「静かな大地」を遠く離れて
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題:250話 栄える遠別10 画:帯留め 話:その成果は四年後に現れる
海へ出て育って、産まれた川へ戻ってくる魚、サケの孵化放流事始めの話の続き。 無数の卵から極一部の個体が生き延びて、それが故郷の川を上ってまた卵を産む。 生命の連鎖の、危ういようでいて力強いつながり方を、あたかも神様が“絵解き” したかのような不思議な生態だ。正に神の魚=カムイチェプの名にふさわしい。
ヒトとて同じ摂理の下に生命をつないでいる生き物である。星野道夫が繰り返し、 角度を変えながら自らの身体で確かめ、つむぎ出した「物語」は、それだった。
歳月の経過は、絵空事ではない。不可逆な時間は、そこに在る。数年間の歳月は、 人を取り巻く環境を変える。死にゆく人もあれば見違えるほどに育つ子供もいる。 今日は、個人の人生のスケールと時間の経過というものについて考えさせられる お芝居を観てきた。
■南果歩 一人芝居「幻の光」(シアタートラム)
原作は、よく知られた宮本輝氏の短編だ。是枝裕和氏の手で映画にもなっている。 この芝居は、その短編を“原作”にして一人芝居の戯曲にした、というものでは なく、語りのスタイルで書かれている短編小説そのものを、南果歩さんが頭から おしまいまでまるごと記憶し、演じるというもの。96年が初演で、今回は再演。
6年ぶり、パンフレットの彼女自身の言葉に拠れば、「5年3ヶ月ぶり」という スパンは役者さんにとって、そして観客にとって、あるいは日本にとって、一体 どんな歳月だったのだろうか。そんな想いを抱かずにいられない時間の長さだ。
初演から「5年3ヶ月ぶり」に観る「幻の光」は南果歩さんの演技の熟成の結果 なのか、観客である僕の側の歳月の経過による人生経験のせいなのか、深く濃密 な質量を伴って味わうことが出来た。本物の役者さんの語りの威力はすごいもの で、とりわけ南果歩さんは、尼崎弁のイントネーションと、その声が素晴らしい。 演技も流石に巧くて、映像でも舞台でも、演出家に信頼される役者さんだろう。 僕を舞台演劇に近づけた女優さんだと言って間違いないくらいに、彼女が好きだ。
「幻の光」は、宮本輝という作家の“存在意義”を煮詰めたような名篇だと思う。 尼崎と能登半島というトポスの軸も巧いし魅力的だ。宮本輝氏の小説は、沢山の 固定ファンを持っている。ある切実さを持って、彼の作品を読まずにいられない 心持ちの時が、僕にも時々訪れる。言ってみれば「魂の常備薬」のような作家だ。 知的に楽しむとか感覚的に愉しむとかいうよりも、深い部分に“効く”小説。
言ってみれば「泥の川」の頃に仕込んだ自慢の“出汁”を薄めながら種を変えて グツグツ煮込んで、いつもの味を食わせてくれる、おでんやさんみたいな存在。 池澤御大も『真昼のプリニウス』や『タマリンドの木』の“変奏曲”を、ネタを 変えながら10年くらいコンスタントに出し続ければ、20代〜30代の女性の “魂の常備薬”作家になれたかもしれない。それを望んだファンも多いだろう。 そのへんの機微は、今度『Switch』から出るインタビュー集で復習できるはず。
歳月は必ずしも敵ではない、そして味方とも限らない。でも間違いなくリアルだ。
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