「静かな大地」を遠く離れて
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2002年02月24日(日) 歳月のリアリティ

題:250話 栄える遠別10
画:帯留め
話:その成果は四年後に現れる

海へ出て育って、産まれた川へ戻ってくる魚、サケの孵化放流事始めの話の続き。
無数の卵から極一部の個体が生き延びて、それが故郷の川を上ってまた卵を産む。
生命の連鎖の、危ういようでいて力強いつながり方を、あたかも神様が“絵解き”
したかのような不思議な生態だ。正に神の魚=カムイチェプの名にふさわしい。

ヒトとて同じ摂理の下に生命をつないでいる生き物である。星野道夫が繰り返し、
角度を変えながら自らの身体で確かめ、つむぎ出した「物語」は、それだった。

歳月の経過は、絵空事ではない。不可逆な時間は、そこに在る。数年間の歳月は、
人を取り巻く環境を変える。死にゆく人もあれば見違えるほどに育つ子供もいる。
今日は、個人の人生のスケールと時間の経過というものについて考えさせられる
お芝居を観てきた。

■南果歩 一人芝居「幻の光」(シアタートラム)

原作は、よく知られた宮本輝氏の短編だ。是枝裕和氏の手で映画にもなっている。
この芝居は、その短編を“原作”にして一人芝居の戯曲にした、というものでは
なく、語りのスタイルで書かれている短編小説そのものを、南果歩さんが頭から
おしまいまでまるごと記憶し、演じるというもの。96年が初演で、今回は再演。

6年ぶり、パンフレットの彼女自身の言葉に拠れば、「5年3ヶ月ぶり」という
スパンは役者さんにとって、そして観客にとって、あるいは日本にとって、一体
どんな歳月だったのだろうか。そんな想いを抱かずにいられない時間の長さだ。

初演から「5年3ヶ月ぶり」に観る「幻の光」は南果歩さんの演技の熟成の結果
なのか、観客である僕の側の歳月の経過による人生経験のせいなのか、深く濃密
な質量を伴って味わうことが出来た。本物の役者さんの語りの威力はすごいもの
で、とりわけ南果歩さんは、尼崎弁のイントネーションと、その声が素晴らしい。
演技も流石に巧くて、映像でも舞台でも、演出家に信頼される役者さんだろう。
僕を舞台演劇に近づけた女優さんだと言って間違いないくらいに、彼女が好きだ。

「幻の光」は、宮本輝という作家の“存在意義”を煮詰めたような名篇だと思う。
尼崎と能登半島というトポスの軸も巧いし魅力的だ。宮本輝氏の小説は、沢山の
固定ファンを持っている。ある切実さを持って、彼の作品を読まずにいられない
心持ちの時が、僕にも時々訪れる。言ってみれば「魂の常備薬」のような作家だ。
知的に楽しむとか感覚的に愉しむとかいうよりも、深い部分に“効く”小説。

言ってみれば「泥の川」の頃に仕込んだ自慢の“出汁”を薄めながら種を変えて
グツグツ煮込んで、いつもの味を食わせてくれる、おでんやさんみたいな存在。
池澤御大も『真昼のプリニウス』や『タマリンドの木』の“変奏曲”を、ネタを
変えながら10年くらいコンスタントに出し続ければ、20代〜30代の女性の
“魂の常備薬”作家になれたかもしれない。それを望んだファンも多いだろう。
そのへんの機微は、今度『Switch』から出るインタビュー集で復習できるはず。

歳月は必ずしも敵ではない、そして味方とも限らない。でも間違いなくリアルだ。


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