「静かな大地」を遠く離れて
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2010年12月01日(水) 梨木香歩『ピスタチオ』

「梨木香歩の地政学を深める」などと書いていたのは、2005年のことだ。
あのころ、その5年後に、こんなありさまになっているとは想定しなかった。

■週刊文春 [2010年11月18日号]池澤夏樹・私の読書日記
  /我が妬み、アフリカへの旅、空襲とスズメ

『水辺にて』『ピスタチオ』『ある小さなスズメの記録』の3作のうち、
ここでは以下、小説『ピスタチオ』について。読書日記の文面を拝借すると、
主人公の女性、棚はライターで「鋭敏な五感を持って」おり、「小さなことの
背後に大きな意味を見出す能力 に長けている」のだが、常識人でもあり、
「アフリカにいた知人が亡くなり、その近辺にいた別の二人も続いて急死しても、
その背後に超常的な因果関係をまずは認めまいとする」。しかし「物語の線路は、
幾重にも隠されているが、実は呪医と呪術の方へ伸びており、棚はやがてそれに
乗っている自分に気づく。」

このように作品のアウトラインを示されたあと、池澤氏は「問題は…」と、
読者としての戸惑いを表明されている。

 問題は読者として超越的な、霊的な、ジンナジュという存在だ。
 物 語は初めからこれを前提としている。お話だから何が起こってもいい
 のだけれど、ぼくはちょっと戸惑った。
 同じ著者の『西の魔女が死んだ』では魔法は最後の場面で一度だけ使われた。
 だからとても効果的だった。今度はずっと魔術の中。
 おもしろいんだけど、ずっと線路というのがなあ……というのが読後の印象。

作者が「ずっと魔術の中」を書いているのは、もちろん自覚的なことだろうし、
「ずっと」だからといって問題にならないこともあるのではないか。
この作品に書かれている「超越的な霊的な存在」については、現地で体験した
ことを学術的に報告されている方もいる。

■加藤清=監修『癒しの森 心理療法と宗教』創元社 (1996/10)
 第五章 治療者としてのイニシエーションと宗教的なイニシエーション 井上亮
 [解題]
 著者は心理療法家として、北カメルーンの呪医についてフィールド・ワークし、
 その貴重な成果を報告している。実際には、土着のシャーマニズムの世界に入り込み、
 そこでイニシエートされつつも心理療法家でありつづけて仕事をするのである。
 宗教としてのシャーマニズムと心理療法との間に創造的緊張関係(創造の病)が生じ、
 著者はそこより「リアリティ感覚の現出と夢見のコントロール」を経験する。
 このことは、チベット密教、ならびにマラヤのセノイ族にも見られるとのことである。
 さらに著者は、この核心的な経験を基にして、類比的に、弟子が師匠につき、召命を
 受けたり、巫病に罹りつつ、なお心理療法家は治療家としてイニシエートされる
 必要性のあることも力説している。(加藤記)

フィールドワークのより詳しい報告としての論文が、井上亮氏の単著に掲載されている。

■井上亮『心理療法とシャーマニズム』創元社 (2006/11)

井上氏の報告では、超越的存在の名は「ギンナージ」だが、アフリカの呪術世界の
超越的存在は、日本ではそのまま認知されない存在であるとしても、そのような存在
が世界にはある、と認められているのではないだろうか。それに『ピスタチオ』でも、
アフリカではどうも当然のこととしてあるらしい呪術に対して、主人公自身とまどい
を見せつつ進行しているのだから、問題は、ジンナジュという存在を認められるかどうか
というところにはない。個人的に気になったのは、最後の方に出てくる、この文章だ。

■梨木香歩『ピスタチオ』筑摩書房 (2010/10)
 人の世の現実的な営みなど、誰がどう生きたか、ということを直感的に
 語ろうとするとき、たいして重要なことではない。物語が真実なのだ。
 死者の納得できる物語こそが、きっと。その人の人生に降った雨滴や
 吹いた風を受けとめるだけの、深い襞を持った物語が。

ずっと「現実的な営み」を丁寧に大切にされているように感じていたから、これには
飛躍を感じた。「死者の納得できる物語こそが、きっと。その人の人生に降った雨滴
や吹いた風を受けとめるだけの、深い襞を持った物語が。」というのは納得できると
して、その前の「人の世の現実的な営みなど、誰がどう生きたか、ということを直感的
に語ろうとするとき、たいして重要なことではない。物語が真実なのだ。」というのは、
どういうことなのだろう。

「死者が納得できる」ためには、「真実の物語」を語るためには、「その人の人生に
降った雨滴や吹いた風を受けとめるだけの、深い襞を持った」言葉が必要だ。しかし、
その言葉の出所は、「誰がどう生きたかという人の世の現実的な営み」にはなく、
「物語が真実なのだ」と言う。では、物語とは何なのか。真実とは何なのか。

梨木作品のほとんどに「死者」の存在があることは、これまでの作品の読者であれば
自明のことだが、『ピスタチオ』においては、主人公が、生前ほとんど付き合いの
なかった「死者」に関して語られるセリフに肝がありそうだ。

■梨木香歩『ピスタチオ』筑摩書房 (2010/10)より
 人って不思議なものね。
 生きている間は、ほとんど忘れていたのに、
 死んでから初めて始まる人間関係っていうものがあるのね。

 その人が死んでくれて初めて、その人をトータルな「人間」として、
 全人的にかかわれるようになる気がする。
 生きているときより、死んでから、本当に始まる「何か」がある気がする。
 別の次元の「つきあい」が始まるのね、きっと。

主人公は「死者の眠りのために」物語をつむぎはじめる。しかし、そこには親しさがない。

池澤氏が指摘するように「『西の魔女が死んだ』では、魔法は最後の場面で一度だけ
使われた」。それが「効果的だった」のは、「一度だけ使われた」という回数のせい
ではなく、何に、どのように使われているか、というところが枢要だと思われる。
主人公の女の子だけが見つけることのできる、おばあちゃんからのメッセージ。
それは、まぎれもなくおばあちゃんが残した言葉でありながら、ひとときでも親しく
過ごした、かけがえのない存在の介在を必然として、主人公が自分の力で見つける
ことが出来た徴候だった。そして、もう死んでしまった後ではあるが、それでも
おばあちゃんに別れ際に言えなかった言葉をようやく言えたからこそ、主人公には
おばあちゃんの返事が聴こえたのだ。それは、日常の中の、しかし奇跡としての、
愛しい他者からの声だった。ここには個別性がある。具体的な固有の生の交錯がある。

最近、何か、この構図に呼応するような議論を耳にした気がすると思っていたところ、
なんだか思い出すことができた。柄谷行人氏と佐藤優氏の公開対談の席での対話だ。
そこで佐藤氏は、固有名詞を問題にしていた。柄谷氏が新著『世界史の構造』の企図
を聴衆に解説しながら、個々の学説の術語を超えた「交換様式D」という呼称の効用
を説いた後の佐藤氏の質問だった。「固有名詞を野放しにすることになりませんか?」
柄谷氏は、「高天原」は統制的理念としてなら連帯の理念となり得る、というような
返しをしたが、佐藤氏は、そこで出てくる数学的なものはリアルなものかと問い返す。

ユング心理学、樋口和彦、『うずまき』、河合隼雄の「片子の悲劇」、ヒルコ神話…。
固有名詞の問題とは、死者生者の別なく他者との関係の問題である、という認識を
生きたものにするには、知的基礎体力を支える何か欠くべからざるものが必要なようだ。


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