「静かな大地」を遠く離れて
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函館から来た娘、弥生さんの「遠別コミューン」への参入過程が続く。 三郎の創ろうとしている共生ユートピア、なかなかに魅力的に描かれているのだが、 弥生さんが三味線を捨てて農業グラスルーツ共同体に参入する、というのはちょっと いかがなものか、という感じもする。三味線やムックリや馬頭琴のCDを扱っている 北海道のBooxbox@田原ひろあきプロデューサーのことを思い出したりすると(笑)
サトウキビ畑で三線をつま弾いていた古波蔵恵文のようなことにはならないのね(^^; そういえば国仲涼子さん、平良とみさん「エランドール賞」オメデトウございます♪
題:234話 函館から来た娘24 画:毛糸 話:なかなか剛毅な気性だな、と三郎さんも笑って言った
題:235話 函館から来た娘25 画:編み物 話:きついけれど気力でなんとかなりそうなことはありませんか
題:236話 函館から来た娘26 画:粘土細工 話:夕御飯の後はだいたいいつも寄り合いになった
題:237話 函館から来た娘27 画:手鞠 話:なんて言うかね、地面の方が正直なのさ
題:238話 函館から来た娘28 画:風車 話:力ずくではなく、ゆっくりと強く
題:239話 函館から来た娘29 画:ヨーヨー 話:本当にこれからもここにずっといようと思っているのかね
題:240話 函館から来た娘30 画:飾り 話:あの人はものを教えるのが好きなんだよ
ディベート的にイジワルな見方をすれば、寄り合いで話し合いが行われているという 申し訳のような民主性も含めて、このコミューンが篠田節子『弥勒』(講談社文庫) のゲルツェンの革命とどう違うのか、という視点を持ちながら読んでみたりもする。
もちろんあっさり「全然違う」と論拠を並べることもできなくはないだろう。 でも意外と微妙な問題なのだ。今のところ気分としてしか描かれていないのだし。
御大お気に入りの「自己定義権」@「新世界へようこそ 070無力な立場」にせよ、 http://www.impala.jp/century/index.html そのへんの微妙さに真摯に悩んできたからこその、上野千鶴子さんへの快哉だろう。 「健全さ」への無防備な肯定を論旨としているようでいながら、長い回り道の果てに “敢えて”選び取っている“ストレート”な物言いは一種の一代芸に近いものがある。 だからJMMなどで村上龍さんの言うことのほうが、わかりやすかったりすることは 多いのだ。そして元気が出る。御大のは甘いようで苦い。うむ。
否定と肯定、同調と異論、いつも単純にそれが出来るなら生きることは随分楽だろう。 でもそれとは対極にあるような姿勢を貫き、透徹した眼で世界を見透すような怖い人 がいる。僕が秘かに心の中で「深い耳」と尊称する作家・古井由吉先生である。 微笑みながら狂気を秘め持ったような、たたずまいに惹かれているのかもしれない。
古井さんの作品の魅力は、聴覚を中心とした身体感覚と精神との接触面の筆致だろう。 そして古井先生ご本人の魅力は、時に世界の底から響いてくるような、そのお声だ。
■古井由吉×齋藤孝「声と身体に日本語が宿る」(『文学界』)
“空前の朗読ブーム到来”というのは、みうらじゅん氏的ギャグとして僕が以前から 言い続けてきたのだが、いまや『声に出して読みたい日本語』のベストセラー化で あながちウソでもなくなってしまった。斎藤氏が著書で主張しているようなことを、 ここでも書いていたりすることもあるのだが、どうも微妙な違和感も持っている。
この古井さんとの対談は両者のブレンド具合が程良くて、なるほど「日本語の埋蔵量」 という特集タイトルにふさわしい、興味深い内容になっているが。
■斎藤孝『子どもに伝えたい<三つの力> 生きる力を伝える』(NHKブックス) (表紙見返しより) [あこがれにあこがれる関係を創る] 引きこもる小学生。算数のできない大学生。他人と会話できず、 すぐにキレてしまう若者。 彼らの「冷えた身体」を暖め、 「生きる力」を鍛えるために必要な<三つの力>を、 教育学の俊英が、授業実践に基づき提言する。 高い関心を集める「斎藤メソッド」の試みを紹介しながら、 子供たちのアイデンティティをどう育てるのか、 レスポンスできる「動ける身体」をどう作るのかを考える。 自身を失った日本と日本人に活を入れる、注目の書。 (帯より引用) この本を通して強調してきたことは、生きる力の基本は何であるのかをはっ きさせ、それを反復練習によって鍛えるということである。基本を見失えば 浮き足立ってしまう。困難な状況に陥ったときこそ、帰るべき基本を持って いることが強みとなる。しかも。何が基本であるかということについて、 共通の認識を持ちあうことによって、この力は格段に伸びてくる。 コンセプトを共有し、地に足をつけて、こうした力を伸ばしていくことこそ が、未来を作る王道である。 (引用、終わり)
なんだろう?ビジネスマンのためのハウ・トゥ本や武道オタクのための教則本とか、 『わかさ』や『壮快』を熟読する健康オタクのノリで、この人の本を読むのならば 自分的に問題ないような気がする。この人の情熱の寄ってきたるところ、世の中を よくしよう、という意識への警戒感だろうか。口舌の徒ではない。実践の人だ。 主張は的を射て、実績も積んでおられるようだ。でも何か引っかかるものがある。 同じような感覚を僕に抱かせる人に、平田オリザさんがいる。
■平田オリザ『芸術立国論』(集英社新書) (表紙見返しより) 日本再生のカギは芸術文化立国をめざすところにある! 著者は人気劇作家・演出家として日本各地をまわり、また 芸術文化行政について活発に発言する論客として知られる。 精神の健康、経済再生、教育などの面から、日本人に今、 いかに芸術が必要か、文化予算はどう使われるべきかを、 体験とデータをもとに緻密に論証する。真に実効性のある 芸術文化政策を提言する画期的なヴィジョンの書。 これは芸術の観点から考えた構造改革だ! (引用終わり)
斎藤さんや平田さんの主張には妥当と思われることが多いし、社会政策的にも結構な ことだ。教育問題に直接の関心がなくても、公教育や公的機関が担う演劇メソッドの 「効能」によって、5年後の日本社会に、精神的に追いつめられたキ××イが何%か 減って、自分や自分の愛する人々が物理的精神的被害に遭う確率が減少するならば、 増して自分が加害者になることを免れる道が少しでも拓けるのなら、税金も大いに 使ってもらおう、というもの。これが悪いジョークに聞こえないのが、今の日本だ。
朗読といい演劇メソッドのワークショップといい、両者とほとんど同じ関心領域と 主張を持つ、演劇集団キャラメルボックスの成井豊さんには強い共感を覚える。 ■『成井豊のワークショップ 感情解放のレッスン』(演劇ぶっく社)
なんだろう?成井さんといい、プロデューサーの加藤昌史さんといい“いいこと” を思いついたら、自分たちの出来る限界の範囲ギリギリで、「公共政策」を云々する 以前に、アップル社のMacintoshのようにまずそれをカタチにしてしまう、そうして たくさんの人の心を動かしてつかんでしまう。初期動機は「死ぬほど好きだから!」。
お芝居も朗読も僕にとっては「ひめごと」のようなもので、時に切実ではあるけれど 義務ではなく、増して「心身を健やかにするために」というものではない。
斎藤孝さんも平田オリザさんも、もちろん「好きだから」やってらっしゃるんでしょう けど、なんだか古井さんの静けさ、あるいは成井さんの良質なミーハーさ、その両極 のほうが僕には偏愛できるのかも。http://www.caramelbox.com/ キャラメルボックスの春の新作、もうすぐ公演なので、ぜひ観に行ってみて下さい(^^)
ちょいと更新の間が開いたので、気になった文章を列挙↓。明日以降触れるかも。
■川村湊「トンちゃん、南の島をゆくー中島敦・父から子への南洋だより」(『すばる』)
■碓氷早矢手『Cowboys on Mars --フロンティア・ナラティヴと火星文学史』 http://www.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/ ■巽孝之『リンカーンの世紀--アメリカ大統領たちの文学思想史』(青土社)
■長嶋有「猛スピードで母は」(『文藝春秋』掲載) ■長嶋有×川上弘美「小説の道草、日常の輝き」(『文学界』)
■御大の「私の読書日記 神話と短編小説、詩人と昆虫学者」(『週刊文春』) #中沢新一氏のカイエ・ソバージュを取り上げてます(^^)
>酔眼犬さん さっさと高山宏『ふたつの世紀末』(青土社)以下、読みまくるべし(笑)
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