「静かな大地」を遠く離れて
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『虹の彼方に』文庫版解説に佐藤優氏が登場という「事件」もあったが、同じく 文庫解説で最近目をひいたのが下記の引用。
■佐藤優・解説『やさしいダンテ<神曲>』(阿刀田高/角川文庫)より 近代を理解するための必読書が何冊かある。 その一つがダンテの『神曲』だと私は考える。
佐藤優氏の「近代を理解するための必読書」、他にどんな本が挙げられるだろう? エドマンド・バークとかシュライエルマッハーとか、いろいろ候補はあるだろうし、 それはそれで興味深いが、たとえばメアリ・シェリー『フランケンシュタイン』は どうだろうか? これはダンテからの連想にもなるが、須賀敦子による『フランケンシュタイン』 の書評がある。1995年、オウム事件がきっかけで説きおこされている。
■『本に読まれて』(須賀敦子/中公文庫)より 大地震が大自然の畏怖を思い出させてくれたのに反して、なんでもない 日常にいきなり割りこんできて市民を精神的に追いつめた毒ガスの事件が、 どうやらひと握りの人たちのとてつもない野望と妄想の産物であったらしい と報道されたとき、私たちは言葉を失った。 人間の頭脳から生まれた怪物。 連想ゲームではないけれど、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』を 読んでしまった。 著者は、イギリス・ロマン派の詩人で『ヒバリに寄せて』などで知られる パーシー・ビッシュ・シェリーの妻だ。そこまではどうにか知識があった。 女性が、恐ろしい怪物を主人公にした小説を書いたというのが、ずっと私 には解せなかったのだけれど、じっさいには実物を読んだことがなかった。 だれがいちばんもの凄い怪奇小説が書けるか。そのころメアリがシェリーと 滞在していたジュネーヴの宿で、友人たちと競って、ほとんど冗談半分に 書いたものという。作品そのものは、でも、私が子供のころから頭に 描いていたフランケンシュタインとは、かなり違ったものだった。 映画が原作の印象を変えてしまうのはめずらしくないが、この作品の場合、 ずいぶん映画がひとり歩きしてしまった。私が小学生のころだったろうか。
声をひそめて、フランケンシュタインみたいに怖いヤツはどこにもいないわよ、 と自身怖がりだった母が話してくれたのは、彼女が見たもっと怖いホラー映画 からの話だったに違いない。 まず、小説での「フランケンシュタイン」は怪物の名ではなく、卓越した科学者 でありながら野望にわれを忘れて、生命を自分の手で造るという禁じられた 誘惑に負けて、「昼も夜も信じられぬような苦心と疲労をかさねたすえ」 「発生と生命の原因を解き明かすことに成功」して、無生物である手づくりの 「怪物」に生命を吹きこみ、やがては身をほろぼすという主人公の名前なのだ。 ぞっとするほど世にも恐ろしい生き物、怪物、と作者はくりかえし述べるのだが、 その描写は、まったくない。 物語は、(一)これを造ったために後悔にさいなまれ、 世間の眼を逃れて生きる、 苦悩と孤独と恐怖について語る科学者、(二)造られはしたものの、名さえ与え られず、想像を絶する風貌のために昼間は街を歩くこともできないまま、自分を 造ったフランケンシュタインに復讐を誓いながら、同時にその愛を得ようとして 後を追い続ける哀れな怪物、 (三)そして北極の地で科学者の告白を聴く青年 という三人の人物によって語られている。 すぐれたSF小説であるためには、私にはわからないミスが隠れているのかも しれないし、いかにも古いと思える心理描写もあるが、ぜんたいとしては内省に 満ちた、感動的な、そして書かれた時代をよくあらわす作品。
これと同じく1995年から解き起こされている須賀敦子の文章として「古いハスのタネ」 がある。文学と宗教そしてダンテをめぐって、個と共同体とコトバを問うている。 晩年の彼女がジョルダーノ・ブルーノと科学技術、 それに異端を気にしていたことを想う。 ダンテ『神曲』フリークであることを告白している松岡正剛氏も『フランケンシュタイン』 の重要性に注意を喚起し、衝撃をもって絶賛している。
■松岡正剛 千夜千冊 メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』より 死体の断片を集めてそこに電気ショックを与え、それで死者の蘇えりをおこそう という発想そのものは、ヨーロッパ中世のダンス・マカブル(死の舞踏)や奇跡劇 の伝統からすれば、それほど突飛ではない。 メアリーの卓抜な発想はそこにあるのではなく、ヴィクター・フランケンシュタイン が試みたそのような実験があえなく失敗に終わり、「できそこないの人間」 すなわち「怪物」が出現してしまったということ(原作には、「怪物」としか出てこない。 名前はついてはいない)、しかもその怪物が、人間のような、あるいは人間が忘れて いたような孤独と悲哀を感じたということにある。この怪物は身を震わせて言う、 「呪われた創造者よ、私が生命を受けた日は憎むべき日になったのである。神は 慈悲をもって人間を自らの姿に似せて美しく造ったのに、私の姿は人間に似ているが ゆえにかえって不快で醜いものになったおまえ自身なのではないか」というふうに。 この問いに答えられる者なんて、まずいない。あまりにも未来的であり、あまりにも 古代的である。哲学的にもそんなことを考えた者はまだいない。 こんなことを言うとなんだか問題を放置したかのように映るだろうが、おそらく、いま イタリアで由々しくも進行中という“クローン人間”が成長したのちに、いったい何を 言うのかを待つしかないにちがいない。 しかしメアリーは、こうした「存在の耐えられない重さ」にさらにさらに難題を重ねて、 これをヴィクター・フランケンシュタインと怪物に突き付けていく。ひとつはヴィクター に心ならずも燃え上がった復讐のおもいとして、もうひとつは怪物がみずから死を 選んでいったというおもいとして。 ぼくは、作品の最後の最後になって、怪物が創造主に愛とも呪いともつかない言葉を 述べながら死んでいく場面に、『ヨブ記』を読んだとき以上の衝撃をおぼえ、本を閉じて もしばらく立ち上がれなかった。そうなのか、こんな終わり方があったのかという壮絶な 気持ちに陥った。 『失楽園』にも『ファウスト』にも腰は抜けなかったのに。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0563.html
近代の科学技術の出自、出現してきた根本的な理由は、極めて心理学的事件なのではないか? 栗本慎一郎師の言う、動植物の上に立ちたかった、という人類の近代へのドライブにも 通底する視角。近代の「歴史」を、近代が真に終わろうとする今、どう捉え直せるか、 という知的格闘でもある。
■松岡正剛インタビューPRESIDENT2008.3.3「本の時間」より 「ナポレオンと、産業資本と、日韓併合を同時に語るということがもうできない、 ということをまずはなんとか突破しなきゃいかんですね。たとえばこの三つが、 共通の文法や用語でしゃべれないぐらい分割されている。これは二〇世紀が とった知の分配方法だったんですよ。言説というものは結論に達しないと成果 にならないでしょう。途中を外せないものだから、全部受け継ごうとする。 それで文脈や用語や因果関係を、一個一個独立させて、部分的に使えるよう にしてしまったんですね」 歴史をいったん分解し、つなぎなおしてみると数々の「まちがい」が発覚する。 そう、歴史は「偽装」だらけだ。 (中略) いちばん疑いたかったのは「資本主義」だ。世界はもう本当にこれでいくしか ないのか。誰がそう決めたのか。 「いま起こっていることって、近代思想の地層そのものの液状化や活断層に よって引き起こされている地殻変動なんですよ。資本主義とか、新自由主義とか、 そういう思想そのものに『ちょっと待った』をかけないと、アンチテーゼも オルターナティブも出てこない」 それにしても……。 「なんでおまえがそんなに全部わかるんだ、と言うんでしょう。みんな思って いると思うんです。僕もそう思う。だけど、これ、わかるんですよ(笑)。 こういうことは、やっぱり僕のような、何の学問的な師弟関係もない、どんな 寄るべなき大樹もない者がやるべきじゃないのかな、とは感じています」 次のミッションは科学技術、と言い残して怪傑は去った。
怪物ならぬ怪傑・松岡正剛氏の「次のミッションは科学技術」という言葉。科学と社会 の問題、 科学技術を共同体がどう所有し得るか、・・・これはマイケル・ポランニーの格闘した難問だ。 フランケンシュタイン博士の嵌まった罠の深さから、まったく21世紀の われわれは自由ではない。 そう考えると、20世紀アメリカの映画産業が『フランケンシュタイン』というメアリ・シェリー の打ち出した大命題を如何に「消化」したか 、あるいは言葉に正確を期そうとするならば、 「消化」せずに隠蔽したか、は重大な問題だと思えてくる。
あげくの果てに原作では理知的で饒舌な怪物から言葉を奪い去り「フンガー、フンガー」という イメージを固定化することにさえ成功した「口封じ」の歴史に空恐ろしさを感じる。 この過程を日本の現代と重ねる時、オウムをワイドショーのネタとして「消化」しおおせた、 共同体の旺盛な消化力のことを思い出す。 1995問題。 社会を語るべき「大きな物語」が衰滅した間隙に蔓延したオウム真理教のジャンクな物語、その 位置づけを大部分の日本人にとって他人事ではない形でわかりやすく可視化した快作が、これ。
■大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿 構造しかない日本』(角川oneテーマ新書) 少なくとも「構造しかない」物語にこの国全体が「とてつもない日本」という 空虚な意味を補填し、日本が世界に届いたと思い込むことだけは止めたほうがいい。 何も届いていないし、届けてしまってはいけないのである。 9・11はアメリカ、ないしはブッシュという「物語メーカー」の暴走としてあり、 そこに日本人は「欠損した私」を委ねてしまったことは忘れてはならない。
三浦展氏の概念「ファスト風土」になぞらえるなら、「ファスト物語」論とでも言えるだろうか。 大塚氏は、筆者の理解では「物語リテラシー」普及の徹底による陳腐化という戦略を取る。 その果てに、個々人の心のハンドリングを個々が取り戻すことで、新しい公民意識を立ち上げる 社会を提案している。 1990年代初頭、政治家になる直前の栗本慎一郎師の著作にも通じる戦略とメッセージであるし、 その問題意識を別の切り口から今現在展開しているのが佐藤優氏であると思う。 佐藤優氏は浅田彰『構造と力』に始まる「浅田革命」の同時代、ソ連に赴任していたため体験して いない。1980年代半ば、栗本慎一郎師の知的格闘が全面展開した時期でもある。 栗本読者にとっては『鉄の処女』から『意味と生命』の時期を「浅田革命」の季節とまとめてしまう ことに抵抗を感じつつも、現実に進行した大きな過程は、1995以降から振り返るとまさに 大塚英志が言うような、世界が「物語論」化して行ったプロセスであると、忸怩たる想いをもって 肯んじざるを得ない。「大きな物語の終焉」という口封じの時代。 同時代に、こんなシビレる逆撃の矢を放っていた「怪物」もいるのではあるけれど(笑)
■高山宏『ふたつの世紀末』(青土社) 「逃走」? ふうん。なに、「横断線に沿って」? ははあ、やってみることさ。 つまりはあらゆる意味において「ダサ」くて、「おそい」われわれの「物質的下層原理」 に縛りつけられたいま、ここからの、脳細胞だけにたよっての「逃走」。 それはつまりは、エキゾティシズムの一変奏ということなのだ。知のエキゾティシズム。 二十世紀末にまたくりかえされる「自由からの逃走」。愚直で重たいわれわれの肉体性 (ピュシス」っていうんだっけ)にもう少しまともにつきあわないと、第二、第三の ヒトラーに、いつだってあっさり組織化されちゃいますよ。鉤十字、ハーケンクロイツ、 スワスチカーーあれは元々「太陽の車輪」を意味するシンボルだったということだ。 レヴォルシオンのシンボルか。ヒトラーは実に天才だなあ。「変化のパニック」を あやつってマッセン(大衆)を思いどおりにしたわけだもの。<運動>のイリュージョンで 人々は勝手に酔っぱらっていたのではなかろうか。「変化」と「運動」をいうプロパガンダ にうかうかと「のっ」てね。 きみ、「かろやかに」なんていったって、なまみの肉体はあまりにも重たいんですよ。
佐藤優氏が、『一冊の本』で連載中の「ラスプーチンかく語りき」の単行本未収録の号で触れて いることがこの「浅田革命」、そして「大きな物語」の話の補助線として役に立つかもしれない。 以前にも引用した『一冊の本 2007.6月号』の別の箇所から。
■佐藤優「Uさんへの手紙(その一)「大きな物語」の必要性」より 私の理解では、受肉の秘密を理解するためには、いまここで生きている人間の現実 を理解する必要があります。自らは善いことを行おうと望んでも、その反対に悪いこと ばかり行ってしまう人間の現実を構造的に把握することです。この問題意識について、 私は、日本の同世代の知識人との間で、共通の言語が見い出せず、悩んでいます。 (中略) さて、外交官になった後も神学と哲学について最低限の勉強は続けてきたつもりですが、 どうも自己流で19世紀の“重たすぎること”にばかり取り組み、脱構築の方向には 進みませんでした。モスクワではソ連共産全体主義体制をそれこそ脱構築しようとする 私の同世代、もしくは少し若い世代の知識人たちと付き合ったのですが、かれらが 脱構築の武器としたのは、むしろ19世紀的なナショナリズムという「大きな物語」であり、 あるいは18世紀の啓蒙主義的な自由というこれも「大きな物語」でした。これらの知識人 の中で、ナショナリズム、自由、民主主義などというこのような「大きな物語」を本気で 信じていた人はいないと思います。しかし、これらの知識人が、シニカルな姿勢から、 大衆をシンボル操作するために「大きな物語」を利用していたということではありません。 私が付き合ったロシア、ラトビア、リトアニア、アゼルバイジャンの知識人たちは、 人間は「大きな物語」が好きな動物であり、知識人が「大きな物語」作りという作業を 怠ると、その空間を稚拙な「大きな物語」が埋めてしまうという危険性を認識していました。 具体的には排外主義(ショービニズム)が埋めてしまい、それは民族間の果てしない軋轢と 衝突を生み出すので、それだけは回避しなくてはならないという「認識を導く関心」が 働いていました。
佐藤優氏は栗本慎一郎師とモスクワで一緒に飲んだこともあるという。衆議院議員と外交官という よりは、人間の知的責任を自覚する、二人の知識人のあいだで当時交わされたものは何だったの だろう? 国会議員になる直前の時期に刊行された本で、ソ連をフィールドワークした栗本師が、 こんなことを書いている。
■栗本慎一郎『パンツを脱いだロシア人』(光文社 1992) いまのロシアには、まさしく国家が崩壊したあとの国民の姿があらわれている。 私が『パンツをはいたサル』で明らかにしたように、ヒトはもともと生きていくためだけ ならばいらなかったもの(私はそれを「パンツ」と名づけた)をさまざまに作り出してきた。 それが言語であり、経済的システムであり、法律であり、そして国家という大パンツでも あった。この「国家という名の大パンツ」を脱いだ(脱がされた)ロシア(人)は、 これからいったいどこへ行こうとしているのか。これは、ロシアのみならず、そうしたヒト としてのシステムを営々と作り上げてきた人類全体に課せられた問題といってもいいだろう。 われわれはいまこそ、しっかりとこの事実を正面から見据えて、「国家」というものに ついて考えなければならないのである。
知が溶解し、国家は流動し、たとえば核兵器の管理ひとつとっても信用できるとは言い難い 国際社会の争乱の中、フランス革命期の知的風景の構図の中に科学技術と人類の精神を問うた 『フランケンシュタイン』が響いてくる。
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