「静かな大地」を遠く離れて
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2001年11月15日(木) |
エレガントな絶望の彼方 |
題:152話 フチの昔話2 画:タラノキ 話:その冬、エカリアンさんは七歳でした
タラノミの天ぷら食べたいなぁ…、季節が真逆だけど。札幌も行きたい。
モロタンネさんの昔話がはじまる前にマイク・レズニック『キリンヤガ』(ハヤカワ文庫SF) の復習でもしておかれると、面白いかもしれません。あるいは『弥勒』と『キリンヤガ』を 並べて呻ってみる…とか。ご存じない方もここを読んでらっしゃると思いますので解説しますと かつてHP池澤御嶽で「BBSすばらしい新世界広場」というのを主催運営していたのですが、 そこでも今と同じように、やたらと副読本が「発生」して何人もの方が「参加」していました。 有吉佐和子『複合汚染』(新潮文庫)、『キリンヤガ』、池内了『わが家の新築奮闘記』(晶文社) あたりが人気あったかな。 #あ、「BBS運営復活しないんですか?」的お問い合わせを頂戴することがありますけど、 やる気があったらここでコソコソ(?)こんな閉塞的な文章書いてません。すみません。 端的に言えば板を回すことの「費用対効果」の問題です。
『キリンヤガ』は“アフリカ系文明論的ユートピア/ディストピアSF”とでもいうべき物語。 とてもよくできている「議論誘発装置」なので、これから読まれる方はお気をつけを(^^; 先日ちらっと触れたけど、主人公がすぐに動物の寓話を引き合いに出して人々を教唆する、 そうしてある惑星に「人工的」に「ユートピア」を「回復」しようとするのだが…ってな話。 御大の『母なる自然のおっぱい』の「狩猟民の心」や『旅をした人』を読んでいればわかるが “神話の体系で情報を処理する共同体”というものは、かつて汎く在ったし、現在も在りうる。 そしていわゆる「近代」の世界でも「神話的想像力」というものは「機能」しつづけている。 きっとポジティブな方向にもネガティブな方向にも。身体と精神を持つ人々の集団が在れば、 「神話的想像力」は「発動」しているのだ。ただし、ひどく御しがたいカタチで、野放図に。
これからはじまるフチの昔話、それと日々配信される「新世紀へようこそ」、 両者をつないで今の世界を考える格好の文章が、マエストロ中沢新一氏に書かれてしまった。 何が“しまった”かと言えば、僕がここで半分眠りながらも グダグダと考え続けていることの 核心を突いたエレガントな解が書かれた「解答編」みたいな文章だったからだ。まいった。 問題集の最初のほうを行きつ戻りつしながら解いていたら、いきなり解答編を見せられた感じ。 ここを読んで下さっている方は、図書館に走るなり買うなりして、是非お読みいただきたい(^^) 『弥勒』リハビリプレイにも極めて有効だと思われます。 以下、ポイントだけ書いていかないと、また途中で眠くなりそうなので、そうします(笑) たまたまいろいろ目を通した文章があるので、その引用とコメントを連ねつつ。
■中沢新一「圧倒的な非対称 −テロと狂牛病について」(『すばる』誌掲載) 二十一世紀のはじめに世界規模で現実のものとなった、この圧倒的な非対称が生み出す絶望 とそれからの脱却について、時代にはるかに先駆けて思考していた作家がここにいる。 宮澤賢治である。宮澤賢治は人間の世界につくられてきたこのような非対称関係には、 さらに根源的な原型があると考えていた。それは近代における人間と野生動物の関係である。 …以上、引用。「富んだ世界」と「貧困な世界」の構図を、ヒトVS自然にまで拡大するとき 見えてくる、異貌なる“テロ”の様相。そこから展開する狂牛病の問題、そして宗教の意味。 キリスト教が誕生したローマ末期以上の世界の荒廃に対して「対称性社会の住人たち」の知恵 を対置してみること。そしてそれを現代に鍛え上げていくこと。…焦点はこんなにもクリアだ。 イエス・キリストにも、テロリストにも「突破」できない難問を人類一人一人が背負っている。 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」のか、否か。さぁ、答は?
■日野啓三「ふたつの千年紀の狭間で」12『公園にて』(『すばる』誌掲載) 意味や理解はあいまいでも、何か温かいものがふたりの間に流れ伝わったことにふたりとも 満足したことを感じ合ったとき、私は穏やかに深く感動し、「天国はこのような者の国である」 という福音書の中の言葉を、しっかりと過不足なく理解したと信じた。 …以上、引用。日野さんの川の流れのような、それも当然日本ではなく大陸の河のような人生の 旅路の終局が、ほとんど異種接近遭遇の如き、公園の幼児たちとの交感の光景として描かれると いうことに、深い感慨を覚える。いつも東京タワーを見ると闘病中の日野さんを思い出したり、 かつて僕が住んでいた芝浦のビルの屋上へ行って周囲を見回しても「日野啓三の視点」を感じる。 なにかそうして彼が「個」として在ることが、世界に「転写」され、永続していくような感覚。 朝鮮、ヴェトナムの記憶ゆえ、アフガニスタンを過剰に「体感」してしまう日野さんの「救い」が 散歩空間に重ねられた「天国」であること。僕も諦念を突き抜けた歓びを得るまで歩いていこうか。
■山口昌男×福田和也「特別対談 世界戦争下の石原莞爾」(『文学界』誌掲載) 満州国を作り、「世界最終戦争論」を唱えた石原莞爾とは何者だったのか?彼の足跡を通して、 ファシズムと戦争と文学の関係、近代日本における田中智学の絶大な影響力が浮かび上がる。 莞爾に魅せられたふたりが、未来派感覚に満ちた彼の底知れぬ想像力を語った。 …以上、引用。以下、小見出し「石原莞爾が持つ未来派感覚」「田中智学は日本のマリネッティだ」 「想像力の戦いの行方」「ファシズムと文学」「エズラ・パウンドの水脈」「日本を越える発想」 「ファシズムと社会学と戦争」「二十世紀を照らし出す石原莞爾の人脈」。 福田氏の『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』(文藝春秋)も「いつ読めるんだろう?」本の一冊(^^; 「近代」「テクノロジー」「社会と国家」…そうした“20世紀(それも前半)の宿題”を、 だましだまし封印して引き延ばしてきた結果が、現在の世界の荒廃だろう。 「申し送り」されてこなかった「過去」を執拗かつエレガントに取り戻さなければ「未来」もない。
■「単一民族発言 狭い国家観から脱却を」(『朝日新聞』9月18日掲載) 今のようにソフトウェアと情報が産業の主体となる時代に、単一民族・単一文化の国は売るものが ない。人気テレビドラマ「ちゅらさん」がいい例だが、この国の元気は単一民族を超えた多様性の 中から生まれるはずである。 …以上、引用。ちゃんと朝日新聞を読んでないのがバレるが、今日やっと読みました。 御大の文の主題は、アイヌの人々を怒らせた日本の政治家の知性と品性の欠如についてなのですが、 まだ「ちゅらさん」がオンエアー中だった9月にこんなことを書かれていたのですね、という引用(^^; そう、一時の観光ブームではない、「ちゅらさん」はボディ・ブローのように効いてくるはずよぉ♪ 年末の総集編も楽しみサァ(<久しぶり、おばぁナレーション風 笑)
■(琉)氏による『武揚伝』書評。(『毎日新聞』9月16日掲載) 歴史小説は年表に逆らえない。榎本を勝者にはできない。だからこそ、読者はありえたかもしれない 別の明治国家を夢想できるのだ。 …以上、引用。この部分の前はストーリーの要約で「体言止め」も「まずもって」も登場しないけど、 ここの畳みかけのリズムこそ、まごうことなき書き手のトレード・マークでありますな(^^) うーん、それでもなお『週刊文春』で、もういちど取り上げてほしいなりぃ♪
■「インタビュー辻仁成 向う見ずでなければ小説は書けない」(『文学界』誌掲載) そこで何か意見を言わなきゃいけないとか、書かなきゃいけないというんじゃないんです。 それは専門家の仕事であり、発言するなら、個人の気持ちを率直に媒体へ出ていって話す道を 選ぶでしょう。むしろ、僕の場合、作品にすべきことは事件からもっとも遠い世界で起きている 共時性であるようです。 …以上、引用。売れているようだ。多作である。現代風のいい男である。映画も音楽もやっている。 でもどうも世間で軽く見られているような印象があるのは何故だろう?(^^; こういう欲深い人は冷笑家タイプの人に嫌われるのだろう。あと村上龍氏のような商売カブる人にも。 きっと近しい友人になれば魅力的な人なのだ、…と“南果歩さんが惚れた男”を分析してみる(笑) 『ニュートンの林檎』ファンとしては『太陽待ち』に期待大。村上春樹兄さんが『ねじまき鳥〜』で 挑戦して理解されなかった、あるいは掠ってしまった領域を突き抜けてくれたりしてないものか、と。
…とまぁ、なんだかんだ書いてきましたが、嶽本野ばら作品の反動だと思っていただければ…(笑) ちなみに今日書店で一番迷ったのは、山口あゆみ嬢@中町祥子ちゃんのセクシー写真集(<(^^;)を 買ってもいいものかどうか…だったりする。所詮その程度のことしか悩んでない日常を以て賀すべし(^^) #この文章量にあきれたアナタ、どこか反応するポイントがあった方、メールお待ちしています♪
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