「静かな大地」を遠く離れて
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アイヌプリでも婚礼やるなんて、ほんとに「ちゅらさん」モード(^^;
題:202話 戸長の婚礼22 画:ブローチ 話:遠別ならば和人が少ないから、アイヌプリの婚礼も心おきなくできる
題:203話 戸長の婚礼23 画:頭痛薬 話:他人の娘を借りて妻とするということです
題:204話 戸長の婚礼24 画:万年筆 話:嫁孝行は親不孝
題:205話 戸長の婚礼25 画:徽章 話:三郎が最期に着たのもこれであった
題:206話 戸長の婚礼26 画:くけだい? 話:牧場を元気に走り回る若い馬の姿が見えた
題:207話 戸長の婚礼27 画:かゆみ止め 話:長い祈りはようやく終わり、神妙に聞いていた人々の顔がゆるんだ
最近とみにアイヌの民俗誌的なシーンが登場するけれど「100冊」をみても わかってもらえるように、僕はアイヌ関係の本を基本的には排除している。 本田優子『二つの風の谷 アイヌコタンでの日々』(ちくまプリマーブックス) を最初に読んでから、それでも覚悟のある人はアイヌ関係のお勉強をなされば よろしかろうかと思う。民俗誌的な本を読んでないわけではないが、それを 材料にして「静かな大地」を愉しもうというのは、ここの「編集方針」に非ず。 …まぁ、そんな大前提に立ちつつ、難しい「宿題」に道をつけるための構想は、 いつも現前として探りつづけなければならない。(実際にはできないけど(^^;)
そう思うとき、松浦武四郎の存在は、たしかに希有である。 彼の眼を通してみる、異貌の江戸末期から明治。 そこには三郎が迷い込んだ隘路の地図が在りそうだ。
■「蝦夷地を歩いた松浦武四郎」(『文藝春秋』誌に寄稿) 『文藝春秋』誌の「特集・鮮やかな日本人」、沢山の著述家がそれぞれ一人の 日本人を選んで短いエッセイを書いている。この特集に寄せた御大のチョイスは 松浦武四郎。これがエッセイというよりは、人物事典の項目のような涸れた記述 でシブイ。っていうか最小限の伝記と、最近出た本↓に寄せた解説の引用だけ(^^;
■松浦武四郎『アイヌ人物誌』(平凡社ライブラリー) (裏表紙より引用) その雅号、北海道人から北海道と名付けたといわれる松浦武四郎。 数十巻にのぼる旅日記とともにまとめられた原書『近世蝦夷人物誌』には ヒューマニストとしての松浦の本質が刻み込まれている。 日本人による収奪と不徳に厳しい批判を向け、アイヌへの敬愛の眼差しを もって綴られた名著。
(御大の「解説−蜘蛛の糸一本の面目」より引用) あの時期の日本にこういう人がたった一人でもいてくれて本当によかったと思う。 アイヌを相手に強欲と没義道を繰り返してきた近世日本の面目は、この人物ひとり のおかげでかろうじて、ほとんど蜘蛛の糸一本で保たれたということができる。 松浦のことを考えながら、スペイン人が新世界に赴いて行った悪行の数々を 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)を記したラス・カサス に思いが行くのは無理からぬことだ。
■「大著を前にして」(『読書癖2』所収) (引用) ぼくは松前藩が好きではない。正確に言うならば、彼らによる植民地経営としての 蝦夷地官吏と収奪は、他民族支配をめざすという日本近代史の失策の原型だったと 思っている。波響は言ってみればその首魁ではないか。彼と松浦武四郎が僕の頭の 中で議論を(アイヌ語で言えばチャランケを)はじめたら、これはおもしろいこと になる。近代というのは実に複雑な時代である。
中村真一郎『蠣崎波響の生涯』(新潮社)の書評として書かれた文章からの↑引用。 僕にしてはめずらしく、ずいぶん古い文章を引っ張り出してきたものだ。 僕は御大に関して、むしろ書誌的な態度で臨むのは本意ではない。 イケザワナツキ研究をするというのは、あまりイケザワ的ではない姿勢だろう。 過去の書評が検索できる公式サイトが出来たそうなので、そういうのはそちらに お任せして(笑)、松浦武四郎をいかなる文脈において理解するかを考えるなら、 こういう↓展開もある。
■山口昌男『「知」の自由人たち』(NHKライブラリー) 山口組のお家芸、人的ネットワークの中で浮かび上がってくる異貌の歴史叙述は、 松浦武四郎をもまったく異なった景色の中に置いてしまう力がある。 御大の「蜘蛛の糸一本の面目」のリリカルでセンチメンタルでモラリスティックな 美しさと弱さを爆砕して、骨太な世界理解に踏み出す蛮勇と愉楽を知ろう(笑)
佐々木譲『武揚伝』(中央公論新社)や鈴木明『追跡』(新潮社)を楽しんだ方 なら、この本に登場する人々の織りなす「もうひとつの日本近代」を幻視する力 があるはず。それは、とりもなおさず「もうひとつの現在」を構想する力だろう。
うーむ、宮澤賢治と石原莞爾が同時に登場するような昭和史の叙述も読みたい。
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