「静かな大地」を遠く離れて
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題:139話 鹿の道 人の道19 画:収入印紙 話:狼は知恵者でしたし、その分だけ尊敬されておりました
<あらすじ>昭和11年、子育てが一段落し た由良は、淡路島から入植した伯父三郎や父 親志郎について、志郎から聞いた話の覚えや 静内の人々の聞き書きなどを読み直した。夫 の長吉から三郎伝をまとめるようにと促され、 信頼するシトナの協力を得て三郎が牧場を 開こうとする時期から由良は手をつけた。
他の種を短期間のうちにターミネイトする意志と能力を持つ生物集団、ヒト。 しかも、同一種であるヒト同士の間で他者を殺戮する意志と能力まである。 栗本慎一郎師『パンツをはいたサル』(カッパサイエンス)の主題である。
“邪悪で獰猛なハンター”のイメージがある狼とて、イヌ科の動物だから、 同族同士で諍いを起こしたとしても、ひとたび服従の姿勢をとれば勝者は敗者 の命を取ることはない。できない。そういう風にプログラムされている。 ヒトの場合は、さにあらず。 ただし私見だが、この状況を「本能が壊れている」とだけ形容することには 抵抗したほうがいい。まず第一に、本能に帰ることは不可能だから。 そしてヒトもまた別種の、もしかしたら可塑的で動態的で強力な「プログラム」 の支配下にいるのではないか、と考えられるからだ。 それに無自覚になるのは思考停止というものだろう。
超遅読な上になかなか読書時間が捻出できないのだが、さして読書が好きという わけでもないので、一生本を読まなければ読まないでもいいのだけれど、時々 切実に読みたい本が出てくる。難儀なことである。 篠田節子『弥勒』(講談社文庫)は、そういう本の一冊。 このタイミングで文庫に落ちてしまったことも大きい。 どうしても細切れの時間に読むので、勢い文庫の形だと扱いやすいのだ。 これは絶対僕が読むべき本だ、と思いつつハードカバーの間は逃げていた。
弥勒。マイトレーヤ。上祐史裕のホーリー・ネームではない(^^; 僕が大好きな物語作家、山田正紀の旧作『弥勒戦争』なんかも思い出す。 大量殺戮。正義。そして神。 関係ないけど山田正紀さんの『顔のない神々』は今こそ復刻すべきだ。 なにせ表題は、タリバンに爆破されたバーミヤンの石仏を指している。 しかもオウムみたいな宗教教団が登場する1970年代の幻代史ものだ。 熱い傑作だと思うのだが、再版ブームからも漏れている。 話はズレつつ妙にリンクしているのだが、篠田節子の『弥勒』に戻す。 明るい気分で読む物語ではない。 重い。つらい。でも抜群に面白い。 ひとことで言えば、「架空のヒマラヤの小国が舞台のディストピアもの」。 いつか御大も書評で言っていたように、カンボジアのポルポト政権を視野に 入れているのだろう。20世紀の背理。ある意味ホロコーストより怖い。
文明、文化、アジア、近代、理想、幸福、罪、悪。 多くは語るまい。これは必読だ。ただし読むタイミングは慎重に(^^; 『すばらしい新世界』や 『花を運ぶ妹』 の作者が、ポルポトや現代史、 そして現在進行形の時事に、これほど(>「新世紀へようこそ」)強い関心を 持っていること。それを意識せずに、あるいは知らずに上の両作品を読んで、 しかも初期の作風に比して精彩を欠くなぁ、と思いながら読み終えた読者…、 そんなあなたには『弥勒』を読むという“ワーク”をススメます。
これだけダークな世界の深淵を垣間見た上でなら、両作品が渡っている“綱” の危うさ、書いた御大の切実さが見えるはず。 現像をやりなおしたら印画紙にクッキリと像が浮かび上がるとでもいう感じで 御大が二つの作品でやろうとしたことが、陰影濃く見えてくるかもしれません。 我ながら微妙な言い方だけど、どっちが優れている、とかという話ではなく(^^;
本業が忙しくても、あるいは一息つけたカフェで読むには内容が重くても 『弥勒』が読みたくなった精神状態と、オウム関連のノンフィクションに 手を伸ばした切実さ、そしてテロ/戦争との間には強い切実な繋がりがある。
だから『「新世紀へようこそ」038 軍の限界』の中に次の記述を見つけた 時、苦笑を禁じ得なかった。
http://miiref00.asahi.com/national/ny/ikezawa/011031.html > 誤爆の問題も無視できません。 > > 加害者と被害者は例によって数字の応酬に明け暮れて > いますが、数がどうであれ誤爆は起こっています。 > > 今のやりかたは、オウム真理教の首魁を殺すために上 > 九一色村全体を爆撃しているようなものです。 > > ある程度の民間人の犠牲はしかたがない、と言ってし > まったら、アメリカはテロリストと同じ地平に立つこと > になる。アメリカ人の命とアフガニスタン人の命に差を > つけることになり、正義は失われる。
真ん中の二行だけ引用するのは、あまりに意図的な文脈外しになるので遠慮 したけれど、僕も(別の意味で)その例えはここに書きかけてやめたのだ。 偽爆笑問題の不謹慎トーク風コラムのネタにも考えたかもしれない。 僕の場合は「オウムがテロを起こしたから山梨県を空爆するようなもの」という フレーズだったと思うけれど。 脳内ひとりチャランケとして、さて現在アフガニスタンで起こっている事態と 「オウムを攻めるために山梨県を空爆する」のとでは、実際何がどう違うのか、 と考えていた。しかも時事に疎い子供に質問されたという想定で。 これは意外と結構難しい。もちろん全然違うんだけど。 教師や親をやってる方は悩んでみて下さい(笑)
以前コソヴォの問題でネイトーがベオグラードを空爆したときも似たようなことを 考えていた。実際誰かに説明したような記憶もある。北海道に住んでいた頃だ。 「あれはね、東京都民が埼玉県民を苛めているのはケシからん!と言って北海道が 空爆されるようなもんだ・・・というような面もあるかも」みたいな説明。 「えーー、そんなのヤダ」とかいう反応をされたんじゃなかったかな。
さらに話は跳ぶのだが、御大の往年の名作「帰ってきた男」はモロにアフガンの話 だったりする。あの「オニロスの遺跡」は“カラコルムの西、アフガニスタンと ソ連とパキスタンの国境線が集まるあたりの山中”に存在することになっている。 なんとなく山田正紀さんの世界とも篠田節子さんの世界とも呼応しているみたい。
今夜は一際とりとめなくなりました。 きっと「静かな大地」を信じて着いていけば、こうした“脳内ひとりチャランケ” が少しはクリアになって、幸福な地平に出られるのだと思いつつ眠ります(笑)
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