「静かな大地」を遠く離れて
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2002年04月02日(火) |
Gの誘惑1999 アテネの宿 |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的な旅日記」の再録です。
1999.3.23夜「アテネの宿」
ウィーンの空港で4時間もトランジット、眠気のピークはそこから機内。せっか くの移動待ちだが、あまり『哲学者の密室』もバリバリ進んだとは言い難い。機 内食も出たものをすべて食べていたら最後のほうにはツラい。 空港でサーターアンダーギーを食ったのが満腹感のもとだったのだろう。出発前、 札幌駅で時々やっている沖縄物産の販売を見かけて、つい黒糖を切っているオジ さんに乗ってしまった。梅干し入りの飴という珍妙なものとサーターアンダーギ ーを購入、賞味期限はまだ先のはずだがバクバク食っている。
眠りこけていて何の感慨もなく曇った空を降下、アテネの空港に着く。ウィーン の空港で少し両替もしていたし、荷物の転送も手続きしてもらっていたので少し 余裕。気がつくと同じ便に日本人の団体さんがいて添乗員のおネエさんもいる。 しょせん短期滞在の観光客がギリシアで行くところなど限られているのだから、 あっちの方が楽で人と喋れて楽しそうかな、とも思う。 別に今ひとりで感傷に耽りたい心境でもないし。 たとえば失恋したとかいうわけでもない。 どっちかというとまだ仕事モードのギアが入っている。 ここの乗りこなし次第では帰国後に社会復帰できなくて酷いシンドい目に遭う、 去年の秋の旅行のように・・・。
ともあれ市内までの足。 ガイドブックによるとアテネのタクシーは悪名高い。 バリのデンパサール空港なんかは、公設らしき専用カウンターがあって、そこで 行き先を告げて料金を支払うと伝票をくれて個々のタクシーの運転手に渡すよう になっていた。あれならそんなにヒドいヤツも出てこない。
しかし見たところ、ここにはそういうシステムはないようだ。だいたいウィーン 便以外にも深夜にアテネに着く便がいくつかあるようだったが一体何のためなの だろうか?乗り継ぎさえスムースなら今ごろはホテルで安眠している。
しょうがないのでタクシー交渉。 もっと値切れた雰囲気だったが高めの金額で決めてしまった。後に続く同胞には 少し謝罪する気分、これでまた日本人のタクシー運賃の相場はわずかながら上が ってしまっただろう。運転手は愛想のない30代の男。はげ上がっているが、歳 はそんなにいってない。隣席に女性を乗せたまま商売している。ここでは普通の ことなのかどうかわからない。黄色い車体でタクシーの看板も掲げたれっきとし た営業車なのだが・・・。街中に入る。二人はずっと早口で喋っている。
空港ではギリシア語がこれまでの経験の中ではロシア語の響きに近い気がしてい た。ハンガリーのマジャール語は感覚としてはもはや覚えていないが、あそこは アジア系の言語だからまた違う。オーストリア航空はドイツ語だからなぜか安心。 第二外国語だし響きに馴染みだけはあるからか。ドライバーとその彼女の会話か ら、ギリシア語は僕の中でロシア語とフランス語の間くらいの座標に定位された。
街の風景には間違いなく南方系の気配が混じっている。 これまでの経験からすると、やはりハンガリーのブダペストあたり、準EU的な 「くすみ具合」をしているのだが、極端に言うならバリ島の街を車で走る感じに 似ているところもある。その気で見るとソテツ系の大きなのが街路樹風に立って いる。四国の宇和島でそんなのを見たことがある。鹿児島や高知にもきっとある だろう。空は薄曇り、噂通りの雨がちな季節のようだ。何となく湿っぽい空気が ひんやりしている。とはいえ、こちとら北海道の吹雪の洗礼を受けてきているか ら、平均気温で東京より暖かい街など「南の島」の範疇である。
トラブルもなくあっさりホテルに着く。 昨夜日本から電話で入れた予約がちゃんと通っているのに少し感激する。フロン トマンの案内で客室へ。北海道の田舎町のビジネスホテルみたいな風合いの部屋。 欧州の宿にありがちな塗装のペンキのわずかな匂いもする。
しかし最初からやたら高い宿に泊まるのも精神に悪い。 確信犯でやった、去年のバリのような感じならそれもいいかもしれないが。快適 でうれしいのだが、妙に落ち着かない。那覇でも国際通りのシーサー・イン那覇 あたりが使いやすくて別の意味で快適なのと同じ。東京なら目白のリッチモンド ホテル。規模が小さくて最低限の設備で、地の利がよくて、単身者の旅にはそう いう快適さの方がありがたいのだ。そう思えばテレビもエアコンもないこの宿の ストイックさも好ましく思える。
…というわけでベッドに入ってこれを書いている。 あんなに眠かったのに、倒れ込むように眠れはしない。 ウィーンからまた1時間時差が戻っていてわけわからん状態。でも普段の生活か らして常に時差ボケみたいなもんだから、大してペースが狂いはしない。 普段から無国籍雑食性だから、日本食を食べなくても平気なのと一緒か?ガイド ブックや紀行本を見ているとギリシアは「野菜食いィ」天国のようなところらし い。那覇に滞在する時と同様、毎日の食事が楽しみだ。
ナップザックの中に昨日買った読売新聞が入っていた。 きょうの新世界 (65) 遠い異国14 画・ラバか何かに乗って帽子を被った人物 キャプション・神様の横顔 内容は、工藤先生の毀誉褒貶について。
来る途中で本を読んで得た知識で、ギリシアの現代史が苛烈なものだと知った。 19世紀の独立戦争もそうだが、ナチスに占領されたことも、その後の内戦のこ とも、1974年の事件のことも、よく知らなかった。御大が来たのが1975 年だったことは、そういう外的要因と無縁ではないだろう。第二次大戦から60 年代末、そのあとの挫折感と苦渋に満ちた時代。僕が物心ついたころの話。
僕が生まれて最初に住んだ工業都市の原風景は、小学校の校庭の朝礼台に立つ赤 い旗。赤が立つと光化学スモッグ注意報で、黄色になると警報。旗が立つと外で は遊べなかった。窓からみる誰もいない校庭と朝礼台の旗。 日本を出る前、有吉佐和子の『複合汚染』を読んでいたからそんな連想になった のだが、あれも74年の連載。『哲学者の密室』の設定も連合赤軍事件もこのこ ろだろう。ヴェトナム北爆も、オイルショックもある季節。現代史はついこの間 までリアルなものだったのだ。日本にも「沖縄復帰」があった。沖縄海洋博へと つながるころ。そのころに日本を出て、アテネに移住する30歳の青年というの は一体どんな心境だったのだろうか?
何となくそんなことを考えながら、明朝のギリシアとの出会いの時を待っている。
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