが吹っ切れていた。
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結婚式の日。
私は、新婦の母として、娘の姿を誇らしく思う。
「素敵な息子さんができてうらやましいわあ。」 そんなことを口々に言われて、黙って微笑む。
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今では、月に一度、かつての夫と一緒に、孫の姿を見るのが楽しみだ。
彼は。中川は。あの日のことを誰にも言わないでいてくれている。何事もなかったかのように、黙っていてくれる。そして、二人の間に秘密があることが、私の心を温かくする。
私と夫は、結局離婚したけれど。家族としては愛し合っていて。結局、夫には離婚の理由を話していない。
今日も、絵里達の家庭を訪問した後、二人でお茶を飲む。
元夫は、言う。 「夫婦っていいもんだな。絵里の家を訪問すると、しみじみ思うよ。」 「ええ。」 「あんないいもんだって知ってたら、手放さなかったのに。」 「また、手に入れたらいいわ。」 「また・・・か。そうだな。さて、行こうか。」
ここにも、かつての私の傷に触れないでいてくれる人がいることに感謝しながら、私は、夫の少し後ろを歩く。
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