「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEX|past|will
題:332話 馬を放つ2 画:エニシダ 話:宗形牧場は大変に不運なことになっている
グローバルとローカル。その位相関係。『からくりからくさ』の神崎氏にクルドの地 へと誘われてから、どうも青臭い懐かしさを伴う、苛立ちに似た感覚を押さえ得ない。 あの「圧倒的な非対称」を含む『緑の資本論』を刊行した中沢新一氏に耳を傾けよう。
■中沢新一インタビュー(『すばる』6月号) (引用) あなたは資本主義が好きですかと問われると、僕自身、「好きです」と答えるでし ょうね。それは資本主義を生んだ魔術が魅惑に満ちていて、生命の論理と結合して いるから、どうしても魅惑を生むのです。この魅惑のことを、僕は「エジプト」と 呼んで、戦い続けるのですが、まったく不利な戦いですね。一方で僕は仏教徒です からね。仏教は煩悩の消滅をめざすわけですが、生命の論理にしたがうと必然的に 煩悩に行き着いてしまうでしょう。 (引用おわり)
イスラームには、キリスト教とも仏教とも異なるアプローチで「魅惑」に抗う仕掛け が用意されている、がそれも今や“グローバリズム”に対抗する力を失いつつある、 日本の多神教論理も「そのままでは資本主義に対峙できない。一神教と神話的思考の 両方が必要なんです。」 というのが彼の見解。次作はスピノザを突破口に、人類史 スパンでグローバルに抗する思考を展開するとか。なんだかわからないけどスゴイ♪
グローバルとローカル話。もう少し現実政治的問題として。師匠筋の山口昌男先生が 昔フィールドとした地域に、いまホットな東ティモールがあったという。外務省にも いつか独立したら大使になりたい、などと外交施策を進言していたらしいが、まるで 取り上げられなかった由。インドネシア賠償ビジネスに夢中の体制下、むべなるかな。
■山口昌男「日本と東ティモールの知られざる関係」(『中央公論』6月号) (引用) そのときの私の発表のテーマは「日本と東ティモールの潜在的な関係」でした。 現地の神話を採取したので、日本の「因幡の白兎」の話が、そのまま東ティモール にも存在することを話しました。そのときインドネシアは東ティモールへの侵略を 正当化するために、双方の地域がともにオーストロネシア語圏に属していると主張 していました。だから、私は文化的な類似性を見出したとしても、日本が東ティモ ールを侵略する理由とならないのと同じ意味でインドネシアも侵略する理由はない、 とまず言いたかったのです。 (引用おわり)
十八番「中心と周縁」の真骨頂な話でもある。予断だけど、『からくりからくさ』を 読んでいて、たまたま藤村由加『古事記の暗号』を同時に読んでいたために、両者が ぜんぜん異なるジャンル、肌合いの著作物であるにもかかわらず、複数の女性たちが 浮世離れした話題でもってあーだこーだ謎解きをする、という一点において、重なる 気がしてしょうがなかった。その『古事記の暗号』を手にとったのは「因幡の白兎」 のことが触れられていたからでもある。来週末、また奈良の大神神社へ行くのだが、 あそこの神は大物主命で、大国主命の和霊である。その境内に“なでうさぎ”なる ものが鎮座している謎に関心を寄せていたのだが、まさか東ティモールにも兎の神話 が分布していたとは…。5月20日、今日まさに独立国家・東ティモールが誕生した。
■「沖縄から有事を問う」より池Z御大の発言 (引用) これはたまたま小説家としての自分の資質の問題ですが、沖縄を舞台にした作品が 書けないのです。書けるわけがない、僕は違うのだから。ウチナーンチュの心の動き ってわからないですよ。わかったつもりで書くことはできない。それは目取真俊に 任せる。そういう意味では、僕は沖縄社会全体の中では宙ぶらりんの存在なのです。 (引用おわり)
「中心と周縁」の練習問題として。沖縄に住みながら、沖縄に手を出しかねる、その ある種のストレスが北海道に手をつける“蛮勇”へのスプリング・ボードとなったの だろうか、と邪推してみる。それって一種の「困ったときの北海道」ではあるまいか? そのことをどう受け取るかは『静かな大地』の最終的な出来映え次第と言っておこう。
|