セクサロイドは眠らない

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2002年03月15日(金) ああ。だが、これだけは言える。僕は妻を愛している。そうでなきゃ、こんなに傷付くものか。

僕は、小さな村のはずれで美しい妻と二人で暮らしていた。

妻は僕をとてもとても愛していたし、僕も妻をとてもとても愛していたのだが、僕達夫婦の間にはいさかいが絶えなかった。若い夫婦にありがちなことなのだろうが、些細なことでもお互いをとことんまで追い詰め、傷付け合うのだ。

僕は、そんな夜は、くさくさして家を後にし、一晩中、居酒屋で飲み明かす。そうして、夜明け、ベッドの中で頬に涙の跡をつけたまま眠っている妻を見ては胸を痛める。どうして素直に「愛しているよ。」と言えないのだろう。その一言を引き出すために妻はいつも僕に挑みかかり、ずたずたに傷付く。僕は、傷付いた妻を見て、更に傷付く。

若さゆえだろうか。

ああ。だが、これだけは言える。僕は妻を愛している。そうでなきゃ、こんなに傷付くものか。

--

その日も、僕は猟に出た。

朝から派手な喧嘩をして、妻にキスもせずに家を飛び出した。

気分とは裏腹に体のほうは調子良く、僕は思う存分猟を楽しんだ。銃声の響きが、心を弾ませる。

澄み切った空に、猟犬の声が響いた。

僕が仕留めたその鳥は、フクロウだった。フクロウ?と思って顔をあげた時、そこに怒りに震える魔女がいた。

「私の可愛いフクロウを殺したね。」

魔女は、僕にさっと手をかざすと、
「十年間、犬でいるが良い。」
と、恐ろしい声で言って、姿を消してしまった。

ちょっと待ってくれ。

僕は、叫んだ。

その声は、もう、犬のそれだった。なんということだ。僕は、本当に犬になってしまった。

--

ようやく我が家に辿り着いた時、泣き腫らした目の妻が僕を出迎えた。

「あんた、どこの犬?」
妻は、それでも僕を気に入ったのか、家に入れて体を洗ってくれた。

「ねえ。あんた、猟犬ね?あの人を知らない?猟に行ったきり、三日も帰って来ないの。他の女のところに行っても、一晩丸々空けることなんてなかったのに。」

僕は、何とか自分が夫であることを伝えようとするが、妻は気付かない。

「あたしが悪かったのかしら。あんなに怒ったりしたから。」

ワンワンワン。

「うるさい犬ね。私、頭痛いの。そっちの奥に毛布を敷いておいたから、そこで寝てちょうだい。」

妻は、布団に潜りこんだ。

眠れないのだろう。吐息と寝返りの音が一晩中。

--

妻の寂しい繰り言を聞きながら、僕は、僕なりに妻を支えて寄り添った。

そうして、十年。

明日。僕は、犬から人間に戻ることができる。僕は、朝からウキウキしていた。

それから、いつものように妻をベッドに迎えに行き、餌をねだる。

僕は、その日、妻の様子がどこかおかしいことに気付いた。いつものように瞳に宿る悲しみの色も苦しみの色も見えず、どこか遠くを見つめていた。

クウン。

「ああ。ごめんね。ぼんやりしてたわ。」

僕の餌を、いつもより多めに盛ると、妻は微笑んで僕に言った。

「ねえ。私ね。ようやく分かったの。十年待って。待って待って、待ち続けて。それで、ね。あの人のこと。あの人への愛。それは、ずっと憎しみや怒りに支えられて来たんだって分かった。あの人が帰って来たら、どんな風に責めてやろう。とか、そんなことばっかり考えて。でもね。そういうの、間違ってるって分かったの。私、初めて怒りから解放されたの。そうしたら、不思議ねえ。あの人を待つ理由ももうなくなってしまったのよ。」

妻は、ゆっくり立ち上がり、納屋からロープを持って来た。

何をするの?ワンワン。

「ねえ。村の人が、あんたの面倒は見てくれるわ。ごめんね。あんたのお陰で、私、随分幸せだったよ。」

ねえ。行かないで。もう一日だけ。待ってくれよ。

だが、犬の声は届かない。

ガタン。

椅子を蹴る音が響いた。

僕は、激しく鳴いた。誰か来てくれよ。僕は、目の前にぶら下がる彼女の体の前で飛び跳ねて、狂ったように鳴いていた。

--

村の人が訪れた時、僕は人間の姿で、ぼんやりとそこに座りこんでた。

僕は、記憶を失って十年。それから家に戻ったところで妻の自殺に立ち合った不幸な男ということで、村中から親切にされた。

僕は、半分狂った男を演じ、もう半分は本当に狂ってしまった。

時折、身の回りの世話をしに村人が訪れてくれる以外は僕は、その家でぼんやりと座りこんだまま、動かない。だが、危害を加えるわけではないので、村の子供達も、時折遊びに来る。そうして、親に叱られただの、学校でこんなことがあっただの、僕に話しかけてくれる。

ある日、子犬を連れた少女が、僕の元を訪ねて来た。

「今度、越して来たの。」
明るく微笑む少女は、亡くなった妻にそっくりの、亜麻色の髪。

「おじさん、一人?」
「ああ。」
「寂しくない?」
「どうかなあ。」
「私、犬飼ってるの。」
「可愛い犬だ。」

少女は、くるりとこっちを向いて、声をひそめて言う。
「ねえ。犬って、人間に飼われて幸福だと思う?」
「どうかな。僕には分からないなあ。」

だが、僕に関して言えば、犬だった十年が、人生で一番幸せな日々だった。

風を切って走ったり、妻が部屋に入って来た時その匂いを肺いっぱい吸い込んだり。なにより、誰かを好きな時は、思いきり尻尾を振って。

かつて犬だったことがあり、その後人間になった者なら、誰でもそうなんじゃないかな。

微笑む僕を見て安心したのか、「行こう。」と、子犬に声を掛けて、少女は外に飛び出して行った。


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