セクサロイドは眠らない

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2004年09月14日(火) 「探したよ。」声が。あの日と同じ。見上げると、彼が。「ずっと探してた。」どうして?

気が付けば、見知らぬ場所に立っていた。ここがどこか、自分が誰か、全く分からなかった。歩道の真ん中に立ち尽くしていたので、自転車に乗った男が何か叫びながら通り過ぎて行った。

どうしていいか分からず、その場にうずくまる。誰かが、この暗い穴から私を連れ出してくれるのを待って。

「サチエ。サチエだろ?」
顔を上げると、そこには一人の青年。

今、私がどんな身なりかも分からなかったが、自分より少し若いだろうその美しい男は、微笑を浮かべ、手を差し出してくれていた。私は、おずおずとその手を握り返し、立ち上がった。

「探したよ。」
「探した?」
「ああ。ずっと。」
「私・・・。あの・・・。」
「ああ。いいんだ。きみがどう思っていようと。」
「そうじゃなくて。あの。私、記憶がないの。」

そんな重大な告白にも知らん顔で彼はしゃべる。

「帰ったらお風呂に入れてあげる。それから、いい香りと、美味しいもの。素敵なドレス。」
青年はとても幸福そうだった。

もし、私がこの男の関係者なら、私自身、とても素敵な人生を送っていたのかもしれない。そう思わせるような美しい表情だった。

「鏡が見たいの。」
「え?ああ・・・。」
「ねえ。鏡を見せて。私、どんな顔をしている?」
「大丈夫。とても綺麗だ。慌てなくていい。ねえ。僕の顔見てよ。どんな顔してる?」
「とても幸せそう。」
「僕はきみを映す鏡だよ。僕が今、幸福そうなら、きみは幸福さ。さあ。僕らの家に行こう。」

彼は私の手を引いて歩き出した。

「待ってよ。ねえったら。」
「まだ何か?」
「私達、どういう関係?」
「どういう関係って。きみと僕は夫婦なんだよ。」
「仲良かったの?」
「ああ。良かったさ。」

彼の言葉はとても穏やかだった。ともかく、眠りたい。眠ったら、この優しい人の笑顔が私のものだったことに自信が持てるかもしれない。そう思って、黙って彼の手に今の私を委ねた。夕焼けが美しくて、野良犬がこちらを見ていた。彼の足取りは弾むようだった。

--

とても大きな屋敷だった。使用人がたくさんいて、彼はこの屋敷の主だった。使用人は皆、最初から私のことを奥様と呼んだ。私がどこに行っていたのか。どうしていたのか。誰も訊こうとはしなかった。

「ここがきみの部屋だよ。」
「ここ?」
「ああ。」
「素敵。」
「ああ。素敵だ。きみは趣味が良かった。」
「分からない。何も思い出せないの。ここに来れば何か思い出せるかと思ったのに。」

それから鏡を見た。見知らぬ女が立っていた。少し腫れた顔。乱れた髪。美しかったかもしれないが、目の前の男より年上で、おどおどした目をしていた。私は、悲しくなった。鏡を見れば納得できると思っていたのだ。彼の幸福の理由が。

「泣かないで。」

彼はそっと私の頬に手を触れた。

「私きっと、すごくつまらない人間だった。こんな素敵な家具、私には覚えがないわ。あなたみたいに優しい人が夫だったとも思えない。」
私は激しく泣いた。頭がズキズキした。

彼がそっと私を抱き寄せた。
「泣かないでよ。ずっと探してたんだから。」
「本当に?」
「ああ。本当さ。」
「私、いい妻でしたか?」
「もちろん。」
「子供は?」
「とても欲しがってたよ。僕も。きっとそのうち、素敵な子供を授かるさ。」
「それから?どんな?」
「そうだな。きみは使用人にも優しいから、彼らからも慕われてたよ。」
「あなたのご家族は?」
「母が・・・。一人。」
「私、仲良くできていたかしら。」
「ああ・・・。そうだな。」

彼の腕の中で、心は柔らかくほぐされていた。

「もう、おやすみ。きみはまだとても疲れてるんだ。」
「分かったわ。」

お風呂に入り、いい香りの粉をはたいてもらい、体をしめつけない服を着せてもらってから、いい夢が見られるという錠剤を一粒。
「飲むと落ち着きますわ。」

私の世話をしてくれている少女が言った。

私は、すぐに眠たくなりベッドに入った。誰かの手が、私の髪を撫でている。多分、彼。私の意識がなくなるまで、私の髪をずっと・・・。

--

「よく眠れたかい?」

次に起きたのは、もう昼過ぎだった。

「ええ。とっても。」
「気分は?」
「あまり良くないわ。寝て起きたら思い出すかと思った。あなたとの生活。」
「ゆっくり思い出せばいい。」
「私、どれくらいここを留守にしてた?」
「随分長く。」
「それってどれくらい?」
「とても長くだよ。気が遠くなるぐらい。」

彼の言っている意味が分からなかったが、彼がとても悲しそうな顔をしたので、私は慌てて駆け寄って、彼の悲しい顔にキスした。

「そうだ。きみは戻って来てくれたよね。」
彼は私にオレンジジュースの入ったグラスを渡した。

--

私がどんな人生を送っていて、どういう経緯でここを飛び出してしまったのか。何も分からないまま、私は次第にそこの生活に慣れていった。使用人達も、最初はそんな私を遠巻きに見ていたが、次第に近づいて来てくれて、今では皆、家族のように仲がいい。

それから、夫。

私には似合わない、美しくて、金持ちの夫。

私は、この男に恋をしている。

だから怖かった。過去の記憶が蘇ることが。思い出してしまえば、何もかも台無しになるかもしれなかった。だが、大丈夫。私がかすかに思い浮かべることができるのは、山の中の小さな村の光景だけ。そこには幼い私。父や母。とても幸福な思い出だけ。

彼にその話をする。

彼は、
「はじめて聞いたよ。」
と微笑んだ。それから、二人で、私の幼かった頃の話を。

きっと、小さな頃から、生き物や花が大好きで。家族は父と母、兄が二人、祖母もいて、とてもにぎやかな・・・。話していると、本当にそうだった気がして幸福になれるのだ。

--

朝から騒々しかった。

「何事?」
私は、急いで着替えを済ませて階下に下りる。

そこには、宝石を沢山身につけた見知らぬ女。

「あなたね。」
「え?」
「うちの息子が連れて来た女よ。」
「どなたですの?」
「母親よ。」
「おかあさま・・・。」
「そんな風に呼ばれたくないわ。」
「私、あの・・・。悪い嫁でしたか?」
「嫁?そもそも、おまえは、嫁ですらない。息子が野良犬のように拾って来ただけでしょう。さあ、言ってちょうだい。どういう素性なの?」
「言っている意味がよく分かりません。」
「息子のつまらない病気のことよ。記憶をでっちあげ、見知らぬ女を拾って来ては、妻だと言い出す。女だって、財産狙いよ。息子に合わせるのは上手いもんだわ。そのたびに私が追い出すってわけ。でもね。息子は悲しんだりしない。すぐに次の女を見つけるからね。」
「私・・・。あの、記憶が・・・。」
「お金は幾らあげましょうか。荷物をまとめる時間ぐらいあげるわ。まったく、あの子ときたらしょうがない。今日は、あの子は仕事で一日いないわ。あの子がいると厄介だから、あの子が帰って来るまでに消えて頂戴。」

私は泣くことしかできなかった。

やっぱりそう。ここは私の居場所なんかじゃないんだ。

彼の笑顔。あれは、狂った笑顔だったのか。

何より、恋を失う事が辛かった。

一番質素な服をまとい、使用人に別れを告げる。皆、押し黙ったまま。
「ありがとう。私のままごとに付き合ってくれて。」

それから、運転手に命じて、遠いところに行ってもらうことにする。そうね。山奥の小さな村。少し時間がかかるかもしれないけれど、行ってくれるかしら。

「奥様。」
「違うわ。私、奥様なんかじゃ・・・。」
「旦那様はとても幸福でしたよ。」
いつも表情を見せないその運転手の声は、とても深い響きで私の心に届いた。

--

小さな村で体を動かして。それは、私にぴったりの生活だった。きっとそう。こうやって育って来たんだ。若者がいないこの村で、私はとても温かく迎え入れられた。

記憶が戻らなくても、この村にいれば少し悲しみは和らいだ。そんなにいい人生じゃなかったのかもしれない。村を出てからの記憶は消したいものばかりだったのかもしれない。

私は、今日も畑を。涙が出そうな日は、いつもよりいっそう、体を動かす。

「探したよ。」
声が。あの日と同じ。

見上げると、彼が。

「ずっと探してた。」

どうして?私は、取替えのきく野良犬じゃないの?この村は、あなたの生活からずっとずっと遠い場所。

「母が、失礼なことを言ったみたいだね。」
「いいえ。私も悪かったの。あの生活は本当じゃないって分かってて、つい、あなたの優しさに甘えてしまって。」
「頼んで連れて来てもらった。」
「あの運転手さん?」
「ああ。」

彼は私を抱き締めた。

私も、彼を。

記憶はこれから二人で作ればいい。記憶を失くした女に、記憶を紡ぎ出してくれた男。

真実は分からなくても、本当のことはきっと分かる。温かい体に血が流れているのを感じる。


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