「静かな大地」を遠く離れて
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2002年04月22日(月) |
都市の舟、記憶を運ぶ |
雨の週末。妙に感傷的な気分で横浜の港を散歩していた。僕の身体の中には港町のリズム が刻み込まれている。それも活きている港というよりは、過去の都市となってしまった港 に特有の時間の流れ方、潮の干満と匂いと波の音がヒタヒタと身体の底を浸すような感覚。
以前、芝浦に住んでいたころにしみついたものだろう。その後、北海道で室蘭に住んだり、 小樽に足繁く通ったりしたせいもある。もっと若いころ、瀬戸内海の沿岸諸都市で育って 尾道みたいな近代以前からの港町に親しんでいたのも、原体験になっているかもしれない。
港町は、故郷を持たない者にとっての原風景である。大林宣彦の映画『転校生』の主人公 たちが港町を転々とする家の少年少女だったことを想い出す。寮美千子さんの『星兎』の 舞台がヨコハマであることも強い「根拠」のあることだろう。あのウサギが出現する空間 はミナト以外ではあり得ない。再び大林映画の奇跡の名篇『時をかける少女』と『星兎』 の持つ切なさの感覚の共通性に思いをめぐらせる。岩井俊二の『Love letter』が小樽を 上手に使っていたことも想起する。童謡「赤い靴」の哀切で空恐ろしいような他界感覚。
これらはすべて共通の深い「根拠」を有する事象だと思われる。そして僕の身体=世界の 琴線は何故かこれらに強く反応する。事は「港町ってステキ!」というところに収まらず、 もっとヒトの深い層に触れる問題だ。港、運河、川。水のシンボリズム。それと生と死。 都市という実体は存在しない。都市そのものが舟のごとく、寄る辺なく闇を航行している。 港町のみならず、すべての都市的なるものがそうなのだ。ハーメルンの笛吹男伝説などが 生成してくるのは、そんな空間なのだ。これは怖い。深い。そしてたまらなく魅惑的だ。
こうした関心を理論づけた1983年刊行の名著がある。僕の生涯ベスト本かもしれない。
■栗本慎一郎『都市は、発狂する。 そして、ヒトはどこへ行くのか』(光文社) (著者のことば、引用) ◎なぜ都市では女がきれいに見えるのか。◎なぜ一寸法師は都でもてはやされたのか。 ◎なぜアンノン族は金沢に行きたがるのか。◎なぜ都市では松田聖子を見つめてはい けないのか。◎なぜ寺山修司は上野駅に通ったのか。◎織田信長や徳川家康はどうし て天下を取れたのか。◎日本をあやつる闇の空間はどこか。……◎本書は、思いがけ ない問いを発しながら、いながらにして読者を謎の冒険旅行へと誘う。ひとりの学者 が漂流する。ブダペスト、トランシルヴァニア、プラハ、パリ、ロンドン、博多、金 沢、奈良、そして東京へと。◎そこに隠された謎とは何か。なぜヒトは都市を作った のか。ヒトにとって都市とは何か。なぜ都市が「大自然」で、ムラは「反自然」なの か。ヒャクショーと都市のイナカッペの違いはどこか。◎すべてわかって、旅費はた ったの六百八十円。安いよ、安いよ!◎推理小説よりも面白い! (引用、終わり)
その栗本師も代議士として奮闘の末、脳梗塞に倒れられて久しい。最近騒がしい永田町 の動静に関してもHPの更新がなく心配だ。師もよく訪れたというハンガリー料理店で 先日夕食を摂った。もうかれこれ10年以上、時折通っている店だ。他で食べられない、 という点では日本で唯一無二の店である。ハンガリー風パプリカ入りシチューが絶品だ。 この店の窓辺の席からは自由が丘の駅前が見える。夕暮れ時や雨の日に、ここから見る 風景が好きだ。もともと闇市を縦にしたかのような「自由が丘デパート」という不思議 な建物に入居している店で、つい去年改装するまではずいぶんと味わい深い建物だった。
雨の自由が丘を眺めながら店のBGMのハンガリー舞曲を聴いている内に栗本師のこと を想うと切ない気持ちになった。どうか政界のことなどに煩わされず元気でいて欲しい。
都市には「知る人ぞ知る」者だけがアクセスできる“闇”の空間が開けている。見える 者には見える、しかし見えない者にはついに気付かれることさえない異世界。ヒトには そういう空間が切実に必要なのだ。都市のウサギが一網打尽にされる前に、さらに深い 闇の空間へと走り逃れること。コトバに仕切られた空間の間隙を縫って生き延びること。
栗本師は『都市は、発狂する。』の中で、札幌にも言及している。「空間的可能性」を 感じたとして「すべてがハズレ者という都市の本来の性格にいちばん近いからであろう。 そもそも札幌という都市は、成り立ちからしてそうだ。おたずね者、流刑者、くいつめ 者、敗残者、引揚者等々、ありとあらゆるハグレ者が、勝手に寄り集まって作った都市 なのだ」と最大限の称賛(!)を送っている。僕の札幌贔屓は、すでにこんなところで 予言されていたのか、とあらためて思う。札幌つながりで↓ウェブ彷徨中に見つけた頁。
■「静かな」大地の回復〜環境・社会・文化〜花崎皋平(さっぽろ自由学校「遊」共同代表) 「社会臨床学会」の北海道での集まりに向けて http://sinfo.sgu.ac.jp/~inoue/inoue/kinenkouen.htm
ま、誰しも花崎ファンであることにおいては、池Z御大に完敗せざるをないだろう(笑)
題:303話 チセを焼く3 画:秤量瓶 話:要するに人が死んでも家を焼くなということです、と三郎は言った
題:304話 チセを焼く4 画:ガラス漏斗 話:死んで行った先で、家がないとなにかと不便だろう
題:305話 チセを焼く5 画: 話:ここは、火は自ずから出た、と考えるのが正しい
題:306話 チセを焼く6 画:ビーカー 話:出身はたしか薩摩ということだった
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